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水が生まれる場所  作者: 久遠 睦


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7/10

第七章 陽の光を味わう

三日目の朝、雨が降っていた。房江は玄関に出て空を見上げ、昼には弱まるかね、と言った。明里は朝食のあとに荷物をまとめ、午後の船で帰るつもりだった。部屋を片づけながら、まだ帰りたくないと思った。島でやり残したことがあるというより、大阪へ戻ったあとの最初の夜が怖かった。

もう一泊できますかと尋ねると、房江は帳面を確認してから頷いた。船が止まるほどの天気ではなさそうだとも言った。明里は、はい、と答えた。天気のせいにして残ることはできなかった。自分で一日延ばしたのだと認めると、少し後ろめたく、少し嬉しかった。母へ予定の変更を送り、田辺との次の確認日に重ならないことを手帳で確かめた。

昼前、雨が細くなり、借りた傘を持って外へ出た。自転車は宿に置いていくことにした。昨日見つけたカフェまで、ゆっくり歩いた。濡れた道では、石垣の色が濃くなっている。軒から落ちる雫を避けると、靴の先が水たまりへ入った。旅の荷物に替えの靴はなく、明里は足の冷たさに顔をしかめた。

「海のまど」の看板は、近くで見ると文字の端が剥げていた。窓のある店が海を見せる、というわかりやすい名前だったが、入口は細く、初めての客には入りにくい。職業の癖で改善点を考えながら、明里は戸を開けた。すぐ奥から、少しお待ちください、と声がした。

中は古い民家を改装した店だった。梁の色が濃く、窓際の床板だけが明るい。客は二組いて、厨房では女性が鍋を動かしていた。四十代半ばくらいだろうか。髪を後ろでまとめ、袖を肘まで上げている。明里が傘を持ったまま立っていると、壁の桶を指し、そこへお願いします、と言った。穏やかな笑顔というより、忙しい人の正確な声だった。

窓際の席に座ると、海は雨に霞んでいた。写真に撮れば地味に見える景色だった。明里はそれをしばらく眺め、メニューを開いた。昼の定食は一種類で、魚と野菜、ご飯と汁物。今日は仕入れの都合で魚が替わっています、と紙が挟まれていた。明里はその定食を頼み、店主が厨房へ戻る背中を見た。

先に来ていた客が、料理はまだですかと尋ねた。店主はあと五分ほどですと答えた。客は船の時刻があると言い、連れの人が時計を見た。店主の肩が少し上がった。明里は職場で急がされるときの自分の肩を思い出した。海の見える店でも、時間に追われる形はなくならない。

料理が来ると、皿の上の魚から湯気が上がっていた。皮の端が香ばしく、身は箸を入れると簡単に離れた。明里は最初の一口を飲み込んでから、ご飯を食べた。米が少し柔らかかった。野菜には強い苦味のある葉が混じっていた。何もかもが理想的な味なのではなく、一つずつ違う味がした。そのことが嬉しかった。

食べ終わるころ、先の二組が帰り、店内は静かになった。店主は会計を済ませると、厨房の流しへ両手をつき、一度だけ長く息を吐いた。明里と目が合うと、すみません、と笑った。明里は首を振り、おいしかったです、と言った。それは気遣いだけの言葉ではなかった。

「ありがとうございます。今日は少し、ご飯が柔らかくて」

「私、それも好きです」

言ってから、褒め方としては変だったかもしれないと思った。だが店主は、よかった、と笑った。名は由美だった。明里はレモンのケーキと、いちごのシロップを炭酸で割ったものを追加した。由美は冷蔵庫を開け、ケーキを切った。切り口に小さな欠けができ、彼女はそれを隠さず皿に載せた。

レモンの香りは甘さのあとから来た。明里はひと口食べ、肩を落とした。由美は、寒かったですか、と尋ねた。靴が濡れたと答えると、店の端の小さな暖房の位置を変えてくれた。足を近づけると、湿った靴下が温まった。こういうことが旅の記憶に残るのかもしれないと、明里は思った。

由美は、どちらから、と聞いた。大阪です。仕事で来たのかと聞かれ、休みです、と答えたあとで、辞めるところなんです、と続けた。初対面の人へ話すつもりはなかった。由美は皿を拭く手を止めず、そうですか、と言った。驚きも励ましもない返事が、かえって続きを許してくれた。

デザインの仕事をしていること、ある朝、文字の意味が入ってこなくなったことを、明里は短く話した。由美は最後まで聞いてから、私も東京で編集をしていた、と言った。雑誌の仕事で、昼と夜の境目が薄くなり、ある日、取材相手の話を聞きながら、自分が何を聞いているのかわからなくなったのだという。

明里は身を乗り出した。自分と同じ人だと思った。島へ来て、店を持ち、いま目の前で働いている。この人の順路を聞けば、自分の次もわかるかもしれない。

「ここへ来て、よかったですか」

由美は布巾を畳み、すぐには答えなかった。外で雨樋の水が一度強く鳴った。

「今日のことですか。それとも、十年まとめて?」

明里は言葉を失い、どちらでも、と言った。由美は笑ったが、意地悪な笑いではなかった。今日なら、屋根の雨漏りが広がっていないからよかった。十年まとめると、まだよくわからない、と答えた。

店を始めたとき、由美は料理の経験が十分あったわけではなかった。家で作れることと、お金をもらって毎日同じ質で出すことは違った。古い家の修繕費は予定を超え、冬には客の少ない日が続いた。東京に残した仕事仲間へ、文章の仕事を回してもらった時期もある。海を見ながら請求書を書き、締め切りに追われて夜更かしした。

「結局、同じことしてると思って、腹が立ちました。誰にかって、自分に」

由美はそう言い、流しに残った鍋へ水を張った。水音で少し聞き取りにくくなった声を、明里は聞き逃さないよう身を寄せた。島へ来れば違う人になれると思っていた。けれど頼まれると断れず、期待されると過剰に応え、疲れると相手を恨む癖も一緒に持ってきたのだという。

「島の人は親切、っていう言い方、便利でしょう。親切にしてもらう側のままでいられるから」

最初は野菜をもらうたび感激し、返すものを考えなかった。忙しくて地域の作業を欠席した日、別の人が由美の家の前まで掃除してくれていた。それを優しさの物語として話したら、知人に、次は来てくれると助かる、と言われた。その言葉のほうが、由美には長く残った。

明里は昨日、畑への道に入って叱られたことを話した。由美は、あるある、と笑わなかった。どのへん、と聞き、明里が説明すると、あそこは雨の日滑るんです、と言った。叱られた場面には、土地を守る理由と、人を怪我させたくない理由が重なっていたかもしれない。明里は自分の恥ずかしさだけを記憶していたことに気づいた。

奥の戸が開き、年配の女性が籠を持って入ってきた。由美は立ち上がり、そこ置いてください、と声をかけた。籠には土のついた小さな玉葱が入っていた。女性は明里を一度見て会釈し、由美に、昨日の箱返してもらおうか、と言った。由美はあっと声を出し、物置へ走った。

「また忘れるとこやった」

女性は独り言のように言った。由美が空き箱を持って戻ると、二人は玉葱の数と代金を確かめた。親しい間柄でも、受け取るものは数え、お金を払う。明里は勝手に、近所の人からの差し入れだと思っていた自分に気づいた。

女性が帰ると、由美は玉葱を棚へ移しながら、あの方にはよく叱られます、と言った。開店した頃、余った野菜を分けてもらうばかりで、注文の数を前もって伝えていなかった。ある日、いるのかいらないのかだけ決めて、と言われたのだという。

「私には少しの変更でも、向こうには一日の段取りがあるんですよね」

明里は、朝に突然来る修正指示を思い出した。由美は東京で同じように振り回されてきたのに、自分が頼む側になると見えなくなったと話した。被害を受けた経験があれば、いつでも相手を思いやれるわけではない。その事実を、彼女は自分の失敗として話していた。

明里はグラスの中のいちごを匙ですくった。底に残る果肉を食べると、炭酸の中ではわからなかった甘さがあった。店の料理を食べることは、その向こうの人を知ることとは違う。けれど知らなかった作業を一つ聞けば、さっきまでと同じ皿が少し違って見えるのだった。

店の電話が鳴った。由美は出て、はい、ええ、と短く答えた。途中から声が硬くなった。明里は窓の外を見た。聞いてはいけないような気がしたが、厨房と客席の距離では言葉が届いた。明日は無理、来週なら、というやり取りのあと、由美は電話を切った。

「母です。病院の付き添いの相談」

由美は言い訳するように言った。母親は本州に住み、普段は近くのきょうだいが手を貸している。自分だけ好きな場所へ来たのだと感じることがあるという。明里は、帰ろうと思ったことは、と聞いた。

「あります。今も。でも、帰れば全部よくなるわけでもないし、ここにいれば誰かが代わりにやってくれる。それを忘れないようにするしか」

明里はケーキの最後の一口を食べた。甘さの中に皮の苦味が残った。由美の生活は、明里が想像しかけた未来よりずっと複雑だった。だから失望したのではなかった。失敗も迷いもある人が、目の前で自分に温かい食事を出してくれたことを、ようやく受け取れた気がした。

明里はメニューを見て、文字を整えたら読みやすくなるかもしれないと言った。役に立ちたくなったのだ。由美は一瞬黙り、ありがとうございます、と言ってから、今日は相談する余裕がないです、と続けた。明里の頬が熱くなった。頼まれてもいない仕事を差し出して、居場所を得ようとしていた。

「すみません。つい、仕事の癖で」

「謝ることじゃないですよ。ただ、頼むならちゃんと内容とお金を決めたいので」

由美はメニューを取り、角の折れを伸ばした。この紙は近所の人と相談して作ったものだという。高齢の客が眼鏡を忘れても読めるよう、文字を大きくした。明里には不格好に見えた余白にも、先に誰かの都合が入っていた。

「そういうの、聞いてからですね」

明里が言うと、由美は頷いた。厨房で鍋の水を捨てる音がした。短い気まずさが残ったが、由美は別の話で急いで埋めなかった。明里も逃げるように会計を求めず、飲み物をゆっくり飲んだ。失敗した会話のあとにも、同じ席に座っていられる。それは明里にとって慣れないことだった。

やがて由美が、絵も描くんですか、と聞いた。明里は昔は、と答え、少し考えて、また描きたいです、と言い直した。由美はそれを励ます代わりに、窓の桟に置いていた小さな紙を見せた。近所の子が描いた店の絵だった。海は黒い線で塗りつぶされ、家は傾いていた。端に店主らしい人が立ち、髪の毛が大きく広がっている。

「私、こんな髪してたかなって聞いたら、忙しい日はしてるって」

明里は声を出して笑った。由美も笑った。絵の中には、忙しい日の由美を見ている子供の時間があった。上手いかどうかより、その目が残っていることが羨ましかった。

「帰ったら、また働かないと」

明里は唐突に言った。由美は、そうですね、と返した。好きなことだけすればいいという言葉を、明里は少し期待していたのかもしれない。由美は厨房の台を拭きながら、私は休む日を先に決めないと、今でも休めません、と言った。立派な答えではなく、実際に使っている工夫だった。

明里は携帯の予定表を開き、帰宅の翌日に何も入っていないのを確認した。そこへ、休む、と書くのは気恥ずかしかった。だが何も書かない空白は、仕事を入れてよい場所に見えてしまう。彼女は短く、洗濯、と入れた。そのあとに、昼ごはん、と続けた。由美は画面を覗き込まず、会計の準備をした。

店を出るころ、雨は上がっていた。由美は傘の柄を布で拭き、明里に渡した。明日帰ると伝えると、午前なら仕込みでいます、と言った。見送りに来るという約束ではなく、店にいる時間を教えてくれただけだった。その控えめな言い方が、明里にはちょうどよかった。

帰り道、靴はまだ湿っていた。晴れ間が出ても、すぐには乾かない。明里は水たまりを避けながら、カフェの窓から見えた海を思い出した。青くない日の海にも、人は毎日向かい合っている。その前で食器を洗い、電話で家族と話し、客のいない時間を数える。自分はそのうちの二時間ほどを、席を借りて見せてもらったのだった。

宿へ着くと、房江が、延ばしてよかった、と尋ねた。明里は、はい、と答えた。それから、でも明日は帰ります、と付け足した。房江は、そう、と頷き、傘を受け取った。引き止めも励ましもなかった。明里は階段を上がり、乾いた靴下に履き替えた。足の指を広げると、一日歩いた疲れが、ようやく自分のものとしてそこにあった。


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