第10節 六日目
六日目の朝、ソフィアは鐘が鳴るよりも少し前に目を覚ました。
窓の外には、朝の淡い光が広がっている。
身体を起こし、肩を動かす。腕を伸ばしてみても、休暇の初めに感じていた重さは、もうほとんど残っていなかった。
眠気もない。
頭の中も静かだった。
ソフィアは寝台を降り、カーテンを開けた。
晴れた空を、薄い雲がゆっくりと流れている。王都の家々には、少しずつ朝の光が降り始めていた。
休暇は、今日を含めてあと二日だった。
明日が終われば、また仕事へ戻る。
以前なら、休暇が終わることに安心したかもしれない。
何をすればよいのか。どのように一日を過ごせばよいのか。自分で考えなくてもよくなるから。
けれど今は、少しだけ惜しいと思った。
町を歩いた一日。
本を読んだ一日。
料理を作り、新しいカップで紅茶を飲んだ一日。
仕事へ戻れば、同じような時間を持つことは、きっと難しくなる。
ソフィアは窓辺を離れ、顔を洗った。
髪をとかし、白い花の髪飾りをつける。
鏡の中で、小さな花は今日も金色の髪へよく似合っているように見えた。
誰かへ見せるためではない。
自分が身につけたいと思った。
そのことが、まだ少しだけうれしかった。
机の前へ座り、青い花のティーカップへ茶葉を入れた。湯を注ぐと、紅茶の香りが静かな部屋へ広がっていく。
机の上には、昨日持ち帰った紙の束が置かれていた。
恋愛小説。
王都の観光案内。
青い花のティーカップ。
そして、
『治癒魔法における段階式魔力制御について』
と題した、書きかけの論文。
休暇のあいだに自分で選んだものと、自分で始めた研究とが、同じ机の上へ並んでいた。
ソフィアは紅茶を一口飲んだ。
温かかった。
今日は窓辺で、ゆっくり飲もうと思っていた。
朝の景色を眺めながら、何も考えずに過ごしてみる。
それだけの時間を持つつもりだった。
けれど、何度も論文へ目が向いた。
昨日書いた文章。
治癒効率。
魔力消費。
術式の分岐。
実験結果。
書き終えた時には、ある程度まとまったと思っていた。けれど、一晩眠ってから見直すと、まだ直せるところがあるような気がした。
ソフィアはカップを置いた。
(少しだけ、確認しましょう)
一度、読み返すだけ。
誤字がないか。数字を間違えていないか。それだけを確かめる。
直すとしても、ほんの少しでよい。
そう思いながら、論文を手に取った。
最初の頁を開く。
題名。
研究の目的。
過去の治癒魔法との違い。
昨日、自分で書いた文章だった。
意味は通じる。
大きな間違いもない。
けれど、一つの言葉で手が止まった。
『魔力の消費を減らす』
間違いではない。
それでも、
『魔力の不要な損失を抑える』
と書いた方が正確かもしれなかった。
消費そのものを減らすのではなく、必要な場所へだけ魔力を流し、余分に使わないようにする。
ソフィアは羽根ペンを取った。
文章を書き直し、次の行を読む。
説明が少し長い。同じ意味の言葉が二度使われている。
一つを消し、短くする。
すると、術式を切り替える条件が分かりにくくなった。補足を加えると、今度は文章が長くなりすぎた。
「難しいですね」
小さく呟く。
研究の内容を考えることとは、少し違った。
自分の中では分かっている。けれど、初めて読む人にも分かるように書かなければならない。
知識のある者にしか理解できない文章では、各地の治療院で使うことはできない。
若い神官にも。
地方で一人、治療に当たる術者にも。
誤解なく伝わるようにする必要があった。
(もう少し、分かりやすく)
文章を直し、また読む。
次の頁には、実験条件がまとめられていた。
使用した魔力量。
術式を維持した時間。
光を分岐させた回数。
昨日は十分に書いたつもりだった。
けれど、一つずつ確かめると、条件の記し方が揃っていなかった。
ある実験では時間を秒で表し、別の実験では呼吸の回数で記している。同じ基準へ直した方がよい。
ソフィアは記録用紙を取り出し、数字を一つずつ照らし合わせた。
計算する。
もう一度、確かめる。
小さな違いが見つかった。
結果へ大きな影響はない。誤差の範囲に収まる程度だった。
それでも、ソフィアは数字を書き直した。
(研究として残すなら、間違いがあってはいけません)
誰かから提出を求められた論文ではない。
期限もない。
研究を始めたことさえ、まだ誰も知らなかった。
それでも、いつか誰かが読むかもしれない。
傷ついた人を治すために、この術式を使う者が現れるかもしれない。
魔力の少ない術者が、長い治療を続けるために。
その時、曖昧な表現が残っていれば、誤った使い方をされるかもしれない。
分かりやすくなくてはならない。
正確でなくてはならない。
誤解を生んではいけない。
もっと正確に。
もっと簡潔に。
もっと分かりやすく。
その言葉が、少しずつソフィアの中へ増えていった。
一枚を書き直し、初めから読み返す。
直した箇所の前後が、不自然に見えた。文章を一つ移すと、次の頁も直す必要が生まれた。
術式の図も見直した。
昨日は、十分に分かりやすいと思っていた。
けれど線が多く、魔力がどこから流れ、どこで分かれ、どの段階で治癒へ使われるのか、初めて見る者には迷う場所があるかもしれない。
ソフィアは新しい紙を取り出した。
定規を置き、一本の線を引く。そこから二本へ分け、注釈と魔力量を書き加えた。
矢印を足そうとした時、まだ乾いていなかった線へ手が触れた。
「あ」
黒い汚れが紙の端へ広がった。
読めないほどではない。
図の意味も分かる。
けれど、ソフィアはその紙を机の端へ置き、新しい紙を取り出した。
もう一度、初めから描き直す。
今度は線が少し曲がった。
それも、使えないほどではなかった。
けれど、やはり机の端へ置いた。
一枚。
二枚。
三枚。
描き損じた紙が重なっていく。
朝に淹れた紅茶は、すでに冷めていた。
ソフィアは一度だけカップへ手を伸ばした。
一口飲む。
冷たくなっている。
それでも、味を確かめる前に机へ戻した。
昼を知らせる鐘が鳴った。
ソフィアは顔を上げた。
朝から、ずいぶん時間が過ぎていたらしい。
食事を取ろうと思い、椅子から立ち上がりかける。
けれど、書きかけの頁が目に入った。
(この頁だけ)
ここまで終えれば、食事にしよう。
文章を書き直し、最後まで読む。
すると、その次の頁の表現が気になった。
考察の部分だった。
今の結果だけでは、実際の治療へ使えるとは断定できない。そのことは書いてある。
けれど、どのような検証が必要なのか、もう少し具体的に記した方がよかった。
傷の深さ。
出血量。
術者の魔力量。
患者の体質や年齢。
魔力への耐性。
人間だけでなく、エルフやドワーフ、竜族では、治癒魔法の働き方が異なる可能性もある。
ソフィアは、今後必要になる実験を書き加えた。
研究の限界。
実用化する前に確かめるべきこと。
危険が生じた時、使用を中止する条件。
より安全な術式へするための課題。
書けば書くほど、足りないものが見えてきた。
完成へ近づいているはずなのに、終わりは少しずつ遠ざかっていく。
一つ直す。
別の場所が気になる。
そこを直すと、また新しい不足が見つかる。
ふと、紙の上へ落ちていた光が赤くなっていることに気づいた。
朝には白かった。
昼には明るい金色だった。
今は、窓から差し込む夕暮れが、紙を茜色に染めていた。
ソフィアは羽根ペンを止め、顔を上げた。
窓の外には、夕焼けが広がっている。
「……また」
小さく声が漏れた。
朝、少しだけ読み返すつもりだった。
誤字と数字を確かめるだけ。
それだけだった。
けれど、一日は終わろうとしていた。
机の上には、書き直した論文。
描き直した術式。
何枚もの使わなかった紙。
冷めた紅茶。
そして、取ることを忘れた昼食。
昨日と、よく似た光景だった。
昨日は研究を始めた。
今日は、その研究を直した。
二日続けて、休暇の中で仕事をしていた。
(また、仕事をしてしまいました)
少しだけ、恥ずかしくなった。
サンセリテからは、休むように言われている。
一週間。
仕事から離れるための時間だった。
それなのに、少し本を読むつもりで図書館へ行き、気づけば論文を書き、翌日には朝から夕方まで推敲している。
休むことが苦手なのだと、認めるしかなかった。
けれど、書き直した論文へ目を落とすと、胸の奥に小さなよろこびがあった。
昨日よりも、よくなっていた。
文章は読みやすくなり、数字は揃い、術式の図も見やすくなった。
研究として残せる形へ近づいている。
そのことは、素直にうれしかった。
ソフィアは論文を初めから読み返した。
今度は直すためではなく、出来上がったものを確かめるために。
まだ改良できそうな箇所はあった。
それでも、
(今日は、ここまでにしましょう)
そう思った。
そう思うことにも、少しだけ努力が必要だった。
論文は机へ置いておき、休暇が終わってから誰かへ見せてもよかった。
明後日、仕事へ戻ったあと、正式な研究として提出すればよい。
けれど、ソフィアは気になった。
考え方に抜けがないか。
研究として正しいのか。
自分一人では、見落としている場所があるかもしれない。
誰かに読んでもらいたかった。
教皇サンセリテなら、内容を理解してくれる。
良いところも、足りないところも、きちんと見てくれるだろう。
ソフィアは論文を一枚ずつ揃えた。
頁の順番を確かめ、紐で綴じる。
表紙へ、もう一度題名を書いた。
『治癒魔法における段階式魔力制御について』
紙の束を胸へ抱え、部屋を出た。
廊下には、夕方の光が差し込んでいた。
すれ違う神官たちは、初めにソフィアを見て、次に胸へ抱えられた論文を見た。
「ソフィア様」
「お身体は、もうよろしいのですか」
「はい」
ソフィアは笑った。
「ずいぶんとよくなりました」
「それは何よりです」
神官は、もう一度論文へ視線を向けた。
何かを尋ねたそうな顔をしたが、そのまま頭を下げて去っていった。
おそらく、休暇中ではなかったのかと思っている。
ソフィア自身も、同じことを思っていた。
サンセリテの執務室へ向かう。
扉の前へ着くと、少しだけ緊張した。
研究の内容についてではない。
休暇中に論文を持ってきたことを、どう説明すればよいのか。
そちらの方が難しかった。
扉を叩く。
「どうぞ」
中から声が返ってくる。
ソフィアは扉を開けた。
「失礼いたします」
サンセリテは机へ向かい、何冊もの書類に囲まれながら羽根ペンを動かしていた。
ソフィアの姿に気づき、顔を上げる。
初めにソフィアを見た。
次に、その胸へ抱えられた紙の束を見る。
サンセリテの目が、わずかに細くなった。
「休暇中だったはずですが」
「はい」
ソフィアは、少しだけ視線を逸らした。
「そのはずです」
「そのはず」
同じ言葉を返され、ますます恥ずかしくなる。
「昨日、少しだけ本を読むつもりで、図書館へ行きました」
「それで?」
「治癒魔法について、気になる記述を見つけまして」
「少しだけ?」
「はい」
「その結果が、それですか」
サンセリテは論文へ目を向けた。
ソフィアは、小さく頷いた。
「気づけば、研究になっていました」
しばらく、部屋が静かになった。
サンセリテが怒っているのか、ソフィアには分からなかった。
ただ、少し困っているようには見えた。
「拝見しても?」
「もちろんです」
ソフィアは論文を差し出した。
サンセリテはそれを受け取り、表紙を見たあと、最初の頁を開いた。
研究の目的。
過去の術式。
実験条件。
結果。
図。
考察。
一頁ずつ、ゆっくりと読んでいく。
部屋には、紙をめくる音だけが響いていた。
ソフィアは勧められた椅子へ座り、両手を膝の上へ重ねた。
命じられた研究ではない。
提出する必要もない。
評価を求められているわけでもなかった。
それでも、読んでもらっているあいだ、胸が少し落ち着かなかった。
正しいだろうか。
間違いはないだろうか。
自分には分かりやすくても、ほかの人には伝わらないのではないか。
何度も推敲した。
それでも、足りないところがあるかもしれない。
サンセリテの表情を確かめようとしたが、その目は論文へ向けられたままだった。
やがて最後の頁を読み終える。
サンセリテは論文を閉じ、机の上へ置いた。
そして、ソフィアを見た。
「よい研究です」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの表情が少しだけ明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ」
サンセリテは、もう一度表紙へ手を置いた。
「治癒の工程を分け、必要な箇所へだけ魔力を流す。この術式を実用化できれば、治癒魔法を使う者の負担を大きく減らせるでしょう」
「魔力の少ない術者にも、長い治療を続けられる可能性があります」
「はい」
ソフィアは、思わず身を乗り出しかけた。
「ですが、まだ実験が足りません。人へ使う前に、安全性も確かめる必要があります。種族による差も」
「それも、きちんと書かれています」
サンセリテは微笑んだ。
「結果だけではなく、今の研究ではまだ分からないこと、できないこと、危険のある場所まで記している」
一度、言葉を止める。
「あなたらしい論文です」
ソフィアは、素直にうれしくなった。
「ありがとうございます」
幼いころ、手のひらの光を、前の日より少し長く保つことができた。
神父が、よく頑張りましたねと褒めてくれた。
あの時とよく似た、小さなよろこびが胸へ生まれた。
頑張ったものを、誰かに見てもらう。
自分が考えたことを、理解してもらう。
よいものだと言ってもらう。
やはり、うれしかった。
サンセリテは、論文を机の上へ置いた。
「ところで」
先ほどまでとは、少し違う声だった。
ソフィアは背すじを伸ばした。
「はい」
「この論文は、いつ書いたのですか」
すぐには答えられなかった。
視線を、少しだけ横へ逸らす。
「昨日です」
「昨日」
「はい」
「推敲は?」
「今日です」
部屋が静かになった。
サンセリテは何も言わない。
ソフィアは膝の上で指をわずかに動かした。
叱られる前の子どものような気持ちだった。
幼いころ、夜遅くまで魔法の練習を続け、翌朝寝坊したことがある。
あの時も、神父の前で同じように視線を逸らした気がした。
やがて、サンセリテは小さく息をついた。
怒っているというより、やはり困っているようだった。
「ソフィア」
肩書きではなく、名前で呼ばれる。
ソフィアは顔を上げた。
「休むのも仕事です」
「ですが」
「休暇中に二日かけて論文を書くことを、休んでいるとは言いません」
「楽しかったのです」
ソフィアは、少し急いで言った。
言い訳のように聞こえたかもしれない。
自分でも、そう思った。
けれど、それは本当だった。
「研究そのものは、とても楽しかったのです。誰かに命じられたわけではありません。私が気になって、知りたいと思って、それで始めました」
サンセリテは静かに頷いた。
「それは分かっています」
「では、好きな仕事なら」
サンセリテは、ソフィアをまっすぐに見た。
「倒れるまで続けてもよいのですか」
ソフィアは答えられなかった。
倒れるまで。
今回は倒れてはいない。
身体も軽い。
頭も働いている。
けれど、昼食を忘れた。
紅茶が冷めたことにも、しばらく気づかなかった。
朝から夕方まで、一度も自分の身体へ意識を向けていなかった。
サンセリテは、責めるようには言わなかった。
「好きなことでも、休まずに続ければ疲れます。食事を忘れ、眠ることを忘れ、身体の声を聞かなくなる」
ソフィアは、膝の上で両手を重ねた。
「あなたが倒れたのは、嫌いなことだけをしていたからではありません」
その言葉が、胸へ残った。
人を助けることも、研究することも、学ぶことも、どれも好きだった。
だからこそ、止めることができなかった。
楽しいから。
必要だから。
誰かの役に立つから。
いくらでも続けられると思った。
身体が動かなくなるまで。
「休むのも仕事です」
サンセリテは、もう一度言った。
「あなたがこれからも、好きな仕事を好きでいるために必要な仕事です」
ソフィアは、その言葉を心の中で繰り返した。
好きな仕事を、好きでいるために休む。
今まで、休むことは仕事をしないことだと思っていた。
何も生まない時間。
何も進まない時間。
誰の役にも立たない時間。
けれど、休むことがなければ、好きだったものまで、いつか嫌いになってしまうのかもしれない。
「……申し訳ありません」
小さく頭を下げる。
「謝る必要はありません」
サンセリテは、やわらかく笑った。
「研究は、本当にすばらしいものです」
「ありがとうございます」
「ただし」
サンセリテは言葉を区切った。
「明日は、この論文へ触れてはいけません」
ソフィアは目を丸くした。
「一頁も?」
「一頁もです」
「ですが、検証方法について何か思いついた場合は」
「忘れてください」
「忘れられない場合は、どうすればよいのでしょう」
サンセリテは、少し考えた。
「一行だけ書き留めなさい」
「一行」
「それ以上は考えないことです」
ソフィアは論文を見た。
一行だけ書き、その先を考えない。
思いついたことを、途中で止める。
研究を始めることよりも難しいように思えた。
「……難しそうですね」
「努力してください」
ソフィアは、少し恥ずかしそうに笑った。
自分では、少し本を読むだけのつもりだった。
それが気づけば論文になり、翌日には推敲し、こうして教皇の執務室まで持ってきている。
また仕事へ戻っていた。
休暇を取ることさえ、最後まで上手にはできなかった。
けれど以前なら、そのことに気づかなかったかもしれない。
仕事をしていることを、当たり前だと思っていた。
今は、仕事へ戻ってしまった自分を、少し可笑しいと思うことができた。
「最後の一日くらい」
サンセリテは言った。
「聖王大聖女ではなく、一人の女の子として遊んできなさい」
ソフィアは顔を上げた。
一人の女の子。
二十三歳の自分へ使うには、少し幼い言葉のように思えた。
けれど、嫌ではなかった。
聖王大聖女でも、世界の希望でも、二人の再来でもない。
一人の女の子。
そう呼ばれることが、少しくすぐったかった。
「はい」
ソフィアは、いつもより少し明るい声で返事をした。
サンセリテは満足そうに頷いた。
「よい返事です。明日は、仕事をしてはいけませんよ」
「はい」
「図書館も」
「……はい」
「研究室も」
「はい」
「執務室へ顔を出すことも禁止です」
ソフィアは、少しだけ困った顔をした。
「本当に、何もしてはいけないのですね」
「遊ぶことは、しても構いません」
「分かりました」
もう一度、頭を下げる。
論文は、サンセリテの机へ置いていくことになった。
持ち帰れば続きを書いてしまうと思われたのだろう。
自分でも、その可能性はあると思った。
「では、失礼いたします」
執務室を出る。
扉を閉めると、廊下には夕暮れの光が差し込んでいた。赤い光が、白い床へ長く伸びている。
ソフィアは、ゆっくりと歩き始めた。
明日は、休暇の最後の日。
何をしよう。
町へ出ようか。
菓子店へ行こうか。
市場を歩こうか。
新しい劇を観ようか。
公園へ恋愛小説を持っていき、木陰で読むのもよいかもしれない。
いくつかの考えが浮かんだ。
以前よりも少しだけ自然に、自分がしてみたいことを思い浮かべられるようになっていた。
けれど、廊下の途中でソフィアは足を止めた。
『最後の一日くらい、一人の女の子として遊んできなさい』
サンセリテに、そう言われた。
だから、明日は遊ぶ。
遊ぶように言われたから。
そう考えた瞬間、胸の中へ小さな違和感が生まれた。
休みなさいと言われ、休暇を与えられた。
眠ることを許され、最後には遊ぶことまで勧められた。
自分は、誰かに言われなければ、自分のための一日を過ごすこともできないのだろうか。
仕事なら、誰に言われなくてもできる。
何時間でも続けられる。
もっと正確に。
もっとよいものへ。
そう考え続けることができる。
けれど、遊ぶこと。
休むこと。
自分を喜ばせること。
そのようなことは、誰かに許されなければ始められなかった。
ソフィアは、廊下の窓へ近づいた。
外には、夕暮れの王都が広がっている。
町の灯りが、一つずつつき始めていた。
仕事を終えた人々が家へ帰っていく。
明日の予定を話しながら歩く若い女性たちがいる。
市場の袋を抱えた家族がいる。
誰も、遊ぶように命じられてはいないのだろう。
自分で明日をどう過ごすのか、決めている。
遊ぶことまで誰かに決めてもらわなければできない。
そのことが、少し可笑しかった。
そして、少しだけ寂しかった。
けれど、ソフィアは窓の外を眺めながら考えた。
明日は、サンセリテに言われたからではなく、自分がしたいことをしてみよう。
何をするのかは、まだ決めなくてもよい。
正しい一日を選ぶ必要もない。
朝、目を覚ました時、その時の自分へ尋ねてみよう。
(今日は、何をしたいのですか)
答えがすぐに見つからなくてもよかった。
誰かの言葉を借りずに、自分で一日を選んでみようと思った。




