第三章 係留を解く
月曜日、明里は目覚ましが鳴る前から目を開けていた。眠った時間はよくわからない。夜明け前に一度、冷蔵庫の音が止まるのを聞き、そのあと窓が白くなるまで天井を見ていた。起き上がると首の後ろが固く、洗面台で歯を磨きながら、今日は何曜日だったか一瞬思い出せなかった。
八時四分の電車には間に合った。いつもの場所へ立ち、いつもの駅で半歩ずれた。そうすれば目的地には着く。自分が何も考えなくても体が順路をたどることに、安心より恐ろしさを感じた。地下から出たとき、晴れていることが意外だった。これほど眠れなかった朝にも、天気は自分と関係なく決まる。
事務所に着くと、赤字の入った確認用データが届いていた。週末に組み直した案の上に、先週の方向へ戻すという指示が重なっている。よくあることだった。過去にも何度もあった。明里は画面を拡大し、一行目の指示を読んだ。同じ行を三度読んでも、何を直すのかわからなかった。日本語の形はわかるのに、意味が頭の中へ入ってこない。
マウスを握った右手が、机から少し浮いていた。クリックしようとしているのか、放そうとしているのか、自分でもわからない。森崎が出勤し、おはようございますと言った。明里は返事をしたつもりだったが、声は出なかった。もう一度息を吸うと、胸の上のほうだけが動いた。
「大丈夫ですか」
大丈夫と答えるために顔を上げた。その言葉を言えば、今日も昨日までと同じように進む。明里はそう思った。返事を待つ森崎の手に、コンビニの袋が下がっていた。以前、自分も同じ袋を持っていた朝がある。入社したばかりで、事務所の鍵をまだ持っていなかった頃だ。その頃から今までが、急に一続きの長い廊下のように見えた。
「ちょっと、わからへん」
明里はそう答えた。森崎は何が、と聞かなかった。自分の鞄を下ろし、空いている椅子を寄せた。明里はようやくマウスから手を離した。指の形が、そのまま残っているようだった。
田辺が来るまで、森崎は水を取りに行き、窓を開けた。明里は自分のパソコンで新しいメールを作った。件名に退職について、と入れる。本文は二行しか書けなかった。勤務を続けることが難しいこと、退職について話をしたいこと。送信すると、何か大きな音がすると思っていた。実際には画面の端に、送信済みという小さな表示が出ただけだった。
田辺はメールを読んでから、会議用の机に来るよう言った。明里は座り直すだけの距離を、とても遠く感じた。所長は最初、週末の仕事のことを謝った。次に、今の案件が終わるまで、と言いかけた。森崎が向こうの席で手を止めた気配がした。
「すみません。今日、それを考えられないです」
田辺の顔が曇った。怒ったのかと思ったが、彼は机に置いていた手帳を閉じた。しばらくして、今日は帰り、と言った。退職の日や手続きは改めて話す。まず休んでから。その順番が正しいことは明里にもわかった。それなのに、辞める決意を取り上げられたような焦りが湧いた。
「休んだら、またできますって言うと思います」
声が震えた。田辺は何も言わなかった。明里は膝の上で両手を組んだ。できると言うことと、できることが、いつから同じになったのだろう。
「辞めたいです。その話は、なかったことにしないでください」
田辺は今度ははっきり頷いた。わかった、と言った声が低かった。明里はそれを聞いて、初めて椅子の背に体を預けた。楽になるはずの瞬間に、胃が縮んだ。仕事を失う。家賃を払う。来月も生きていく。どれも今までは、給与の入る日付の後ろに隠れていた。
事務所を出るとき、森崎がエレベーターの前まで来た。お大事にと言ってから、引き継ぎはあとで大丈夫です、と付け足した。明里はごめん、と言った。後輩は首を振ったが、目の下には疲れがあった。自分が休めば、この人の仕事が増える。その事実は、どんな優しい言葉でもなくならなかった。
「今度のラフ、一緒にって言ったのに」
「それ、仕事が終わってからでも、見てもらえますか」
明里は頷きかけて、口を閉じた。約束を増やすことしか、感謝の表し方を知らないのだと気づいた。
「落ち着いたら、私から連絡する」
森崎はそれでいいですと言った。エレベーターの扉が閉まる直前まで、どちらも手を振らなかった。三階から一階へ降りる短い時間、明里は鏡に映る自分を見ず、数字が変わるところを見つめていた。
家へ帰る気にはなれず、中之島の公園へ歩いた。昼前の芝生には、幼い子を連れた人や、弁当を食べる会社員がいた。明里はベンチに腰を下ろした。仕事用の服を着ているので、昼休みの人に見えるだろう。誰も自分が会社を辞めようとしているとは思わない。そのことが、心細くもあり、ありがたくもあった。
鞄から電話を取り出し、預金残高を確認した。百五十万円と少し。数字は以前から知っていたのに、その日初めて、これが時間の長さに見えた。家賃、光熱費、食費。思いつく支出をメモに並べる。税金や保険のことは、金額がわからない。調べなければいけない項目に印をつけると、印ばかりが増えた。
退職という言葉には、扉を開けて外へ出るような響きがあった。しかし実際には、何通もの書類と、知らない窓口と、計算が待っている。明里は画面を閉じた。すぐ仕事へ戻れば、その大半を考えずに済む。田辺に、さっきは取り乱しましたと言えばいい。その文章なら、退職のメールより滑らかに書ける気がした。
そのとき、隣のベンチの男の子が、落としたパンを見て泣き始めた。母親は新しいパンを出したが、子供は落ちたほうを指した。明里には、その理屈の通らなさが少しわかった。代わりがあっても、さっきまで手に持っていたものがよかったのだ。母親はしばらく待ち、最後には子供を膝に抱いた。泣く声はすぐには止まらなかった。
昼を過ぎ、真帆に連絡した。今日、辞めたいと会社に言った。打ってから、送るまでに十分かかった。返事は、今電話できる、だった。明里が通話を押すと、向こうで洗い物の音が止まった。
「うん」
真帆はそれだけ言って待った。明里は朝のことを話し、途中で言葉が出なくなった。泣きはしなかった。泣けば何かがはっきりするような気がしたが、喉が乾くだけだった。真帆は仕事の価値も退職の正しさも判断せず、何か食べた、と聞いた。
「まだ」
「ほんなら、電話切ったら何か買って」
それが今できることだった。明里は公園の近くで温かいスープとパンを買った。紙の容器を持つ指に熱が伝わり、ようやく手が冷えていたことに気づいた。自分を立て直すというと大げさだが、スープをこぼさず飲むことならできた。最後の一口まで飲むと、底に小さな人参が残った。
夕方、母へ電話した。仕事を辞めるつもりだと言うと、母はしばらく黙った。その沈黙に、明里は昔から苦手だった説教の前触れを聞いた。次は決まっているのか。貯金はあるのか。もう若くはないのだから。先回りして用意した答えが、頭の中で渋滞した。
「そんなにしんどかったん」
母が聞いたのはそれだった。明里は、うん、と答えた。母は、わからへんかった、と言った。責めているのではないのに、明里には責められたように聞こえた。自分が知らせなかったことへの後ろめたさがあった。
「言っても、心配するだけやと思って」
「心配くらい、してもええやろ」
明里は川を見た。護岸の石に水が当たり、少し遅れて別の波が重なった。母は実家へ帰ってきてもいいと言い、それから、今すぐ決めんでええけど、と付け足した。明里はその付け足しに救われた。戻る場所があることと、戻らなければならないことは、ずいぶん違った。
電話を切ったあとも、明里は長くベンチにいた。夕日がビルの窓を照らし、人工の壁が川に金色の帯を落とした。都会には自然がないと思っていた。だがその光は、建物を避けて降るわけではなかった。ここにいても見えるものを、明里は見なくなっていた。その事実を、街のせいだけにしていいのかと思った。
鞄から案内書を出した。豊島までの道筋を確かめ、宿の空室を探した。今夜どこかへ飛び出すのではなく、数日後なら移動できそうだった。翌日の面談で休み方を決め、必要な連絡をしてから行く。旅が仕事の代わりに人生を引き受けてくれるわけではない。それでも、一度いつもの電車から離れたかった。
宿に電話すると、年配の女性が出た。二泊できますか、と聞く明里の声は、自分でも驚くほど小さかった。空いていると言われ、到着時刻を尋ねられた。船を調べてからまた連絡してもいいですか。いいですよ、慌てんで。電話の向こうで、引き戸の閉まる音がした。案内書の記号だった島に、誰かの暮らしの音が加わった。
翌日、田辺との面談は一時間かかった。すぐにすべてを投げ出すことはできなかったし、元どおり働くこともできなかった。案件の現状を短い一覧にし、急ぎの確認は森崎からまとめて送ってもらう。残っていた有休と引き継ぎの期間を調整し、正式な退職日を月末に決めた。田辺は一度、外部の仕事としてなら続けられないかと聞いた。明里は少なくとも今は受けられないと答えた。
「君がおらんようになったら、困るんやけどな」
以前ならその言葉だけで、踏みとどまっただろう。必要とされることは、明里にとって働く理由であり、自分を休ませない理由でもあった。彼女は手帳の端を押さえた。
「困らせると思います」
その先の言い訳が出なかった。田辺は眼鏡を外し、こっちも任せすぎた、と言った。明里は慰めるように、そんなことないですと言いかけた。その言葉も飲み込んだ。お互いのために、言わないほうがいい返事がある。
引き継ぎのファイルを整理すると、自分にしかわからない名前をつけた資料がいくつも見つかった。最終、最終二、これで本当の最終。明里は苦く笑い、日付と内容がわかる名前へ変えた。仕事を抱え込んだことの一部は、忙しさのせいだった。だが全部ではない。自分がいなければ回らない状態を、どこかで求めていたのかもしれなかった。
森崎に一覧を渡すと、後輩は一つずつ確認した。明里は説明するたび、まだ自分が仕事を好きなことを思い知らされた。紙の厚さや印刷の癖については、言葉が自然に出てくる。嫌いになって辞めるなら、もっと簡単だったのだろうか。森崎は最後に、わからないときは聞いてもいいですかと尋ねた。明里は、一覧に書いた時間なら、と答えた。冷たい言い方に聞こえないかと心配したが、森崎はむしろ安心した顔で頷いた。
事務所の私物を持ち帰るため、明里は机の引き出しを開けた。替えのストッキング、古い入館証、いつの間にか増えた付箋。底には、友人の展覧会の案内があった。二年前の日付だった。行こうと思って予定表へ入れ、締め切りが近づいて消したのを思い出した。会場へ行かなかったことより、行かなかったあと何も連絡しなかったことが痛かった。
机の小さな観葉植物は、葉の端が茶色くなっていた。誰かがときどき水をやってくれていたのだろう。明里は鉢を持ち上げ、受け皿に残った白い跡を見た。自分の机にあるものだから、自分が世話をしていると思い込んでいた。森崎が、持って帰りますか、と聞いた。明里は頷きかけ、旅のあいだにまた枯らすかもしれないと思った。
「出発するから、戻るまで預かってもらってもいい?」
後輩はわかりましたと言い、窓際へ鉢を動かした。頼んだだけのことなのに、明里には難しかった。何も言わずに誰かが水をくれるのを待つことと、頼んで引き受けてもらうことは違う。その違いを、十年働いた机の前で初めて知るのは遅すぎるような気もした。
田辺が奥から出てきて、鉢を見た。これ、ずいぶん生きとるな、と言った。明里が入社した年に、引っ越し祝いとしてもらったものだという。明里はもっと最近のものだと思っていた。根が鉢の中でどうなっているか、考えたこともなかった。
帰り際、彼女は鉢の写真を一枚撮った。旅の写真を撮る前に、ここにあったものを残しておきたかった。森崎が窓のブラインドを少し上げると、葉に斜めの光が当たった。
出発の前夜、明里は小さな鞄に着替えを詰めた。いつも出張に持っていくパソコンを手に取り、机へ戻した。緊急の連絡は電話で受けられる。仕事のデータは共有した。もう一度確かめたくなったが、そこで鞄を閉じた。
窓の外に、まだ明かりのついている部屋が並んでいた。誰かが働き、誰かが眠れず、誰かが食器を洗っている。自分だけが止まることに、罪悪感は残った。だが止まらなかった先を想像すると、朝の画面に並んだ、意味のわからない文字が浮かんだ。
明里は目覚ましを、いつもと違う時刻に合わせた。机の案内書を鞄へ入れ、母に出発の日程を送った。返事は、気をつけて、だった。携帯を伏せたあと、もう一通届いた。帰ってから、鯖食べにおいで。明里は暗い部屋で笑い、初めて行く港の名前を、声に出さず繰り返した。




