終節 今日
数か月が過ぎた。
季節は少しだけ進み、窓の外では若葉がやわらかな風に揺れていた。
朝の鐘が鳴る。
ソフィアの執務室にも、いつもと変わらない一日が始まっていた。
机の上には、今日も書類が積まれている。
王立魔法学校から届いた、客員教授就任の依頼。
各国から寄せられた外交日程の調整。
王立中央病院からは、医療講演への出席依頼。
聖騎士団からは、光魔法講習会の講師依頼。
その下には、孤児院への慰問、地方教会からの相談、災害支援の報告書、式典への招待状、祝辞の依頼が重なっていた。
一枚を終えれば、また一枚。
昨日まで積まれていた書類がなくなれば、今日の書類が届く。
今日が終われば、明日の書類が届く。
以前より減るどころか、少しずつ増えているような気さえした。
ソフィアは、その山をしばらく見つめた。
上から下まで眺め、もう一度、上へ視線を戻す。
どこから手をつけても、すぐには終わりそうになかった。
「……多いですね」
誰へ向けた言葉でもなかった。
返事はない。
もちろん、書類が減ることもなかった。
ソフィアは椅子の背へ身体を預け、天井を見上げた。
ほんの少しだけ、このまま机へ突っ伏してしまいたいと思った。
「普通の女の子になりたいです……」
ぽつりと漏れる。
もし、ごく普通の二十三歳だったなら。
朝は少し寝坊をして、好きな服を選び、町を歩く。
喫茶店で紅茶を飲みながら本を読み、気になる店を見つけたら、予定を変えて入ってみる。
市場では夕食の材料を選ぶ。
帰り道には、今日は何を作ろうかと考える。
うまくできなければ、また今度作ればよい。
そんな毎日も、きっと悪くない。
少しだけ想像し、ソフィアは笑った。
その笑みは、しばらく口元に残っていた。
ふと、部屋の隅へ目を向ける。
小さな棚には、青い花模様のティーカップが置かれていた。
その隣には、白い花を模した髪飾りと、読み終えた恋愛小説がある。料理本には、いくつもの栞が挟まっていた。
どれも、一週間の休暇で手に入れたものだった。
以前の部屋にはなかったもの。
仕事には、何の役にも立たないもの。
けれど今では、どれもソフィアの部屋によく馴染んでいた。
料理本を開いた夜のことを思い出す。
形の揃っていない野菜。
少し濃くなった汁。
底を焦がしてしまった鍋。
上手にできた料理ではなかった。
誰にも褒められなかったし、誰かへ振る舞うために作ったわけでもない。
ただ、自分が食べるために作った。
そして、少し焦げた料理を、自分でおいしいと思った。
思い返すと、今でも少し可笑しかった。
ソフィアは立ち上がり、棚の前へ歩いた。
青い花模様のティーカップを両手で持ち上げる。
初めて使った時のことも覚えていた。
自分のためだけに選んだものを、自分のためだけに使う。
それが、少し照れくさかった。
けれど今は、もう迷わなかった。
紅茶を注ぎ、窓辺へ歩く。
湯気が、朝の光の中へ静かに消えていった。
一口飲む。
少し熱かった。
ソフィアはカップを口元から離した。
「……熱いですね」
小さく笑う。
もう一度、今度は少し冷ましてから飲んだ。
やわらかな香りが、ゆっくりと口の中へ広がる。
仕事の合間に紅茶を飲むことは、以前にもあった。
眠気を覚ますため。
冷えた身体を温めるため。
次の仕事へ移るため。
けれど、今飲んでいる紅茶は、それだけのためのものではなかった。
窓の向こうでは、若葉が風に揺れている。
忙しい朝だった。
それでも、その景色を見るための時間くらいは、自分で作ってもよいのだと思った。
遠くで鐘が鳴る。
廊下から、規則正しい足音が近づいてきた。
ソフィアは窓の外を見たまま、静かに紅茶を飲んでいた。
足音は扉の前で止まり、控えめな音がした。
「失礼いたします」
「どうぞ」
秘書が一礼して、部屋へ入ってきた。
両腕には、さらに書類が抱えられている。
ソフィアは、その束を見た。
机の上の山は、また少し高くなりそうだった。
「本日の予定でございます」
「ありがとうございます」
秘書は書類を机へ置き、一枚目を開いた。
午前には、地方教会から訪れる司祭との面会。
昼には、王立中央病院の医師団との協議。
午後には、聖騎士団の新しい訓練計画についての会議。
夕刻からは、他国の使節を招いた晩餐会。
そのあいだにも、承認を待つ書類がいくつもある。
ソフィアは静かに聞いていた。
以前なら、すべてを一度に自分の中へ入れようとしていただろう。
一つも忘れないように。
一つも遅れないように。
一つも間違えないように。
けれど今日は、秘書の手元にある予定表へ目を向けた。
「昼食の時間はありますか」
秘書が顔を上げる。
「はい」
予定表を確かめた。
「短い時間ですが、確保しております」
「では」
ソフィアは少し考えた。
「もう少しだけ、長くしてください」
秘書は目を瞬いた。
ソフィアが、そのようなことを言うのは珍しかった。
「午後の会議を、少し遅らせても構いませんか」
「確認いたします」
「お願いいたします」
秘書は予定表へ書き込んだ。
それから、もう一度ソフィアを見る。
「ほかにございますか」
ソフィアは、机の上の書類へ目を向けた。
今日中に、すべてを終えることは難しいだろう。
以前なら、夜まで残ればよいと思っていた。
眠る時間を減らせばよいと思っていた。
「急ぎではないものは、明日へ回してください」
「よろしいのですか」
「はい」
少しだけ迷ってから、ソフィアは続けた。
「今日できることを、今日いたします」
ごく当たり前の言葉だった。
けれどソフィアにとっては、これまで口にできなかった言葉だった。
秘書は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
「ありがとうございます」
秘書は書類を整理し直した。
今日必要なもの。
明日でもよいもの。
ほかの者へ任せられるもの。
一つずつ分けていく。
机の上の山が、ほんの少しだけ低くなった。
すべてがなくなったわけではない。
仕事そのものが減ったわけでもなかった。
ただ、一人で抱える必要のないものが、そこから除かれただけだった。
「それでは、失礼いたします」
「はい」
秘書は書類を抱え直し、静かに頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋は、また静けさを取り戻した。
ソフィアは、手にしていたティーカップを見た。
紅茶は少し冷めていた。
もう一口飲む。
今度は、ちょうどよい温かさだった。
カップを机へ戻す。
青い花模様が、朝の光を受けて淡く照らされている。
その隣には、王立魔法学校から届いた封書が置かれていた。
客員教授就任の依頼。
以前なら、求められているのだから受けなければならないと思っていただろう。
けれど今は、受けたいのか、受けられるのか、その二つを分けて考えようと思った。
魔法を教えることには興味がある。
若い学生たちと研究することも、きっと楽しい。
けれど、今の仕事と両立できるかは別のことだった。
難しいのであれば、断ってもよい。
講義の回数を減らしてもらってもよい。
誰かへ相談してもよい。
ソフィアは封書を机の端へ置いた。
あとで、サンセリテにも相談してみようと思った。
次に、王立中央病院からの依頼状を見る。
聖騎士団からの書類も見る。
どれも大切だった。
誰かの役に立つ仕事だった。
けれど、大切なものを、すべて一人で持つことはできない。
そのことを、今は少しだけ知っていた。
ソフィアは椅子へ腰を下ろした。
机の上には、変わらず書類が積まれている。
仕事は多い。
責任も重い。
明日になれば、また新しい書類が届くだろう。
迷う日もある。
怖くなる日もある。
何もしたくないと思う朝も、きっとまた来る。
普通の女の子になりたいと思うことも、これから何度もあるだろう。
けれど、青い花模様のティーカップは、これからもこの部屋にある。
恋愛小説も。
髪飾りも。
料理本も。
聖王大聖女として過ごす時間の中に、二十三歳のソフィアが選んだものは、静かに残り続ける。
どちらかを消す必要はなかった。
ソフィアは、一枚目の書類へ手を伸ばした。
地方教会から届いた相談書だった。
小さな町に暮らす、一人の子どもについて書かれている。
長く病に苦しみ、外へ出ることもできずにいるらしい。
ソフィアは最初の一行を読み、それから、もう一度丁寧に読み直した。
すぐに答えを書こうとはしなかった。
その町の神官だけではなく、王立中央病院の医師にも相談した方がよいかもしれない。
必要であれば、現地の者にも話を聞こう。
一人で決めるのではなく、できることを探していけばよい。
ソフィアは、青い花模様のカップへ一度だけ目を向けた。
「さて」
小さく息を吸う。
「今日も、始めましょう」
誰へ聞かせるでもない、小さな声だった。
朝の鐘が、もう一度鳴る。
若葉が、窓の外で揺れていた。
ソフィアは書類を一枚めくった。




