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休日  作者: Atelier Lotus文庫


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11/14

第11節 七日目

 七日目の朝、ソフィアは鐘が鳴る少し前に目を覚ました。

 窓の外には、まだ淡い朝の光が広がっている。

 休暇の最後の日だった。

 寝台の上で身体を起こす。

 肩は軽く、頭の奥にも、以前のような重さはなかった。

 青い花のティーカップ。

 白い花の髪飾り。

 読みかけの恋愛小説。

 少し焦げた料理の味。

 そして、サンセリテの机へ置いてきた論文。

 一週間のあいだに増えたものは、どれも休暇へ入る前の部屋にはなかった。

 初めの二日間は、目を覚ましても、もう一度眠ってしまった。次に目を開けると、一日のほとんどが終わっていた。

 何もできなかったように思えた。

 けれど、眠るたびに身体は少しずつ軽くなった。

 町を歩き、菓子を食べ、本を読み、料理をした。

 誰の役にも立たない一日が、なくしたくない一日になった。

 そのあとには、また研究へ戻ってしまった。

 休むことは、最後まで上手にはできなかった。

 それでも、仕事へ戻ってしまったことに、自分で気づくことはできた。

 明日から仕事へ戻れば、また忙しい毎日が始まる。

 書類は積まれ、会議は続き、助けを求める声も届くだろう。

 何もかも忘れて働いてしまう日も、きっとある。

 その時、青い花のティーカップを思い出すことができるだろうか。

 少し焦げた料理の味を。

 物語を読んで流した涙を。

 自分のために過ごした一日を。

 ソフィアは寝台を降り、カーテンを開けた。

 朝の光が、部屋の中へ静かに流れ込んでくる。王都の屋根が、少しずつ明るくなっていった。

「今日で、最後なのですね」

 小さく呟いた。

 一週間は、始まった時にはとても長く思えた。

 七日も仕事をしない。

 そんなことが本当にできるのか、不安だった。

 けれど終わってみれば、あまりにも短かった。

 もう一日あれば、と考えた。

 何もしない日を、もう一度過ごしてもよい。

 町を歩いてもよい。

 恋愛小説を持って、公園の木陰で読んでもよい。

 そんなことを考えている自分が、少し不思議だった。

 以前なら、休暇が終わることに安心していただろう。

 やるべきことが戻ってくる。

 何をすればよいのか、自分で考えなくてもよくなる。

 聖王大聖女として働いていれば、自分のいる場所は決まっている。

 けれど今は、休暇が終わることを少しだけ惜しいと思った。

 ソフィアは顔を洗い、髪をとかした。

 法衣には手を伸ばさず、棚から淡い青色のワンピースを取り出す。

 何度か袖を通した服だった。

 初めて着た時ほど、照れくさくはない。

 白い花の髪飾りをつけ、帽子をかぶり、細い縁の眼鏡をかける。

 鏡の中には、二十三歳の女性が立っていた。

 町へ出掛けることに、少しだけ慣れた女性だった。

 ソフィアは鏡の中の自分を見つめた。

「今日は」

 一度、言葉を止める。

 昨日、サンセリテから言われた。

『最後の一日くらい、一人の女の子として遊んできなさい』

 けれど今日は、命じられたから遊ぶのではない。

 自分で、そうすると決めたかった。

 ソフィアは帽子のつばへ手を添えた。

「今日は、絶対に遊びます」

 誰へ聞かせるでもない、小さな宣言だった。

 言ってから、少しだけ笑った。

 遊ぶことを、これほど真剣に決める人も珍しいかもしれない。

 けれど今の自分には、それくらいでちょうどよかった。

 部屋を出て廊下を歩く。

 すれ違った修道女たちは、ソフィアの服装を見ると少し驚いた。

「お出掛けですか」

「はい」

「本日は、どちらへ?」

 尋ねられ、ソフィアは答えようとした。

 けれど、行き先は決めていなかった。

「まだ、決めていません」

 修道女は目を丸くした。

 ソフィア自身も、口にしてから少し驚いた。

 いつもなら、どこへ行くのか、何時に出るのか、誰と会うのか、すべて決めてから部屋を出る。

 けれど今日は、何も決めていない。

「気になったところへ、入ってみようと思います」

「まあ」

 修道女は、やわらかく笑った。

「どうぞ、楽しんでいらしてください」

「ありがとうございます」

 ソフィアも笑って頭を下げた。

 教会を出ると、王都はすでに朝の賑わいに包まれていた。

 開き始めた店。

 焼きたてのパンの香り。

 市場へ向かう荷車。

 道の端で話をする人々と、子どもたちの声。

 どれも、三日目に見たものと同じだった。

 けれど今日は、観光案内を持っていない。

 行きたい店を書き留めた紙もない。

 時計を気にする必要もなかった。

 ソフィアは、人の流れに合わせて歩いた。

 右へ曲がり、少し進む。

 店先の花を見て立ち止まり、また歩き始める。

 風が吹けば、帽子のつばを押さえた。

 それだけのことが、少し楽しかった。

 何時までに、どこへ行かなければならない。

 そのようなものが何もない。

 立ち止まりたければ立ち止まり、戻りたければ戻る。

 曲がってみたい道があれば、曲がってみる。

 今日は、間違った道というものがなかった。

 ソフィアは、小さな路地へ入った。

 馬車で通れば、そのまま見過ごしてしまうような場所だった。

 古い靴屋。

 小さな時計店。

 乾燥させた薬草を売る店。

 数人しか入れそうにない食堂。

 その中に、一軒だけ新しい看板があった。

『生活魔道具専門店』

 木の看板には、湯気の立つやかんと、小さな魔法石が描かれている。

 ソフィアは足を止めた。

「生活魔道具」

 聞いたことはある。

 会議でも、何度か話題に上がっていた。

 魔法を使えない者でも扱える、人々の暮らしを助ける道具。

 けれど、実物をゆっくり見たことはなかった。

 教会へ運ばれてくるものは、治療器具や照明、食料や薬を保存する装置など、仕事や災害時に使うものが多い。

 人々が毎日の暮らしの中で使う魔道具とは、どのようなものなのだろう。

 ソフィアは扉を開けた。

 小さな鈴が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 若い男性店員が、明るい声で迎えた。

 店内には木の棚が並び、その上へさまざまな魔道具が置かれていた。

 火を使わずに湯を沸かす器具。

 魔力を込めると光る照明。

 濡れた衣服から水分を取り除く板。

 食べ物を冷たいまま保つ箱。

 埃を吸い取る小さな道具。

 決められた時刻になると鳴る時計。

 どれも、大きな魔法ではなかった。

 人の命を救うためのものでも、国を守るためのものでもない。

 けれど、湯を沸かす時間を短くし、暗い部屋を明るくし、雨の日にも衣服を乾かす。

 人々の暮らしの中へ、小さな余裕を作るものだった。

 ソフィアは棚の前へ立ち、ゆっくりと見て回った。

「こちらは、どのように動くのですか」

 湯沸かし器を指すと、店員はうれしそうに近づいてきた。

「中に小さな魔法石が入っています。こちらの魔水晶が、石から必要な分だけ魔力を取り出して、加熱術式へ送る仕組みです」

 店員は器具の蓋を開けた。

 内側には小さな青い石がはめ込まれ、その周囲を透明な水晶が細く囲んでいる。

「この水晶が、魔力量を調整しているのですか」

「そのとおりです」

「一度に流れすぎることは?」

「安全装置があります」

 店員は、別の小さな石を指した。

「一定以上の魔力が流れると、こちらで術式を止めます」

「なるほど」

 ソフィアは、少し身を乗り出した。

 治癒魔法で考えていた魔力の分岐と、どこか似ている。

 けれど、人が一つずつ調整するのではなく、魔水晶そのものが流れる量を決めていた。

「魔水晶の純度によって、流れる量は変わるのでしょうか」

「変わります」

「では、この形にしているのは」

「魔力が一か所へ集まりすぎないようにするためです」

「そうなのですね」

 ソフィアは次々と尋ねた。

 初めは普通の客へ説明していた店員も、質問が細かくなるにつれて目を輝かせ始めた。

「お客様、魔道具にお詳しいのですか」

「少しだけ」

 ソフィアは笑った。

 聖王大聖女として光魔法を研究していると答えることもできた。

 けれど今は、ただの客だった。

 自分が何者なのか、説明する必要はないように思えた。

「魔法が好きなのです」

 口にしてから、その言葉が胸へ静かに残った。

 魔法が好き。

 研究が好き。

 知らなかった仕組みを知ることが好き。

 仕事だからではない。

 役に立つからでもない。

 ただ、好きだった。

「こちらも面白いですよ」

 店員は、別の棚へ案内した。

 小さな保存箱だった。

 冷気を生む魔法石と、温度を一定に保つ魔水晶。箱の内側には、細かな術式が刻まれている。

「外の気温が変わっても、中の温度は変わりません」

「魔力の供給は?」

「一日に一度、こちらへ触れるだけです」

「魔法を使えない人でも?」

「ええ。どなたでも」

 ソフィアは箱の中を覗き込んだ。

 教会の治療院へ置けば、薬を保存できる。

 災害地へ運べば、食料を長く保てる。

 そんな考えが、すぐに浮かんだ。

 けれど今日は、仕事をしない日だった。

 頭に浮かんだ案を、ソフィアはそのままにした。

 役立てる方法を考えなくても、面白いと思ってよい。

 魔法石の淡い光も、透明な魔水晶も、細く刻まれた術式も、ただ眺めていてよかった。

「きれいですね」

 透明な水晶を見ながら、ソフィアは言った。

 幼いころ、自分の手のひらへ生まれた光を見て、同じことを言った。

 あの時の光を、少しだけ思い出した。

 店の奥では、一人の母親が子どもと照明器具を見ていた。

 子どもは五歳か六歳くらいだろう。棚に並ぶ魔道具が珍しいらしく、何度も母親の手を引いている。

「お母さん、これ」

「触ってはいけませんよ」

「光ってる」

「見るだけにしましょうね」

 母親は困ったように笑い、子どもも笑った。

 何でもない光景だった。

 親子が店で買い物をしている。

 ただ、それだけ。

 けれど、教会の会議では見えない暮らしが、目の前にあった。

 その時、小さな音がした。

 ぱきり。

 ガラスに、細い亀裂が入るような音だった。

 ソフィアは振り向いた。

 店の中央に置かれた、大きな展示用の魔道具。その内部にはめ込まれた魔水晶に、一本の亀裂が走っていた。

 ほんの細いものだった。

 店員は、まだ気づいていない。

 亀裂の奥で、青い光がわずかに揺れている。

「すみません」

 ソフィアは店員へ声をかけた。

「こちらの魔水晶は――」

 言い終えるより先に、もう一度音がした。

 先ほどよりも大きかった。

 亀裂が枝分かれし、中にある魔法石の光が急に強くなる。

 青かった光が、白く変わった。

 低い音とともに、床へ伝わるほどの振動が始まる。

 店員の顔色が変わった。

「魔力が」

 魔道具へ駆け寄り、安全装置へ手を伸ばす。

 けれど、装置は反応しなかった。

「皆さん、外へ!」

 店員が叫んだ。

「魔法石が暴走しています!」

 客たちが一斉に出口へ向かう。

 誰かが棚へぶつかり、魔道具が床へ落ちた。ガラスの割れる音と、悲鳴と、いくつもの足音が重なった。

 ソフィアも出口へ向かった。

 暴走した魔法石の光は、すでに安全に止められる量を超えている。

 このままでは、間もなく破裂する。

 十秒。

 それよりも短いかもしれない。

 外へ出れば、光結界で建物を包み、周囲への被害を抑えることができる。

 ソフィアは出口へ走った。

 その時、泣き声が聞こえた。

「お母さん」

 騒ぎの中へ消えそうな、小さな声だった。

「お母さん……!」

 振り向く。

 倒れた棚の向こうで、子どもが床へ座り込んでいた。

 先ほど、母親と照明を見ていた男の子だった。

 逃げる人々に押され、母親の手から離れてしまったのだろう。

 足元には棚が倒れ、一人では越えられない。

 外から母親の声が聞こえた。

「息子が! 中に子どもがいます!」

 その声を聞いた瞬間、ソフィアは考えなかった。

 聖王大聖女として何をすべきか。

 被害を最小限にするには、どの術式が正しいのか。

 そのようなことは、何も考えなかった。

 身体が先に動いていた。

 出口とは反対へ走り、倒れた棚を越える。散らばった魔道具を避け、子どものもとへ向かった。

「お母さん」

 男の子は泣いていた。

 ソフィアはその前へ膝をつき、子どもを抱き上げた。

「大丈夫です。お母さんのところへ行きましょう」

 小さな身体が震え、両腕がソフィアの首へ強く回された。

 その時、背後で魔法石の光が大きく膨らんだ。

 空気が震える。

 店員が外から叫んだ。

「危ない!」

 ソフィアは振り返った。

 魔水晶が砕け、白い光が店内いっぱいへ広がった。

 逃げる時間はなかった。

 ソフィアは子どもを胸へ抱き、その背中を自分の身体で包んだ。

 片手を前へかざす。

「光結界」

 淡い光が一瞬で広がり、ソフィアと子どもを半球状に包み込んだ。

 次の瞬間、魔法石が破裂した。

 耳の奥まで揺さぶるような音だった。

 爆風が店内を走り、棚が倒れ、窓ガラスが砕けた。白い光が結界へぶつかり、その表面が大きく揺れる。

 けれど、壊れなかった。

 ソフィアは腕へ力を込め、子どもの頭を胸へ抱いた。

「大丈夫です」

 自分へ言ったのか、子どもへ言ったのか、分からなかった。

 熱が結界を包み、床が震えた。

 帽子が飛び、眼鏡も外れた。髪を留めていたものが外れ、金色の髪が爆風の中へ広がった。

 やがて、音が止んだ。

 白い光も消えた。

 店内には、崩れた棚と、砕けたガラスと、耳の奥に残る静けさだけがあった。

 ソフィアはゆっくりと光結界を解いた。

 腕の中を見る。

 子どもは、まだソフィアへしがみついていた。

 泣いてはいる。

 けれど、怪我はなかった。

「もう大丈夫ですよ」

 声をかけると、男の子は恐る恐る顔を上げた。

 涙に濡れた目でソフィアを見つめる。震えていた唇が、少しずつ静かになった。

 ソフィアは子どもを抱いたまま、店の外へ出た。

 通りには、多くの人が集まっていた。

 店にいた客。

 近くの店の者たち。

 通りを歩いていた人々。

 その中から、一人の女性が駆け寄ってくる。

「お母さん!」

 腕の中の子どもが叫んだ。

「よかった……!」

 母親はその場へ膝をつき、子どもを抱き締めた。

 何度も背中へ触れ、怪我がないことを確かめる。

「ごめんね。ごめんなさい。本当に、よかった」

 子どもも母親へしがみついた。

 ソフィアは、その親子を静かに見つめた。

 助かった。

 それだけで、胸の奥が少し温かくなった。

 周囲には、まだ静けさが残っていた。

 誰もがソフィアを見ている。

 帽子は飛び、眼鏡もなく、金色の髪は肩へ広がっている。

 変装は、もう何の役にも立っていなかった。

「まさか」

 誰かが呟いた。

「あのお姿は」

「聖王様……?」

 その言葉が、少しずつ人々のあいだへ広がった。

「聖王大聖女様だ」

「どうして、こんなところに」

 人々がざわめく。

 頭を下げようとする者もいた。

 けれど、崩れた店と泣いている親子を前に、誰もがどうすればよいのか迷っているようだった。

 年老いた男性が、感極まったようにソフィアへ近づいた。

「私どもの暮らしをご覧になるために、変装して町を歩いておられたのですか」

 声が震えていた。

「民がどのように暮らしているのか、御自ら確かめるために」

 別の者も頷いた。

「さすが、聖王様です」

「休む間もなく、私たちのために」

 言葉が重なっていく。

 いつものことだった。

 ソフィアが何かをすると、人々はそこへ立派な意味を見つける。

 謙遜すれば、その慎ましさを褒められる。

 できないと言えば、それでも立ち向かう勇気を称えられる。

 今日も、変装して町へ出たことへ、民の暮らしを見守るためという意味が与えられようとしていた。

 けれど、今日は違った。

 ソフィアは、少し困ったように笑った。

 地面へ落ちていた帽子を拾い、表面の埃を払う。

「今日は、休暇だったのですけどね」

 一瞬、周囲が静かになった。

 それから、小さな笑い声が起きた。

 一人。

 また一人。

 張り詰めていた空気が、少しずつやわらかくなっていく。

「休暇でございましたか」

 老人も、困ったように笑った。

「はい」

 ソフィアは帽子を胸へ抱えた。

「町を見守るためでも、何かを調べるためでもありません。ただ、遊びに来ただけです」

 遊びに来た。

 それだけ。

 誰かのためではない。

 仕事でもない。

 そのことを人々の前で言えたことが、少しうれしかった。

 その時、服の裾を小さな手が引いた。

 ソフィアは下を見た。

 先ほど助けた男の子だった。

 母親のそばを離れ、もう一度ソフィアのところへ来ていた。

「お姉ちゃん」

 聖王様ではなかった。

 聖王大聖女でもなかった。

 ただ、お姉ちゃん。

 男の子は、涙の残る顔でソフィアを見上げていた。

「ありがとう」

 短い言葉だった。

 立派な祝福でもない。

 世界の希望だとも、二人の再来だとも言わない。

 助けてもらった子どもが、助けてくれた一人の女性へ礼を言った。

 その言葉は、ソフィアの胸へまっすぐ届いた。

「どういたしまして」

 ソフィアは、子どもと目の高さを合わせるようにしゃがんだ。

「怖かったですね」

「うん」

「もう、大丈夫ですよ」

「うん」

 男の子は頷き、少しだけ笑った。

 その笑顔を見た時、ソフィアは遠い昔のことを思い出した。

 教会の礼拝堂。

 高い天井。

 色鮮やかなステンドグラス。

 正面の壁へ並ぶ、初代大聖女エリアネと、大聖女ミュゲの肖像画。

 父と母。

 そして、まだ何者でもなかった幼い自分。

『わたしも、あんな人になりたい』

 誰かを助けられる人になりたい。

 泣いている人を笑顔にしたい。

 困っている人の力になりたい。

 あの日、ソフィアはそう願った。

 立派なことを言おうとしたわけではない。

 褒めてもらいたかったわけでもなかった。

 ただ、誰かのそばへ立てる人になりたいと思った。

 その願いは、教会から与えられた使命ではなかった。

 世界中の期待でもない。

 聖王大聖女という肩書きよりも前に、ソフィアが自分で抱いた夢だった。

 先ほど、子どもの泣き声を聞いた時も、何も考えなかった。

 聖王大聖女だから助けなければならないと思ったのではない。

 人々に見られていたからでもない。

 目の前で、一人の子どもが泣いていた。

 それだけだった。

 だから、身体が動いた。

 幼いころに抱いた願いは、消えてはいなかった。

 いくつもの役目や呼び名の下へ、見えなくなっていただけなのかもしれない。

「笑ってくれて、よかったです」

 男の子は、もう一度頷いた。

 母親が近づき、深く頭を下げる。

「本当に、ありがとうございました」

 ソフィアも頭を下げ返した。

「無事で、よかったです」

 それだけを言った。

 聖女として当然のことをしたとも、民を守るのは役目だとも言わなかった。

 ただ無事でよかった。

 本当に、そう思った。

 しばらくして、教会の神官や町の警備を担う者たちが駆けつけた。

 店員が事情を説明し、壊れた魔道具の確認が始まる。怪我人はいないか、周囲の建物に被害がないか、人々がそれぞれ動き始めた。

 ソフィアも手伝おうと、一歩前へ出た。

 けれど、昨日のサンセリテの言葉を思い出した。

『明日は、仕事をしてはいけませんよ』

 足を止める。

 周囲を見回した。

 大きな怪我をした者はいない。

 店の者も、警備の者も、神官たちもいる。

 自分がいなくても、あとは任せられる。

 以前なら、最後まで残っただろう。

 原因を調べ、報告書を書かせ、再発を防ぐ方法まで考えた。

 けれど今日は、休暇だった。

 ソフィアは、駆けつけた神官へ声をかけた。

「後をお願いしてもよろしいですか」

 神官は、驚いたように顔を上げた。

「もちろんでございます」

「何かございましたら」

 そこまで言いかけて、言葉を止めた。

 何かあれば、すぐに知らせるように。

 そう言おうとした。

「明日、報告をお願いします」

「承知いたしました」

 神官は頭を下げた。

 ソフィアも静かに頷き、その場を離れた。

 変装は、すでに解けていた。

 帽子をかぶり直しても、眼鏡をかけても、周囲の者には正体を知られている。

 それでもソフィアは、拾った眼鏡をもう一度かけ、帽子をかぶった。

 隠れるためではなかった。

 今日は、この姿で町を歩きたいと思ったからだった。

 少し進み、振り返る。

 助けた男の子が、母親の隣で手を振っていた。

「お姉ちゃん!」

 ソフィアも手を振り返した。

 王都の通りへ戻る。

 少し離れれば、町はいつもどおりだった。

 店は開き、人々は歩き、子どもたちは笑っている。

 ソフィアは、ゆっくりと歩いた。

 今日は、まだ終わっていない。

 魔道具店へ入り、事故に巻き込まれ、子どもを助けた。

 それだけで一日を終えてもよかった。

 けれど今日は、遊ぶと決めていた。

 通りの先に、小さな菓子店があった。

 以前入った店とは違う。店先には、季節の果物を使った菓子が並べられている。

 ソフィアは少し考え、それから店へ入った。

 事故があったから、もう休暇は終わり。

 そのようにはしたくなかった。

 一つの菓子を選び、温かい紅茶も頼む。

 窓際の席へ座り、一口食べた。

 甘い。

 果物の香りがした。

「おいしいです」

 小さく呟く。

 少し前まで、魔法石の白い光と爆風の中にいた。

 子どもを抱き、光結界を張った。

 そして今は、菓子を食べている。

 その二つが、同じ一日の中にあってもよいのだと思った。

 誰かを助けることと、自分を喜ばせること。

 どちらか一つだけを、選ばなくてもよかった。

 ソフィアは紅茶を飲んだ。

 温かかった。

 窓の外では、王都の人々が変わらず行き交っている。

 休暇は、今日で終わる。

 明日から、また聖王大聖女として働く。

 人を助け、祈り、考え、責任を負う。

 忙しくなるだろう。

 また、自分のことを忘れてしまう日もあるかもしれない。

 それでも、泣いている子どもの声を聞いた時、身体が先に動いたことは覚えていられるような気がした。

 聖王大聖女だからではなかった。

 仕事だからでもなかった。

 ただ、助けたいと思った。

 あの日の夢は、どこかへ失われたのではない。

 少なくとも今日、ソフィアはそう思うことができた。

 残っていた菓子を、ゆっくりと口へ運ぶ。

 明日からは、聖王大聖女へ戻る。

 けれど、聖王大聖女になる前の自分を、すべて置いていく必要はないのかもしれない。

 泣いている人を助けたいと願った少女。

 甘い菓子をおいしいと思う女性。

 物語を読んで涙を流す自分。

 研究へ夢中になる自分。

 そのどれを、明日からどのように連れていけばよいのかは、まだ分からなかった。

 それでも、どれか一つをこの休暇へ置いていかなくてもよいのだと思えた。

 窓の外では、王都の道が夕暮れの色へ変わり始めていた。

 ソフィアは青い花のない白いカップを両手で包み、その温かさを確かめるように、もう一口紅茶を飲んだ。

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