第8節 四日目
四日目の朝、ソフィアは窓から差し込む光で目を覚ました。
鐘が鳴るよりも、少し遅い時刻だった。
けれど、昨日までのように夕方ではない。部屋には、まだ朝のやわらかな明るさが残っている。
ソフィアは寝台の上で身体を起こした。
腕を動かし、肩をゆっくりと回す。目を閉じて、頭の重さも確かめてみた。
どこにも、以前のような鈍い疲れは残っていなかった。
よく眠ったからだろう。
一昨日も、その前の日も、ほとんど一日中眠っていた。
あれほど長く眠る必要があったことを、今になって少しだけ不思議に思った。
あの時の身体は、自分が考えていたよりも、ずっと前から休む場所を探していたのかもしれない。
ソフィアは寝台を降り、窓辺へ歩いた。
カーテンを開けると、涼しい風が部屋へ流れ込んだ。白い布がゆっくりと膨らみ、また元の形へ戻っていく。
王都の空は晴れていた。
昨日歩いた町並みが、いくつもの屋根の向こうに広がっている。
菓子店も、市場も、劇場も、公園も、ここから一つひとつを見つけることはできなかった。
それでも、昨日、自分があの町を歩いたことを思い出した。
赤い果物の酸味。市場に響いていた商人たちの声。劇場で頬を伝った涙。子どもたちと芝生を走った時の風。
どれも、まだ身体のどこかに残っているようだった。
今日は、もう一度町へ出たいとは思わなかった。
楽しくなかったからではない。
むしろ、とても楽しかった。
だからこそ今日は、静かに、その余韻の中にいたいと思った。
(今日は、部屋で過ごしましょう)
自然に、そう決めることができた。
昨日までなら、部屋で何をするのか、それは休暇と呼べるのか、時間を無駄にしていないかと、先に理由を探していただろう。
けれど今日は、部屋にいたいと思った。
誰かへ相談する必要もない。
理由を説明する必要もない。
自分がそうしたいと思ったから。
ただ、それだけでよかった。
顔を洗い、髪をとかし、動きやすい服へ着替えた。
鏡の前へ立つ。
机の上には、昨日買った白い花の髪飾りが置かれていた。
ソフィアはそれを手に取り、髪へ当ててみた。
昨日、店員はよく似合うと言ってくれた。
けれど今日は、誰にも見せる予定はない。部屋にいるだけなら、わざわざ身につけなくてもよかった。
それでも、ソフィアは髪へ飾った。
鏡を見る。
金色の髪に、小さな白い花が添えられていた。
「悪くありませんね」
ソフィアは小さく笑った。
その言葉を聞く者はいない。
誰にも褒められず、誰にも見られない。
それでも、自分には似合っていると思った。
それだけで、髪飾りを買ったことが少しうれしくなった。
部屋を見回す。
昨日持ち帰った紙袋が、机のそばへ置かれている。本棚には何冊もの本が、少し乱れて並んでいた。窓辺の机には、使わなくなった紙が重ねられ、棚の上には、いつ置いたのか思い出せない小箱もあった。
汚れているわけではなかった。
毎日、修道女たちが掃除をしてくれている。
けれど、自分の部屋なのに、何がどこにあるのか分からない場所がいくつもあった。
「少し、片づけましょう」
ソフィアは箒を借り、窓を大きく開けた。
まず、机の上にあるものを一つずつ手に取った。
使い終えた予定表。古い手紙。書きかけの魔法式。誰かから贈られた栞。
必要なもの。
もう使わないもの。
捨ててよいのか分からないもの。
一つずつ確かめながら、いくつかの場所へ分けていく。
仕事であれば、すぐに判断できた。
必要か。不要か。残すべきか。返すべきか。
けれど、自分のものを整理する時には、何度も手が止まった。
一通の古い手紙を開く。
そこには、以前助けた村の子どもたちから、拙い文字で礼が書かれていた。
『ソフィアさま、ありがとう』
『げんきになりました』
『またきてください』
文字の大きさも、行の並び方も揃っていなかった。紙の端には、花のようなものも描かれている。
ソフィアは、しばらくその手紙を見つめた。
これは、捨てるものではない。
そう思った。
棚にあった小箱を開け、内側を布で拭く。
そこを、大切な手紙を入れる場所にすることにした。
子どもたちの手紙を丁寧にたたみ、箱の中へしまった。
次に、本棚へ手を伸ばす。
魔法書。神学書。歴史書。各国の法制度について書かれた本。災害時の救援についてまとめられた資料。
本棚のほとんどを、仕事や学びに必要な本が占めていた。
昨日買った恋愛小説を、どこへ置こうかと考える。
研究書の隣では、少し落ち着かない。
神学書の隣も、どこか違う気がした。
しばらく迷った末、ソフィアは一番手に取りやすい場所へ五冊を並べた。
第一巻から第五巻まで、背表紙の色が揃っている。
その一角だけが、ほかより少し明るく見えた。
「あとで、読みましょう」
そう呟きながら、奥へ詰まった本を一度取り出す。
棚の奥へ手を入れた時、指先にやわらかな革の感触が触れた。
「何でしょう」
本のあいだから、一冊の薄い本を引き出した。
表紙は色褪せ、角も少し傷んでいた。それでも、花をかたどった小さな装飾だけは残っている。
題名は、『初恋物語』。
ソフィアは、しばらくその文字を見つめた。
自分で買った記憶はなかった。
誰かから借りたのだろうか。
表紙を開くと、最初の頁の隅に、小さな文字が書かれていた。
『勉強ばかりでは疲れてしまいます。たまには、物語も読んでください』
名前はなかった。
けれど、その文字には見覚えがあった。
聖女候補だったころ、身の回りの世話をしてくれていた修道女の一人が書いたものだった。
いつ渡されたのか、はっきりとは思い出せない。
おそらく、受け取って、礼を言って、あとで読もうと思ったのだろう。
そのまま、本棚の奥へ置いた。
読まないまま、何年も過ぎた。
ソフィアは椅子へ腰を下ろした。
「少しだけ、読んでみましょう」
片づけは、まだ終わっていない。
本棚から取り出した本も、机の上へ積まれたままだった。
けれど、一章くらいならよいと思った。
本を開く。
物語の主人公は、小さな村で暮らす一人の女性だった。
特別な力はない。
高い身分もない。
毎朝、家族のためにパンを焼き、昼には店を手伝い、夜には小さな窓から星を眺める。
どこにでもいる女性だった。
ある日、その村へ一人の旅人がやって来る。
二人は、初めから恋に落ちたわけではなかった。
挨拶をする。
少し話す。
時々、一緒に歩く。
旅人が店へ来ると、主人公は少しだけうれしくなる。来ない日は、仕事の手を止めて、窓の外を何度も見る。
その小さな変化が、ゆっくりと描かれていた。
ソフィアは頁をめくった。
一章が終わる。
次の章が始まる。
もう少しだけ。
二人がどうなるのか、それだけ確かめようと思った。
旅人には、村を去る日が決まっていた。
主人公も、そのことを知っている。
だから、気持ちを伝えない。
旅人もまた、何も言わない。
けれど、言葉にしないまま、二人のあいだには少しずつ何かが積もっていった。
ソフィアは、昨日観た劇を思い出した。
あの物語は、身分も家も捨てて、互いを選ぶ話だった。
こちらは、もっと静かだった。
大きな障害はない。
悪い人もいない。
ただ、旅立つ人と、残る人がいる。
互いを想っているのに、その想いを口にできない。
ソフィアは、次の頁をめくった。
窓から差し込んでいた朝の光が、少しずつ高くなった。
机の上へ落ちていた影が短くなる。
やがて、昼を知らせる鐘が鳴った。
ソフィアは顔を上げた。
「もう、お昼なのですね」
少しだけ驚いた。
本を閉じようとする。
けれど、旅人が村を去る日まで、あと一日だった。
そこまで読んだら。
そう思い、再び頁を開いた。
旅人は、翌朝には村を発つ。
主人公は、いつもと同じようにパンを焼く。
いつもと同じように笑う。
最後の日だからといって、特別なことはしない。
けれど、旅人のために焼いたパンだけ、少し形が崩れていた。
手が震えたからだった。
ソフィアは、その一文を何度か読んだ。
悲しいとは書かれていない。
泣いているとも書かれていない。
いつも上手に焼けるパンが、その日だけ少し崩れていた。
それだけだった。
けれど、主人公の胸の内が、よく分かるような気がした。
言葉へできないものが、指先へ伝わり、パンの形に残った。
ソフィアは、頁の上へ指を置いたまま、しばらく動かなかった。
旅人は、村を去った。
主人公は見送らなかった。
店の窓から、遠ざかる背中だけを見た。
そこで物語は終わるのだと思った。
けれど、数年後。
旅人は、もう一度村へ戻ってきた。
以前と同じ店。
以前と同じ窓。
主人公は少し年を重ね、旅人も、以前より穏やかな顔をしていた。
「ただいま」
旅人がそう言う。
主人公は、何も答えなかった。
ただ、今度は上手に焼けたパンを差し出した。
物語は、そこで終わっていた。
ソフィアは最後の頁を見つめた。
もう続きはない。
けれど、二人の時間は、そのあとも続いていくように思えた。
「よかったです」
小さく呟いた。
頬へ触れる。
指先が、少し濡れた。
いつ涙が流れたのか、自分でも気づかなかった。
劇場の時のように、何度も涙を拭ったわけではない。
ただ一筋、静かに流れていた。
ソフィアは目元を拭い、窓の外へ目を向けた。
部屋は、夕暮れの色に染まっていた。
朝から読み始めたはずだった。
昼の鐘を聞いたことも覚えている。
けれど、気づけば一日が終わろうとしていた。
片づけは途中だった。
本棚から取り出した本も、まだ机の上へ積まれている。
「また、してしまいましたね」
ソフィアは苦笑した。
一日を、本を読むことに使ってしまった。
以前なら、何もできなかったと思ったかもしれない。
もったいないことをしたと、自分を責めたかもしれない。
けれど今日は、本を閉じても後悔はなかった。
物語の中で、誰かと出会い、離れ、もう一度出会った。
その時間が、自分の中にも残っていた。
何もしていなかったわけではないように思えた。
ただ、仕事ではなかった。
それだけだった。
その時、腹の奥から小さな音がした。
ソフィアは自分の身体を見下ろした。
朝から何も食べていなかったことに、ようやく気づいた。
「夕食にしましょう」
普段なら、食事は部屋まで運ばれてくる。
けれど今日は、自分で何かを作ってみたいと思った。
昨日、市場で見た食べ物。菓子店で味わったケーキ。食べたいものを自分で選ぶ人々。
その姿を思い出した。
ソフィアは厨房へ向かった。
夕食の支度をしていた修道女たちは、ソフィアの姿を見ると一斉に頭を下げた。
「聖王大聖女様」
「何か御用でしょうか」
「少し、厨房をお借りしてもよろしいですか」
修道女たちは顔を見合わせた。
「お召し上がりになりたいものがございましたら、すぐにお作りいたします」
「ありがとうございます」
ソフィアは微笑んだ。
「今日は、自分で作ってみたいのです」
「ソフィア様が?」
「はい」
修道女たちは、少し心配そうな顔をした。
包丁を持たせてよいのか。
火を使わせてもよいのか。
そんなことを考えているのが、表情から伝わってきた。
「簡単なものにします」
そう言うと、年長の修道女が苦笑した。
「では、私どもも近くにおります」
「ありがとうございます」
何を作るか考える。
料理本を一冊借り、頁をめくった。
肉を焼く料理。野菜の煮込み。卵を使った料理。見たことのある料理も、名前しか知らないものも載っていた。
ソフィアは、野菜と肉を一緒に煮込む料理を選んだ。
特別な材料は必要なく、工程もそれほど多くなかった。
野菜を洗い、皮をむき、食べやすい大きさへ切る。
包丁を握るのは、久しぶりだった。
最初の一切れは、少し大きくなった。
次は小さすぎた。
同じ大きさに切ろうとしているのに、なかなか揃わない。
「難しいですね」
思わず呟く。
そばにいた修道女が笑った。
「初めから同じ大きさには切れませんよ」
「そういうものですか」
「ええ。何度も作るうちに、少しずつ揃うようになります」
昨日できなかったことが、今日は少しできる。
その言葉を聞いて、光魔法の練習を始めたころを思い出した。
初めは、小さな光を同じ形に保つことさえ難しかった。
料理も、それと同じなのかもしれない。
鍋へ油を引き、肉を入れる。
大きな音がして、ソフィアは思わず手を引きかけた。
けれど、料理本には、焼き色がつくまで動かさないと書かれている。
言われたとおりに待つ。
野菜を加え、水と調味料を入れ、蓋を閉める。
あとは、しばらく煮込むだけだった。
待っているあいだ、ソフィアは料理本をもう一度開き、手順を確かめた。
その時、そばにいた修道女が鼻を動かした。
「ソフィア様」
「はい」
「少し、焦げた匂いがしませんか」
「えっ」
慌てて蓋を開ける。
鍋の底から、細い煙が上がった。
火が強すぎたらしい。
急いで火を弱め、木べらで底をかき混ぜる。肉の一部が、茶色を通り越して黒くなっていた。
「あ……」
ソフィアは、しばらく鍋を見つめた。
失敗した。
その言葉が浮かんだ。
けれど、誰も困ってはいなかった。
外交の判断を誤ったわけではない。
救援物資が届かなくなったわけでもない。
誰かの傷を治せなかったわけでもなかった。
ただ、自分が食べる料理を少し焦がしただけだった。
修道女が鍋を覗き込む。
「このくらいなら、大丈夫ですよ」
「本当ですか」
「少し香ばしくなるくらいです」
ソフィアは、ほっと息をついた。
「では、このままいただきます」
「作り直されなくてもよろしいのですか」
「はい」
作り直す必要はないと思った。
失敗したことも含めて、自分の料理だった。
出来上がった料理を皿へ盛る。
大きさの揃っていない野菜。少し濃くなった汁。端の焦げた肉。
見た目は、教会で出される食事ほど美しくなかった。
それでもソフィアは、こぼさないよう両手で皿を持ち、自分の部屋まで運んだ。
小さな机へ、一人分の皿を置く。
向かいの席には、誰もいない。
会談の相手も、報告をする神官も、食事の途中で書類を差し出す秘書もいなかった。
静かな夕食だった。
ソフィアは両手を合わせた。
「いただきます」
肉を一切れ、口へ運ぶ。
少し焦げていた。
野菜は、切った大きさが違うため、やわらかいものと、まだ少し硬いものがあった。味も、少し濃い。
上手にできた料理ではなかった。
けれど、
「おいしいです」
自然に、そう思った。
誰にも褒められていない。
修道女たちは手伝ってくれたが、出来上がった料理を食べるのは自分だけだった。
誰かへ振る舞うために作ったわけでもない。
この料理で、誰かが元気になるわけでもない。
自分が食べるためだけに、自分で選び、自分で作った。
だからだろうか。
少し焦げた味も、嫌ではなかった。
一口ずつ、ゆっくりと食べた。
今日の食事がどのような味だったか、きっと明日になっても覚えていると思った。
食べ終えると、皿を片づけた。
机のそばには、昨日買った紙袋が残っている。
その中から、白磁のティーカップを取り出した。
青い小さな花が描かれたカップ。
店で見た時よりも、自分の部屋へ置いた時の方が、少しきれいに見えた。
湯を沸かし、茶葉を入れて、しばらく待つ。
紅茶を注ぐと、湯気がゆっくりと立ち上った。
両手でカップを包む。
温かかった。
一口飲むと、馴染みのある香りが口の中へ広がった。
いつもと同じ茶葉だった。
淹れ方も、それほど違わない。
それでも、昨日、自分が選んだカップで飲んでいる。
そのことだけで、少し違う味がするように思えた。
ソフィアは椅子を窓辺へ運んだ。
外は、すっかり夜になっていた。
王都の明かりが、暗い空の下へ静かに浮かんでいる。
遠くから、その日の終わりを知らせる鐘が聞こえた。
今日は、部屋を少し片づけた。
本を一冊読んだ。
料理を少し焦がした。
一人で夕食を食べた。
新しいカップで紅茶を飲んだ。
それだけだった。
人を救っていない。
光魔法も使っていない。
教会の仕事もしていない。
誰かの役に立つことは、何一つしていなかった。
それなのに、胸の中は静かだった。
昨日のように、たくさんのものを見たわけではない。
笑い声に囲まれていたわけでもない。
感動して、何度も涙を流したわけでもなかった。
ただ、自分の部屋で、自分のために一日を過ごした。
その時間が、胸の奥へやわらかく残っていた。
ソフィアは、カップに描かれた青い花を見つめた。
(役に立たない時間にも、幸せはあるのですね)
それは、少し不思議な発見だった。
幼いころから、頑張ることはよいことだと思っていた。
誰かを助けることが、幸せなのだと思っていた。
期待へ応えることが、自分の価値なのだとも思っていた。
実際、誰かを救えた日はうれしかった。
笑顔を見ることができた日は、胸が温かくなった。
それは、今も変わらない。
けれど、誰も救わなかった今日も、胸には同じような温かさが残っていた。
何かを成し遂げたからではない。
褒められたからでもない。
好きな本を読み、食べたいものを作り、気に入ったカップで紅茶を飲んだ。
それだけの一日だった。
ソフィアは、残っていた紅茶をもう一口飲んだ。
少し冷めていた。
それでも、まだ温かかった。
今日という一日は、世界の歴史には残らない。
教会の記録へ書かれることも、誰かがソフィアの功績として称えることもない。
けれど、何も成し遂げなかった今日が、ソフィアにとっては、なくしたくない一日になっていた。




