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水が生まれる場所  作者: 久遠 睦


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第四章 潮と土の匂い

宇野港に着いたとき、明里は思っていたより早く歩いていた。列車を降り、案内板を見て、乗り場を探す。乗り遅れないようにという力が、体の中で勝手に働いていた。窓口で切符を買い、次の船までまだ時間があると知ってからも、どこで待てばいちばん早く乗れるのかを考えた。

岸壁には潮と燃料の匂いが混じっていた。大阪でも水のそばを歩いていたのに、この匂いは違った。海面に油膜のような色が浮かび、小さな泡が岸へ寄ってくる。写真で見ていた海よりずっと雑然としている。明里は鞄を足元に置き、初めて大きく息を吸った。

船が入ってくると、係員の声が響き、車が先に動いた。荷物を積んだ軽トラックや、運転席に犬を乗せた車が船へ入っていく。観光客だけの移動ではなかった。明里の旅の時間の中を、誰かの配達や買い物が通っていく。そのことを見ていると、見知らぬ土地へ行く緊張が少し薄れた。

客室の椅子に座りかけ、明里は外へ出た。風は港で感じたより強かった。岸壁から離れる瞬間、船と陸の間の水が深い色になり、縛っていた綱が岸へ引き上げられた。綱は思っていたほど太くなかった。あの長さの繊維が、こんな大きなものを繋いでいたのかと、明里は手すりを握った。

電話が震えた。森崎からだった。引き継ぎの資料、確認できました。今日の先方連絡も田辺さんに回しました。返事は不要です。明里はその文章を二度読み、ありがとう、とだけ返した。不要だと言われても返してしまう。それが礼儀なのか、不安を消すためなのか、まだ区別できなかった。

船は波の少ない海を進んだ。前方の島が近づき、後方の町は同じ大きさのまま見え続けた。動いているのに、どこにも着かない時間だった。電車では次の駅までの分数を確かめてしまうが、ここでは目印の名前もわからない。明里は案内書を出さず、島の斜面に一軒だけ光って見える家を眺めた。

隣のベンチに、買い物袋を二つ持った女性が座った。袋から長い葱が突き出ている。風で葉が揺れ、女性は何度も位置を直した。明里が鞄をずらすと、ありがとう、と言われた。その人は景色を見ず、手帳を開いて何かに印をつけた。島へ行く人がみな海を見るわけではないことが、当たり前なのに新鮮だった。

「観光?」

女性が尋ねた。明里ははい、と答えた。仕事を辞めるところで、という説明を付けたくなったが、やめた。その人には必要のない事情だった。美術館へ行くのだと伝えると、坂があるから水持っとき、と言われた。明里は鞄の水筒を触り、あります、と答えた。それだけの会話が、船が着くまでのあいだ、近くに残っていた。

家浦港で船を降りると、足の裏に陸の硬さが戻った。案内板の前には自転車を借りる人たちが集まり、離れた場所では島の男性たちが荷物を受け渡していた。石垣の上に猫が一匹いた。眠っているのかと思って近づくと、片目を開け、明里を見ずに顔を背けた。誰も歓迎のためにここにいるわけではない。そのことに、かえって気持ちがほどけた。

予約していた宿へ電話をし、先に荷物を預けた。港から歩いた路地にある、小さな民宿だった。電話で話した女将の房江は、思っていたより背が低く、歩くのが速かった。玄関で靴を脱ぐと、畳と煮物の匂いがした。部屋は二階で、窓から見えるのは海ではなく隣家の屋根だった。

「海は外へ出たら見えるからね」

房江は明里の視線を見て言った。明里は慌てて、十分です、と答えた。自分が何も言わずに景色を期待していたことを見抜かれた気がした。房江は気にした様子もなく、風呂の時間と夕食の説明をした。夕飯は六時半。遅れるときは連絡して。旅に来た先にも、誰かと合わせる時刻があった。

港の近くで電動アシスト自転車を借りると、店の人は地図を広げた。明里はとりあえず走りながら考えようと思っていたが、返却の時刻と坂道について説明を受けるうちに、地図を鞄の取り出しやすい場所へ入れ直した。気ままに走るためにも、知らなければいけないことがある。

漕ぎ始めの加速に驚き、足をついた。店の人が笑わずに見てくれているのがありがたかった。もう一度ゆっくり踏むと、自転車は軽く前へ進んだ。港が背中へ遠ざかり、古い家の軒が低く続いた。側溝を水が流れ、庭先のバケツに空が映っている。最初の十分、明里は会社のメールのことを考えていた。次の十分は、道を間違えていないか考えた。そのあと、ふくらはぎの重さが気になり始めた。

坂の途中で自転車を降りた。電動でも漕がなくてよいわけではなかった。汗が背中を伝い、風が当たると急に冷えた。運動不足を恥じ、誰も見ていないのに無理をして漕ぎ直したが、すぐにまた降りた。都会を離れたからといって体が別のものになるわけではない。疲れは荷物に入れなくてもついてきた。

道の脇に、畑へ下りる細い通路があった。海がよく見えそうで一歩入ると、下から声がした。そっちは畑やで。帽子をかぶった女性が、片手に道具を持って立っていた。明里はすみません、と慌てて戻った。地図では空白に見える場所にも境目がある。写真の中には写らない、通ってはいけない場所があった。

女性は道の先を指し、向こうで見える、と教えてくれた。明里は礼を言い、自転車を押した。少し進むと本当に視界が開けた。斜面の畑と海が、同じ光の下に続いている。美しいと思うより先に、さっきの女性があの傾斜を毎日上り下りしているのだと思った。自分はもう、膝が笑っている。

水筒の蓋を開けると、家で詰めた水がぬるくなっていた。飲みながら、遠くで草刈り機が止まるのを聞いた。音がなくなったあとにも、耳の奥に振動が残った。鳥の声が入り、遅れて船の低い音が届いた。静かという言葉でまとめるには、音が多かった。大阪で耳を塞ぐように使っていたイヤホンを、明里は鞄の底へ押し込んだ。

昼になり、空腹を感じた。店のある場所まで行けば何か食べられると思っていたが、最初に見つけた店には本日休業とあった。次の場所では、今日の分は終わったと言われた。謝る店の人に、いえ、と笑って出たが、自転車に乗ると少し腹が立った。観光地なのに、と考え、その考えが恥ずかしくなった。自分の都合のよい時刻に食事が出てくることを、どこでも当然だと思っていた。

小さな店でパンとみかんの飲み物を買い、座って食べてよい場所を尋ねた。教わったベンチには、剥がれた塗装の隙間から木が見えていた。袋を開けると、あんパンの端が潰れていた。明里はそれを食べ、旅先でも昼食をうまく取れない自分に呆れた。けれど誰かの締め切りではなく、自分の準備不足で遅れた昼だった。その違いは小さいが、確かにあった。

美術館の予約は翌朝だった。今日は島を一周したいと思っていたが、地図を開くと距離が思ったより長い。明里は鉛筆で描かれたような道の曲がりを指でなぞり、予定の半分をやめた。見なかった場所を失敗に数える癖が、すぐに頭をもたげた。せっかく来たのに。けれど、せっかく来てまた自分を追い立てるのかという別の声もあった。

帰り道、道端の小さな水の流れの前で自転車を止めた。飲めるかどうかわからないので手は出さず、石の間を通る様子だけを見た。上から落ちる水は、下にたまった水と同じもののはずなのに、ぶつかったところだけ白くなる。透明なものにも、速さや背景によって色がある。明里はそれを描いてみたいと思い、すぐ、紙を持っていないことに気づいた。

携帯で写真を撮ろうとして、画面に自分の影が映った。レンズを向けた途端、どこを切り取るべきかという仕事の目が戻った。水より周囲の石を減らし、邪魔なホースを画面の外へ出す。そこまでしてから、一枚も撮らずに電話をしまった。撮らなかったことを誇る気にはなれなかった。ただ今は、画面の外へ追い出したもののほうが気になった。

宿へ戻ると、房江が玄関の植木鉢に水をやっていた。明里がただいまと言うと、おかえり、と返ってきた。客に向けた普通の言葉なのに、体が一瞬止まった。ここに戻ってくる自分の場所がある。その小さな事実を、朝からずっと忘れていた。

夕食には焼き魚と野菜の煮物が並んだ。房江は旅行の感想を根掘り葉掘り聞かず、ご飯足りる、とだけ尋ねた。明里は少し迷っておかわりを頼んだ。昼食が足りなかったのだとわかり、急に可笑しくなった。休むために来たのに、自分の空腹さえまだ上手に扱えない。

食後、隣にいた女性が、美術館へはもう行ったかと聞いた。明日だと答えると、私たちは今日行った、と言った。明里は感想を期待した。女性は笑い、私は足が冷えて、途中からそればかり気になった、と話した。夫のほうは、俺はよかったけどな、と言い、何がよかったのか聞かれると困った顔をした。

明里はその会話に拍子抜けした。ここまで来れば誰もが同じように感動するはずだと、いつの間にか思っていた。女性は悪く言っているのではなく、冷えた足のことを普通に話している。夫婦はそのあと、昼に食べた麺の量で意見が分かれ、また笑った。旅行の評価が一致しなくても、二人は明日も同じ船に乗るのだった。

「明日、暖かいといいですね」

女性は明里へ言った。明里はありがとうございますと答え、部屋へ戻る前に靴下の替えを思い出した。感動の準備より、足が冷えない準備のほうが具体的だった。自分に何かが起こることを、旅へ強く求めすぎていたのかもしれない。

洗面所で歯を磨いていると、鏡に日焼けした鼻が映った。疲れた顔は同じだったが、頬に外を歩いた色があった。蛇口を閉める手を止め、水が排水口へ消えていくのを見た。流れはいつでもここにある。ただ、それを眺める間を持っただけなのかもしれない。

隣からさっきの女性が来て、明里は場所を譲った。どちらへ進むか一瞬迷い、二人とも同じ方向へ動いた。すみません、と笑い合った。旅行の中には、あとで誰にも話さないような出来事がたくさんある。その一つが、眠る前の明里の体を少し軽くした。

同じ食卓にいた夫婦は、明日どの船で帰るか相談していた。房江は天気予報を見ながら、念のため朝も確認したらいいと言った。船が動くかどうかで予定が変わる暮らしを、明里は想像した。電車が数分遅れることには苛立つのに、船の欠航を自然に従う美しい生活と呼ぶのは、外から見る人の気楽さかもしれない。

風呂のあと、部屋の畳に座って携帯を開いた。仕事の連絡はなかった。それがほっとする一方で、明里を不安にさせた。いなくても回るのだ。望んでいたはずの状態を見て、少し傷ついている。自分の中の矛盾を誰かに話そうと思ったが、うまく短くできなかった。

真帆に海の写真を一枚送った。今日、よく歩いた、と添える。自転車だったが、坂で押した時間も長かったので嘘ではなかった。返事は、こっちは宿題見てる。海いいね、だった。続けて、鉛筆を握る娘の手の写真が来た。紙には左右逆の文字が一つあった。真帆は、これはこれで今しか書けへん、と書いていた。

明里はその文字を長く見た。間違いを、すぐ直すべきものとしか見ていなかった。自分が毎日扱う文字には、意図しない歪みを残す余地がない。だがこの文字の曲がりには、見ているだけで手の力が伝わった。明里は返信に、いい線やね、と入れた。真帆から笑った顔の絵が返った。

夜、消灯すると外の音が近づいた。遠くで車が一台通り、どこかの戸が閉まった。波の音は聞こえなかった。海のそばなら夜じゅう波が聞こえると思っていたのは、勝手な想像だった。代わりに、隣の部屋で人が咳をする音や、階下で食器を片づける音がした。島の夜にも、他人の体があった。

眠れなければどうしようと思ったが、眠りはすぐには来なかった。明日の美術館で何も感じなかったら、と考えた。写真に惹かれてここまで来たのに、何も変わらなかったら。退職したいと言った自分が大げさだっただけなら。考えはいつもの形で戻り、布団の中で肩が固くなった。

明里は起き上がり、水を一口飲んだ。窓を細く開けると、屋根の向こうに空が見えた。星は期待したほど多くなかった。遠くの灯りが雲を薄く照らしている。それでも外の空気は部屋より冷たく、鼻の奥に草の匂いがした。明里は明日の自分を急かすのをやめ、まず窓を閉めた。

布団へ戻ると、ふくらはぎに一日の重さがあった。足の指を動かし、ゆっくり伸ばした。考えが止まったわけではない。ただ、その隣に筋肉の鈍い痛みがあり、掛け布団の重さがあり、畳の匂いがあった。明里はそのどれか一つを選ぼうとせず、横向きになった。次に目を開けたときには、障子の向こうが朝の色になっていた。



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