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休日  作者: Atelier Lotus


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6/12

第6節 二日目

 二日目。

 ソフィアが目を覚ました時、部屋の中は茜色に染まっていた。

 窓から差し込む夕暮れの光が、床の上へ長く伸びている。

 ソフィアは、しばらく天井を見つめていた。

 静かな部屋だった。

 朝の鐘は聞こえない。廊下を行き交う人々の足音も、昼間ほど多くはなかった。

 遠くから、夕刻を知らせる鐘が響いてくる。

 一度。

 二度。

 三度。

 その音を聞きながら、ソフィアはゆっくりと顔を横へ向けた。

 枕元の時計を見る。

 針は、夕方を指していた。

「……また」

 小さく声が漏れた。

 昨日も、今日も、目を閉じているあいだに、一日のほとんどが終わっていた。

 昨夜、寝台へ入ったのは、それほど遅い時刻ではなかった。昨日は夕方まで眠っていたのだから、今日は早く目を覚ますだろうと思っていた。

 朝になったら、きちんと起きて、何かをしようと思っていた。

 けれど、窓の外には夕焼けが広がっている。

(また、眠ってしまいました)

 ソフィアは布団の中で、しばらく動かなかった。

 身体へ意識を向ける。

 昨日よりも軽かった。

 腕を動かしても、ほとんど重さを感じない。頭の奥に残っていた霞も、少し薄くなっていた。胸のあたりへ置かれていたものも、昨日より小さくなった気がした。

 眠ることは、やはり必要だったのだろう。

 そう思った。

 けれど、一週間の休暇のうち、二日が終わろうとしている。

 あと五日。

 五日もあると思えばよいのか。

 五日しかないと思えばよいのか。

 ソフィアには分からなかった。

 布団をめくり、寝台から降りる。

 床へ足をつけて立ち上がると、身体がわずかに揺れた。けれど、昨日ほどではなかった。

 窓辺まで歩き、カーテンをすべて開く。

 王都の空は、赤から紫へ変わろうとしていた。家々の屋根には、やわらかな影が落ちている。

 通りでは、仕事を終えた人々が家路を急いでいた。

 荷車を引く商人。子どもの手を引く母親。肩を並べて歩く若い男女。

 皆、それぞれの一日を終えようとしている。

 ソフィアだけが、今から一日を始めるような気がした。

「まずは、身支度をしましょう」

 誰へ聞かせるでもなく呟いた。

 顔を洗い、眠って乱れた髪をとかす。寝間着を脱ぎ、飾りの少ない白い服へ着替えた。

 法衣ではなかった。

 鏡の前へ立つ。

 そこには、まだ少し眠たそうな顔をした自分がいた。

 目の下にあった薄い影は、以前ほど目立たない。頬にも、ほんの少しだけ色が戻っていた。

 眠っていただけだった。

 それでも、鏡の中のソフィアは昨日より元気そうに見えた。

 身支度を終えると、机の前の椅子へ腰を下ろした。

 机の上には何もなかった。

 書類も、予定表も、研究資料もない。

 羽根ペンだけが、使われることもなく置かれている。

 ソフィアは両手を膝の上へ重ねた。

(さて、今日は何をしましょう)

 休暇の二日目。

 昨日は眠って終わった。

 今日は、まだ少しだけ時間が残っている。せっかく目を覚ましたのだから、何かをしたいと思った。

 けれど、何も思い浮かばなかった。

 部屋を掃除する。本を読む。光魔法の研究を進める。教会の仕事を手伝う。

 最初に浮かぶのは、いつもそのようなことばかりだった。

 掃除なら、休暇中にしてもよいのだろうか。本を読むことも、勉強でなければ仕事ではないのかもしれない。研究は、さすがに仕事だろう。教会の手伝いも、休暇とは呼べない。

 考えているうちに、何をしてよいのか、ますます分からなくなった。

 ソフィアの人生には、するべきことがたくさんあった。

 朝になれば祈る。教本を開けば学ぶ。傷ついた人がいれば治す。困っている人がいれば助ける。

 求められれば応える。

 期待されれば頑張る。

 何をすべきか分からず困ったことは、ほとんどなかった。

 いつも誰かが待っていた。いつも何かを必要とされていた。

 だから、次にすることは自然と決まった。

 けれど今は、誰も待っていない。

 誰からも求められていない。

 好きなことをしてよいと言われている。

 そのはずなのに、自分が何をしたいのかは、なかなか思い浮かばなかった。

 ソフィアは窓の外へ目を向けた。

 夕暮れは少しずつ薄くなり、王都には明かりが灯り始めている。

 このまま椅子へ座っていても、答えは出そうになかった。

「少し、歩いてみましょう」

 部屋を出る。

 教会の廊下は、昼間よりも静かだった。窓から差し込む夕暮れの光が、白い床を赤く染めている。

 修道女たちは、夕方の祈りの準備をしていた。神官たちは書類を抱え、執務室と会議室のあいだを行き来している。

 ソフィアを見ると、皆が足を止めた。

「聖王大聖女様」

「ご体調はいかがですか」

 ソフィアは微笑み、頭を下げた。

「おかげさまで、随分よくなりました」

「それは何よりです」

「どうか、ごゆっくりお休みください」

「ありがとうございます」

 皆、やさしかった。

 誰も仕事を頼もうとはしなかった。抱えていた書類を、ソフィアから見えないよう背中へ隠す神官までいた。

 その仕草を見て、ソフィアは小さく笑った。

 気を遣ってくれているのだと分かった。

 ありがたかった。

 けれど、皆が働いている中を、自分だけ何もせず歩いていることに、少しだけ居心地の悪さも感じた。

 邪魔にならないよう、廊下の端を歩く。

 普段なら足早に通り過ぎる場所だった。

 窓辺に飾られた花。壁に掛けられた絵。磨かれた燭台。

 どれも、毎日見ていたはずだった。

 けれど、立ち止まって眺めたことはなかった。

 修道女が飾った花には、小さな水滴が残っていた。夕暮れの光を受け、その雫が淡く輝いている。

 ソフィアは足を止めた。

「きれいですね」

 小さく呟く。

 光魔法が発現した日にも、同じ言葉を口にした。

 ふと、そのことを思い出した。

 あのころは、光を見るだけでうれしかった。

 何に使えるのかも、誰に期待されるのかも、まだ何も知らなかった。

 ただ、きれいだと思った。

 ソフィアはしばらく花を眺め、それから再び歩き始めた。

 廊下の角を曲がったところで、一つの棚が目に入った。

 巡礼者や旅人が多く集まる場所だった。棚の上には、何冊もの薄い冊子が並んでいる。

 王都の地図。巡礼者向けの宿の案内。教会の歴史を紹介する冊子。

 その中に、色鮮やかな表紙のものがあった。

『王都ルミエール観光案内』

 ソフィアは足を止めた。

「観光案内……」

 そこへ置かれていることは、以前から知っていた。

 けれど、手に取ったことはなかった。

 観光客や巡礼者のためのものだと思っていた。王都で暮らしている自分には、必要のないものだとも思っていた。

 それでも今は、少しだけ気になった。

 一冊を手に取る。

 表紙には、王都の街並みが描かれていた。

 中央にある噴水。大通りに並ぶ店。遠くには教会の高い鐘楼も見える。

 毎日見ている町だった。

 けれど、絵の中の王都は、知らない場所のようにも見えた。

 ソフィアは窓辺の長椅子へ腰を下ろし、冊子を開いた。

 最初の頁には、王都で人気の菓子店が紹介されていた。

 色鮮やかなケーキ。焼き菓子。果物を使ったタルト。

 小さな絵の下には、店の名前と場所が記されている。

『王都で一番人気の菓子店』

「おいしそうですね」

 思わず呟いた。

 甘いものは嫌いではなかった。

 けれど、最後に菓子店へ入ったのがいつだったのかは思い出せなかった。

 教会で出される菓子を口にすることはある。会談の席にも、紅茶と一緒に焼き菓子が並ぶ。

 けれど、それは自分で食べたいと思って選んだものではなかった。

 出されたから食べる。

 それだけだった。

 次の頁をめくる。

『王都市場・季節の市』

 野菜。果物。花。布。異国から運ばれた珍しい品。

 多くの露店が並ぶ市場の絵が載っていた。

 馬車の中から見たことはある。大勢の人々が歩き、商人たちの声が響いていた。

 一度、ゆっくり歩いてみたいと思った。

 さらに頁をめくる。

『感動のロマンス劇』

 劇場の案内だった。

 身分の違う男女が、さまざまな困難を乗り越える物語らしい。連日、多くの人が訪れていると書かれている。

「恋愛のお話……」

 ソフィアは小さく首を傾げた。

 本で読んだことはあった。

 けれど、劇場で観たことはない。

 恋をする人が何を考えるのか。どうして誰か一人を特別に思うのか。

 ソフィアには、よく分からなかった。

 それでも、多くの観客が涙を流したと書かれていることが、少し気になった。

 次の頁には、公園が紹介されていた。

 広い芝生。大きな噴水。季節の花が咲く庭園。

 子どもたちが遊び、木陰では本を読む人がいる。

『何もしなくても、ゆっくりと過ごせる場所です』

「何もしなくても……」

 ソフィアは、その言葉を小さく読み上げた。

 何もしないために、わざわざ出掛ける。

 それが少し不思議だった。

 部屋で何もしないこととは、何が違うのだろう。

 公園の木陰なら、何もしないことも楽しいのかもしれない。

 ソフィアは、もう一度最初の頁へ戻った。

 菓子店。

 市場。

 劇場。

 公園。

 どれも気になった。

 菓子を食べてみたい。市場を歩いてみたい。劇を観てみたい。公園で、何もせずに過ごしてみたい。

 どれも少しずつ、してみたいと思った。

 けれど、明日どこへ行くのか決めようとすると、手が止まった。

 菓子店を選べば、市場には行けないかもしれない。市場へ行けば、劇の開演に間に合わないかもしれない。公園で過ごすなら、天気も確かめた方がよい。

 人の多い時間を避けるべきだろうか。

 移動する順番は。

 食事はどこで取るのか。

 考え始めると、決めるために必要なことばかりが増えていった。

 ソフィアは冊子を膝の上へ置いた。

 国家間の問題なら、決められる。

 双方の言い分を聞き、必要なものを整理する。多くの人へ与える影響を考え、最も被害の少ない道を選ぶ。

 災害支援の優先順位も決められた。

 食料。薬。人員。道の状態。救える命の数。

 必要な情報を集めれば、選ぶべき道は見つかる。

 間違えることが許されない判断も、何度もしてきた。

 それなのに、自分がどの店へ行きたいのか、何を食べたいのか、何を見たいのか。

 それだけのことが決められなかった。

(どれが正しいのでしょう)

 そう考えてから、ソフィアは小さく瞬きをした。

 休日の過ごし方に、正しいものなどあるのだろうか。

 好きなものを選べばよい。

 きっと、そういうことなのだと思う。

 けれど、自分が一番好きなものは何かと考えると、また分からなくなった。

 ソフィアは冊子を閉じた。

 窓の外は、すっかり暗くなっていた。王都の明かりが、夜の中へ静かに浮かんでいる。

 冊子の表紙には、昼間の明るい王都が描かれていた。

 同じ町なのに、自分の知らない時間が、たくさんあるように見えた。

 冊子を元の棚へ戻そうとした。

 けれど、少し迷ってから胸元へ抱えた。

 今日は決められなかった。

 それでも、明日もう一度読んでみようと思った。

 自室へ戻り、観光案内を机の上へ置く。

 色鮮やかな表紙は、何も置かれていない机の上でよく目立った。

 ソフィアは椅子へ腰を下ろし、もう一度冊子を開いた。

 菓子店。

 市場。

 劇場。

 公園。

 やはり、どれも気になった。

 そして、やはり一つを選ぶことはできなかった。

「皆さんは、どうやって決めているのでしょう」

 誰もいない部屋で呟いた。

 友人と相談するのだろうか。家族と出掛けるのだろうか。恋人と、どこへ行くかを話し合うのかもしれない。

 同じくらいの年の女性たちは、休日をどのように過ごしているのだろう。

 服を選び、町へ出て、買い物をして、誰かと話して笑うのだろうか。

 ソフィアは窓の外へ目を向けた。

 向かいの通りを、二人の若い女性が歩いていた。何かを話しながら、楽しそうに笑っている。

 その姿を見ているうちに、ふと一つの疑問が浮かんだ。

(普通の女の子は、休日に何をするのでしょうか)

 それは、とても小さな疑問だった。

 国の未来にも、教会の運営にも、誰かの命にも関わらない。

 けれど、ソフィアはその答えを知らなかった。

 聖女になるために必要なことは、幼いころから教えられてきた。

 祈り方も。

 光魔法の使い方も。

 人々の前で笑う方法も。

 国と国とのあいだへ立つ方法も。

 けれど、一人の女性として一日を過ごす方法だけは、誰からも教わらなかった。

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