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休日  作者: Atelier Lotus文庫


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12/14

第12節 荷が重い

 休暇が終わった翌朝、教会にはいつもの時間が戻っていた。

 鐘が鳴り、神官たちは書類を抱えて廊下を行き交う。修道女たちは礼拝堂へ花を運び、朝の祈りの支度をしていた。開かれた窓からは、まだ少し冷たい風が入ってくる。

 一週間前と、何も変わらない朝だった。

 ソフィアも、いつもの法衣を身につけていた。

 純白の布。胸元へ刺繍された聖印。長い金色の髪も、乱れのないように整えられている。

 廊下を歩けば、すれ違う者たちが足を止めた。

「おはようございます、聖王様」

「おはようございます」

 ソフィアは微笑み、頭を下げた。

「お加減はいかがですか」

「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「それはよろしゅうございました」

 修道女は、ほっとしたように笑った。

「皆、聖王様がお戻りになるのをお待ちしておりました」

「ありがとうございます」

 待っていてくれた人がいる。

 自分が戻ることを、喜んでくれる人がいる。

 そのことは、今も変わらず温かかった。

 けれど以前なら、その温かさを受け取ったあと、すぐに歩く速度を上げていただろう。

 待たせてはいけない。

 早く仕事へ戻らなければならない。

 そう思っていた。

 今日は、急がなかった。

 一歩ずつ、廊下の窓から差し込む朝の光を眺めながら歩いた。

 教皇執務室へ向かう。

 今日の予定を確かめ、休暇中の報告を受けなければならない。机の上には、きっと多くの書類が積まれている。

 そう考えるだけで、胸の奥へ以前と同じ重さが少し戻ってきた。

 けれど今日は、それとは別に話したいことがあった。

 執務室の前へ着き、扉へ手を伸ばす。

 すぐには叩けなかった。

 ソフィアは一度、手を下ろした。

 廊下には誰もいない。

 遠くから神官たちの話し声が聞こえる。窓の外では、小鳥が一羽、石の欄干へ止まっていた。

 小さく息を吸う。

 それから、もう一度扉へ手を伸ばし、静かに叩いた。

「失礼いたします」

「どうぞ」

 聞き慣れた声だった。

 ソフィアは扉を開けた。

 教皇サンセリテは、机の向こうで書類へ目を通していた。傍らには、すでにいくつもの紙の束が積まれている。

 羽根ペンを置き、顔を上げた。

「おはようございます、ソフィア」

「おはようございます」

 ソフィアは頭を下げた。

「一週間、お休みをいただき、ありがとうございました」

「もう体調はよろしいのですか」

「はい。身体は、すっかり軽くなりました」

「それはよかった」

 サンセリテは椅子を勧めた。

 ソフィアは机の前へ腰を下ろす。

 サンセリテは、すぐには仕事の話をしなかった。

「休暇はいかがでしたか」

 尋ねられ、ソフィアは少し考えた。

 初めの日には、眠ることしかできなかった。

 二日目には、何をすればよいのか分からなかった。

 それから町を歩き、甘い菓子を食べた。恋愛劇を観て泣き、本と髪飾りとティーカップを買った。子どもたちと遊び、料理もした。鍋の底を、少し黒くした。

 図書館へ行けば、研究を始めてしまった。

 論文を書き、翌日には推敲までした。

 最後の日には、魔道具店で子どもを助けた。

 思い返せば、長かったようにも、短かったようにも感じられた。

「……楽しかったです」

 口から出たのは、その言葉だった。

 ソフィアは、自分でも少し驚いた。

 よく眠れました。

 身体は回復しました。

 仕事へ戻る準備はできています。

 そのように答えるつもりだった。

 けれど最初に浮かんだのは、楽しかった、という言葉だった。

 サンセリテは穏やかに微笑んだ。

「そうですか」

「はい」

 ソフィアも笑った。

「町へ出ました」

「変装をして?」

「はい。帽子と眼鏡を身につけました」

「見つかりませんでしたか」

「最後の日までは」

 サンセリテは、少し眉を上げた。

「最後の日には、何があったのですか」

「魔道具店で、魔法石が暴走しました」

 ソフィアは、店で起きたことを話した。

 魔水晶へ亀裂が入ったこと。

 客たちが逃げたこと。

 子どもが取り残されたこと。

 光結界で、子どもを守ったこと。

 爆風で帽子と眼鏡が飛んでしまったこと。

「それで、見つかったのですね」

「はい」

「皆は、何と言いましたか」

「民の暮らしを見守るために、変装して町を歩いていたのだと思われました」

 サンセリテは、少しだけ困ったように笑った。

「あなたらしい解釈をされましたね」

「今日は休暇だったのですけどね、と申し上げました」

「言えたのですか」

「はい」

 あの時のことを思い出す。

 仕事ではない。

 町を見守るためでもない。

 ただ遊びに来たのだと、自分の口で人々へ伝えた。

「少し、恥ずかしかったです」

「ですが、言えてよかったのでしょう」

「そう思います」

 ソフィアは頷いた。

 そのあと、町で食べた菓子のことを話した。

 劇場で観た恋愛劇のことも。

「そんなに泣いたのですか」

「隣の方から、布を三枚いただきました」

「三枚も」

「はい」

 サンセリテは声を上げて笑った。

 ソフィアも、思い出して笑った。

「とても素敵なお話だったのです」

「どのような話でしたか」

「身分の違う二人が、最後には互いを選ぶお話です」

「なるほど」

「家柄でも、役目でもなく」

 ソフィアは、そこで少し言葉を止めた。

「ただ、その人だからと」

 劇場で流した涙を思い出す。

 あの時は、なぜあれほど泣いたのか、自分でも分からなかった。

 今なら、少しだけ分かるような気がした。

 けれど、そのことはまだ口にしなかった。

「恋愛小説も買いました」

「読み終えましたか」

「はい。別の本も読みました」

「休暇中に、ずいぶんお好きになったようですね」

「そうかもしれません」

 ソフィアは、少し照れたように笑った。

「それから、料理もしました」

「料理を」

「はい」

「どのようなものを?」

「野菜を煮込んだものです」

「うまくできましたか」

 ソフィアは少し考えた。

「食べることはできました」

「それは、うまくできたとは言わないのではありませんか」

「少し焦げただけです」

「少し」

「……鍋の底は、かなり黒くなりました」

 サンセリテが笑う。

 ソフィアも笑った。

 教皇と聖王大聖女が話しているというより、料理を焦がした一人の女性と、その話を聞く一人の老人が、朝の部屋で笑っているようだった。

 笑い声は、やがて静かになった。

 部屋へ、朝の静けさが戻ってくる。

 窓から差し込んだ光が、机の上へ広がっていた。

 羽根ペン。

 閉じられた書類。

 小さなインク壺。

 どれも静かに光を受けている。

 ソフィアは、膝の上へ置いた自分の手を見た。

 話したいことがあった。

 ここへ来る前から、ずっと考えていたことだった。

 けれど、どのように話せばよいのか分からなかった。

 休暇のことなら、いくらでも話せた。

 菓子のことも。

 小説のことも。

 料理のことも。

 笑いながら話すことができた。

 そのあとの言葉だけが、喉の奥へ引っかかっていた。

 指を重ね、少し強く握る。

 力を抜き、また重ねる。

 サンセリテは、何も尋ねなかった。

 急かすこともない。

 ただ、静かに待っていた。

「……サンセリテ様」

「はい」

「少し」

 そこで、声が止まった。

 ソフィアは一度、息を吸った。

「少し、お話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」

「もちろんです」

 短い返事だった。

 何を話すのか、先に尋ねることもしなかった。

 その一言だけで、少し息がしやすくなった。

「私は」

 口を開く。

 けれど、次の言葉が続かない。

「私は……」

 胸の中では、何度も考えていた。

 それでも、声にしようとすると怖かった。

 言ってはいけないことのような気がした。

 言葉にした瞬間、今まで受け取ってきたものを、すべて否定してしまうように思えた。

 父と母が喜んでくれたこと。

 神父や修道女たちが教えてくれたこと。

 人々が信じてくれたこと。

 そのすべてを裏切ってしまうような気がした。

 ソフィアは膝の上の手を見つめたまま、ゆっくりと言った。

「聖王大聖女というお役目は」

 一度、言葉を止める。

「私には、少し荷が重いのです」

 部屋は静かだった。

 サンセリテは何も言わなかった。

 驚くことも、眉を寄せることもない。

 ただ、ソフィアを見ていた。

 ソフィアは、小さく息を吐いた。

 言ってしまった。

 そう思った。

 胸が苦しくなると思っていた。

 けれど実際には、少しだけ息がしやすくなっていた。

「皆様は、私をとても立派な人だと思ってくださっています」

 ソフィアは、ゆっくりと続けた。

「エリアネ様と、ミュゲ様のような人間だと、そう言ってくださいます」

 就任式の日、大聖堂へ響いた言葉を思い出す。

 初代大聖女エリアネの慈愛を受け継ぐ者。

 大聖女ミュゲの意志を継ぐ者。

 史上初の聖王大聖女。

 あの日から、何度も呼ばれてきた。

 世界の希望。

 二人の再来。

 聖王様。

「ですが」

 ソフィアは静かに首を横へ振った。

「私は、そこまで立派ではありません」

 声は震えていなかった。

 けれど、一つひとつの言葉を置くまでに時間がかかった。

「迷います。何が正しいのか、分からなくなることもあります。決めることが怖くなる日もあります。逃げたくなることもあります」

 そのどれも、今まで誰にも言わなかった。

 迷っても、顔には出さなかった。

 怖くても、笑った。

 逃げたくなっても、足を止めなかった。

「歴代の大聖女様ほど、強くありません」

 ソフィアは言った。

「私一人では、何もできません」

 洪水の時も。

 疫病の時も。

 国と国との争いを止めた時も。

 自分一人の力ではなかった。

「騎士団の皆様が、危険な場所へ向かってくださいました。神官の皆様が治療を支え、修道女の皆様が眠らずに人々の世話をしてくださいました。各国の方々も、町の方々も、本当に多くの人が力を貸してくださいました」

 少し息をつく。

「それなのに、私の名前だけが残ります」

 聖王大聖女が救った。

 ソフィアが成し遂げた。

 人々は、そう言った。

 ソフィアは、もう一度首を横へ振った。

「違うのです。私一人ではないのです」

 五年前、一人の元大聖女から功績を渡された。

 自分は何もしていないと言った。

 けれど、その人はソフィアが受け取るべきだと言った。

 五年後、もう一人の元大聖女も、同じように功績を渡した。

 それからも、たくさんの人の働きが、少しずつソフィアの名へ集まっていった。

 受け取るたびに、自分のものではない何かが、胸の中へ増えていくような気がした。

「功績の中には、本当に私のものではないものもあります」

 声が、少し小さくなる。

「受け取れないと申し上げました。何度も、お返ししようとしました。けれど、これからの時代にはあなたが必要なのだと、皆が私へ期待しているのだと言われました」

 サンセリテは、黙って聞いていた。

「だから、受け取りました。私一人の気持ちで、皆様が決めたことを覆してはいけないと思いました。それが世界のためになるのなら、私が受け取るべきなのだと」

 その時も、苦しいとは言えなかった。

 ありがたいことだと思おうとした。

 信じてもらえることは幸せなことだと、何度も自分へ言い聞かせた。

「ですが」

 ソフィアは、自分の手を見つめた。

「皆様が見ている私と、本当の私は、少し違います」

 休暇中の自分を思い出す。

 一日じゅう眠った。

 何をすればよいのか分からず、観光案内の前で長いあいだ迷った。

 料理を焦がした。

 恋愛劇を観て、隣の人から布を何枚も借りるほど泣いた。

 研究を始めれば、休暇中であることも、食事を取ることも忘れた。

「料理も上手ではありません。町へ出ても、どちらへ行けばよいのか決められませんでした。恋愛劇を観ただけで、たくさん泣きました。研究を始めれば、食事も忘れます」

 少しだけ、口元が緩んだ。

「普通の人です」

 その言葉を口にすると、不思議な気持ちがした。

 自分を卑下しているようには思わなかった。

 恥ずかしいことを言っている気もしなかった。

 普通の人。

 それだけだった。

 サンセリテは、何も否定しなかった。

「けれど、人々は私を見て、エリアネ様を見ます。ミュゲ様を見ます。聖王大聖女を見ます」

 ソフィアは続けた。

「私ができないと言えば、慎ましい方だと言われます。怖いと言えば、それでも立ち向かう勇気のある方だと言われます。疲れたと言えば、民のために無理をする立派な方だと言われます」

 何を言っても、別の意味へ置き換えられる。

 自分の言葉が、自分のものではなくなっていく。

「だから、期待されればされるほど、怖くなるのです」

 声が少しずつ小さくなった。

「いつか、皆様が見ている私と、本当の私が違うのだと知られてしまう気がして。いつか、失望させてしまうのではないかと」

 そこで、言葉が途切れた。

 ソフィアは膝の上へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。

 時計が、小さく時を刻んでいる。

 窓の外で、鳥の声がした。

「でも」

 ソフィアは、もう一度口を開いた。

「このようなことを、言ってはいけないと思っていました」

 自分は、夢を叶えた。

 幼いころ、礼拝堂で二人の肖像画を見上げた。

 誰かを助けられる人になりたい。

 泣いている人を笑顔にしたい。

 困っている人の力になりたい。

 そう願った。

 その願いは叶った。

 聖女になり、多くの人を助けた。

 子どものころには想像もできなかったほど、たくさんの人から感謝された。

「幼いころから、聖女になりたいと思っていました。父も母も応援してくれました。教会の皆様も、私を大切に育ててくださいました。多くの方が、私を信じてくださいました」

 少し息を吸う。

「その私が、苦しいなどと言えば、恩知らずなのだと思っていました」

 夢を叶えた人間が、叶えた夢を重いと言う。

 それは、願っても叶わなかった人への裏切りのように思えた。

 応援してくれた人への裏切りのようにも思えた。

 だから、笑った。

 大丈夫だと言った。

 まだできますと答えた。

 疲れていても、苦しくても、自分からは何も言わなかった。

「自分で望んだ道なのだから、苦しいと思ってはいけない。そう思っていました」

 ソフィアは、ゆっくり首を横へ振った。

「夢が叶ったあとで、その夢が重いなどと言ってはいけないと思っていました」

 父にも。

 母にも。

 神父にも。

 修道女にも。

 一緒に働く者たちにも。

 誰にも言えなかった。

「……荷が重い、と」

 それが、最後の言葉だった。

 部屋は静かだった。

 サンセリテは何も言わない。

 慰めることも、励ますこともなかった。

 すぐに答えを与えることもしなかった。

 ただ、ソフィアの言葉を聞いていた。

 時計が、小さく時を刻んでいる。

 窓から差し込む朝の光が、床へ長く伸びていた。

 ソフィアも、もう何も言わなかった。

 言いたかったことは、ようやく言葉になっていた。

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