第一章 八時四分の御堂筋線
午前八時四分、梅田へ向かう御堂筋線のドアが閉まった。明里は肩に食い込む鞄の紐をずらそうとして、隣の人の肘に触れた。すみません、と言った声は走行音に消えた。謝られた人は顔を上げなかった。窓には人の頭と広告が重なり、その奥に、口紅を塗り忘れた三十三歳の顔が浮かんでいた。
昨日と同じ車両の、昨日とほぼ同じ場所だった。どの駅で誰が降りるかまで、体が覚えかけている。前に立つ紺色の背広の男性は本町で降りる。そのときに右へ半歩寄れば、淀屋橋で人の流れに押されずに済む。明里はそうした小さな技術だけを、年々確かに身につけていた。
鞄の中で電話が震えた。まだ始業前だったが、反射的に取り出した。画面の端に、母からの短い連絡が見えた。今度の日曜、そちらへ出るけど、お昼どう。続けて事務所の連絡用アプリが光り、金融商品のキャンペーンについて、先方から追加要望、という文字が母の文章を押し下げた。明里は仕事のほうだけを開いた。
「全体にもう少し安心感。若い人にも響くような、新しさもほしいそうです」
送ったのは所長の田辺だった。安心と新しさを両立させること自体は、無理な注文ではない。何を見てそう思ったのか、誰に何を伝えたいのか、話し合う時間があれば。けれど画面には、午前中に一案、という追伸があった。明里は承知しました、と打ってから、まだ送信を押していないつもりで指を止めた。すでに送られていた。
淀屋橋の階段を上がると、朝の空気は地下より冷たかった。四月の終わりなのに、日陰には冬の名残がある。土佐堀川の水面を、小さな作業船がゆっくり割って進んでいた。中央公会堂の赤い壁の上に、薄い雲がかかっている。明里はその色を、赤に黒を何割混ぜれば出るだろう、と考えた。そういうふうにものを見る癖だけは残っていた。
橋のたもとで犬が立ち止まり、飼い主の女性も立ち止まった。犬は欄干の下をいつまでも嗅いでいた。女性は時計を見ずに待っている。その光景を見た瞬間、自分が何を羨ましがっているのかわからなくなった。犬を飼いたいわけではない。朝に散歩する生活が欲しいとも、はっきり言えなかった。ただ、急がないものに付き合っていられることが、ひどく贅沢に思えた。
西区京町堀の事務所は、古い雑居ビルの三階にあった。階段にはいつも、二階の喫茶店が使う油と、どこかの芳香剤が混じった匂いがした。扉を開けると、昨夜帰るときに消したはずの蛍光灯がついていた。後輩の森崎が、プリンターから出てくる紙を受け取っている。入社三年目の彼女は、明里が若かった頃よりずっと手際よく、新しいソフトを使いこなした。
「早いね」
「昨日の画像、解像度が足りなくて。差し替えだけ先に」
森崎の机には、開けていない菓子パンが置かれていた。明里は自分の席に鞄を下ろしながら、朝ごはん食べた、と聞きかけてやめた。自分も食べていない。その事実を隠して相手にだけ忠告するのが、急に大人ぶったことに思えた。
パソコンが立ち上がるまでの間、机の脇の資料棚を眺めた。十年前に採用された菓子店の包装紙が、見本帳の間から半分だけ出ている。入社二年目の仕事だった。店主が飼っていた老犬を、明里は何枚も描いた。商品の菓子より犬のほうが大きくなってしまい、田辺に笑われた。それでも最後には、その犬が小さく包装紙の隅に残った。店主は見本を両手で広げ、うちの犬だ、と言った。
あのとき明里は、自分にしかできないことが世の中にあると思った。今なら、それほど特別な線ではなかったとわかる。けれど誰かが紙を手に持つ重さや、店の午後の匂いまで考えて仕事をした。その記憶は、成果物のどこにも記録されていない。
「昨日の案、余白がよかったですよね」
森崎が隣に来て、声を落とした。明里は開いたばかりの画面を見つめた。淡い青の面の中央に、言葉を少なく置いた案だった。生活の先を考える商品だからこそ、急かすように見せたくなかった。だが追加要望の一覧には、特典を拡大、人物写真を追加、訴求点を三つに整理、とあった。
「よかった、だけじゃ駄目なんやろうね」
言ってから、森崎の表情がわずかに固まったのに気づいた。後輩は案を褒めに来ただけだった。明里はマウスに手を置き、視線を動かさずに、ごめん、案の話、と付け足した。森崎は小さく頷き、自分の席に戻った。背中に向かってもう一度何か言うには、事務所は静かすぎた。
午前十時、田辺が紙袋を提げて入ってきた。出先でもらった焼き菓子だと言い、空いている机に置いた。五十歳を過ぎてから太った顔に、以前と同じ笑い方が残っている。彼はかつて、仕事のない午後に明里を古い印刷所へ連れていき、紙の目を指で確かめることを教えてくれた人だった。いまも意地の悪い人ではない。そのことが、かえって明里の不満を言いにくくした。
田辺は修正案を覗き込み、先方も社内を通すのが大変なんや、と言った。明里は頷いた。誰もが別の誰かに説明しなければならず、そのための文字が画面に一つずつ増えていく。説明のための説明で、最初の言葉が見えなくなった。明里が人物写真を少し右へずらすと、田辺は、もうちょい華やかにできる、と聞いた。
「どのあたりをですか」
思ったより硬い声が出た。田辺は黙り、写真の服の色を指した。具体的に答えてくれたのに、明里の中には小さな怒りが残った。その怒りを仕事への誇りと呼んでいいのか、単に眠れていないだけなのか、彼女自身にも区別がつかなかった。
昼になっても空腹は来なかった。午後一時を過ぎ、森崎が外へ出たあと、引き出しの飴を一つ口に入れた。包み紙には苺の絵があった。明里が子供のころ描いた苺は、種が黒すぎると図工の先生に言われた。赤をきれいに見せるためには、種を全部描かなくていい。そう教わってから、明里はよく見えるものより、きれいに見えるものを選ぶようになった。
母はその絵を褒めた。台所の壁に貼って、上手になったねと言った。父は仕事から戻ると、ときどき絵の前に立ち、これは何、とわざと聞いた。苺に決まってる、と明里が笑うと、そうか、虫かと思った、と言って母に怒られた。父が亡くなって七年になる。明里は父の声そのものより、その冗談に母が返した声のほうを鮮明に覚えていた。
食事の時間を忘れていることに気づき、二階の喫茶店へ降りた。ランチは終わっていたが、店の女性は卵ならあると言った。カウンターで卵サンドを待っていると、テレビの音だけが耳に届いた。女性は明里の前に水を置き、今日は遅いね、と言った。それ以上は聞かなかった。何も説明せずにそこに座っていてよいことに、明里は救われた。
皿のパンは端が乾いていた。だが温かい卵に歯を入れると、喉の奥が急に狭くなった。泣きそうなのかと思ったが、違った。ただ、ひどく腹が減っていた。明里は一切れを飲み込んでから、母への返事を打った。日曜はたぶん仕事。ごめん。送ったあとで、たぶん、という逃げ道を自分で閉じたような気がした。
夕方、大学時代の友人たちのグループに写真が届いた。真帆の娘が、小学校の門の前で笑っている。入学おめでとう、と誰かが送り、明里も同じ言葉を送った。真帆とは一年近く会っていない。結婚式の招待状の文字を明里が組んだときには、会わなくなる日を想像しなかった。画面の中の真帆は紺色の服を着て、娘の肩に手を置いていた。
仕事を終えたら会おう、と何度も思った。だが仕事は終わっても次の仕事があり、休日には人に見せられる顔を用意するのが面倒になった。真帆が自分を置いて先に行ったのではなく、自分が返事を先送りし続けたのかもしれない。その考えは、羨ましさより居心地が悪かった。
夕方の打ち合わせが延び、明里は一度だけ、昔付き合っていた航平のことを思い出した。彼は印刷会社の営業で、明里の仕事を理解してくれる人だと思っていた。忙しい時期には連絡が途切れても怒らず、夜遅くに弁当を買ってきた。三年前、二人で住む部屋を探そうという話が出たときも、明里は仕事が一段落してからと言った。
航平が別れを切り出したのは、予定を断った夜ではなかった。何の約束もしていない日曜日、二人で洗濯物を畳んでいたときだった。彼は自分のシャツの袖を揃えながら、来月のことを一緒に決めたい、と言った。明里は、決めてるやん、と答えた。次の納期も、繁忙期も伝えていた。
「仕事が空いた日に俺が入るんやなくて」
そう言われて、明里は怒った。生活のために働いているのに、仕事と自分とどちらが大事かと聞くのかと思った。航平はそんなことを聞いたのではなかったかもしれない。けれどそのときは、自分が責められているということしか聞こえなかった。彼が持ち帰ったシャツの一枚に、自分の靴下が挟まっていた。数日後、それだけが封筒に入って届いた。
あの人がいれば、と考えることはもう少ない。ただ、何かが終わるまで大切なものを待たせる癖は、別れたあとも残った。母との昼食も、真帆とのお茶も、自分のための絵も、同じ場所で順番を待っている。仕事だけが列の先頭へ何度でも戻ってくる。
明里は画面の中の人物写真を選び直した。若い夫婦が窓辺で笑っている。航平とこんな写真を撮ったことはなかった。撮らなかったから不幸だったのではない。楽しい日もあった。その日々を失敗の理由だけで並べ直したくなくて、明里は写真の選択を一度取り消し、別の候補を開いた。
午後八時過ぎ、森崎が帰り支度を始めた。明里は画面から目を上げず、お疲れさま、と言った。後輩はしばらく立ち、あの、朝の案なんですけど、と切り出した。明里の指が止まった。
「私、あのくらい何も置かないの、まだ怖くて。だから、いいなと思ったんです」
明里は椅子を回した。森崎の眼鏡には天井の明かりが映り、目がよく見えなかった。
「さっき、ごめん。褒めてくれたんやね」
「はい。でも、無理なものは無理ですよね」
その言い方に、明里がよく使う諦めが混じっていた。教えたつもりのないことほど、そばにいる人に伝わるのだと思った。違う、とは言えなかった。代わりに、次の案件、最初のラフ一緒に考えよう、と言った。森崎は小さく笑った。約束をした瞬間、明里は嬉しさと同じ量の疲れを感じた。
帰り道の川は黒く、街灯が長く伸びていた。朝の作業船はいない。欄干に片手を置くと、金属の冷たさが掌に移った。目の前にこれだけの水があり、潮の満ち引きで向きまで変わることがあるのに、明里にはいつも同じ流れに見えていた。見ているようで、何も見ていないのだろうか。
家に着くと、玄関の床に通販の箱があった。三日前、夜中に注文した保存容器だった。食事を作り置きすれば暮らしが整う、と考えた記憶がある。冷蔵庫には乾いた葱と調味料しかなかった。箱を開けずに跨ぎ、明里は鞄を下ろした。机の上には仕事用のノートパソコンがあり、その横に、絵を描くために買った白い板が立てかけてある。半年間、一度も使っていなかった。
母から返事が来ていた。じゃあまた今度。食べてる。最後に疑問符はなかった。明里は食べてるよ、と送った。嘘ではない。卵サンドを食べた。だから大丈夫だと、誰に説明しているのかわからないまま、風呂の湯を張った。
湯がたまる音を聞きながら、押し入れから古いスケッチブックを取り出した。引っ越すたびに捨てようとして、そのたびに荷物のいちばん底へ戻したものだった。表紙の角が丸くなり、ゴム紐は伸びている。大学の課題の間に、母が洗った茶碗の絵があった。縁の欠けた茶碗を、明里はずいぶん丁寧に描いていた。鉛筆の濃淡に、若い日の時間が積もっていた。
最後の一枚は白かった。明里は机のペン立てから鉛筆を取った。芯は尖っていた。紙の上へ近づけると、何を描くのかという問いがすぐに湧き、次に、それは何になるのかという問いが来た。描きたいものを探すより先に、描く理由を求めていた。
湯張りが終わったことを知らせる電子音が鳴った。明里は鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。何も描かなかったので、失敗もしていない。それなのに、表紙を押さえた指の先が、誰かに嘘をついたあとと同じように冷たかった。
風呂から上がると、田辺から翌朝の打ち合わせ時刻が届いていた。九時半。明里は目覚ましを六時五十分に合わせた。八時四分の電車に乗るには、その時刻に起きればよかった。充電器につないだ電話を伏せ、部屋の明かりを消した。窓の外で、見えない車が濡れたような音を残して通り過ぎた。
眠りに落ちる直前、朝の犬のことを思い出した。何をあんなに長く嗅いでいたのだろう。答えのない問いを一つだけ持っているあいだ、明里の指は何も操作せず、布団の上でわずかに開いていた。




