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水が生まれる場所  作者: 久遠 睦


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第五章 水が生まれる美術館

翌朝、明里は目覚ましより早く目を覚ました。よく眠れたと言い切れるほどではない。夜中に一度、廊下を歩く音で目が開いた。それでも起き上がったとき、昨日まで頭の後ろに張りついていた重さが少し薄くなっていた。房江が用意した朝食の湯気を見て、今朝は食べられると思った。

食卓で美術館へ行くと話すと、房江は今日は風があるねと言った。晴れていてよかったですね、という返事を明里は期待していたので、箸を止めた。風があると見え方が違うのだろうか。房江は洗った茶碗を布巾で拭き、同じところでも毎日違うから、と言った。美術館の話なのか、天気の話なのかはわからなかった。

自転車で坂を上がると、昨日より早く息が切れた。脚に疲れが残っている。体が元気になったと決めつけるには、一晩では足りなかった。明里は無理をせず降り、押して歩いた。田の水面に空が映り、細い苗の間を風が渡った。あぜ道にはしゃがんで作業する人がいた。白い建物へ向けた視線の下で、その人の背中がゆっくり動いた。

写真で見た屋根は、実物のほうが低く感じられた。明里は自転車を止め、鞄の中の予約の確認をした。時刻を間違えていないか、何度も見たはずの画面をもう一度開く。入口へ向かう道を歩きながら、ここに来れば何かがわかるという期待が、急に恥ずかしいものになった。建物は明里の事情など知らず、斜面の上に伏せられていた。

受付で案内を聞き、靴を脱いだ。踵を押さえて靴下を直すと、足先が冷えているのに気づいた。靴を履いていない人たちが小さな声で動く。その動作だけで、普段とは違う場所へ来たことが体に伝わった。明里は鞄の中の電話の電源を確かめ、静かに入口をくぐった。

最初に感じたのは広さより、距離の測りにくさだった。柱がないので、どこまでが近く、どこからが遠いのか、目がすぐには決められない。床と壁の境目は緩やかで、天井の開口部から入る光が、白い面の途中で弱まっていた。誰かの足音が聞こえたが、その人がどこにいるのかわからなかった。

床に小さな水があった。明里は最初、それを踏んではいけないものとして避けた。次に、どこから出ているのかを探した。床の一点に光が生まれ、丸みを増し、じっとしている。隣の粒がわずかに震える。動くと思うと止まり、もう動かないと思うと、急に細く伸びた。

近くに座っている人の姿勢を真似して、明里も腰を下ろした。冷たさが布越しに届いた。すぐ膝の位置を変え、次に鞄を置き直した。周囲の人は静かに見ているのに、自分だけが落ち着かない。鑑賞にも上手下手があるような気がして、息まで小さくした。

何を感じればよいのだろう。美しい、という言葉は簡単に浮かんだ。生命、循環、再生。仕事で説明文を書くなら使いそうな言葉が、順番に並んだ。明里はそれらを頭の中で組み合わせ、すぐに嫌になった。ここでも何かを提出するつもりでいる。誰も求めていない感想を、間違えないように仕上げようとしている。

離れたところで、子供が母親に何か囁いた。母親は耳を近づけ、首を振った。二人は移動した。明里のそばに人影がなくなると、急に足の痛みを感じた。座り方を変え、両手を後ろについた。床の冷たさが掌を押し返した。それは意味ではなく温度だった。明里はしばらく、その温度に手を置いたままにした。

一粒の水を目で追った。大きさは米粒ほどに見えた。小さいまま長くそこにあり、近くの粒が流れてきても触れなかった。あと少しで繋がるのに、と明里は思った。もう少し傾いていれば。もう少し量があれば。自分が水にまで効率を求めていることに気づき、口元が動いた。

その粒は、明里が見ているあいだには動かなかった。先に別の粒が滑り、予想していなかった方向から大きな流れが来た。丸い形が崩れ、細い先端が伸び、いくつかが一緒になって遠ざかった。置き去りにされた粒もあった。すべてが同じ場所へ急ぐわけではなかった。

外から風が入った。高いところで何かがかすかに揺れ、床の明るさが変わった。明里は空を見上げた。切り取られた空にも雲が動いている。建物の中なのに、外の時間が途切れていない。事務所では、窓の外が暗くなったことに気づくと一日の終わりを知った。ここではまだ午後でもないのに、光はすでに何度も変わっていた。

父の病室を思い出したのは、その白さのせいだったかもしれない。父が眠っていた午後、明里は椅子の上で仕事の修正をしていた。病院の窓から見える空は細く、ブラインドが半分下りていた。父が目を覚まし、明里は急いでパソコンを閉じた。何しとった、と父が聞いた。仕事、と答えると、そうか、と言ってまた目を閉じた。

その日、父がほかに何を言ったのか思い出せない。覚えているのは修正した文字の位置だけだ。見出しを右へ少し、写真を明るく。父の隣でも、別の誰かの判断に間に合わせようとしていた。そのことを、明里は長いあいだ考えないようにしてきた。父は仕事をする娘を喜んでいただろう、と言えば、少し楽になれたからだった。

だが実際にどう思っていたのかは、もう聞けない。寂しかったかもしれないし、気にしていなかったかもしれない。父を優しい人にしておけば、自分の後悔の置き場ができる。明里はその便利さに、いま初めて触れた。床の水は、そんな記憶のために流れているのではなかった。それでも見ていると、いつも仕事で塞いでいた隙間から、忘れていなかったものが上がってきた。

涙が出た。大きく泣いたのではなく、目の下が急に濡れた。明里はハンカチを取り、誰にも見られないよう顔を伏せた。その動作にも、仕事中の癖があった。人前で崩れないように。理由を聞かれないように。ハンカチに鼻の下を押しつけると、洗剤の匂いがした。大阪の部屋で干したものだった。

ここまで持ってきたのだと思った。疲れも、後悔も、洗剤の匂いも。島に着いたとき、置いてきたつもりになったものが、全部自分の中にある。涙が止まると、すぐにすっきりするわけではなかった。鼻が詰まり、目が熱く、座り続けた脚が痺れていた。明里は立ち上がらず、片方の膝をゆっくり伸ばした。

父は明里が小学生の頃、一度だけ絵の具を買い間違えたことがあった。学校で使う水彩を頼んだのに、違う種類の大きな箱を買ってきた。明里は怒り、これじゃ使えないと言った。父は箱の表示を読んで困った顔をし、母はまた買いに行ったらええ、と言った。結局、その絵の具で明里は家の裏の溝を描いた。父は何の絵か当てられなかった。

あの絵は、どこへ行ったのだろう。上手に描けたかどうかさえ覚えていない。けれど筆を洗った水が、緑から灰色へ変わったことだけは思い出せた。描くことは、作品を完成させるより前に、そういう手の中の変化だった。明里はハンカチを畳み直し、濡れていない面を探した。

水を見ているうちに、森崎と初めて組んだ仕事も思い出した。後輩が作った地図には、道の角度が少しずつずれていた。明里は説明するより早いと思い、帰宅した森崎のデータを全部直した。翌朝、後輩はありがとうございますと言った。明里はそれを気遣いの成功だと思った。けれどそのあと森崎は、地図を作るたび早い段階で明里へ確認するようになった。

自分でやったほうが早い。その言葉を、明里は口にしなくても毎日の手つきで示していたのかもしれない。頼られることが負担になり、頼られなくなるのが怖くなったのは、ある日急に起きたことではなかった。田辺から受け取った働き方を、自分も少しずつ後輩へ渡していた。

思い出したからといって、ここから謝罪の連絡を送れば済む話ではなかった。森崎は今、実際の机で仕事をしている。明里の気づきに付き合うための時間を、突然差し出してもらうわけにはいかない。帰ったら、相手が話せるときに聞こうと思った。自分のことを説明する前に、あの朝どうだったのかを。

床の向こうで、一人の人が立ち上がった。長く座っていたらしく、ゆっくり膝を伸ばし、しばらく動かなかった。近くの人が場所を空け、その人は小さく頷いて歩いていった。声にしないやり取りが、水の動きと同じ床の上で起きた。明里は、自分の内側ばかりを見ていた視線を少し遠くへ戻した。

美術館で一人になったつもりでも、本当には一人ではない。誰かが道を空け、誰かが案内し、誰かが朝にここを整えた。そのことを数え始めると、何もせずに座っているこの時間にも、ほかの人の働きが含まれていた。感謝しなければ、と身を固くする代わりに、明里は自分も通路を塞いでいないか確かめ、鞄を膝の近くへ寄せた。

しばらくすると、入口のほうで人が入れ替わった。長くいたと思って時計を見たくなったが、鞄へ手を伸ばしかけてやめた。時間を忘れることが立派なのではない。ただ今、何分経ったかを知らなくても困らなかった。夕飯の時刻には帰る。明日の船はまだ先だ。そのくらいの遠さまで、予定を離して置くことができた。

床の近くへ視線を下げると、天井を見ていたときには気づかなかった反射が見えた。水の縁に空の色があり、その中にさらに暗いものが映っている。明里は指で線を引きたくなった。描く道具はなかったが、人差し指を膝の上で動かした。一本の線では、水の形を追いきれなかった。描こうと決めるより早く形が変わる。

その不自由さを、久しぶりに面白いと思った。仕事では、先に完成の条件を決めなければいけない。誰に向けたものか、どの寸法か、いつまでか。ここで目の前にあるものは、明里が描けるように止まってはくれない。追いつかなくても、そのせいで誰かが困ることはなかった。

遠くで鳥が鳴いた。昨日、道端でも聞いた声だった。鳥の名前を知らないことを、明里は残念に思った。名前がなくても聞けるが、知っていればまた会ったと思えるかもしれない。知らないものをすべて意味に変える必要はなくても、知りたいと思う気持ちはまだ残っていた。

入口へ戻るとき、最初に見た水の粒を探した。もちろん、どれだったのかわからなかった。同じ場所だと思うところには別の水があり、光の向きも変わっている。明里はそこで立ち止まりかけ、後ろから来る人に道を空けた。自分だけの体験が、同じ床を歩くほかの人の体験と重なっていた。

靴を履くと、足が窮屈に感じた。外へ出た光は強く、葉の緑が目に刺さった。明里はベンチで水を飲んだ。感動した、と誰かへ伝えようと思ったが、その言葉では鼻をかんだことや脚が痺れたことが消えてしまう。涙が出た、と言えば、何か大きな答えを得たように聞こえる。まだ何も決まっていなかった。

鞄から電話を取り出した。母から、着いてる、と連絡が来ていた。昨夜着いたと送ったはずだったが、母はまた聞きたかったのだろう。明里は電話をかけた。母はすぐに出て、どう、と尋ねた。明里は美術館のことではなく、急に父の絵の具の話をした。

母は最初、何のことかわからなかった。間違って大きい箱を買ってきたやろ、と言うと、ああ、と笑った。高かったのにねえ。明里はその返事を聞き、知らなかった、と言った。母は、あの人、いいもん買うたら喜ぶと思ったんよ、と続けた。父の失敗の中には、明里の記憶になかった買い物の時間があった。

「私、怒ったよな」

「怒ったね」

母はそのことを消さなかった。子供だったから仕方ない、とも言わなかった。明里はそのまま頷き、母には見えないことに気づいて、うん、と声にした。

「あの絵、まだあるかな」

「押し入れ見てみる。ないかもしれんけど」

ないかもしれない。それも受け入れなければならない答えだった。明里は、急がんでいい、と言った。仕事以外でその言葉を使うと、胸の中に少し空きができた。母は昼は食べたのかと聞き、明里はこれから、と答えた。今度はちゃんと食べるつもりだった。

電話を切ると、田辺からのメールが一通見えた。退職の書類について確認したいという内容だった。明里の肩は反射的に固くなった。さっきまでの時間がなくなったようで、腹が立った。だがメールは急ぎとは書かれていない。自分が毎回、急ぎに変えていたのかもしれない。明里は宿へ戻ってから返すと決め、画面を閉じた。

自転車へ向かう途中、もう一度棚田を見た。水面の光の中に、作業していた人の姿はなかった。道具を片づけて昼を食べているのかもしれない。その一日と、自分の一日が、同じ場所で別々に進んでいる。美術館で流れた水を、その人は今日見ないかもしれない。それでもここで暮らしている。

明里は自転車の鍵を外した。何かが治ったという手応えはなかった。明日の不安はまだあり、会社のことを考えると胃が縮んだ。ただ、いま足を地面につけている感覚を、同時に感じることができた。ペダルを踏む前に、明里は水筒を取り出し、もう一口飲んだ。喉を通る水は、朝より少し温かくなっていた。


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