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水が生まれる場所  作者: 久遠 睦


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第二章 ガラス張りの森

土曜日の午後、グランフロント大阪の吹き抜けには、人の声が薄く重なっていた。エスカレーターを上がる明里の前で、若い男女が一つの画面を覗き込んでいる。どこで昼を食べるか相談しているらしかった。何かを決めるために、こんなに楽しそうに時間を使えるのだと、明里はその二人の靴を見ていた。

午前中に洗濯をするつもりだった。ところが目が覚めたのは十一時で、洗濯機を回しているうちに田辺から電話が来た。月曜に見せる案の方向が変わるかもしれない、まだ正式ではないが頭に入れておいてほしい。その曖昧な依頼のために、午後の輪郭がすべて仕事のものになった。家にいると電話を待つだけになりそうで、明里はまだ湿った洗濯物を部屋に残して出てきた。

ここには欲しいものが何でもあるはずだった。器、服、香りのよい石鹸、肌触りのいい寝具。明里は生活雑貨店の棚で、青灰色のマグカップを持ち上げた。形も重さも好きだったが、自分の台所に置くと、流しに残った二日前のカップの隣に並ぶだけだと思った。棚に戻すと、底が小さく鳴った。店員がこちらを見た気がして、何かを壊したわけでもないのに頭を下げた。

ガラスの向こうでは、丁寧な暮らしが完成していた。折り目のそろった布巾や、切り口まで美しいパン。明里はそれらを憎んでいるわけではなかった。むしろ好きだから苦しかった。仕事で生活の一場面を作るとき、自分も同じように邪魔なものを外へどける。請求書や使いかけの薬、返信しなかった手紙を、写真の端から外す。それをしている自分の部屋がいちばん雑然としていた。

北館の展示スペースでは、子供が大きな画面の前で両手を動かしていた。動きに合わせて光の粒が集まり、魚のような形になった。付き添いの父親が笑って写真を撮る。明里も離れて見た。仕組みはわからなくても、子供が自分の指の先で何かが起こることを喜んでいるのはわかった。明里はその喜びを、仕事に就くずっと前から知っていたはずだった。

近くのベンチに腰を下ろすと、真帆から個別の連絡が届いた。今、梅田。十五分くらいでもお茶できる。娘を夫に預け、美容院に来た帰りだという。明里はすぐに、仕事があるから、と打った。送信の手前で消した。仕事は確かにあるが、今ここで何もしていないことも確かだった。いるよ、と返すと、真帆は店の名前を送ってきた。

真帆は先に席を取り、大きな鞄を足元に押し込んでいた。写真で見た紺の服ではなく、毛玉のついた薄いカーディガンを着ている。明里を見ると、久しぶり、と立ちかけ、テーブルに膝をぶつけた。昔から変わらない不器用さだった。明里は初めて少し笑えた。

「髪、切ったんや」

「そう。ひとりで座ってられるだけで、美容院ってありがたい」

真帆は冷めた紅茶を飲み、明里の顔を見た。忙しい、と尋ねる声に、決めつける響きはなかった。明里はまあね、と答えた。仕事の話なら何でも話せる気がしていたのに、親しい相手を前にすると、言葉の選び方がわからなくなった。真帆はそれ以上尋ねず、娘が学校で消しゴムをなくした話をした。

明里は笑うべきところで笑った。頭の片隅では、真帆は家族の話しかなくなったのだと思っていた。そう思う自分を恥じながらも、止められなかった。真帆は明里の仕事を、いまだに格好のいいものだと思っているのだろう。お互いに、相手が見せている狭い範囲しか知らない。

「明里の会社、今も川の近く?」

「うん。変わってない」

「ええな。私、ひとりで電車乗ると、降りんとそのまま行きたくなるときある」

真帆は笑って言ったが、目は笑っていなかった。娘の名前が画面に出るたび電話を取る彼女が、そんなことを考えているとは思わなかった。明里は、いいお母さんやのに、と口にした。真帆はカップを置いた。

「いいお母さんでも、そう思うんちゃう」

責める声ではなかった。だから明里は、自分の言葉の雑さをはっきり聞いた。結婚した友人を、満たされた人という一つの役に押し込めていた。自分の仕事について、好きなことをしているんだからと言われると腹が立つのに、同じことをしていた。

「ごめん。わかったみたいに言った」

「いいよ。私も、好きな仕事してて羨ましいって、よく言ってたし」

二人は黙った。カウンターの向こうでミルクを温める音が長く続いた。真帆は砂糖の包みを指で折り、仕事を辞めたいと考えることはあるの、と聞いた。明里はある、と答えた。声にすると、その二文字は思っていたより日常的だった。

「でも、辞めたら何もなくなる」

「何もって」

「人に説明できるものが」

真帆は頷かなかった。すぐに励ましもしなかった。明里はその沈黙に耐えられなくなり、冗談やけど、と付け足しそうになった。真帆の電話が震え、夫から帰宅時刻を尋ねる連絡が来た。真帆はあと三十分、と返した。十五分のつもりで会ったのに、もう四十分が過ぎていた。

「大学のときさ、明里、川の絵ばっかり描いてたよね」

明里は驚いた。自分では課題のポスターや卒業制作のことしか思い出さなくなっていた。真帆は、橋の下の変な緑が好きだと言っていた、と続けた。夕方になると黒く見える水を、明里は緑や紫で描いた。講評で説明を求められると、そこにそう見えたから、と答え、教授を困らせた。

「今も描いてる?」

「全然」

その返事には、初めて飾りがなかった。真帆はそっか、とだけ言った。描けばいいのにとも、もったいないとも言わなかった。彼女自身、何かをするにはその前にどれほどのことを片づけなければならないか、知っているのかもしれなかった。

別れ際、真帆は娘の写真を見せた。入学式のものではなく、家で寝転がって、靴下を片方だけ履いている写真だった。さっき送ったきれいな写真、あれ一枚撮るのに大騒ぎ、と笑った。明里も笑った。写真の中に写っていないものを想像すると、遠く感じていた友人が、急に同じ高さの椅子へ戻ってきた。

真帆が改札へ向かい、明里はまた建物の中へ戻った。鞄の中で仕事の電話が鳴ったが、立ち止まって画面を確認しただけで、その場では取らなかった。階段の脇の、人が通らないところへ寄ってから折り返した。田辺の話は十分続いた。方向は変更、新しい原稿は夜に届く。明里はわかりましたと言った。さっき口にした、辞めたい、という言葉は、電話の向こうには一文字も届かなかった。

書店に入ったのは、すぐに帰るのが惜しかったからだった。デザイン書の棚へ自然に足が向き、途中で旅の本の前に止まった。瀬戸内の写真集が、表紙をこちらへ向けて置かれている。白い建物と、緑の斜面。海の青は、明里が広告に使う青より少し濁っていた。

ページをめくると、島の細い路地や、使われなくなった建物、畑の中に置かれた作品が現れた。知っているつもりの風景だった。仕事で参考画像を探すとき、画面の中では何度も見ている。だが印刷された紙には大きさがあり、指で一枚ずつ送る間があった。ある見開きで、明里は指を止めた。

緩やかな斜面に、薄い白い屋根が伏せられていた。建物というより、まだ動き出していない何かの背中のようだった。内部の写真には、水滴が点々と光っている。豊島美術館。読み仮名を追って、てしま、と小さく口を動かした。地面から水が湧き、風と光が入る場所なのだという。

明里は写真を読み解こうとした。視線をどこへ誘導し、余白にどんな意味を持たせたのか。いつもの分析が始まりかけ、その途中で途切れた。水の粒は、どこに目を向ければ正解なのかを教えてくれなかった。中央で光るものも、端に置き去りにされたようなものもある。写真の中の人は、誰かに見せるための姿勢ではなく、ただ座っていた。

本を閉じ、また開いた。値段を確かめると、夕食を何回か節約すれば買える金額だった。だが買ったところで、部屋の床に積まれた美しい本が一冊増えるだけかもしれない。明里は棚の前で長く迷った。欲しいのは写真集なのか、その写真が撮られた場所なのか。そう分けて考えること自体が、久しぶりだった。

結局、小さな島の案内書を一冊買った。写真集よりずっと薄く、地図と船の航路が載っているものだった。店員が袋をつけるか尋ね、明里はそのままでいいと答えた。表紙を鞄へしまうと、誰にも頼まれていない約束を、こっそり持ち歩くような気分になった。

書店を出たあと、明里は同じ階の文具売り場へ寄った。棚には色の名前を印刷した小さな絵の具が並んでいた。何色かを手に取り、透かすように見る。学生の頃は値段の安いものから選んだが、今なら買えないわけではない。いちばん欲しかった青を指で押し、結局、棚へ戻した。

道具を揃えると、使わない自分を責める材料が増える。それが怖かった。白い板も、上質な紙も、すでに部屋で自分を待っている。明里は売り場の端で、子供が色鉛筆を一本だけ選んでいるのを見た。母親に、これで足りるの、と聞かれ、子供はうん、と答えた。描くものがもう決まっているようだった。

明里は何も買わず、店を出た。今日は案内書一冊でよいことにした。何かを始める前に準備を完成させようとすると、その準備だけでいつも疲れてしまう。手の中の本は軽く、紙袋もないので、歩きながら表紙の手触りを確かめられた。

帰りの電車で案内書を開いた。島へ行くには、まず岡山まで行き、そこから宇野へ出る。遠すぎる場所ではなかった。そうわかると、かえって行けない理由が次々に浮かんだ。月曜の打ち合わせ。来週の入稿。母との約束。旅費。休んでも仕事は減らず、戻ったときに自分の机へ積まれるだけだ。

隣の席の高校生が眠り、鞄が明里の膝に傾いてきた。明里はわずかに体をずらした。窓に映る案内書の表紙を眺めながら、父と最後に出かけた日のことを思い出した。入院前の春、近所の川へ桜を見に行った。父は三脚を立てる人たちを避け、橋の下の日陰へ歩いた。そこには花びらが泥と混じってたまっていた。

「上ばっかり見んでもええやろ」

父はそう言った。意味のある言葉を残そうとしたわけではない。人混みが嫌いなだけだったかもしれない。明里はその日、桜の写真を撮らず、足元の水を撮った。後から探しても、その写真はどこにも見つからなかった。携帯を替えたときに失くしたのだろう。失くした瞬間を覚えていないことが、今になって悔しかった。

帰宅すると、部屋干しの洗濯物が冷たく乾いていた。明里はシャツを一枚ずつ外し、珍しくその場で畳んだ。案内書を机の上に置くために、レシートをまとめ、使っていないペンを捨てた。片づけの手順なら知っている。難しいのは、そのあとにできた場所へ何を置くかだった。

母に電話をかけた。日曜に会えないことをもう一度謝るつもりだったが、母は近所の店が閉まる話を始めた。父が生きていた頃に通った時計屋だという。店主の息子は継がず、修理に預けていた時計を引き取りに行った。母の声を聞きながら、明里は窓の外のマンションの明かりを数えた。

「明里、聞いてる?」

「聞いてる。あのおじさん、もう辞めるんやね」

「八十近いんやから。よう働かはったよ」

八十なら辞めていい。三十三ならどうなのだろう。明里は電話の向こうに、問いを投げそうになった。母は最近よく眠れているのかと尋ねた。明里は、まあまあ、と答えた。母の返事までに少し間があった。嘘に気づいても、それを追い詰めずに置いておくことを、母は長い間に覚えたのかもしれなかった。

「たまにはどこか行ってきたら」

「仕事あるから」

「一日くらい」

その一日が取れないのだと、明里は言いかけた。けれど本当に取れないのか、自分が取ろうとしていないのか、やはり分けられなかった。母は冷蔵庫に鯖があるという話をして、電話を切った。心配と夕飯の支度は、同じ場所で続いているのだった。

夜九時、新しい原稿が届いた。明里は仕事用のファイルを開き、土曜の夜が日曜の朝へ変わるまで、写真を選び、文字を組んだ。案内書はパソコンの横に立てた。白い屋根の写真が、視野の端に残る。疲れるたびに目を向けても、そこから何かが語りかけてくるわけではなかった。

日曜の夕方、修正案を送った。外では風が強くなり、ベランダの物干し竿が鳴った。明里は服を着替える気力もなく、窓を少し開けた。湿った風が机の紙を一枚めくり、案内書のページが開いた。海の上に引かれた航路は、細い線だった。その先に実際の船があることを、明里は何度も確かめるように眺めた。

月曜の朝まで、あと半日しかない。いつもならそう数えるところを、その日は半日ある、と一度だけ考えた。そう考えても仕事は減らなかったし、眠りもすぐには来なかった。それでも明里は本を閉じず、開いたページの上に、転がらないよう鉛筆を一本置いた。



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