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休日  作者: Atelier Lotus


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7/12

第7節 三日目

 三日目の朝、ソフィアは鐘が鳴るよりも少し前に目を覚ました。

 窓の外には、まだ朝の淡い色が残っていた。カーテンのすき間から細い光が差し込み、床の上へ長く伸びている。

 ソフィアは、しばらく天井を見つめた。

 昨日までのように、身体が寝台へ沈み込んでいく感覚はなかった。腕を動かし、足を曲げ、ゆっくりと身体を起こす。

 頭には、まだ少し重さが残っていた。けれど、それもこれまでとは違っている。何かに押さえつけられているような重さではなく、長く眠った朝の、ぼんやりとした重さだった。

 ソフィアは寝台を降り、窓辺へ歩いた。

 カーテンを開くと、朝の光が一度に部屋へ流れ込んできた。

 王都の屋根が、淡い金色に照らされている。通りには、すでに一日を始めている人々の姿があった。

 荷車を引く商人。箒で店先を掃く女性。小さな籠を抱えて走る子ども。

 町は、これから朝を迎えようとしていた。

 ソフィアは、その景色をしばらく眺めた。

 ふと、机の上へ置かれた観光案内が目に入った。

 菓子店。市場。劇場。公園。

 昨日は何度も頁をめくり、どこへ行くのか最後まで決められなかった。

 けれど今日は、昨日ほど長く迷わなかった。

(行ってみましょう)

 どこへ行くのか。何時まで出掛けるのか。そこで何をするのか。

 そのようなことは、あとで決めてもよいと思った。

 まずは町へ出る。

 それだけなら、今の自分にも決められた。

 ソフィアは寝台を整え、顔を洗った。長い金色の髪をとかす。

 いつものように法衣へ手を伸ばしかけた。

 白い布へ指が触れる。

 そこで、手を止めた。

 法衣を着て町へ出れば、すぐに気づかれてしまう。馬車も、護衛も、神官たちの付き添いも用意されるだろう。

 今日は、そのように町へ出たいのではなかった。

 聖王大聖女として人々の前へ姿を見せるのではない。

 ただ、自分の足で歩いてみたかった。

 衣装棚を開く。

 奥には、普段ほとんど着ることのない服が並んでいた。

 淡い青色のワンピース。細い白い帯。歩きやすそうな靴。

 どれも、聖女候補だったころに用意されたものだった。法衣の下へ着ることはあっても、それだけで外へ出たことはほとんどない。

 ソフィアは青いワンピースを取り出し、袖を通した。

 帯を結び、鏡の前へ立つ。

 見慣れない自分が映っていた。

 胸元に聖印はない。肩から流れる法衣もない。髪には冠も飾られていない。

 ただ、淡い色の服を着た若い女性が立っている。

 これだけでは、まだ気づかれるかもしれない。

 ソフィアは髪をいつもとは違う位置でまとめた。つばの広い帽子を深くかぶり、細い縁の眼鏡を掛ける。

 もう一度、鏡を見た。

 そこにいる女性は、聖王大聖女には見えなかった。

 二十三歳の、少し緊張した顔をした、どこにでもいそうな一人の女性だった。

「これなら、大丈夫でしょうか」

 鏡の中の自分へ尋ねる。

 答えは返ってこない。

 それでも、ソフィアは小さく笑った。

 人々を安心させるためでも、期待へ応えるためでもなかった。見慣れない自分の姿が、少しおかしかった。

 それだけの笑顔だった。

 部屋を出る。

 廊下で出会った修道女は、初め、ソフィアだと気づかなかった。

 そのまますれ違いかけ、二、三歩進んだところで振り返る。

「……ソフィア様?」

 ソフィアは人差し指を唇の前へ立てた。

「今日は、内緒にしてください」

 修道女は目を丸くし、帽子と眼鏡を交互に見た。

「お出掛けですか?」

「はい」

「お一人で?」

「そのつもりです」

 修道女の眉が、わずかに寄った。

 けれど何かを言いかけた口を閉じ、やがて、やわらかく笑った。

「お気をつけて」

「ありがとうございます」

 ソフィアは頭を下げた。

 教会の大きな扉をくぐる。

 朝の空気が頬へ触れた。

 誰にも付き添われず、教会の外へ出る。

 それだけのことなのに、胸が少し高鳴った。

 王都の大通りは、すでに多くの人で賑わっていた。

 石畳を歩く足音。荷車の車輪が転がる音。店先から聞こえる呼び声。

 どこかから、焼きたてのパンの香りが流れてくる。

「いらっしゃい!」

「今朝届いたばかりだよ!」

「甘い林檎はいかがですか!」

 いつも見ている町だった。

 けれど、馬車の窓から眺める町と、自分の足で歩く町は少し違っていた。

 馬車は、立ち止まらない。

 行き先も、着く時刻も決められている。ソフィアは窓から人々へ手を振り、笑顔を見せながら、予定された場所へ向かう。

 けれど今日は、立ち止まってもよかった。

 道を変えてもよい。気になった店を覗いてもよい。

 誰かを待たせてはいない。

 決められた時刻もなかった。

 ソフィアは、普段よりもゆっくり歩いた。

 店先へ積まれた果物を見る。花屋の前で足を止める。見たことのない色の布へ、そっと指先で触れる。

 何も買わなくても、誰も困らない。

 何も決めなくても、時間は進んでいく。

 そのことが、まだ少し不思議だった。

 最初に向かったのは、観光案内に載っていた菓子店だった。

 店の前には、すでに何人かの客が並んでいた。

 ソフィアも最後尾へ立つ。

 誰も道を譲らない。

 誰も頭を下げない。

 前に並んでいる二人の女性が、楽しそうに話していた。

「今日は何にする?」

「昨日はタルトだったから、今日はショコラかな」

「また食べるの?」

「休日くらいいいでしょう」

 ソフィアは、その会話を聞きながら小さく笑った。

 休日くらい。

 とても軽い言葉だった。

 何かを許してもらうため、恐る恐る口にする言葉ではないようだった。

 少し甘いものを食べすぎても、朝寝坊をしても、途中で予定を変えても。

 休日なのだから。

 それだけでよいらしい。

 やがて順番が来た。

 店の中へ入ると、甘い香りが身体を包んだ。

 正面の棚には、色とりどりの菓子が並んでいる。

 赤い果物を使ったタルト。栗を重ねた菓子。濃い茶色のショコラ。白いクリームで飾られた小さなケーキ。

 ソフィアは棚の前に立ったまま、一つひとつを眺めた。

「お決まりですか?」

 店員に尋ねられる。

「まだです」

「ごゆっくりどうぞ」

 店員は笑い、ほかの客の方へ歩いていった。

 急かされなかった。

 好きなだけ迷ってよいらしい。

 どれも食べてみたかった。

 けれど、すべてを食べるわけにはいかない。

 昨日と同じように、どれを選ぶのが一番よいのかを考え始める。

 すると、戻ってきた店員が、一つのケーキを指した。

「初めてでしたら、こちらがおすすめですよ」

「こちらですか?」

「今の季節の果物を使っています」

 ソフィアは、赤い果物の載ったケーキを見つめた。

 自分だけでは、まだ一つに決められそうになかった。

「では、それをお願いします」

 自分で選びきることはできなかった。

 けれど、誰かのすすめを聞き、それを試してみることはできた。

 窓際の席へ座る。

 運ばれてきたケーキを、ソフィアはしばらく眺めた。

 赤い果物。白いクリーム。薄く焼かれた生地。

 会談の席で出される菓子よりも、少し小さかった。

 けれど、こちらの方が特別なものに見えた。

 誰かが用意したから食べるのではない。

 自分が食べたいと思い、自分で頼んだものだった。

 フォークで小さく切り分け、口へ運ぶ。

 果物の酸味のあとから、クリームのやわらかな甘さが広がった。生地には、かすかな香ばしさがあった。

「……おいしい」

 思わず声が漏れた。

 誰へ聞かせるでもない言葉だった。

 向かいには誰も座っていない。感想を待つ人もいない。

 それでも、口にしたくなった。

 もう一口食べる。

 今度は、少しゆっくりと味わった。

 味が分かる。

 何を食べているのか、きちんと覚えていられる。

 そのことが、うれしかった。

 食べ終えたあとも、すぐには席を立たなかった。

 窓の外を眺める。

 道を行き交う人々。店へ入ってくる客。笑いながら歩く少女たち。

 誰も、ソフィアを見ていなかった。

 そのことに、寂しさはなかった。

 むしろ、落ち着いた。

 自分が何をしていても、どのような顔をしていても、誰もそこへ特別な意味を見つけようとはしない。

 ただ、菓子を食べている一人の客だった。

 店を出たソフィアは、そのまま市場へ向かった。

 広い通りの両側に、たくさんの露店が並んでいる。

 野菜、果物、花、布、香辛料、異国から運ばれた装飾品。

 焼いた肉の香りと、甘い蜜を塗った菓子の匂いが入り混じっていた。

 商人たちの声が、あちらこちらから聞こえてくる。

 ソフィアは、人の流れに合わせて歩いた。

 何度か、すれ違う人の肩が触れた。互いに少し身体をずらすだけで、そのまま通り過ぎていく。

 聖王大聖女として歩けば、人々は遠くから道を開け、深く頭を下げる。

 けれど今日は、誰も道を譲らない。

 自分で人を避けなければ、ぶつかってしまう。

 少し不便だった。

 けれど、その不便さが嫌ではなかった。

 一軒の店の前で、ソフィアは足を止めた。

 棚に、小さな人形がいくつも並んでいる。

 金色の髪。白い法衣。胸元には大きな聖印。頭には、実物よりもずいぶん立派な冠が載っていた。

『祝・史上初 聖王大聖女人形』

 ソフィアは、しばらくその文字を見つめた。

「……私でしょうか」

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。

 隣には、別の商品も並んでいた。

『聖王様の祝福菓子』

『聖王大聖女まんじゅう』

『聖王様クッキー』

 包みには、笑顔のソフィアが描かれている。

 本人よりも目が大きく、頬も赤い。ずいぶん可愛らしい顔だった。

 店主が、ソフィアの視線に気づいた。

「気になるかい?」

「えっ」

「今、一番売れているんだよ」

 店主はうれしそうに、人形を一つ持ち上げた。

「聖王様のおかげで、今の平和があるからね」

「そう、なのですか」

「もちろんさ。白竜皇様まで頭を下げた方だ。きっと、とても立派なお方なんだろう」

 ソフィアは、帽子を少し深くかぶった。

「……そうですね」

「一つどうだい?」

「自分の人形を、自分で買うのは……」

「ん?」

「いえ。何でもありません」

 店主は不思議そうに首を傾げた。

 ソフィアは人形の代わりに、小さな菓子を一つ買った。

 包みには、自分の笑顔が描かれている。

 店主から受け取る時、頬が少し熱くなった。

 市場を離れてからも、何度か包みを取り出して眺めた。

 聖王大聖女。

 自分の名前ではない。

 けれど、自分の顔をしている。

 人々にとっては、もうそれほど身近なものになっているらしい。

 少し恥ずかしかった。

 少しおかしかった。

 けれど、誰かが自分の存在を明るいものとして受け取ってくれている。

 そのことは、やはりうれしかった。

 午後、ソフィアは劇場へ向かった。

 入口には、大きな看板が掛かっていた。

『永遠の約束』

 身分の違う二人の恋を描いた物語。

 観光案内に載っていた演目だった。

 券を買い、案内された席へ座る。

 周りには、若い女性が多かった。恋人同士らしい男女もいる。皆、開演を楽しみにしているようで、幕の閉じた舞台を見ながら声を潜めて話していた。

 やがて照明が落ちる。

 話し声が消え、幕が上がった。

 物語は、一人の青年と、一人の令嬢が出会うところから始まった。

 青年には身分がない。

 令嬢には、家のために決められた結婚がある。

 二人は、出会ってはいけなかった。

 好きになってもいけなかった。

 それでも、互いを想った。

 何度も離れようとする。

 何度も、それぞれの役目へ戻ろうとする。

 けれど物語の終わりに、青年は令嬢の前へ立った。

「あなたの家名を愛したのではない」

 静かな声が、劇場へ響いた。

「あなたを愛したのです」

 令嬢は、すぐには手を伸ばさなかった。

 家も、立場も、これまで守ってきたものも、失うかもしれなかった。

 それでも、最後には青年の手を取った。

「わたしは、役目ではなく」

 一度、息を吸う。

「わたしの心を選びます」

 ソフィアの頬を、涙が伝った。

 初めは、一筋だけだった。

 慌てて指で拭う。

 けれど、また流れた。

 ハンカチを取り出し、目元へ押し当てる。それでも、涙は止まらなかった。

 二人が手を取り合う。

 誰かに決められた道ではなく、自分たちで選んだ道へ進んでいく。

 その姿を見ていると、胸の奥が苦しくなった。

 悲しいわけではない。

 二人は、ようやく幸せになった。

 だから、うれしいはずだった。

 それなのに、涙が流れた。

「よかったです……」

 小さく呟く。

 隣の女性が、ちらりとソフィアを見た。

 ソフィアは、少し恥ずかしくなってハンカチで顔を隠した。

 自分でも、なぜこれほど泣いているのか分からなかった。

 恋愛とは、人をここまで感動させるものなのだろう。

 そう思った。

 けれど、青年が選んだのは令嬢の家名ではなかった。

 令嬢が選んだのも、青年の身分ではない。

 ただ、その人だから。

 その人と生きたいから。

 それだけで、互いの手を取った。

 聖王大聖女だからではなく。

 世界の希望だからでもなく。

 二人の再来だからでもない。

 一人の人間として、誰かに選ばれること。

 誰かから与えられた役目ではなく、自分の心を選ぶこと。

 ソフィアは、その自由をまだ知らなかった。

 自分がそれに憧れていることにも、気づいてはいなかった。

 ただ、幸せな結末に感動しているのだと思った。

 幕が下りても、ソフィアはしばらく席を立てなかった。

 周囲では、人々が笑いながら感想を話していた。

「よかったね」

「最後、本当に泣いた」

「私も、あんなふうに選ばれたい」

 その言葉を聞きながら、ソフィアはもう一度目元を拭った。

 劇場を出ると、外の光が少し眩しかった。

 目が赤くなっている気がして、帽子を深くかぶる。

 そのまま歩いていると、一軒の本屋が目に入った。

 店先には、今観た劇の原作小説が並んでいる。

『永遠の約束』

 全五巻。

 ソフィアは第一巻を手に取った。

 表紙には、手を取り合う二人が描かれている。

 教本ではない。

 研究に必要な本でもない。

 誰かへ贈るためのものでもなかった。

 ただ、読みたいと思った。

「こちらをください」

 店員へ差し出す。

「一巻だけでよろしいですか?」

 ソフィアは、隣に並ぶ続巻を見た。

「……すべてお願いします」

 店員は笑った。

「気に入られたのですね」

「はい」

 ソフィアも少し恥ずかしくなりながら頷いた。

 五冊の本が入った紙袋を受け取る。

 自分のために買った本。

 両手に伝わるその重さが、少しうれしかった。

 次に立ち寄った雑貨屋で、小さな髪飾りを見つけた。

 白い花をかたどったものだった。

 派手ではない。けれど、光を受けると花びらが淡く輝いた。

 ソフィアは鏡の前に立ち、髪へ当ててみた。

 法衣には、あまり似合わないかもしれない。

 けれど、今着ている青い服にはよく合った。

「素敵ですよ」

 店員が言った。

「そうでしょうか」

「ええ。よくお似合いです」

 ソフィアは、もう一度鏡を見た。

 聖王大聖女ではない自分が、白い花の髪飾りを身につけている。

 少し照れくさかった。

 それでも、棚へ戻す気にはならなかった。

 店の奥には、食器が並んでいた。

 白磁のティーカップ。

 青い小さな花が描かれ、縁には細い金色の線が入っている。取っ手は、指先でつまめるほど細かった。

 ソフィアは、そっと手に取った。

 これで紅茶を飲んだら、いつもと少し違う味がするかもしれない。

 そんなことを思った。

 髪飾りも、ティーカップも、なくても困らないものだった。

 人を救うこともできない。

 仕事の役にも立たない。

 それでも、ほしいと思った。

「こちらもお願いします」

 自分のために何かを選ぶことは、まだ少し恥ずかしかった。

 けれど昨日よりは、短い時間で決めることができた。

 最後に、公園へ立ち寄った。

 広い芝生と大きな噴水があり、木陰には長椅子が並んでいた。少し離れた場所では、子どもたちが走り回っている。

 ソフィアは、空いている長椅子へ腰を下ろした。

 買い物をした紙袋を膝へ置く。

 風が頬を撫でた。

 仕事の予定を考えない。

 次に何をするかも決めない。

 ただ、目の前の景色を見る。

 初めは、何となく落ち着かなかった。

 この時間に、何かできるのではないか。何もせず座っていることに、意味はあるのだろうか。

 けれど、木々の葉が揺れる音を聞いているうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。

「お姉さん」

 不意に声をかけられた。

 顔を上げると、小さな男の子と女の子が立っていた。

「一緒に遊ぼう」

「私が、ですか?」

「うん」

 二人は迷いなく頷いた。

 ソフィアは辺りを見回した。

 近くに、ほかの若い女性はいない。

 どうやら、本当に自分へ言っているらしい。

「何をして遊ぶのですか?」

「鬼ごっこ」

「鬼ごっこ……」

 子どものころに、少しだけした記憶があった。

 聖女候補になってからは、ほとんどしていない。

「では、少しだけ」

 紙袋を長椅子へ置き、立ち上がる。

 初めは、ゆっくりと走った。

 子どもたちは、笑いながら逃げていく。

「お姉さん、遅い!」

「少し待ってください」

 ソフィアも笑った。

 帽子が風に飛ばされそうになり、片手で押さえながら走る。

 男の子へ手を伸ばす。あと少しのところで、するりと逃げられた。

「もう少しでしたのに」

「つかまらないよ!」

 そのうち、ソフィアも少し本気になった。

 法衣ではない。

 周囲の人々も、誰も自分を聖女だとは知らない。

 走ることを止める人もいなかった。

 ようやく男の子の肩へ触れる。

「捕まえました」

「次はお姉さんが逃げて!」

 言われるままに、今度はソフィアが逃げた。

 芝生の上を走る。

 風が髪を揺らす。

 息が切れる。

 自分の口から笑い声が出ていることに、途中で気づいた。

 何の役にも立たない時間だった。

 誰かを救っているわけではない。

 何かを学んでいるわけでもない。

 ただ、子どもたちと走っている。

 それでも、楽しかった。

 その言葉は、考えるよりも先に胸の中へ浮かんだ。

 やがて、子どもたちの母親が迎えに来た。

「遊んでいただいて、ありがとうございます」

「いいえ」

 ソフィアは息を整えながら笑った。

「私も、楽しかったです」

 その言葉は、何の迷いもなく口から出た。

 子どもたちは、何度も手を振りながら母親と帰っていった。

 ソフィアも手を振り返す。

 長椅子へ戻り、紙袋を膝へ載せた。

 空を見上げる。

 朝には淡い青色だった空が、今は端の方から少しずつ赤く染まり始めていた。

「もう……」

 ソフィアは時計を見た。

「夕方なのですね」

 朝から町へ出た。

 菓子を食べ、市場を歩き、劇を観た。

 本を買い、髪飾りとティーカップを選び、子どもたちと遊んだ。

 一つずつ思い返しても、まだ一日の半分ほどしか過ぎていないような気がした。

 けれど、日は沈もうとしている。

 仕事の日も、今日も、一日は同じ長さだったはずだった。

 同じように朝が来て、同じように夕暮れを迎える。

 それなのに、感じられる時間は違っていた。

 仕事をしている日は、一日が長かった。

 朝に読んだ書類が、ずっと遠い昔のことのように思えた。昼が来るまでが長く、夜になるまではもっと長かった。

 今日は、朝に教会を出たばかりのような気がする。

 菓子店で食べた果物の酸味も、まだ口の中に残っているようだった。

 劇場で流した涙も、乾ききっていないように思えた。

 それなのに、一日が終わろうとしている。

 ソフィアは買い物袋を胸へ抱え、教会へ続く道を歩いた。

 王都は夕焼けに染まっていた。

 店じまいを始める商人。家路につく人々。笑いながら歩く家族。

 今日見たものは、どれも明日には消えてしまうものではない。

 菓子店も、市場も、劇場も、公園も、また来ようと思えば来られる。

 けれど、今日という一日だけは、もう二度と戻らない。

 そう思うと、少し惜しかった。

「また、来たいですね」

 小さく呟く。

 誰かに誘われたからではない。

 仕事のためでもない。

 自分が、もう一度来たいと思った。

 そのことが、少しうれしかった。

 仕事の日には、一日が終わるのを待っていた。

 けれど今日は、もう少しだけ続いてほしいと思った。

 ソフィアは紙袋を抱え直した。

 中にある本と髪飾りとティーカップが、歩くたびに小さな音を立てた。

 その音を聞きながら、夕暮れの王都をゆっくりと歩いた。

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