エピローグ 半年後
十一月の朝、明里は窓の結露を布で拭いた。下のほうにたまった水を押し上げると、外の電線が徐々に見えた。日当たりがいいと聞いて借りた部屋だったが、冬が近づくと床は冷たかった。裸足ではいられず、厚い靴下を履いた。海の近くに住めば毎朝海を見ると思っていたのに、勤めのある日は洗濯と朝食だけで時間がなくなった。
豊島へ行ってから半年が経っていた。新しい部屋の壁には、犬の包装紙と、小さな絵が何枚か貼ってある。机には港の水を描いた紙が重なり、その横に家計のノートがあった。どちらも同じ椅子に座って開く。絵を描く自分と、生活費を計算する自分を、別の人にすることはできなかった。
カフェの仕事は、思っていたほど気楽ではなかった。忙しい昼には注文を聞き間違え、洗い物をため、先に上がる人を羨ましく思う。店主の千絵は穏やかな人だったが、作業の遅れにははっきり注意した。明里は最初、以前は専門の仕事をしていたのに、と心の中で言い訳した。その言い訳が口へ出なかったことを、あとでありがたく思った。
千絵は明里の前職を知ってから、店の案内を頼みたいと言った。明里は嬉しくなり、すぐに引き受けかけた。だがその日は、内容を聞いてから考えたいと答えた。勤務の時間に作るのか、別の仕事として受けるのか。費用はどのくらいか。尋ねる声はまだぎこちなかったが、千絵は、そこ決めとかんとね、と普通に返した。
出来上がった案内は、明里が最初に考えたものより簡素になった。千絵が大事にしたのは、定休日のわかりやすさと、入口の段差があることだった。明里は海の絵を大きく入れたかったが、最後には小さくした。自分の表現を削ったからといって、自分まで小さくなるわけではない。わかっているつもりだったことを、実際の紙の上で確かめ直していた。
その仕事の代金が入った日、明里は新しい絵の具を一色買った。大きなセットにはしなかった。灰色にも青にも見える色で、使ってみると予想より濁った。買い物に失敗したかもしれないと思い、何度か混ぜているうちに、港のコンクリートの影に合うことがわかった。うまく使うまでに、紙を三枚駄目にした。
絵を毎日描くという目標は、夏の終わりにやめた。一日描けないと、翌日は二日分描かなければという借金ができる。三日空くと、机を見るのが嫌になる。代わりに、机の上へ別の物を積まないことだけを決めた。それでも郵便物が増える日があり、皿を置いてしまう夜もあった。明里は翌朝それをどけた。決まりを破らずに暮らすより、戻る動作のほうが役に立った。
九月には、大阪の小さな店の展示募集へ絵を送った。落選の知らせは短いメールだった。明里は自分でも驚くほど傷ついた。誰のためでもない絵だと言いながら、誰かに選ばれたい気持ちは強く残っていた。旅をしたことも、仕事を辞めたことも、海の近くへ来たことも、選ばれる理由にはならない。三日ほど絵を見なかった。
四日目、千絵の店でグラスを拭いていると、窓の向こうの雨が斜めに流れた。明里はその角度を指でなぞり、仕事中だと気づいて布巾を持ち直した。帰宅してから、雨の線だけを一枚描いた。落選が平気になったわけではない。悔しいまま、別のものを見た。その絵は誰にも送らず、今も机の端にある。
由美へ手紙を書いたのは、転居して一か月ほど経った頃だった。最初は便箋三枚に旅の感謝を書いた。読み返すと、由美の店がいかに自分を救ったかという話ばかりになっていた。由美が屋根の修理をし、母の付き添いを考えていたことが、明里の変化の背景へ押しやられている。彼女は二枚分を書き直した。
新しい住所と、近くのカフェで働き始めたこと、また描いていることを書いた。シロップは暑い日に飲み、最後は瓶の底へ湯を入れて飲んだとも書いた。店の屋根の具合を尋ね、返事は急がないと添えた。封筒の裏へ新しい住所と名を書き、近所のポストへ投函した。
勝也のことも、ときどき思い出した。手紙を書こうかとも思ったが、宛先を知らなかった。図書館で豊島の問題について調べ、資料の年表をノートに写した。自分が島で過ごした四日間より、はるかに長い時間が頁を占めていた。知ったことをすぐに絵にしたいとは思わなかった。何かの題材にしなくても、覚えていることはできる。知らないことの多さに戸惑いながら、借りた本を期限までに返した。
母とは月に何度か電話で話した。声が明るい日も、話が噛み合わない日もあった。母はまだ、安定した仕事は探しているのかと聞く。明里はそのたび、同じ説明をするのが面倒になった。ある夜には、もうその話やめて、と強く言い、電話を切ったあとで後悔した。翌日、言い方がきつかったと連絡したが、自分の選択そのものは謝らなかった。
十月に母が訪ねてきた。駅まで迎えに行くと、母は大きな袋を二つ持っていた。米と、家で使わなくなった鍋と、近所でもらった柿。重いのに、と明里が言うと、だから迎えに来てもろた、と母は返した。二人で袋を分けて持ち、ゆっくりアパートへ歩いた。
母は部屋に入ると、海は見えへんのやね、と言った。明里は笑い、歩けばすぐ、と答えた。母は台所の狭さを見て、ここで料理するん、と聞いた。明里は腹を立てかけたが、母が鍋の置き場を探しているだけなのだとわかった。批判を待ち構えているのは、自分のほうかもしれなかった。
昼食のあと港へ行った。風が強く、母は首元を押さえた。明里は座れる場所まで案内しようと急いだが、母は先に小さな店を見つけ、あそこでお茶しようと言った。海を見せることに一生懸命で、歩き疲れた母の足を見ていなかった。明里は引き返し、熱いお茶を二つ頼んだ。
「お父さんのとき、私、あんまり来られへんかったやろ」
長く聞きたかったことを、明里はその席で口にした。母は湯呑みを持ったまま黙った。もっと来てほしかったよ、と言った。明里は頷いた。予想していた言葉なのに、胸が痛かった。
「でも、来た日にずっと仕事してたわけでもない。お父さんの爪、切ってくれたやろ。私、あれ怖くて」
明里は覚えていなかった。病室のパソコンだけを何度も思い出すうちに、ほかの時間を消していた。母は、助かったよ、と言い、お茶を飲んだ。明里は自分を許すためにその記憶を使いたくなかった。ただ、覚えていなかった事実を受け取った。父の最期の時間は、一つの後悔だけでできていたのではなかった。
母が帰ったあと、部屋に柿が四つ残った。明里は一つを剥き、残りを描いた。母が選んだ鍋は棚に収まらず、流しの下の配置を変えることになった。誰かが来ると、気持ちだけでなく物の位置も変わる。それを面倒だと思いながら、空になった袋を畳んだ。
森崎とは一度、大阪で会った。彼女は髪を短くし、自分が主担当になった仕事の見本を持ってきた。明里は褒める場所を探す前に、どうだった、と尋ねた。森崎は紙を広げ、ここで先方と揉めた、ここは予算で諦めたと話した。完成品だけを見ればわからない時間が、机の上へ戻ってきた。
「私、まだ会社にいると思います」
森崎は別れ際に言った。明里は、うん、と答えた。辞めた自分に合わせて、職場を悪く言わなくていいということを伝えたかったが、言葉を足しすぎるとまた説明になる。森崎は続けて、でも、休む日は決めました、と言った。明里は、それはよかった、と答えた。二人が同じ道へ行く必要はなかった。
真帆からは、ときどき娘の絵が送られてきた。ある日、海を描いてほしいと娘が言っていると伝えられた。明里は引き受け、何色の海がいいかと尋ねた。返事は、見た海、だった。明里は画面の前で笑った。依頼としては曖昧なのに、逃げられないほど具体的だった。
日曜に港へ行き、一枚描いた。波はほとんどなく、係留された船の下だけが暗かった。子供が喜びそうな青にはならなかったが、そのまま送った。数日後、壁に貼った写真が来た。絵の下に子供の字で、ふねのした、と書いてあった。明里が描いたのは海だったが、見る人は別の名前をつけた。その違いを直したいとは思わなかった。
その日の昼、店で小さな失敗があった。持ち帰りの注文を一つ取り違え、客が戻ってきた。明里は謝り、すぐに作り直そうとして皿を落とした。割れた音に店内が静まり、昔の事務所で意味の読めない文字を見ていた朝が、一瞬、体の中へ戻った。
千絵が床の破片を片づけながら、先に手を洗ってきて、と言った。明里は大丈夫ですと言いかけ、流しへ行った。水を出し、手についたソースを落とす。戻ると注文は千絵が引き継いでいた。明里は代わりに、会計を待つ客へ声をかけた。
閉店後、取り違えを防ぐ手順を二人で確かめた。千絵は疲れているようだったし、明里も落ち込んでいた。けれど、向いていないから辞めるしかない、というところまでは行かなかった。失敗した日の終わりにも、明日の出勤時刻を確かめ、エプロンを洗う必要があった。帰り道、明里は安い蜜柑を二つ買った。
十一月のある夕方、仕事を終えて帰ると、郵便受けに絵葉書が入っていた。秋の棚田の写真だった。裏には由美の字で、また、レモンの季節が来ました。お元気で、とあった。その下に、屋根は直りました。今度は冷蔵庫が怪しいです、と小さく添えられていた。
明里は階段の途中で笑った。由美はあの店で暮らしている。明里を励ますための人として止まっているのではなく、修理代を払い、次の故障を気にしながら、季節のものを仕込んでいる。葉書を持つ指に外の冷たさが残り、写真の棚田には今の光があった。
部屋へ入り、明里は葉書を机へ立てかけた。返事を書きたくなったが、その前に夕食を作った。冷蔵庫の野菜を刻み、母の鍋へ入れる。煮えるまでのあいだに家計のノートを開くと、今月も余裕は少なかった。冬の暖房費を考えると、来月は勤務を一日増やしたほうがよいかもしれない。絵を描く時間が減ることを残念に思いながら、千絵に相談する内容をメモした。
好きなことを選んだのだから苦労してはいけない、という気持ちが、ときどきまだ出てきた。自分で選んだ暮らしを愚痴ると、選択が間違っていた証拠になるように感じる。けれど由美の葉書には、冷蔵庫が怪しいと書いてある。明里はその一行をもう一度読み、母へ今月は仕事を増やすかもしれないと連絡した。母は、寒いからちゃんと食べて、と返した。
夕食のあと、瓶を棚から取った。シロップはもうない。洗って乾かした瓶には、短くなった鉛筆を入れていた。贈り物を記念品として触らずに置いておくこともできたが、毎日使うほうを選んだ。鉛筆を一本抜くと、ガラスに当たって小さな音がした。
描きかけの絵は、豊島の水ではなく、この町の防波堤だった。午後に降った雨がたまり、その中へ空と錆びた柵が映っている。明里は水の部分を何度か塗り直し、濁らせてしまった。以前なら最初からやり直しただろう。いまもそうしたい気持ちはあったが、今日は乾くまで待ってみることにした。
由美への返事を、便箋一枚に書いた。こちらも寒くなりました。カフェの仕事には少し慣れました。絵は、描ける日と描けない日があります。そこまで書いて、元気ですという言葉をどう置くか迷った。元気でないわけではないが、全部を明るくまとめると、手紙の中の自分がまた遠くなる。
明里は、今日は元気です、と書いた。そのあと、レモンのケーキをまた食べたいです、と続けた。具体的な日付はまだ決めなかった。行ける日を作るためには、勤務を調整し、旅費をため、宿を取る必要がある。そういう手間の先に、また会う日がある。その手間ごと、今は楽しみにできた。
窓の外で車が一台通り、濡れた道路が光った。明里は便箋を脇へ置き、水入れの濁りを見た。子供の頃、父が買い間違えた絵の具で描いた日に見た色に、少し似ていた。そっくりではない。記憶の中の色は、確かめようとするほど変わる。彼女は水を替え、新しい布で筆先を押さえた。
明日は仕事で、朝は早い。紙が乾くのをいつまでも待ってはいられない。明里は小さな別の紙を取り、今日使ったコップの縁を描いた。少し歪んだ楕円ができた。消さずに、その下へ影を置いた。台所から、鍋の蓋が冷えて鳴る音がした。
机の上の葉書が風で傾いたので、空の瓶を重しにした。ガラス越しに、由美の字の一部が曲がって見えた。明里はそれを元へ戻そうとせず、描きかけの防波堤へ目を移した。さっきより表面の艶が引いている。筆に少しだけ色を含ませ、次の一筆を引くために、静かに宙で止めた。




