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休日  作者: Atelier Lotus文庫


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10/14

第10節 六日目

 六日目の朝、ソフィアは鐘が鳴るよりも少し前に目を覚ました。

 窓の外には、朝の淡い光が広がっている。

 身体を起こし、肩を動かす。腕を伸ばしてみても、休暇の初めに感じていた重さは、もうほとんど残っていなかった。

 眠気もない。

 頭の中も静かだった。

 ソフィアは寝台を降り、カーテンを開けた。

 晴れた空を、薄い雲がゆっくりと流れている。王都の家々には、少しずつ朝の光が降り始めていた。

 休暇は、今日を含めてあと二日だった。

 明日が終われば、また仕事へ戻る。

 以前なら、休暇が終わることに安心したかもしれない。

 何をすればよいのか。どのように一日を過ごせばよいのか。自分で考えなくてもよくなるから。

 けれど今は、少しだけ惜しいと思った。

 町を歩いた一日。

 本を読んだ一日。

 料理を作り、新しいカップで紅茶を飲んだ一日。

 仕事へ戻れば、同じような時間を持つことは、きっと難しくなる。

 ソフィアは窓辺を離れ、顔を洗った。

 髪をとかし、白い花の髪飾りをつける。

 鏡の中で、小さな花は今日も金色の髪へよく似合っているように見えた。

 誰かへ見せるためではない。

 自分が身につけたいと思った。

 そのことが、まだ少しだけうれしかった。

 机の前へ座り、青い花のティーカップへ茶葉を入れた。湯を注ぐと、紅茶の香りが静かな部屋へ広がっていく。

 机の上には、昨日持ち帰った紙の束が置かれていた。

 恋愛小説。

 王都の観光案内。

 青い花のティーカップ。

 そして、

『治癒魔法における段階式魔力制御について』

 と題した、書きかけの論文。

 休暇のあいだに自分で選んだものと、自分で始めた研究とが、同じ机の上へ並んでいた。

 ソフィアは紅茶を一口飲んだ。

 温かかった。

 今日は窓辺で、ゆっくり飲もうと思っていた。

 朝の景色を眺めながら、何も考えずに過ごしてみる。

 それだけの時間を持つつもりだった。

 けれど、何度も論文へ目が向いた。

 昨日書いた文章。

 治癒効率。

 魔力消費。

 術式の分岐。

 実験結果。

 書き終えた時には、ある程度まとまったと思っていた。けれど、一晩眠ってから見直すと、まだ直せるところがあるような気がした。

 ソフィアはカップを置いた。

(少しだけ、確認しましょう)

 一度、読み返すだけ。

 誤字がないか。数字を間違えていないか。それだけを確かめる。

 直すとしても、ほんの少しでよい。

 そう思いながら、論文を手に取った。

 最初の頁を開く。

 題名。

 研究の目的。

 過去の治癒魔法との違い。

 昨日、自分で書いた文章だった。

 意味は通じる。

 大きな間違いもない。

 けれど、一つの言葉で手が止まった。

『魔力の消費を減らす』

 間違いではない。

 それでも、

『魔力の不要な損失を抑える』

 と書いた方が正確かもしれなかった。

 消費そのものを減らすのではなく、必要な場所へだけ魔力を流し、余分に使わないようにする。

 ソフィアは羽根ペンを取った。

 文章を書き直し、次の行を読む。

 説明が少し長い。同じ意味の言葉が二度使われている。

 一つを消し、短くする。

 すると、術式を切り替える条件が分かりにくくなった。補足を加えると、今度は文章が長くなりすぎた。

「難しいですね」

 小さく呟く。

 研究の内容を考えることとは、少し違った。

 自分の中では分かっている。けれど、初めて読む人にも分かるように書かなければならない。

 知識のある者にしか理解できない文章では、各地の治療院で使うことはできない。

 若い神官にも。

 地方で一人、治療に当たる術者にも。

 誤解なく伝わるようにする必要があった。

(もう少し、分かりやすく)

 文章を直し、また読む。

 次の頁には、実験条件がまとめられていた。

 使用した魔力量。

 術式を維持した時間。

 光を分岐させた回数。

 昨日は十分に書いたつもりだった。

 けれど、一つずつ確かめると、条件の記し方が揃っていなかった。

 ある実験では時間を秒で表し、別の実験では呼吸の回数で記している。同じ基準へ直した方がよい。

 ソフィアは記録用紙を取り出し、数字を一つずつ照らし合わせた。

 計算する。

 もう一度、確かめる。

 小さな違いが見つかった。

 結果へ大きな影響はない。誤差の範囲に収まる程度だった。

 それでも、ソフィアは数字を書き直した。

(研究として残すなら、間違いがあってはいけません)

 誰かから提出を求められた論文ではない。

 期限もない。

 研究を始めたことさえ、まだ誰も知らなかった。

 それでも、いつか誰かが読むかもしれない。

 傷ついた人を治すために、この術式を使う者が現れるかもしれない。

 魔力の少ない術者が、長い治療を続けるために。

 その時、曖昧な表現が残っていれば、誤った使い方をされるかもしれない。

 分かりやすくなくてはならない。

 正確でなくてはならない。

 誤解を生んではいけない。

 もっと正確に。

 もっと簡潔に。

 もっと分かりやすく。

 その言葉が、少しずつソフィアの中へ増えていった。

 一枚を書き直し、初めから読み返す。

 直した箇所の前後が、不自然に見えた。文章を一つ移すと、次の頁も直す必要が生まれた。

 術式の図も見直した。

 昨日は、十分に分かりやすいと思っていた。

 けれど線が多く、魔力がどこから流れ、どこで分かれ、どの段階で治癒へ使われるのか、初めて見る者には迷う場所があるかもしれない。

 ソフィアは新しい紙を取り出した。

 定規を置き、一本の線を引く。そこから二本へ分け、注釈と魔力量を書き加えた。

 矢印を足そうとした時、まだ乾いていなかった線へ手が触れた。

「あ」

 黒い汚れが紙の端へ広がった。

 読めないほどではない。

 図の意味も分かる。

 けれど、ソフィアはその紙を机の端へ置き、新しい紙を取り出した。

 もう一度、初めから描き直す。

 今度は線が少し曲がった。

 それも、使えないほどではなかった。

 けれど、やはり机の端へ置いた。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 描き損じた紙が重なっていく。

 朝に淹れた紅茶は、すでに冷めていた。

 ソフィアは一度だけカップへ手を伸ばした。

 一口飲む。

 冷たくなっている。

 それでも、味を確かめる前に机へ戻した。

 昼を知らせる鐘が鳴った。

 ソフィアは顔を上げた。

 朝から、ずいぶん時間が過ぎていたらしい。

 食事を取ろうと思い、椅子から立ち上がりかける。

 けれど、書きかけの頁が目に入った。

(この頁だけ)

 ここまで終えれば、食事にしよう。

 文章を書き直し、最後まで読む。

 すると、その次の頁の表現が気になった。

 考察の部分だった。

 今の結果だけでは、実際の治療へ使えるとは断定できない。そのことは書いてある。

 けれど、どのような検証が必要なのか、もう少し具体的に記した方がよかった。

 傷の深さ。

 出血量。

 術者の魔力量。

 患者の体質や年齢。

 魔力への耐性。

 人間だけでなく、エルフやドワーフ、竜族では、治癒魔法の働き方が異なる可能性もある。

 ソフィアは、今後必要になる実験を書き加えた。

 研究の限界。

 実用化する前に確かめるべきこと。

 危険が生じた時、使用を中止する条件。

 より安全な術式へするための課題。

 書けば書くほど、足りないものが見えてきた。

 完成へ近づいているはずなのに、終わりは少しずつ遠ざかっていく。

 一つ直す。

 別の場所が気になる。

 そこを直すと、また新しい不足が見つかる。

 ふと、紙の上へ落ちていた光が赤くなっていることに気づいた。

 朝には白かった。

 昼には明るい金色だった。

 今は、窓から差し込む夕暮れが、紙を茜色に染めていた。

 ソフィアは羽根ペンを止め、顔を上げた。

 窓の外には、夕焼けが広がっている。

「……また」

 小さく声が漏れた。

 朝、少しだけ読み返すつもりだった。

 誤字と数字を確かめるだけ。

 それだけだった。

 けれど、一日は終わろうとしていた。

 机の上には、書き直した論文。

 描き直した術式。

 何枚もの使わなかった紙。

 冷めた紅茶。

 そして、取ることを忘れた昼食。

 昨日と、よく似た光景だった。

 昨日は研究を始めた。

 今日は、その研究を直した。

 二日続けて、休暇の中で仕事をしていた。

(また、仕事をしてしまいました)

 少しだけ、恥ずかしくなった。

 サンセリテからは、休むように言われている。

 一週間。

 仕事から離れるための時間だった。

 それなのに、少し本を読むつもりで図書館へ行き、気づけば論文を書き、翌日には朝から夕方まで推敲している。

 休むことが苦手なのだと、認めるしかなかった。

 けれど、書き直した論文へ目を落とすと、胸の奥に小さなよろこびがあった。

 昨日よりも、よくなっていた。

 文章は読みやすくなり、数字は揃い、術式の図も見やすくなった。

 研究として残せる形へ近づいている。

 そのことは、素直にうれしかった。

 ソフィアは論文を初めから読み返した。

 今度は直すためではなく、出来上がったものを確かめるために。

 まだ改良できそうな箇所はあった。

 それでも、

(今日は、ここまでにしましょう)

 そう思った。

 そう思うことにも、少しだけ努力が必要だった。

 論文は机へ置いておき、休暇が終わってから誰かへ見せてもよかった。

 明後日、仕事へ戻ったあと、正式な研究として提出すればよい。

 けれど、ソフィアは気になった。

 考え方に抜けがないか。

 研究として正しいのか。

 自分一人では、見落としている場所があるかもしれない。

 誰かに読んでもらいたかった。

 教皇サンセリテなら、内容を理解してくれる。

 良いところも、足りないところも、きちんと見てくれるだろう。

 ソフィアは論文を一枚ずつ揃えた。

 頁の順番を確かめ、紐で綴じる。

 表紙へ、もう一度題名を書いた。

『治癒魔法における段階式魔力制御について』

 紙の束を胸へ抱え、部屋を出た。

 廊下には、夕方の光が差し込んでいた。

 すれ違う神官たちは、初めにソフィアを見て、次に胸へ抱えられた論文を見た。

「ソフィア様」

「お身体は、もうよろしいのですか」

「はい」

 ソフィアは笑った。

「ずいぶんとよくなりました」

「それは何よりです」

 神官は、もう一度論文へ視線を向けた。

 何かを尋ねたそうな顔をしたが、そのまま頭を下げて去っていった。

 おそらく、休暇中ではなかったのかと思っている。

 ソフィア自身も、同じことを思っていた。

 サンセリテの執務室へ向かう。

 扉の前へ着くと、少しだけ緊張した。

 研究の内容についてではない。

 休暇中に論文を持ってきたことを、どう説明すればよいのか。

 そちらの方が難しかった。

 扉を叩く。

「どうぞ」

 中から声が返ってくる。

 ソフィアは扉を開けた。

「失礼いたします」

 サンセリテは机へ向かい、何冊もの書類に囲まれながら羽根ペンを動かしていた。

 ソフィアの姿に気づき、顔を上げる。

 初めにソフィアを見た。

 次に、その胸へ抱えられた紙の束を見る。

 サンセリテの目が、わずかに細くなった。

「休暇中だったはずですが」

「はい」

 ソフィアは、少しだけ視線を逸らした。

「そのはずです」

「そのはず」

 同じ言葉を返され、ますます恥ずかしくなる。

「昨日、少しだけ本を読むつもりで、図書館へ行きました」

「それで?」

「治癒魔法について、気になる記述を見つけまして」

「少しだけ?」

「はい」

「その結果が、それですか」

 サンセリテは論文へ目を向けた。

 ソフィアは、小さく頷いた。

「気づけば、研究になっていました」

 しばらく、部屋が静かになった。

 サンセリテが怒っているのか、ソフィアには分からなかった。

 ただ、少し困っているようには見えた。

「拝見しても?」

「もちろんです」

 ソフィアは論文を差し出した。

 サンセリテはそれを受け取り、表紙を見たあと、最初の頁を開いた。

 研究の目的。

 過去の術式。

 実験条件。

 結果。

 図。

 考察。

 一頁ずつ、ゆっくりと読んでいく。

 部屋には、紙をめくる音だけが響いていた。

 ソフィアは勧められた椅子へ座り、両手を膝の上へ重ねた。

 命じられた研究ではない。

 提出する必要もない。

 評価を求められているわけでもなかった。

 それでも、読んでもらっているあいだ、胸が少し落ち着かなかった。

 正しいだろうか。

 間違いはないだろうか。

 自分には分かりやすくても、ほかの人には伝わらないのではないか。

 何度も推敲した。

 それでも、足りないところがあるかもしれない。

 サンセリテの表情を確かめようとしたが、その目は論文へ向けられたままだった。

 やがて最後の頁を読み終える。

 サンセリテは論文を閉じ、机の上へ置いた。

 そして、ソフィアを見た。

「よい研究です」

 その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの表情が少しだけ明るくなった。

「本当ですか?」

「ええ」

 サンセリテは、もう一度表紙へ手を置いた。

「治癒の工程を分け、必要な箇所へだけ魔力を流す。この術式を実用化できれば、治癒魔法を使う者の負担を大きく減らせるでしょう」

「魔力の少ない術者にも、長い治療を続けられる可能性があります」

「はい」

 ソフィアは、思わず身を乗り出しかけた。

「ですが、まだ実験が足りません。人へ使う前に、安全性も確かめる必要があります。種族による差も」

「それも、きちんと書かれています」

 サンセリテは微笑んだ。

「結果だけではなく、今の研究ではまだ分からないこと、できないこと、危険のある場所まで記している」

 一度、言葉を止める。

「あなたらしい論文です」

 ソフィアは、素直にうれしくなった。

「ありがとうございます」

 幼いころ、手のひらの光を、前の日より少し長く保つことができた。

 神父が、よく頑張りましたねと褒めてくれた。

 あの時とよく似た、小さなよろこびが胸へ生まれた。

 頑張ったものを、誰かに見てもらう。

 自分が考えたことを、理解してもらう。

 よいものだと言ってもらう。

 やはり、うれしかった。

 サンセリテは、論文を机の上へ置いた。

「ところで」

 先ほどまでとは、少し違う声だった。

 ソフィアは背すじを伸ばした。

「はい」

「この論文は、いつ書いたのですか」

 すぐには答えられなかった。

 視線を、少しだけ横へ逸らす。

「昨日です」

「昨日」

「はい」

「推敲は?」

「今日です」

 部屋が静かになった。

 サンセリテは何も言わない。

 ソフィアは膝の上で指をわずかに動かした。

 叱られる前の子どものような気持ちだった。

 幼いころ、夜遅くまで魔法の練習を続け、翌朝寝坊したことがある。

 あの時も、神父の前で同じように視線を逸らした気がした。

 やがて、サンセリテは小さく息をついた。

 怒っているというより、やはり困っているようだった。

「ソフィア」

 肩書きではなく、名前で呼ばれる。

 ソフィアは顔を上げた。

「休むのも仕事です」

「ですが」

「休暇中に二日かけて論文を書くことを、休んでいるとは言いません」

「楽しかったのです」

 ソフィアは、少し急いで言った。

 言い訳のように聞こえたかもしれない。

 自分でも、そう思った。

 けれど、それは本当だった。

「研究そのものは、とても楽しかったのです。誰かに命じられたわけではありません。私が気になって、知りたいと思って、それで始めました」

 サンセリテは静かに頷いた。

「それは分かっています」

「では、好きな仕事なら」

 サンセリテは、ソフィアをまっすぐに見た。

「倒れるまで続けてもよいのですか」

 ソフィアは答えられなかった。

 倒れるまで。

 今回は倒れてはいない。

 身体も軽い。

 頭も働いている。

 けれど、昼食を忘れた。

 紅茶が冷めたことにも、しばらく気づかなかった。

 朝から夕方まで、一度も自分の身体へ意識を向けていなかった。

 サンセリテは、責めるようには言わなかった。

「好きなことでも、休まずに続ければ疲れます。食事を忘れ、眠ることを忘れ、身体の声を聞かなくなる」

 ソフィアは、膝の上で両手を重ねた。

「あなたが倒れたのは、嫌いなことだけをしていたからではありません」

 その言葉が、胸へ残った。

 人を助けることも、研究することも、学ぶことも、どれも好きだった。

 だからこそ、止めることができなかった。

 楽しいから。

 必要だから。

 誰かの役に立つから。

 いくらでも続けられると思った。

 身体が動かなくなるまで。

「休むのも仕事です」

 サンセリテは、もう一度言った。

「あなたがこれからも、好きな仕事を好きでいるために必要な仕事です」

 ソフィアは、その言葉を心の中で繰り返した。

 好きな仕事を、好きでいるために休む。

 今まで、休むことは仕事をしないことだと思っていた。

 何も生まない時間。

 何も進まない時間。

 誰の役にも立たない時間。

 けれど、休むことがなければ、好きだったものまで、いつか嫌いになってしまうのかもしれない。

「……申し訳ありません」

 小さく頭を下げる。

「謝る必要はありません」

 サンセリテは、やわらかく笑った。

「研究は、本当にすばらしいものです」

「ありがとうございます」

「ただし」

 サンセリテは言葉を区切った。

「明日は、この論文へ触れてはいけません」

 ソフィアは目を丸くした。

「一頁も?」

「一頁もです」

「ですが、検証方法について何か思いついた場合は」

「忘れてください」

「忘れられない場合は、どうすればよいのでしょう」

 サンセリテは、少し考えた。

「一行だけ書き留めなさい」

「一行」

「それ以上は考えないことです」

 ソフィアは論文を見た。

 一行だけ書き、その先を考えない。

 思いついたことを、途中で止める。

 研究を始めることよりも難しいように思えた。

「……難しそうですね」

「努力してください」

 ソフィアは、少し恥ずかしそうに笑った。

 自分では、少し本を読むだけのつもりだった。

 それが気づけば論文になり、翌日には推敲し、こうして教皇の執務室まで持ってきている。

 また仕事へ戻っていた。

 休暇を取ることさえ、最後まで上手にはできなかった。

 けれど以前なら、そのことに気づかなかったかもしれない。

 仕事をしていることを、当たり前だと思っていた。

 今は、仕事へ戻ってしまった自分を、少し可笑しいと思うことができた。

「最後の一日くらい」

 サンセリテは言った。

「聖王大聖女ではなく、一人の女の子として遊んできなさい」

 ソフィアは顔を上げた。

 一人の女の子。

 二十三歳の自分へ使うには、少し幼い言葉のように思えた。

 けれど、嫌ではなかった。

 聖王大聖女でも、世界の希望でも、二人の再来でもない。

 一人の女の子。

 そう呼ばれることが、少しくすぐったかった。

「はい」

 ソフィアは、いつもより少し明るい声で返事をした。

 サンセリテは満足そうに頷いた。

「よい返事です。明日は、仕事をしてはいけませんよ」

「はい」

「図書館も」

「……はい」

「研究室も」

「はい」

「執務室へ顔を出すことも禁止です」

 ソフィアは、少しだけ困った顔をした。

「本当に、何もしてはいけないのですね」

「遊ぶことは、しても構いません」

「分かりました」

 もう一度、頭を下げる。

 論文は、サンセリテの机へ置いていくことになった。

 持ち帰れば続きを書いてしまうと思われたのだろう。

 自分でも、その可能性はあると思った。

「では、失礼いたします」

 執務室を出る。

 扉を閉めると、廊下には夕暮れの光が差し込んでいた。赤い光が、白い床へ長く伸びている。

 ソフィアは、ゆっくりと歩き始めた。

 明日は、休暇の最後の日。

 何をしよう。

 町へ出ようか。

 菓子店へ行こうか。

 市場を歩こうか。

 新しい劇を観ようか。

 公園へ恋愛小説を持っていき、木陰で読むのもよいかもしれない。

 いくつかの考えが浮かんだ。

 以前よりも少しだけ自然に、自分がしてみたいことを思い浮かべられるようになっていた。

 けれど、廊下の途中でソフィアは足を止めた。

『最後の一日くらい、一人の女の子として遊んできなさい』

 サンセリテに、そう言われた。

 だから、明日は遊ぶ。

 遊ぶように言われたから。

 そう考えた瞬間、胸の中へ小さな違和感が生まれた。

 休みなさいと言われ、休暇を与えられた。

 眠ることを許され、最後には遊ぶことまで勧められた。

 自分は、誰かに言われなければ、自分のための一日を過ごすこともできないのだろうか。

 仕事なら、誰に言われなくてもできる。

 何時間でも続けられる。

 もっと正確に。

 もっとよいものへ。

 そう考え続けることができる。

 けれど、遊ぶこと。

 休むこと。

 自分を喜ばせること。

 そのようなことは、誰かに許されなければ始められなかった。

 ソフィアは、廊下の窓へ近づいた。

 外には、夕暮れの王都が広がっている。

 町の灯りが、一つずつつき始めていた。

 仕事を終えた人々が家へ帰っていく。

 明日の予定を話しながら歩く若い女性たちがいる。

 市場の袋を抱えた家族がいる。

 誰も、遊ぶように命じられてはいないのだろう。

 自分で明日をどう過ごすのか、決めている。

 遊ぶことまで誰かに決めてもらわなければできない。

 そのことが、少し可笑しかった。

 そして、少しだけ寂しかった。

 けれど、ソフィアは窓の外を眺めながら考えた。

 明日は、サンセリテに言われたからではなく、自分がしたいことをしてみよう。

 何をするのかは、まだ決めなくてもよい。

 正しい一日を選ぶ必要もない。

 朝、目を覚ました時、その時の自分へ尋ねてみよう。

(今日は、何をしたいのですか)

 答えがすぐに見つからなくてもよかった。

 誰かの言葉を借りずに、自分で一日を選んでみようと思った。

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