第9節 五日目
五日目の朝、ソフィアはいつもの時刻に目を覚ました。
鐘が鳴る少し前だった。窓の外には、朝の淡い光が残っている。
寝台の上で身体を起こし、肩を動かす。腕を伸ばし、頭の奥に重さがないことを確かめた。
眠気も、ほとんど残っていなかった。
休暇の初めには、目を覚ますだけで一日のほとんどが終わっていた。身体を起こすにも、ずいぶん時間がかかった。
けれど今は、朝の光の中で、自分の力だけで起き上がることができる。
ソフィアは寝台を降り、カーテンを開けた。
わずかに開いた窓のすき間から、冷たい朝の空気が流れ込んでくる。
王都は、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。
店の戸を開ける人。道を掃く人。荷車を引き、市場へ向かう人。
皆、それぞれの一日を始めている。
ソフィアは、その姿をしばらく眺めた。
顔を洗い、髪をとかす。
机の上に置かれた白い花の髪飾りを手に取り、昨日と同じように髪へ飾った。
今日は町へ出る予定も、誰かに会う予定もない。
それでも、身につけたいと思った。
鏡の中には、白い花の分だけ少し華やかになった自分がいる。
「おはようございます」
鏡へ向かって、そう言ってみた。
自分の声だけが、静かな部屋へ返ってきた。
机の前へ座る。
そこには、休暇へ入る前にはなかったものが並んでいた。
昨日まで読んでいた恋愛小説。青い花のティーカップ。料理本。王都の観光案内。市場で買った、自分の顔が描かれた菓子の包み。
どれも、仕事には必要のないものだった。
けれど、その一つひとつを見ると、休暇のあいだに過ごした時間を思い出すことができた。
町を歩いた。
菓子を食べた。
恋愛劇を観た。
本を読んだ。
料理をした。
公園で子どもたちと遊んだ。
してみたいと思ったことは、一通りしてしまったような気がした。
ソフィアは両手を膝の上へ重ねた。
(今日は、何をしましょう)
新しい菓子店を探してもよい。
もう一度、市場へ行ってもよい。
買った小説の続きを読むことも、料理を作ることも、公園へ出掛けることもできる。
どれも嫌ではなかった。
けれど今日は、そのどれかをしたいとは思わなかった。
椅子へ座ったまま、窓の外を眺める。
時計の針が進む音が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、また一度。
小さな音が、規則正しく部屋へ響いている。
誰の役にも立たない一日にも、幸福はある。
そのことは昨日、確かに知ったはずだった。
けれど昨日は、本を読み、料理を作り、紅茶を飲んでいた。誰かの役に立たなかっただけで、何もしなかったわけではない。
今は本当に、何もしていなかった。
時計の音を聞き、窓の外を眺め、時間が過ぎていくのを待っている。
胸の中が、少しずつ落ち着かなくなった。
(何か、しましょう)
そう思った。
部屋は、昨日片づけたばかりだった。机の上にも埃はなく、本棚も整っている。
料理をするには、まだ早い。
恋愛小説を開いてみた。
けれど、数頁読んだところで閉じた。
物語が面白くないわけではない。ただ今は、その続きを読みたい気分ではなかった。
ソフィアは、閉じた本の表紙をしばらく見つめた。
(勉強なら、無駄にはならないでしょうか)
誰かから命じられたわけではない。
提出する必要もなく、期限もない。
ただ、少し本を読むだけだった。
知識を得ることは、休暇中であっても悪いことではないだろう。
仕事ではない。
勉強である。
ソフィアは、その違いを心の中で何度か確かめ、それから椅子を立った。
教会の図書館は、朝の静けさに包まれていた。
天井近くまで続く書棚。隙間なく並んだ本。紙と革の匂い。窓から差し込む光の中には、小さな埃が浮かんでいる。
幼いころから、何度も訪れた場所だった。
聖女候補として学び始めたころ、神学の言葉を覚え、歴史の年代を書き写し、光魔法の術式を何度も練習した。
うまくできない日には、閉館まで机へ向かっていたこともある。
ソフィアにとって、図書館は努力をする場所だった。
それと同時に、知らなかったものに出会える場所でもあった。
入口にいた司書が、ソフィアの姿を見て目を丸くした。
「ソフィア様」
「おはようございます」
「お休みではありませんでしたか」
「はい」
ソフィアは少しだけ笑った。
「本を読みに来ただけです」
「お仕事の資料ですか」
「いいえ」
すぐに首を横へ振った。
「ただの読書です」
司書は何かを言いかけたが、やがて穏やかに笑った。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
ソフィアは書棚のあいだへ進んだ。
最初に手に取ったのは、一冊の古い魔法書だった。
仕事で必要とされたものではない。以前から少し気になっていた本だった。
昔の魔法使いたちが、どのように術式を組み立てていたのか。今では使われなくなった魔法。失敗した研究。途中で途絶えた仮説。
そのようなものが、細かな文字で記されている。
窓辺の机へ座り、本を開いた。
古い術式。見慣れない記号。今とは異なる魔力の考え方。
仕事として読む時とは違っていた。
必要な箇所を探す必要はない。報告へまとめる必要もない。気になったところで立ち止まり、分からなければ何度読み返してもよかった。
頁をめくるうち、光魔法が初めて治療へ用いられた時代について書かれた章へ行き着いた。
当時の人々は、魔法で傷が治ることを信じられなかったらしい。
奇跡だと呼ぶ者もいた。
危険な力だと恐れる者もいた。
それでも、一人の術者が小さな傷を治した。
そこから、治癒魔法の研究が始まった。
ソフィアは、その記述を読みながら、幼いころのことを思い出した。
教会の中庭で、膝をすりむいて泣いていた子ども。
小さな傷へ両手をかざした。
うまく治せるか分からなかった。
それでも、最後には子どもが笑ってくれた。
あの日、自分が聖女になりたいと思った理由へ、少しだけ近づけた気がした。
あの時の気持ちは、今も自分の中に残っているのだろうか。
ソフィアは、頁へ置いていた指をわずかに動かした。
その問いを深く考える前に、次の行へ目を移した。
古い治癒魔法の実験について書かれた箇所だった。
同じような傷を治しているにもかかわらず、術者によって消費する魔力量や治癒にかかる時間が大きく異なる。
研究者は、それを術者の才能の差だと結論づけていた。
ソフィアは、その一文で手を止めた。
(本当に、そうでしょうか)
才能だけで、これほど大きな差が生まれるのだろうか。
光の強さ。
魔力を流す速さ。
術式の形。
傷の深さや、治療を受ける者の体質。
違いを生むものは、ほかにもあるように思えた。
ソフィアは本を開いたまま席を立ち、関連する書棚へ向かった。
一冊。
二冊。
三冊。
治癒魔法の実験記録を机へ重ね、頁を開く。
治癒の速い術者ほど、必要以上に魔力を流している場合が多い。反対に、少しずつ魔力を使う術者は消費を抑えられるが、治療に時間がかかっていた。
速ければよいわけではない。
遅ければよいわけでもない。
(傷の状態に合わせて、術式を分けた方がよいのでしょうか)
ソフィアは机の上へ紙を一枚置き、羽根ペンを取った。
簡単な覚え書きのつもりだった。
傷を一度に治すのではなく、止血、接合、修復と段階を分け、それぞれへ必要な量だけ魔力を流す。
けれど、術式を切り替えるたびに魔力が途切れてしまう。
ならば、複数の術式を一つの回路へつなぎ、傷の状態に応じて魔力の流れを分けられないだろうか。
ソフィアは新しい紙を出し、線を引いた。
その隣へ術式を書き、流れを矢印で示す。
途中で手が止まる。
(術者が一つずつ切り替えていては、間に合いません)
術式の内部で、流れる魔力量を調整する必要がある。
ソフィアは再び書棚へ向かった。
魔力制御について書かれた本。結界術の構造。浄化魔法で用いられる分岐回路。
関係のありそうなものを、次々と机へ運ぶ。
いつの間にか、何冊もの本が積み上がっていた。
司書が近づいてくる。
「お手伝いしましょうか」
「ありがとうございます」
ソフィアは顔を上げた。
「魔力の分岐について書かれた本は、ほかにありますか」
「でしたら、古い結界術の棚にございます」
「見せていただけますか」
「もちろんです」
案内された棚から、さらに二冊を借りた。
席へ戻り、頁を開く。
読む。
書く。
考える。
また読む。
最初に開いた魔法書は、いつの間にか机の端へ移っていた。
ソフィアは手のひらへ、小さな光を灯した。
図書館で大きな魔法を使うことはできない。出力を抑え、光を一本の細い流れへ変える。
そこから、二つへ分けた。
初めは、片方へばかり魔力が流れた。もう片方の光は、すぐに消えた。
「違いますね」
紙へ数字を書き込む。
分岐の位置を変え、もう一度光を灯す。
今度は、どちらも弱すぎた。
二つの光が震え、やがて消えた。
「では、ここではありません」
ソフィアは、少しだけ笑った。
失敗した。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
正しくない場所が一つ分かった。それなら、次は別の場所を試せばよい。
新しい紙を取り出す。
術式を書き直す。
魔力を流す順番を変える。
試す。
失敗する。
書き直す。
もう一度試す。
幼いころ、手のひらへ小さな光を灯す練習をした。
光はすぐに消えた。力を入れすぎれば揺れ、息を止めれば、やはり消えた。
それでも一度、二度、三度と、何度も繰り返した。
昨日できなかったことが、今日は少しだけできる。
そのことが、ソフィアは好きだった。
今も同じだった。
知らないものがある。
答えが分からない。
だから、知りたいと思う。
誰かに求められたわけではない。
教皇から命じられた研究でもない。
聖王大聖女として、世界へ成果を示すためでもなかった。
ただ、頁の中に残された疑問が気になった。
自分なら、もう少し違う答えを見つけられるかもしれないと思った。
そのことが、楽しかった。
何度目かの実験で、二つに分けた光が、ほとんど同じ強さのまま保たれた。
「あ」
ソフィアは手のひらを見つめた。
二つの光は、どちらも弱すぎず、必要以上に強くもない。
しばらく同じ明るさを保ったあと、ゆっくりと消えた。
ソフィアは、すぐに結果を書き留めた。
使用した魔力量。
維持できた時間。
術式の形。
前の実験との違い。
完全ではない。
治癒魔法として使えるかどうかも、まだ分からない。
それでも、一つの形が見え始めていた。
ソフィアは新しい紙を取り出した。
覚え書きではなく、研究として最初からまとめようと思った。
題名を書く。
『治癒魔法における段階式魔力制御について』
その下へ、研究の目的、既存の問題、仮説、実験方法、結果、考察と、一つずつ書き始める。
筆は、ほとんど止まらなかった。
昼を知らせる鐘が鳴った。
ソフィアは顔を上げなかった。
しばらくして、司書がそっと机へ近づいてきた。
「ソフィア様」
「はい」
「お昼のお時間ですが」
ソフィアは紙から目を離さずに答えた。
「あと少しです」
「お食事をお持ちしましょうか」
「ありがとうございます」
それから、どれほど時間が過ぎたのだろう。
机の端へ置かれた食事は、ほとんど手をつけられないまま冷めていた。
ソフィアは術式を書き、数字を確かめ、文章を直した。
あと少し。
もう少しだけ。
この考察まで。
この頁が終わるまで。
そう思うたび、次に書くべきことが見つかった。
ふと、紙の上の文字が見えにくくなった。
インクが薄いのかと思い、羽根ペンへつけ直す。
それでも、文字は暗かった。
ソフィアは顔を上げた。
窓の外には、夕焼けが広がっている。
図書館の中も、朝の白い光ではなく、茜色に染まっていた。
「……夕方」
朝、少し本を読むつもりで来た。
勉強なら、休暇を無駄にしないと思った。
それだけだった。
けれど、机の上には何十枚もの紙が広がっている。
書きかけの論文。
新しい術式。
実験の記録。
手をつけないまま冷めた食事。
ソフィアは、しばらくそれらを見つめた。
(また、仕事をしていました)
これは、誰かに命じられたものではない。
期限も、提出する相手もいない。
それでも治癒魔法の研究であり、いずれは教会や人々の役に立つものだった。
サンセリテが見れば、休暇中に何をしているのですかと言われるだろう。
叱られるかもしれない。
ソフィアは、書きかけの論文へ目を落とした。
後悔はなかった。
楽しかった。
そのことだけは、否定できなかった。
知らなかった答えへ近づき、失敗の理由を探し、一つの考えを形にすることが、ソフィアは本当に好きだった。
人を助けることも、学ぶことも、光魔法を研究することも、嫌いになったわけではなかった。
仕事は苦しかった。
朝から夜まで書類へ追われ、食事の味も分からなくなり、文字が読めなくなるまで働いた。
最後には、書類を受け取ろうとして倒れた。
それでも、仕事のすべてが苦しかったわけではない。
好きだったものが、いつから自分を苦しめるものへ変わったのか。
ソフィアには、まだよく分からなかった。
研究をしているあいだ、心は静かだった。
問題がある。
答えを探す。
間違えれば直す。
失敗すれば、別の方法を試す。
一つずつ進めればよかった。
仕事には、進むための道があった。
正しいか、間違っているか。
役に立つか、立たないか。
判断するための基準があった。
だから、何をすべきか迷わずに済んだ。
休日には、正解がなかった。
菓子店と市場。
劇場と公園。
どれを選んでもよく、何もしなくてもよかった。
好きなことをすればよいと言われた。
けれど、自分が今、何をしたいのか。
何もしない時間を、どのように過ごせばよいのか。
その答えを教えてくれる本はなかった。
仕事をしていれば、そのことを考えずに済んだ。
ソフィアは、机の上の紙を一枚ずつ集めた。
論文は、まだ完成していない。
続きを書きたいと思った。
明日、もう少しだけ調べたい。
実験も続けたい。
その気持ちは、義務ではなかった。
純粋な興味だった。
けれど、それだけではないような気もした。
何もすることがない部屋へ戻ること。
時計の音だけを聞くこと。
自分が何をしたいのかを、もう一度考えること。
その時間を、少しだけ避けたい気持ちもあった。
書きかけの論文は、図書館へ置いていくつもりだった。
けれど、気づけばソフィアは紙の束を胸へ抱えていた。
司書へ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「もうお戻りですか」
「はい」
司書は、ソフィアが抱えている紙を見た。
何か言いたそうな顔をしたが、最後には穏やかに笑った。
「どうか、無理はなさらないでください」
「大丈夫です」
いつものように答えた。
その言葉を口にしてから、ソフィアは立ち止まった。
本当に大丈夫なのか。
以前なら、考えなかった。
大丈夫でなければならないと思っていた。
けれど今は、自分でも分からないと思った。
「……気をつけます」
言い直す。
司書は、静かに頭を下げた。
部屋へ戻る。
机の上には、恋愛小説と、青い花のティーカップと、王都の観光案内が並んでいた。
髪には、白い花の飾りがある。
休暇のあいだに、自分で選んだものだった。
ソフィアは、その隣へ書きかけの論文を置いた。
休暇のものと、仕事のもの。
同じ机の上に並んだ。
どちらも、自分のものだった。
どちらか一つだけを選ばなければならないわけではないのかもしれない。
けれど今のソフィアには、その二つをどのように並べて生きればよいのかが分からなかった。
椅子へ腰を下ろし、書きかけの論文へ手を置く。
続きを書きたい。
今すぐ確かめたいこともある。
それと同時に、仕事へ戻れば安心できることも、少しだけ分かっていた。
仕事をしているあいだは、自分が何を望んでいるのかを考えずに済む。
聖女として役に立っていれば、それだけで自分のいる場所は決まっていた。
ソフィアは、論文の隣に置かれた青い花のカップを見つめた。
論文も、カップも、自分で選んだものだった。
けれど、どちらへ先に手を伸ばせばよいのかは、まだ分からなかった。
ソフィアはどちらにも触れないまま、しばらく机の前に座っていた。




