第11節 七日目
七日目の朝、ソフィアは鐘が鳴る少し前に目を覚ました。
窓の外には、まだ淡い朝の光が広がっている。
休暇の最後の日だった。
寝台の上で身体を起こす。
肩は軽く、頭の奥にも、以前のような重さはなかった。
青い花のティーカップ。
白い花の髪飾り。
読みかけの恋愛小説。
少し焦げた料理の味。
そして、サンセリテの机へ置いてきた論文。
一週間のあいだに増えたものは、どれも休暇へ入る前の部屋にはなかった。
初めの二日間は、目を覚ましても、もう一度眠ってしまった。次に目を開けると、一日のほとんどが終わっていた。
何もできなかったように思えた。
けれど、眠るたびに身体は少しずつ軽くなった。
町を歩き、菓子を食べ、本を読み、料理をした。
誰の役にも立たない一日が、なくしたくない一日になった。
そのあとには、また研究へ戻ってしまった。
休むことは、最後まで上手にはできなかった。
それでも、仕事へ戻ってしまったことに、自分で気づくことはできた。
明日から仕事へ戻れば、また忙しい毎日が始まる。
書類は積まれ、会議は続き、助けを求める声も届くだろう。
何もかも忘れて働いてしまう日も、きっとある。
その時、青い花のティーカップを思い出すことができるだろうか。
少し焦げた料理の味を。
物語を読んで流した涙を。
自分のために過ごした一日を。
ソフィアは寝台を降り、カーテンを開けた。
朝の光が、部屋の中へ静かに流れ込んでくる。王都の屋根が、少しずつ明るくなっていった。
「今日で、最後なのですね」
小さく呟いた。
一週間は、始まった時にはとても長く思えた。
七日も仕事をしない。
そんなことが本当にできるのか、不安だった。
けれど終わってみれば、あまりにも短かった。
もう一日あれば、と考えた。
何もしない日を、もう一度過ごしてもよい。
町を歩いてもよい。
恋愛小説を持って、公園の木陰で読んでもよい。
そんなことを考えている自分が、少し不思議だった。
以前なら、休暇が終わることに安心していただろう。
やるべきことが戻ってくる。
何をすればよいのか、自分で考えなくてもよくなる。
聖王大聖女として働いていれば、自分のいる場所は決まっている。
けれど今は、休暇が終わることを少しだけ惜しいと思った。
ソフィアは顔を洗い、髪をとかした。
法衣には手を伸ばさず、棚から淡い青色のワンピースを取り出す。
何度か袖を通した服だった。
初めて着た時ほど、照れくさくはない。
白い花の髪飾りをつけ、帽子をかぶり、細い縁の眼鏡をかける。
鏡の中には、二十三歳の女性が立っていた。
町へ出掛けることに、少しだけ慣れた女性だった。
ソフィアは鏡の中の自分を見つめた。
「今日は」
一度、言葉を止める。
昨日、サンセリテから言われた。
『最後の一日くらい、一人の女の子として遊んできなさい』
けれど今日は、命じられたから遊ぶのではない。
自分で、そうすると決めたかった。
ソフィアは帽子のつばへ手を添えた。
「今日は、絶対に遊びます」
誰へ聞かせるでもない、小さな宣言だった。
言ってから、少しだけ笑った。
遊ぶことを、これほど真剣に決める人も珍しいかもしれない。
けれど今の自分には、それくらいでちょうどよかった。
部屋を出て廊下を歩く。
すれ違った修道女たちは、ソフィアの服装を見ると少し驚いた。
「お出掛けですか」
「はい」
「本日は、どちらへ?」
尋ねられ、ソフィアは答えようとした。
けれど、行き先は決めていなかった。
「まだ、決めていません」
修道女は目を丸くした。
ソフィア自身も、口にしてから少し驚いた。
いつもなら、どこへ行くのか、何時に出るのか、誰と会うのか、すべて決めてから部屋を出る。
けれど今日は、何も決めていない。
「気になったところへ、入ってみようと思います」
「まあ」
修道女は、やわらかく笑った。
「どうぞ、楽しんでいらしてください」
「ありがとうございます」
ソフィアも笑って頭を下げた。
教会を出ると、王都はすでに朝の賑わいに包まれていた。
開き始めた店。
焼きたてのパンの香り。
市場へ向かう荷車。
道の端で話をする人々と、子どもたちの声。
どれも、三日目に見たものと同じだった。
けれど今日は、観光案内を持っていない。
行きたい店を書き留めた紙もない。
時計を気にする必要もなかった。
ソフィアは、人の流れに合わせて歩いた。
右へ曲がり、少し進む。
店先の花を見て立ち止まり、また歩き始める。
風が吹けば、帽子のつばを押さえた。
それだけのことが、少し楽しかった。
何時までに、どこへ行かなければならない。
そのようなものが何もない。
立ち止まりたければ立ち止まり、戻りたければ戻る。
曲がってみたい道があれば、曲がってみる。
今日は、間違った道というものがなかった。
ソフィアは、小さな路地へ入った。
馬車で通れば、そのまま見過ごしてしまうような場所だった。
古い靴屋。
小さな時計店。
乾燥させた薬草を売る店。
数人しか入れそうにない食堂。
その中に、一軒だけ新しい看板があった。
『生活魔道具専門店』
木の看板には、湯気の立つやかんと、小さな魔法石が描かれている。
ソフィアは足を止めた。
「生活魔道具」
聞いたことはある。
会議でも、何度か話題に上がっていた。
魔法を使えない者でも扱える、人々の暮らしを助ける道具。
けれど、実物をゆっくり見たことはなかった。
教会へ運ばれてくるものは、治療器具や照明、食料や薬を保存する装置など、仕事や災害時に使うものが多い。
人々が毎日の暮らしの中で使う魔道具とは、どのようなものなのだろう。
ソフィアは扉を開けた。
小さな鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
若い男性店員が、明るい声で迎えた。
店内には木の棚が並び、その上へさまざまな魔道具が置かれていた。
火を使わずに湯を沸かす器具。
魔力を込めると光る照明。
濡れた衣服から水分を取り除く板。
食べ物を冷たいまま保つ箱。
埃を吸い取る小さな道具。
決められた時刻になると鳴る時計。
どれも、大きな魔法ではなかった。
人の命を救うためのものでも、国を守るためのものでもない。
けれど、湯を沸かす時間を短くし、暗い部屋を明るくし、雨の日にも衣服を乾かす。
人々の暮らしの中へ、小さな余裕を作るものだった。
ソフィアは棚の前へ立ち、ゆっくりと見て回った。
「こちらは、どのように動くのですか」
湯沸かし器を指すと、店員はうれしそうに近づいてきた。
「中に小さな魔法石が入っています。こちらの魔水晶が、石から必要な分だけ魔力を取り出して、加熱術式へ送る仕組みです」
店員は器具の蓋を開けた。
内側には小さな青い石がはめ込まれ、その周囲を透明な水晶が細く囲んでいる。
「この水晶が、魔力量を調整しているのですか」
「そのとおりです」
「一度に流れすぎることは?」
「安全装置があります」
店員は、別の小さな石を指した。
「一定以上の魔力が流れると、こちらで術式を止めます」
「なるほど」
ソフィアは、少し身を乗り出した。
治癒魔法で考えていた魔力の分岐と、どこか似ている。
けれど、人が一つずつ調整するのではなく、魔水晶そのものが流れる量を決めていた。
「魔水晶の純度によって、流れる量は変わるのでしょうか」
「変わります」
「では、この形にしているのは」
「魔力が一か所へ集まりすぎないようにするためです」
「そうなのですね」
ソフィアは次々と尋ねた。
初めは普通の客へ説明していた店員も、質問が細かくなるにつれて目を輝かせ始めた。
「お客様、魔道具にお詳しいのですか」
「少しだけ」
ソフィアは笑った。
聖王大聖女として光魔法を研究していると答えることもできた。
けれど今は、ただの客だった。
自分が何者なのか、説明する必要はないように思えた。
「魔法が好きなのです」
口にしてから、その言葉が胸へ静かに残った。
魔法が好き。
研究が好き。
知らなかった仕組みを知ることが好き。
仕事だからではない。
役に立つからでもない。
ただ、好きだった。
「こちらも面白いですよ」
店員は、別の棚へ案内した。
小さな保存箱だった。
冷気を生む魔法石と、温度を一定に保つ魔水晶。箱の内側には、細かな術式が刻まれている。
「外の気温が変わっても、中の温度は変わりません」
「魔力の供給は?」
「一日に一度、こちらへ触れるだけです」
「魔法を使えない人でも?」
「ええ。どなたでも」
ソフィアは箱の中を覗き込んだ。
教会の治療院へ置けば、薬を保存できる。
災害地へ運べば、食料を長く保てる。
そんな考えが、すぐに浮かんだ。
けれど今日は、仕事をしない日だった。
頭に浮かんだ案を、ソフィアはそのままにした。
役立てる方法を考えなくても、面白いと思ってよい。
魔法石の淡い光も、透明な魔水晶も、細く刻まれた術式も、ただ眺めていてよかった。
「きれいですね」
透明な水晶を見ながら、ソフィアは言った。
幼いころ、自分の手のひらへ生まれた光を見て、同じことを言った。
あの時の光を、少しだけ思い出した。
店の奥では、一人の母親が子どもと照明器具を見ていた。
子どもは五歳か六歳くらいだろう。棚に並ぶ魔道具が珍しいらしく、何度も母親の手を引いている。
「お母さん、これ」
「触ってはいけませんよ」
「光ってる」
「見るだけにしましょうね」
母親は困ったように笑い、子どもも笑った。
何でもない光景だった。
親子が店で買い物をしている。
ただ、それだけ。
けれど、教会の会議では見えない暮らしが、目の前にあった。
その時、小さな音がした。
ぱきり。
ガラスに、細い亀裂が入るような音だった。
ソフィアは振り向いた。
店の中央に置かれた、大きな展示用の魔道具。その内部にはめ込まれた魔水晶に、一本の亀裂が走っていた。
ほんの細いものだった。
店員は、まだ気づいていない。
亀裂の奥で、青い光がわずかに揺れている。
「すみません」
ソフィアは店員へ声をかけた。
「こちらの魔水晶は――」
言い終えるより先に、もう一度音がした。
先ほどよりも大きかった。
亀裂が枝分かれし、中にある魔法石の光が急に強くなる。
青かった光が、白く変わった。
低い音とともに、床へ伝わるほどの振動が始まる。
店員の顔色が変わった。
「魔力が」
魔道具へ駆け寄り、安全装置へ手を伸ばす。
けれど、装置は反応しなかった。
「皆さん、外へ!」
店員が叫んだ。
「魔法石が暴走しています!」
客たちが一斉に出口へ向かう。
誰かが棚へぶつかり、魔道具が床へ落ちた。ガラスの割れる音と、悲鳴と、いくつもの足音が重なった。
ソフィアも出口へ向かった。
暴走した魔法石の光は、すでに安全に止められる量を超えている。
このままでは、間もなく破裂する。
十秒。
それよりも短いかもしれない。
外へ出れば、光結界で建物を包み、周囲への被害を抑えることができる。
ソフィアは出口へ走った。
その時、泣き声が聞こえた。
「お母さん」
騒ぎの中へ消えそうな、小さな声だった。
「お母さん……!」
振り向く。
倒れた棚の向こうで、子どもが床へ座り込んでいた。
先ほど、母親と照明を見ていた男の子だった。
逃げる人々に押され、母親の手から離れてしまったのだろう。
足元には棚が倒れ、一人では越えられない。
外から母親の声が聞こえた。
「息子が! 中に子どもがいます!」
その声を聞いた瞬間、ソフィアは考えなかった。
聖王大聖女として何をすべきか。
被害を最小限にするには、どの術式が正しいのか。
そのようなことは、何も考えなかった。
身体が先に動いていた。
出口とは反対へ走り、倒れた棚を越える。散らばった魔道具を避け、子どものもとへ向かった。
「お母さん」
男の子は泣いていた。
ソフィアはその前へ膝をつき、子どもを抱き上げた。
「大丈夫です。お母さんのところへ行きましょう」
小さな身体が震え、両腕がソフィアの首へ強く回された。
その時、背後で魔法石の光が大きく膨らんだ。
空気が震える。
店員が外から叫んだ。
「危ない!」
ソフィアは振り返った。
魔水晶が砕け、白い光が店内いっぱいへ広がった。
逃げる時間はなかった。
ソフィアは子どもを胸へ抱き、その背中を自分の身体で包んだ。
片手を前へかざす。
「光結界」
淡い光が一瞬で広がり、ソフィアと子どもを半球状に包み込んだ。
次の瞬間、魔法石が破裂した。
耳の奥まで揺さぶるような音だった。
爆風が店内を走り、棚が倒れ、窓ガラスが砕けた。白い光が結界へぶつかり、その表面が大きく揺れる。
けれど、壊れなかった。
ソフィアは腕へ力を込め、子どもの頭を胸へ抱いた。
「大丈夫です」
自分へ言ったのか、子どもへ言ったのか、分からなかった。
熱が結界を包み、床が震えた。
帽子が飛び、眼鏡も外れた。髪を留めていたものが外れ、金色の髪が爆風の中へ広がった。
やがて、音が止んだ。
白い光も消えた。
店内には、崩れた棚と、砕けたガラスと、耳の奥に残る静けさだけがあった。
ソフィアはゆっくりと光結界を解いた。
腕の中を見る。
子どもは、まだソフィアへしがみついていた。
泣いてはいる。
けれど、怪我はなかった。
「もう大丈夫ですよ」
声をかけると、男の子は恐る恐る顔を上げた。
涙に濡れた目でソフィアを見つめる。震えていた唇が、少しずつ静かになった。
ソフィアは子どもを抱いたまま、店の外へ出た。
通りには、多くの人が集まっていた。
店にいた客。
近くの店の者たち。
通りを歩いていた人々。
その中から、一人の女性が駆け寄ってくる。
「お母さん!」
腕の中の子どもが叫んだ。
「よかった……!」
母親はその場へ膝をつき、子どもを抱き締めた。
何度も背中へ触れ、怪我がないことを確かめる。
「ごめんね。ごめんなさい。本当に、よかった」
子どもも母親へしがみついた。
ソフィアは、その親子を静かに見つめた。
助かった。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
周囲には、まだ静けさが残っていた。
誰もがソフィアを見ている。
帽子は飛び、眼鏡もなく、金色の髪は肩へ広がっている。
変装は、もう何の役にも立っていなかった。
「まさか」
誰かが呟いた。
「あのお姿は」
「聖王様……?」
その言葉が、少しずつ人々のあいだへ広がった。
「聖王大聖女様だ」
「どうして、こんなところに」
人々がざわめく。
頭を下げようとする者もいた。
けれど、崩れた店と泣いている親子を前に、誰もがどうすればよいのか迷っているようだった。
年老いた男性が、感極まったようにソフィアへ近づいた。
「私どもの暮らしをご覧になるために、変装して町を歩いておられたのですか」
声が震えていた。
「民がどのように暮らしているのか、御自ら確かめるために」
別の者も頷いた。
「さすが、聖王様です」
「休む間もなく、私たちのために」
言葉が重なっていく。
いつものことだった。
ソフィアが何かをすると、人々はそこへ立派な意味を見つける。
謙遜すれば、その慎ましさを褒められる。
できないと言えば、それでも立ち向かう勇気を称えられる。
今日も、変装して町へ出たことへ、民の暮らしを見守るためという意味が与えられようとしていた。
けれど、今日は違った。
ソフィアは、少し困ったように笑った。
地面へ落ちていた帽子を拾い、表面の埃を払う。
「今日は、休暇だったのですけどね」
一瞬、周囲が静かになった。
それから、小さな笑い声が起きた。
一人。
また一人。
張り詰めていた空気が、少しずつやわらかくなっていく。
「休暇でございましたか」
老人も、困ったように笑った。
「はい」
ソフィアは帽子を胸へ抱えた。
「町を見守るためでも、何かを調べるためでもありません。ただ、遊びに来ただけです」
遊びに来た。
それだけ。
誰かのためではない。
仕事でもない。
そのことを人々の前で言えたことが、少しうれしかった。
その時、服の裾を小さな手が引いた。
ソフィアは下を見た。
先ほど助けた男の子だった。
母親のそばを離れ、もう一度ソフィアのところへ来ていた。
「お姉ちゃん」
聖王様ではなかった。
聖王大聖女でもなかった。
ただ、お姉ちゃん。
男の子は、涙の残る顔でソフィアを見上げていた。
「ありがとう」
短い言葉だった。
立派な祝福でもない。
世界の希望だとも、二人の再来だとも言わない。
助けてもらった子どもが、助けてくれた一人の女性へ礼を言った。
その言葉は、ソフィアの胸へまっすぐ届いた。
「どういたしまして」
ソフィアは、子どもと目の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「怖かったですね」
「うん」
「もう、大丈夫ですよ」
「うん」
男の子は頷き、少しだけ笑った。
その笑顔を見た時、ソフィアは遠い昔のことを思い出した。
教会の礼拝堂。
高い天井。
色鮮やかなステンドグラス。
正面の壁へ並ぶ、初代大聖女エリアネと、大聖女ミュゲの肖像画。
父と母。
そして、まだ何者でもなかった幼い自分。
『わたしも、あんな人になりたい』
誰かを助けられる人になりたい。
泣いている人を笑顔にしたい。
困っている人の力になりたい。
あの日、ソフィアはそう願った。
立派なことを言おうとしたわけではない。
褒めてもらいたかったわけでもなかった。
ただ、誰かのそばへ立てる人になりたいと思った。
その願いは、教会から与えられた使命ではなかった。
世界中の期待でもない。
聖王大聖女という肩書きよりも前に、ソフィアが自分で抱いた夢だった。
先ほど、子どもの泣き声を聞いた時も、何も考えなかった。
聖王大聖女だから助けなければならないと思ったのではない。
人々に見られていたからでもない。
目の前で、一人の子どもが泣いていた。
それだけだった。
だから、身体が動いた。
幼いころに抱いた願いは、消えてはいなかった。
いくつもの役目や呼び名の下へ、見えなくなっていただけなのかもしれない。
「笑ってくれて、よかったです」
男の子は、もう一度頷いた。
母親が近づき、深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
ソフィアも頭を下げ返した。
「無事で、よかったです」
それだけを言った。
聖女として当然のことをしたとも、民を守るのは役目だとも言わなかった。
ただ無事でよかった。
本当に、そう思った。
しばらくして、教会の神官や町の警備を担う者たちが駆けつけた。
店員が事情を説明し、壊れた魔道具の確認が始まる。怪我人はいないか、周囲の建物に被害がないか、人々がそれぞれ動き始めた。
ソフィアも手伝おうと、一歩前へ出た。
けれど、昨日のサンセリテの言葉を思い出した。
『明日は、仕事をしてはいけませんよ』
足を止める。
周囲を見回した。
大きな怪我をした者はいない。
店の者も、警備の者も、神官たちもいる。
自分がいなくても、あとは任せられる。
以前なら、最後まで残っただろう。
原因を調べ、報告書を書かせ、再発を防ぐ方法まで考えた。
けれど今日は、休暇だった。
ソフィアは、駆けつけた神官へ声をかけた。
「後をお願いしてもよろしいですか」
神官は、驚いたように顔を上げた。
「もちろんでございます」
「何かございましたら」
そこまで言いかけて、言葉を止めた。
何かあれば、すぐに知らせるように。
そう言おうとした。
「明日、報告をお願いします」
「承知いたしました」
神官は頭を下げた。
ソフィアも静かに頷き、その場を離れた。
変装は、すでに解けていた。
帽子をかぶり直しても、眼鏡をかけても、周囲の者には正体を知られている。
それでもソフィアは、拾った眼鏡をもう一度かけ、帽子をかぶった。
隠れるためではなかった。
今日は、この姿で町を歩きたいと思ったからだった。
少し進み、振り返る。
助けた男の子が、母親の隣で手を振っていた。
「お姉ちゃん!」
ソフィアも手を振り返した。
王都の通りへ戻る。
少し離れれば、町はいつもどおりだった。
店は開き、人々は歩き、子どもたちは笑っている。
ソフィアは、ゆっくりと歩いた。
今日は、まだ終わっていない。
魔道具店へ入り、事故に巻き込まれ、子どもを助けた。
それだけで一日を終えてもよかった。
けれど今日は、遊ぶと決めていた。
通りの先に、小さな菓子店があった。
以前入った店とは違う。店先には、季節の果物を使った菓子が並べられている。
ソフィアは少し考え、それから店へ入った。
事故があったから、もう休暇は終わり。
そのようにはしたくなかった。
一つの菓子を選び、温かい紅茶も頼む。
窓際の席へ座り、一口食べた。
甘い。
果物の香りがした。
「おいしいです」
小さく呟く。
少し前まで、魔法石の白い光と爆風の中にいた。
子どもを抱き、光結界を張った。
そして今は、菓子を食べている。
その二つが、同じ一日の中にあってもよいのだと思った。
誰かを助けることと、自分を喜ばせること。
どちらか一つだけを、選ばなくてもよかった。
ソフィアは紅茶を飲んだ。
温かかった。
窓の外では、王都の人々が変わらず行き交っている。
休暇は、今日で終わる。
明日から、また聖王大聖女として働く。
人を助け、祈り、考え、責任を負う。
忙しくなるだろう。
また、自分のことを忘れてしまう日もあるかもしれない。
それでも、泣いている子どもの声を聞いた時、身体が先に動いたことは覚えていられるような気がした。
聖王大聖女だからではなかった。
仕事だからでもなかった。
ただ、助けたいと思った。
あの日の夢は、どこかへ失われたのではない。
少なくとも今日、ソフィアはそう思うことができた。
残っていた菓子を、ゆっくりと口へ運ぶ。
明日からは、聖王大聖女へ戻る。
けれど、聖王大聖女になる前の自分を、すべて置いていく必要はないのかもしれない。
泣いている人を助けたいと願った少女。
甘い菓子をおいしいと思う女性。
物語を読んで涙を流す自分。
研究へ夢中になる自分。
そのどれを、明日からどのように連れていけばよいのかは、まだ分からなかった。
それでも、どれか一つをこの休暇へ置いていかなくてもよいのだと思えた。
窓の外では、王都の道が夕暮れの色へ変わり始めていた。
ソフィアは青い花のない白いカップを両手で包み、その温かさを確かめるように、もう一口紅茶を飲んだ。




