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水が生まれる場所  作者: 久遠 睦


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第六章 命の書庫

海へ向かって道を下りると、風が服の中を通り抜けた。明里は途中で昼食を取り、午後の光の中を自転車で走った。美術館を出てからも、水の動きが目の奥に残っていた。信号のない道でブレーキを握ると、掌に現実の硬い感触が戻る。何かを感じたあとにも、曲がり角では前を見なければならなかった。

「心臓音のアーカイブ」は海の近くにあった。明里は入口の前で息を整えた。自転車を漕いだせいで、自分の胸がいつもより大きく動いている。そのまま中へ入り、暗い部屋の奥へ進んだ。音は耳だけでなく、胸の骨にも届くようだった。光が脈打ち、壁の暗さが一瞬ずつ形を変えた。

知らない人の心臓が鳴っている。頭では簡単に理解できることが、体にはなかなか収まらなかった。その人がどんな顔で、何をして暮らしているのかわからない。それでも、何かが繰り返し押し出され、戻り、また押し出される音があった。明里は呼吸を合わせようとして、途中で苦しくなり、自分の速さへ戻した。

隣の空間で、保存された心臓音を聴いた。速い音、低い音、途中でわずかに間が変わる音。違いを見つけようとするほど、その人については何もわからなくなった。音から幸福や不幸を聞き分けられるわけではない。働いていても、眠っていても、誰にも会いたくない日にも、体の中ではこれに似たことが続くのだろう。

父の心臓の音を、明里は覚えていなかった。病室の機械の音なら思い出せる。あれは父の音ではなく、父の状態を知らせる機械の音だった。ここに残された音にも、録音するための機械と、その日そこへ来た人の選択がある。何でも残せるわけではないが、何も残せないわけでもない。その中途半端さが、明里には少し苦しかった。

外へ出ると、年配の男性がベンチのそばで靴の砂を払っていた。施設の人と短く言葉を交わしていたので、仕事をしている人かと思った。男性は明里の手にある案内紙を見て、初めてかね、と尋ねた。七十代の終わりくらいに見えた。日焼けした首に、襟の白さが際立っている。

「はい。今、聴いてきました」

「自分の音は聴いた?」

明里は首を振った。自分の音を残すことには、なぜか躊躇があった。男性は、自分は前に録った、と言った。勝也という名だった。施設の職員ではなく、島で暮らしながら、折々に案内の手伝いもしているのだという。今日は知り合いに届け物があって寄っただけだと、空になった布袋を振った。

「孫がな、じいちゃんの音、遅いって言うんよ」

勝也は笑った。明里も笑い、どう答えたんですかと尋ねた。勝也は、急いどらんからな、と答えたあと、ほんまはよう知らん、と付け足した。何でもわかった顔で説明する人ではなかった。そのことに、明里は近づきやすさを感じた。

海のそばを歩いた。勝也の歩幅は小さかったが、足元を確かめる動きに迷いがない。明里は美術館のことを話し、島に来てからよく眠れたと伝えた。勝也はよかったな、と言った。明里はその返事に安心して、ここは昔から静かだったんでしょうね、と続けた。

勝也は歩くのを止めなかった。やがて、昔はもっと人がおった、と言った。船も、石を運ぶ仕事も、畑仕事もあった。学校から帰る子供の声が道いっぱいにしていた。静かという言葉には、人が少なくなった結果も入っている。明里はすぐ謝ることができず、そうなんですね、と返した。

「豊かな島って書くやろ」

勝也は海ではなく、山のほうを見た。水が出る土地のこと、米や野菜のことを話した。明里は案内書で読んだ説明を思い出したが、相槌に使うのはやめた。彼が話すのは土地の特徴だけではなかった。誰の畑の道が雨でぬかるみ、誰が石段で転んだかという、地図には書かれない話だった。

やがて話は、産業廃棄物のことへ移った。勝也は、ここから見える場所ではない、と最初に言った。明里が海の先を見ようとしたのを止めるためだった。島の西のほうに大量のものが持ち込まれ、土地が汚された。明里は事件があったことを、名前だけ知っていた。ニュースで聞いた記憶と、今朝食べた米の味が、同じ島のものとして結びつかなかった。

勝也は難しい数字を並べなかった。あるとき親類に野菜を送るのをためらったことを話した。送った先で、食べても大丈夫なのかと思われるかもしれない。その心配を相手にさせたくなくて、送りたいものを送れなくなる。被害が土地の中だけでなく、人と人の間にも入ってくることを、明里は初めて具体的に考えた。

「うちの婆さんは、わしが気にしすぎやって怒ったけどな」

勝也は笑いかけ、途中で口を閉じた。奥さんは、と明里が尋ねると、五年前に亡くなったと答えた。明里はごめんなさいと言った。勝也は、聞かれたから言うただけや、と返した。慰めを求めて話しているわけではない。その返事は少し硬かったが、明里には必要な硬さだった。

住民たちが声を上げ、何年もかけて相手と向き合ったことを、勝也は話した。明里は、その場にいた人をひとまとめに、強い人たちだと思いかけた。だが勝也は、自分は最初から熱心だったわけではないと言った。仕事があり、家族があり、集まりへ行けば揉めることもあった。疲れて帰ると、妻に何を決めてきたのと聞かれ、何も決まらんかったと答える夜があった。

勝也は一度、息子と喧嘩をしたことを話した。島を出て働いていた息子が、もう引っ越したらどうかと言ったのだという。父親の体を心配してのことだったかもしれない。だがそのときの勝也には、場所を捨てれば済むと言われたように聞こえた。声を荒らげ、息子は早い船で帰ってしまった。

「わしらが残るために、あいつまで残らないかんわけやない。それが、そのときは言えんかった」

明里は、今は仲直りされたんですかと聞きかけてやめた。話には必ず、安心できる終わりをつけたくなる。勝也は自分から、その息子が孫を連れて帰ってくるのだと話した。仲直りという名前の日があったのかどうかまでは言わなかった。

浜に小さな浮きが打ち上げられていた。勝也は足で裏返し、名前がないか確かめた。拾わずに、波の届かないところへ寄せた。何を持ち帰り、何をその場に置くか、彼には日々の判断がある。明里にはどちらもただの漂着物に見えた。

「お孫さんは、島、好きですか」

今度は言葉を選んで聞いた。勝也は、夏は好きやな、と笑った。泳げない季節には退屈する。遊ぶ相手がいないと、携帯ばかり見ている。その話には、故郷を好きでいてほしいという願いと、子供を無理には変えられない諦めが混じっていた。

明里はその顔を見た。大きな問題に向き合ってきた人も、孫の退屈をどうにかできるわけではない。その届かなさが、彼を遠い立派な人にせず、隣を歩く一人の人にしていた。

「何も決まらん日にも、行かんとな」

言葉は簡単だった。けれどそれを何年も繰り返す長さは、明里には想像しきれなかった。仕事の会議なら、結論が出なければ無駄だと感じてきた。住んでいる場所を守る話には、会議を終えたあとも同じ土地で明日を迎える人がいる。帰って別の場所へ移れば終わる話ではなかった。

明里は、島も傷ついていたんですね、と言った。自分のことを重ね、だからここへ来たのかもしれないと続けそうになった。勝也は返事をせず、浜に落ちていた細い紐を拾った。くるくる巻いて布袋へ入れる。その短い沈黙の中で、明里は自分の言葉があまりに大きいことに気づいた。

島が傷ついた。その言い方の中には、名前のある人も、生活の違いも、長い交渉も、一緒に包まれてしまう。自分が疲れて会社を離れたことと重ねれば、理解できた気分になれる。だがそれは、勝也が話してくれた時間を、自分のために使うことではないか。

「すみません。私、よく知らないのに」

勝也は立ち上がり、知らんことはあるわな、と言った。それから、知ったふりせんで聞いてくれたらええ、と付け足した。明里は頷いた。許してもらったというより、次にどうするかを返された気がした。

「今は、もう元に戻ったんですか」

今度はわからないまま聞いた。勝也は、何を元というかや、と答えた。廃棄物を取り除くことと、水の問題を確かめることは同じ時刻に終わるものではない。目に見えないところのことは、見て、調べて、確かめ続けなければならない。彼は説明の途中で、詳しい数字は資料を見たほうがええ、と言った。自分の記憶だけで答えられることと、確かめるべきことを分けていた。

明里は案内書の余白に、資料を読む、と書いた。覚えておこうと思うだけでは、忙しい日が戻ると忘れる。それを自分で知っていた。勝也は筆記する手を見て、学校の先生かと尋ねた。デザインの仕事です、と答えると、看板とか作るんか、と聞かれた。

「そういうのも。広告が多いです」

「そら、よう捨てられるもん作っとるな」

悪意のない声だったので、明里は余計に答えに詰まった。勝也はすぐ、うちにも紙がようたまる、と笑った。広告が悪いと言いたいわけではないらしかった。だが明里には、自分がきれいに作って渡したあと、それがどこへ行くのか考えなくなっていたことが突きつけられた。

「そうですね。捨てられますね」

口にしてみると、仕事を全否定されたわけではないとわかった。菓子の包み紙も捨てられる。必要な案内も、時期が過ぎれば不要になる。だから意味がないとは思わない。ただ、完成して納めるところまでを、自分の責任の終わりにしていた。勝也は返事を求めず、また歩き始めた。

分かれ道で、勝也は反対側へ行くと言った。明里は礼を言い、何か返せることを探した。役に立てることがあれば、と口にしかけたが、具体的に何も思いつかなかった。勝也は明里の躊躇を気にせず、昼は食べたんかと尋ねた。はい、と答えると、ならええ、と頷いた。大きな話をしたあとにも、食事のことへ戻る人だった。

「話、書いてもいいですか。自分のノートに」

明里が尋ねると、勝也は、それは好きに書いたらええ、と言った。続けて、人に見せるなら、わしが言うたことと、あんたが思うたことは分けといてな、と付け足した。明里は、はい、と答えた。仕事で誰かの言葉を短く整えるたびに、消してきたかもしれない境目だった。

勝也の背中が道の曲がりに消えても、明里はしばらく動かなかった。教訓をもらった、という形にまとめることも、今はしたくなかった。彼は孫に心臓音が遅いと言われ、亡き妻の話をし、浜の紐を拾った。その一つ一つが同じ人の中にあった。島の歴史を語る人という役だけにしてしまえば、また自分の都合で相手を縮めることになる。

明里は施設のほうへ一度戻り、自分の心臓音を残すことについて案内を聞いた。時間と費用を確かめてから、お願いした。係の人に説明され、姿勢を整えると、急に自分の体が気になった。呼吸を深くすれば音がよくなるのか、緊張すれば速くなるのか。よい音を残そうとしていることに気づき、思わず笑った。

録音した音を聴くと、知らないもののようだった。自分が意識していないあいだに、これがずっと鳴っていた。仕事を辞めたいと言った朝にも、美術館で泣いていたときにも。だから生きているだけで十分だ、という大きな結論にはならなかった。生きていくには家賃も食事もいる。それでも、今聴いている音は、何かを達成したから与えられたものではなかった。

外へ出たとき、さっきより風が強くなっていた。海に細かい皺が寄り、白いものが一瞬ずつ現れた。明里は自転車の前かごを押さえ、案内紙が飛ばないよう鞄へ入れた。午後の予定はもう詰めなかった。宿まで戻る道で、一軒の小さな店の看板が目に入った。手描きの文字で、海のまど、とあった。

その日は立ち寄らず、場所だけ覚えた。夕食までに宿へ戻り、田辺からの書類の連絡へ返事をしなければならない。旅の最中にも、片づけることは残っていた。明里はそれを邪魔者として追い払うのではなく、夕方の三十分へ置いてみた。できるかどうかは、実際にやってみなければわからなかった。

部屋で返信を済ませたあと、ノート代わりの案内書に勝也の話を書いた。途中で、強い島の人々、と書きかけて消した。代わりに、集まりから帰って何も決まらなかったと妻に言った夜、と書いた。うまく要約できない一文が、紙の上に長く残った。

窓の外では、隣家の人が洗濯物を取り込んでいた。竿の留め具が鳴り、白いシャツが一枚ずつ消えていく。明里はペンを置き、自分の胸に手を当てた。掌で音を確かめることはできなかった。ただ温かく、その下で体が少し動いていた。夕食を知らせる房江の声が階下から聞こえ、明里は、今行きます、と返した。


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