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休日  作者: Atelier Lotus文庫


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13/14

第13節 信頼

 部屋には、静かな時間が流れていた。

 時計が、小さく時を刻んでいる。窓から差し込む朝の光は、先ほどよりも少しだけ長く床へ伸びていた。

 ソフィアは、膝の上へ重ねた両手を見つめていた。

 言いたかったことは、もうすべて言った。

 聖王大聖女という役目は、自分には荷が重いこと。

 歴代の大聖女ほど強くはないこと。

 人々が見ている自分と、本当の自分は少し違うこと。

 期待されるほど、いつか失望させてしまうのではないかと怖くなること。

 夢を叶えた自分が苦しいなどと言えば、恩知らずなのだと思っていたこと。

 胸の奥へしまい続けてきた言葉を、すべて外へ出した。

 それなのに、今になって少しだけ怖くなった。

 サンセリテは、どう思ったのだろう。

 失望しただろうか。

 聖王大聖女にふさわしくないと思っただろうか。

 この役目を任せたことは間違いだったと、そう考えているのかもしれない。

 ソフィアは、顔を上げることができなかった。

 サンセリテも、すぐには何も言わなかった。

 ただ、静かに座っていた。

 長い沈黙だった。

 けれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。

 やがて、サンセリテが口を開いた。

「ソフィア」

 聖王大聖女ではなかった。

 聖王様でもなかった。

 ただ、ソフィア。

 その名前を呼ばれた。

 ソフィアは、ゆっくりと顔を上げた。

 サンセリテは、穏やかな目でこちらを見ていた。

「あなたのおっしゃるとおりです」

 思ってもいなかった言葉だった。

 ソフィアは、わずかに目を見開いた。

「エリアネ様は、あなたよりお強かった。ミュゲ様にも、あなたにはない強さがありました」

 その声に、ためらいはなかった。

「お二人には長い経験がありました。人々を率いる力も、災厄の中で迷わず決断する強さもあった。あなたより優れていたところは、いくつもあります」

 ソフィアは黙って聞いていた。

 慰めてもらえると思っていたわけではない。

 けれど、自分が二人に及ばないことを、そのまま認められるとも思っていなかった。

 胸が痛むかもしれないと思った。

 しかし、不思議とそうはならなかった。

 むしろ初めて、本当のことを言ってもらえたような気がした。

「あなたは迷います。失敗もします。一人では成し遂げられないこともあります」

 サンセリテは静かに言った。

「それも事実です」

 ソフィアは、小さく頷いた。

「はい」

「ですが」

 サンセリテは、少しだけ言葉を止めた。

「だから、あなたへ称号を授けたことが間違いだったのではありません」

 ソフィアは、もう一度顔を上げた。

「私たちは、あなたが完璧だから聖王大聖女の称号を授けたのではありません。誰よりも強かったからでも、誰よりも大きな奇跡を起こしたからでもないのです」

 窓の外で、小鳥が鳴いた。

 サンセリテは、その声を少しだけ聞くように目を細めた。

「完璧な者を探していたのなら、私たちは永遠に誰も選べなかったでしょう」

 その言葉には、わずかな笑いが含まれていた。

「エリアネ様も、ミュゲ様も、完璧な方ではありませんでした」

 ソフィアは驚いた。

 礼拝堂に飾られた二人の肖像画を思い出す。

 穏やかな微笑み。

 迷いのない眼差し。

 歴史書へ残された、数え切れない功績。

 幼いころから、二人はいつも、完成された人のように見えていた。

「私は」

 サンセリテは、窓の外へ目を向けた。

「お二人が眠れなかった夜も知っています」

 静かな声だった。

 何かを教えようとする声ではなかった。

 遠い日のことを、確かめるような声だった。

「怖いとおっしゃった日も、泣かれた日も。自分の判断は間違っていたのではないかと、朝まで悩んでおられた日もありました」

 少し間があいた。

「救えなかった命の前で、何も言えずに立ち尽くしておられた日も」

 ソフィアは、何も言えなかった。

 肖像画の中の二人には、そのような夜があったようには見えなかった。

「歴史に残るのは、いつも昼だけです」

「昼……ですか」

「ええ」

 サンセリテは小さく頷いた。

「人々の前に立った姿。奇跡を起こした瞬間。多くの命を救った日。それらは長く語り継がれます」

 窓から差し込む光へ、静かに目を向ける。

「けれど、夜は残りません。眠れなかった夜も、怖かった夜も、救えなかった人の名を何度も呼んだ夜も、誰も書き残しません」

 サンセリテは、少し寂しそうに笑った。

「だから歴史は、ときどき人を強く描きすぎるのです」

 ソフィアは、膝の上の手を見た。

 自分が知っていたエリアネとミュゲは、二人の人生の明るいところだけだった。

 光の当たる場所。

 人々の前に立っていた時。

 何かを成し遂げた日。

 けれど、二人にも夜があった。

 迷った夜。

 泣いた夜。

 何もできなかった夜。

「聖女とは、強い人のことではありません」

 サンセリテは続けた。

「奇跡を起こす人のことでもない。光魔法を使える者が、すべて聖女になれるわけでもありません」

 ソフィアは黙って聞いていた。

「では」

 少し迷ってから、尋ねる。

「聖女とは、どのような人なのでしょうか」

 サンセリテは、すぐには答えなかった。

 机の上へ置かれた自分の手を見つめる。

 長い年月を過ごしてきた、皺の深い手だった。

「人の痛みの前で、立ち止まることのできる人です」

 ソフィアは、その言葉を静かに聞いた。

「大勢の前で立派な言葉を話すことより、一人の泣いている者の前へ膝をつくこと。国を救うほどの大きな奇跡より、傷ついた人へ大丈夫ですと声をかけること」

 サンセリテはソフィアを見た。

「世界のためという言葉の陰で、目の前にいる一人を見失わないこと。そして、肩書きを忘れて手を伸ばせることです」

 ソフィアの胸へ、休暇最後の日の光景が浮かんだ。

 新しくできた魔道具店。

 魔水晶へ入った亀裂。

 暴走する魔法石。

 逃げる人々。

 倒れた棚。

 その向こうから聞こえた、子どもの泣き声。

「魔道具店でのことは、すでに報告を受けています」

 サンセリテが言った。

 ソフィアは、少し恥ずかしくなった。

「やはり、届いていたのですね」

「聖王大聖女が、休暇中に魔道具店を半壊させたと聞きました」

「私が壊したわけではありません」

「分かっています」

 サンセリテは、少しだけ笑った。

 ソフィアも小さく笑う。

 けれど、すぐに静かな表情へ戻った。

「あなたはあの時、聖王大聖女として子どもを助けようと思ったのですか」

 ソフィアは首を横へ振った。

「いいえ」

「教会の名誉を守るためですか」

「違います」

「人々から称賛されると思ったからですか」

「いいえ」

「では」

 サンセリテは、静かに尋ねた。

「なぜ、助けたのですか」

 ソフィアは少し考えた。

 けれど、考えるほどのことではなかった。

 あの時も、考えるより先に身体が動いていた。

「子どもが」

 小さく答える。

「泣いていたからです」

 それだけだった。

 助けなければならないという義務でもない。

 聖王大聖女としての判断でもない。

 ただ、泣いている子どもがいた。

 だから、手を伸ばした。

 サンセリテは静かに頷いた。

「それが、私たちの見ているあなたです」

 ソフィアは、何も答えられなかった。

「もちろん、あなたへエリアネ様やミュゲ様を重ねている者もいるでしょう。希望を重ね、理想を求めている者もいます。皆が、あなた自身だけを見ているとは申しません」

 その言葉は、ソフィアの苦しさをなかったことにはしなかった。

「ですが、すべての者が、あなたの向こうへ別の誰かを見ていたわけでもありません」

 災害の現場で、泥に汚れながら傷ついた者の手を握ったソフィア。

 疫病が広がった町で、一人ずつ名前を呼び、治療を続けたソフィア。

 救えなかった命のために、誰もいない礼拝堂で朝まで祈ったソフィア。

 功績を褒められるたび、自分一人の力ではないと言い続けたソフィア。

「私たちは、エリアネ様でも、ミュゲ様でもなく、あなたを見ていました」

 静かな声だった。

 強く言われたわけではない。

 それなのに、その言葉は胸の奥へゆっくりと入ってきた。

「では」

 ソフィアは、少し迷いながら尋ねた。

「お二人は、なぜ私へ功績を託されたのでしょうか」

 それは、ずっと聞きたかったことだった。

 二人の元大聖女は、自分たちが成し遂げた功績をソフィアへ渡した。

 返そうとしても、受け取らなかった。

 これからの時代には、あなたが必要だからと、そう言った。

「私は、お二人より優れているわけではありません。同じことができるとも思えません。それなのに、どうして私だったのでしょうか」

 サンセリテは、しばらくソフィアを見つめた。

 やがて静かに言った。

「お二人は、自分たちより優れた者を探していたのではありません」

 ソフィアは顔を上げた。

「エリアネ様は、私へおっしゃいました。自分より強いから、あの子へ渡すのではない、と」

 サンセリテの声は、また遠い日を思い出すものへ変わった。

「自分が救えなかった者の前でも、あの子なら立ち止まることができる、と」

 ソフィアは黙って聞いていた。

「ミュゲ様も、自分たちの名をさらに大きくする者へ渡したいのではないとおっしゃいました。自分たちのあとに残る人々を、見続けてくれる者へ渡したいと」

 胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 二人が自分へ求めていたのは、二人と同じ人間になることではなかった。

 同じ強さを持つことでも、同じ功績を成し遂げることでもなかった。

「お二人は、あなたへ自分たちの人生を繰り返してほしかったのではありません」

 サンセリテは続けた。

「あなた自身の人生で、その先を歩いてほしかったのです」

「私の……人生で」

「ええ」

 ソフィアは、膝の上の手を見つめた。

 ずっと、エリアネやミュゲのようにならなければならないと思っていた。

 二人に並ばなければならない。

 二人より弱くてはいけない。

 二人の名へ傷をつけてはいけない。

 そう思っていた。

 けれど、二人が望んだのは、ソフィアがソフィアとして歩くことだった。

「では」

 ソフィアは、小さく尋ねた。

「どうして、私だったのでしょう」

 サンセリテは、すぐには答えなかった。

 その問いを軽く扱わないように、少しだけ考えた。

「あなたが完璧だったからではありません。誰よりも強かったからでもない」

 ソフィアは静かに聞いていた。

「私たちが、あなたなら、迷った時に人の声を聞けると思ったからです」

 サンセリテは言った。

「一人で決めつけず、自分の正しさだけを信じず、誰かと歩くことのできる人だと思ったからです」

 ソフィアは、少し俯いた。

「ですが私は、ずっと一人で背負おうとしていました」

「ええ」

 サンセリテは否定しなかった。

「一人で背負わなければならないと、思い込んでおられました」

「私には、皆様を頼る資格があるのでしょうか」

「資格など、必要ありません」

 サンセリテは静かに言った。

「あなたが一人で背負うことを、誰も望んではいません。エリアネ様も、ミュゲ様も、私も。神官たちも、修道女たちも」

「では」

 ソフィアは顔を上げた。

「何を、望んでおられるのですか」

「共に歩くことです」

 短い言葉だった。

「迷った時には、迷っていると言ってください。怖い時には、怖いと言ってください。疲れた時には、休みたいと言ってください」

 サンセリテは、少し間を置いた。

「そして、一人ではできない時には、助けてほしいと言ってください」

 ソフィアは、何も言えなかった。

 そんなことをしてもよいのだろうか。

 聖王大聖女が、迷っていると。

 怖いと。

 助けてほしいと。

 言ってもよいのだろうか。

「ソフィア」

 もう一度、名前を呼ばれた。

「あなたは、選ばれたのではありません」

 ソフィアは、わずかに目を見開いた。

 選ばれたのではない。

 幼いころから、ずっとそう思っていた。

 光魔法に選ばれた。

 神に選ばれた。

 教会に選ばれた。

 世界の希望として選ばれた。

 特別でなければならない。

 期待へ応えなければならない。

 選ばれた者として、ふさわしく生きなければならない。

「あなたは」

 サンセリテは続けた。

「信頼されたのです」

 部屋は静かだった。

 窓の外で、風が木の葉を揺らしている。

 信頼。

 ソフィアは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 期待ではない。

 できて当然だと思われていたのでもない。

 迷うことも。

 弱いところがあることも。

 一人ではできないことも。

 そのすべてを知ったうえで、それでも任せたいと思われた。

「私が」

 ソフィアは、ゆっくり口を開いた。

「完璧でなくても」

「完璧ではないあなたを、信頼したのです」

 その言葉を聞いた時、目の奥が少しだけ熱くなった。

 ソフィアは瞬きをした。

 けれど、一筋の涙が頬を伝った。

 自分でも驚き、指先で拭う。

 それでも、次の涙が流れた。

 声は出なかった。

 悲しいわけではなかった。

 うれしいとも、まだうまく言えなかった。

 ただ、頬へ涙が流れていた。

「それは」

 ソフィアは少し笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。

「少し、困ります」

「どうしてですか」

「期待よりも」

 涙を拭いながら言った。

「信頼の方が、裏切りたくないと思ってしまいます」

 サンセリテは、小さく笑った。

「では、信頼へ応えるために、困った時には助けを求めてください」

「助けを求めることも、信頼へ応えることなのでしょうか」

「ええ」

 サンセリテは頷いた。

「信頼とは、一人で何もかも成し遂げることではありません。任せた者と任された者が、互いに手を伸ばせることです」

 ソフィアは、流れる涙をもう一度拭った。

「難しそうです」

「初めから上手にできる必要はありません」

「失敗しても」

「はい」

「迷っても」

「はい」

「それでも」

 サンセリテは穏やかに笑った。

「また、話しに来てください」

 ソフィアは、小さく頷いた。

「はい」

 部屋へ、もう一度静かな時間が戻った。

 けれど、先ほどまでの沈黙とは少しだけ違っていた。

 ソフィアは、深く息を吸った。

 胸の奥にあった重さは、なくなっていない。

 聖王大聖女という称号も、世界から向けられる期待も、これから続く仕事も、何一つ消えてはいなかった。

 今日も多くの判断を求められるだろう。

 迷うこともある。

 怖くなることもある。

 救えない命も、きっとなくならない。

 けれど、その重さは、自分が完璧であることを証明するために置かれたものではなかった。

 誰かが、この人なら任せられると信じ、静かに手渡したものだった。

 そして、その手は、渡したあとも離れてはいなかった。

 ソフィアは涙を拭った。

「ありがとうございます」

 静かに頭を下げる。

 サンセリテも頭を下げた。

「こちらこそ」

 なぜ、こちらこそなのだろう。

 少しだけ不思議に思った。

 けれど、尋ねなかった。

 窓の外で、朝の鐘がもう一度鳴った。

 仕事の始まる時刻だった。

 ソフィアは椅子から立ち上がった。

 机の上には、今日も多くの書類が積まれている。

 仕事は、少しも減っていなかった。

 肩に残る重さも、消えてはいなかった。

 ソフィアは、すぐには書類へ手を伸ばさなかった。

 一度、サンセリテを見た。

「初めに、今日の予定を一緒に確認していただけますか」

「もちろんです」

 サンセリテは答えた。

 ソフィアは頷き、それから一番上の書類へ手を置いた。

 その手は、幼い日、礼拝堂で初めて光を宿した手と同じだった。

 けれど今は、もう一人で差し出されてはいなかった。

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