第12節 荷が重い
休暇が終わった翌朝、教会にはいつもの時間が戻っていた。
鐘が鳴り、神官たちは書類を抱えて廊下を行き交う。修道女たちは礼拝堂へ花を運び、朝の祈りの支度をしていた。開かれた窓からは、まだ少し冷たい風が入ってくる。
一週間前と、何も変わらない朝だった。
ソフィアも、いつもの法衣を身につけていた。
純白の布。胸元へ刺繍された聖印。長い金色の髪も、乱れのないように整えられている。
廊下を歩けば、すれ違う者たちが足を止めた。
「おはようございます、聖王様」
「おはようございます」
ソフィアは微笑み、頭を下げた。
「お加減はいかがですか」
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「それはよろしゅうございました」
修道女は、ほっとしたように笑った。
「皆、聖王様がお戻りになるのをお待ちしておりました」
「ありがとうございます」
待っていてくれた人がいる。
自分が戻ることを、喜んでくれる人がいる。
そのことは、今も変わらず温かかった。
けれど以前なら、その温かさを受け取ったあと、すぐに歩く速度を上げていただろう。
待たせてはいけない。
早く仕事へ戻らなければならない。
そう思っていた。
今日は、急がなかった。
一歩ずつ、廊下の窓から差し込む朝の光を眺めながら歩いた。
教皇執務室へ向かう。
今日の予定を確かめ、休暇中の報告を受けなければならない。机の上には、きっと多くの書類が積まれている。
そう考えるだけで、胸の奥へ以前と同じ重さが少し戻ってきた。
けれど今日は、それとは別に話したいことがあった。
執務室の前へ着き、扉へ手を伸ばす。
すぐには叩けなかった。
ソフィアは一度、手を下ろした。
廊下には誰もいない。
遠くから神官たちの話し声が聞こえる。窓の外では、小鳥が一羽、石の欄干へ止まっていた。
小さく息を吸う。
それから、もう一度扉へ手を伸ばし、静かに叩いた。
「失礼いたします」
「どうぞ」
聞き慣れた声だった。
ソフィアは扉を開けた。
教皇サンセリテは、机の向こうで書類へ目を通していた。傍らには、すでにいくつもの紙の束が積まれている。
羽根ペンを置き、顔を上げた。
「おはようございます、ソフィア」
「おはようございます」
ソフィアは頭を下げた。
「一週間、お休みをいただき、ありがとうございました」
「もう体調はよろしいのですか」
「はい。身体は、すっかり軽くなりました」
「それはよかった」
サンセリテは椅子を勧めた。
ソフィアは机の前へ腰を下ろす。
サンセリテは、すぐには仕事の話をしなかった。
「休暇はいかがでしたか」
尋ねられ、ソフィアは少し考えた。
初めの日には、眠ることしかできなかった。
二日目には、何をすればよいのか分からなかった。
それから町を歩き、甘い菓子を食べた。恋愛劇を観て泣き、本と髪飾りとティーカップを買った。子どもたちと遊び、料理もした。鍋の底を、少し黒くした。
図書館へ行けば、研究を始めてしまった。
論文を書き、翌日には推敲までした。
最後の日には、魔道具店で子どもを助けた。
思い返せば、長かったようにも、短かったようにも感じられた。
「……楽しかったです」
口から出たのは、その言葉だった。
ソフィアは、自分でも少し驚いた。
よく眠れました。
身体は回復しました。
仕事へ戻る準備はできています。
そのように答えるつもりだった。
けれど最初に浮かんだのは、楽しかった、という言葉だった。
サンセリテは穏やかに微笑んだ。
「そうですか」
「はい」
ソフィアも笑った。
「町へ出ました」
「変装をして?」
「はい。帽子と眼鏡を身につけました」
「見つかりませんでしたか」
「最後の日までは」
サンセリテは、少し眉を上げた。
「最後の日には、何があったのですか」
「魔道具店で、魔法石が暴走しました」
ソフィアは、店で起きたことを話した。
魔水晶へ亀裂が入ったこと。
客たちが逃げたこと。
子どもが取り残されたこと。
光結界で、子どもを守ったこと。
爆風で帽子と眼鏡が飛んでしまったこと。
「それで、見つかったのですね」
「はい」
「皆は、何と言いましたか」
「民の暮らしを見守るために、変装して町を歩いていたのだと思われました」
サンセリテは、少しだけ困ったように笑った。
「あなたらしい解釈をされましたね」
「今日は休暇だったのですけどね、と申し上げました」
「言えたのですか」
「はい」
あの時のことを思い出す。
仕事ではない。
町を見守るためでもない。
ただ遊びに来たのだと、自分の口で人々へ伝えた。
「少し、恥ずかしかったです」
「ですが、言えてよかったのでしょう」
「そう思います」
ソフィアは頷いた。
そのあと、町で食べた菓子のことを話した。
劇場で観た恋愛劇のことも。
「そんなに泣いたのですか」
「隣の方から、布を三枚いただきました」
「三枚も」
「はい」
サンセリテは声を上げて笑った。
ソフィアも、思い出して笑った。
「とても素敵なお話だったのです」
「どのような話でしたか」
「身分の違う二人が、最後には互いを選ぶお話です」
「なるほど」
「家柄でも、役目でもなく」
ソフィアは、そこで少し言葉を止めた。
「ただ、その人だからと」
劇場で流した涙を思い出す。
あの時は、なぜあれほど泣いたのか、自分でも分からなかった。
今なら、少しだけ分かるような気がした。
けれど、そのことはまだ口にしなかった。
「恋愛小説も買いました」
「読み終えましたか」
「はい。別の本も読みました」
「休暇中に、ずいぶんお好きになったようですね」
「そうかもしれません」
ソフィアは、少し照れたように笑った。
「それから、料理もしました」
「料理を」
「はい」
「どのようなものを?」
「野菜を煮込んだものです」
「うまくできましたか」
ソフィアは少し考えた。
「食べることはできました」
「それは、うまくできたとは言わないのではありませんか」
「少し焦げただけです」
「少し」
「……鍋の底は、かなり黒くなりました」
サンセリテが笑う。
ソフィアも笑った。
教皇と聖王大聖女が話しているというより、料理を焦がした一人の女性と、その話を聞く一人の老人が、朝の部屋で笑っているようだった。
笑い声は、やがて静かになった。
部屋へ、朝の静けさが戻ってくる。
窓から差し込んだ光が、机の上へ広がっていた。
羽根ペン。
閉じられた書類。
小さなインク壺。
どれも静かに光を受けている。
ソフィアは、膝の上へ置いた自分の手を見た。
話したいことがあった。
ここへ来る前から、ずっと考えていたことだった。
けれど、どのように話せばよいのか分からなかった。
休暇のことなら、いくらでも話せた。
菓子のことも。
小説のことも。
料理のことも。
笑いながら話すことができた。
そのあとの言葉だけが、喉の奥へ引っかかっていた。
指を重ね、少し強く握る。
力を抜き、また重ねる。
サンセリテは、何も尋ねなかった。
急かすこともない。
ただ、静かに待っていた。
「……サンセリテ様」
「はい」
「少し」
そこで、声が止まった。
ソフィアは一度、息を吸った。
「少し、お話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
短い返事だった。
何を話すのか、先に尋ねることもしなかった。
その一言だけで、少し息がしやすくなった。
「私は」
口を開く。
けれど、次の言葉が続かない。
「私は……」
胸の中では、何度も考えていた。
それでも、声にしようとすると怖かった。
言ってはいけないことのような気がした。
言葉にした瞬間、今まで受け取ってきたものを、すべて否定してしまうように思えた。
父と母が喜んでくれたこと。
神父や修道女たちが教えてくれたこと。
人々が信じてくれたこと。
そのすべてを裏切ってしまうような気がした。
ソフィアは膝の上の手を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「聖王大聖女というお役目は」
一度、言葉を止める。
「私には、少し荷が重いのです」
部屋は静かだった。
サンセリテは何も言わなかった。
驚くことも、眉を寄せることもない。
ただ、ソフィアを見ていた。
ソフィアは、小さく息を吐いた。
言ってしまった。
そう思った。
胸が苦しくなると思っていた。
けれど実際には、少しだけ息がしやすくなっていた。
「皆様は、私をとても立派な人だと思ってくださっています」
ソフィアは、ゆっくりと続けた。
「エリアネ様と、ミュゲ様のような人間だと、そう言ってくださいます」
就任式の日、大聖堂へ響いた言葉を思い出す。
初代大聖女エリアネの慈愛を受け継ぐ者。
大聖女ミュゲの意志を継ぐ者。
史上初の聖王大聖女。
あの日から、何度も呼ばれてきた。
世界の希望。
二人の再来。
聖王様。
「ですが」
ソフィアは静かに首を横へ振った。
「私は、そこまで立派ではありません」
声は震えていなかった。
けれど、一つひとつの言葉を置くまでに時間がかかった。
「迷います。何が正しいのか、分からなくなることもあります。決めることが怖くなる日もあります。逃げたくなることもあります」
そのどれも、今まで誰にも言わなかった。
迷っても、顔には出さなかった。
怖くても、笑った。
逃げたくなっても、足を止めなかった。
「歴代の大聖女様ほど、強くありません」
ソフィアは言った。
「私一人では、何もできません」
洪水の時も。
疫病の時も。
国と国との争いを止めた時も。
自分一人の力ではなかった。
「騎士団の皆様が、危険な場所へ向かってくださいました。神官の皆様が治療を支え、修道女の皆様が眠らずに人々の世話をしてくださいました。各国の方々も、町の方々も、本当に多くの人が力を貸してくださいました」
少し息をつく。
「それなのに、私の名前だけが残ります」
聖王大聖女が救った。
ソフィアが成し遂げた。
人々は、そう言った。
ソフィアは、もう一度首を横へ振った。
「違うのです。私一人ではないのです」
五年前、一人の元大聖女から功績を渡された。
自分は何もしていないと言った。
けれど、その人はソフィアが受け取るべきだと言った。
五年後、もう一人の元大聖女も、同じように功績を渡した。
それからも、たくさんの人の働きが、少しずつソフィアの名へ集まっていった。
受け取るたびに、自分のものではない何かが、胸の中へ増えていくような気がした。
「功績の中には、本当に私のものではないものもあります」
声が、少し小さくなる。
「受け取れないと申し上げました。何度も、お返ししようとしました。けれど、これからの時代にはあなたが必要なのだと、皆が私へ期待しているのだと言われました」
サンセリテは、黙って聞いていた。
「だから、受け取りました。私一人の気持ちで、皆様が決めたことを覆してはいけないと思いました。それが世界のためになるのなら、私が受け取るべきなのだと」
その時も、苦しいとは言えなかった。
ありがたいことだと思おうとした。
信じてもらえることは幸せなことだと、何度も自分へ言い聞かせた。
「ですが」
ソフィアは、自分の手を見つめた。
「皆様が見ている私と、本当の私は、少し違います」
休暇中の自分を思い出す。
一日じゅう眠った。
何をすればよいのか分からず、観光案内の前で長いあいだ迷った。
料理を焦がした。
恋愛劇を観て、隣の人から布を何枚も借りるほど泣いた。
研究を始めれば、休暇中であることも、食事を取ることも忘れた。
「料理も上手ではありません。町へ出ても、どちらへ行けばよいのか決められませんでした。恋愛劇を観ただけで、たくさん泣きました。研究を始めれば、食事も忘れます」
少しだけ、口元が緩んだ。
「普通の人です」
その言葉を口にすると、不思議な気持ちがした。
自分を卑下しているようには思わなかった。
恥ずかしいことを言っている気もしなかった。
普通の人。
それだけだった。
サンセリテは、何も否定しなかった。
「けれど、人々は私を見て、エリアネ様を見ます。ミュゲ様を見ます。聖王大聖女を見ます」
ソフィアは続けた。
「私ができないと言えば、慎ましい方だと言われます。怖いと言えば、それでも立ち向かう勇気のある方だと言われます。疲れたと言えば、民のために無理をする立派な方だと言われます」
何を言っても、別の意味へ置き換えられる。
自分の言葉が、自分のものではなくなっていく。
「だから、期待されればされるほど、怖くなるのです」
声が少しずつ小さくなった。
「いつか、皆様が見ている私と、本当の私が違うのだと知られてしまう気がして。いつか、失望させてしまうのではないかと」
そこで、言葉が途切れた。
ソフィアは膝の上へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
時計が、小さく時を刻んでいる。
窓の外で、鳥の声がした。
「でも」
ソフィアは、もう一度口を開いた。
「このようなことを、言ってはいけないと思っていました」
自分は、夢を叶えた。
幼いころ、礼拝堂で二人の肖像画を見上げた。
誰かを助けられる人になりたい。
泣いている人を笑顔にしたい。
困っている人の力になりたい。
そう願った。
その願いは叶った。
聖女になり、多くの人を助けた。
子どものころには想像もできなかったほど、たくさんの人から感謝された。
「幼いころから、聖女になりたいと思っていました。父も母も応援してくれました。教会の皆様も、私を大切に育ててくださいました。多くの方が、私を信じてくださいました」
少し息を吸う。
「その私が、苦しいなどと言えば、恩知らずなのだと思っていました」
夢を叶えた人間が、叶えた夢を重いと言う。
それは、願っても叶わなかった人への裏切りのように思えた。
応援してくれた人への裏切りのようにも思えた。
だから、笑った。
大丈夫だと言った。
まだできますと答えた。
疲れていても、苦しくても、自分からは何も言わなかった。
「自分で望んだ道なのだから、苦しいと思ってはいけない。そう思っていました」
ソフィアは、ゆっくり首を横へ振った。
「夢が叶ったあとで、その夢が重いなどと言ってはいけないと思っていました」
父にも。
母にも。
神父にも。
修道女にも。
一緒に働く者たちにも。
誰にも言えなかった。
「……荷が重い、と」
それが、最後の言葉だった。
部屋は静かだった。
サンセリテは何も言わない。
慰めることも、励ますこともなかった。
すぐに答えを与えることもしなかった。
ただ、ソフィアの言葉を聞いていた。
時計が、小さく時を刻んでいる。
窓から差し込む朝の光が、床へ長く伸びていた。
ソフィアも、もう何も言わなかった。
言いたかったことは、ようやく言葉になっていた。




