第6節 二日目
二日目。
ソフィアが目を覚ました時、部屋の中は茜色に染まっていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、床の上へ長く伸びている。
ソフィアは、しばらく天井を見つめていた。
静かな部屋だった。
朝の鐘は聞こえない。廊下を行き交う人々の足音も、昼間ほど多くはなかった。
遠くから、夕刻を知らせる鐘が響いてくる。
一度。
二度。
三度。
その音を聞きながら、ソフィアはゆっくりと顔を横へ向けた。
枕元の時計を見る。
針は、夕方を指していた。
「……また」
小さく声が漏れた。
昨日も、今日も、目を閉じているあいだに、一日のほとんどが終わっていた。
昨夜、寝台へ入ったのは、それほど遅い時刻ではなかった。昨日は夕方まで眠っていたのだから、今日は早く目を覚ますだろうと思っていた。
朝になったら、きちんと起きて、何かをしようと思っていた。
けれど、窓の外には夕焼けが広がっている。
(また、眠ってしまいました)
ソフィアは布団の中で、しばらく動かなかった。
身体へ意識を向ける。
昨日よりも軽かった。
腕を動かしても、ほとんど重さを感じない。頭の奥に残っていた霞も、少し薄くなっていた。胸のあたりへ置かれていたものも、昨日より小さくなった気がした。
眠ることは、やはり必要だったのだろう。
そう思った。
けれど、一週間の休暇のうち、二日が終わろうとしている。
あと五日。
五日もあると思えばよいのか。
五日しかないと思えばよいのか。
ソフィアには分からなかった。
布団をめくり、寝台から降りる。
床へ足をつけて立ち上がると、身体がわずかに揺れた。けれど、昨日ほどではなかった。
窓辺まで歩き、カーテンをすべて開く。
王都の空は、赤から紫へ変わろうとしていた。家々の屋根には、やわらかな影が落ちている。
通りでは、仕事を終えた人々が家路を急いでいた。
荷車を引く商人。子どもの手を引く母親。肩を並べて歩く若い男女。
皆、それぞれの一日を終えようとしている。
ソフィアだけが、今から一日を始めるような気がした。
「まずは、身支度をしましょう」
誰へ聞かせるでもなく呟いた。
顔を洗い、眠って乱れた髪をとかす。寝間着を脱ぎ、飾りの少ない白い服へ着替えた。
法衣ではなかった。
鏡の前へ立つ。
そこには、まだ少し眠たそうな顔をした自分がいた。
目の下にあった薄い影は、以前ほど目立たない。頬にも、ほんの少しだけ色が戻っていた。
眠っていただけだった。
それでも、鏡の中のソフィアは昨日より元気そうに見えた。
身支度を終えると、机の前の椅子へ腰を下ろした。
机の上には何もなかった。
書類も、予定表も、研究資料もない。
羽根ペンだけが、使われることもなく置かれている。
ソフィアは両手を膝の上へ重ねた。
(さて、今日は何をしましょう)
休暇の二日目。
昨日は眠って終わった。
今日は、まだ少しだけ時間が残っている。せっかく目を覚ましたのだから、何かをしたいと思った。
けれど、何も思い浮かばなかった。
部屋を掃除する。本を読む。光魔法の研究を進める。教会の仕事を手伝う。
最初に浮かぶのは、いつもそのようなことばかりだった。
掃除なら、休暇中にしてもよいのだろうか。本を読むことも、勉強でなければ仕事ではないのかもしれない。研究は、さすがに仕事だろう。教会の手伝いも、休暇とは呼べない。
考えているうちに、何をしてよいのか、ますます分からなくなった。
ソフィアの人生には、するべきことがたくさんあった。
朝になれば祈る。教本を開けば学ぶ。傷ついた人がいれば治す。困っている人がいれば助ける。
求められれば応える。
期待されれば頑張る。
何をすべきか分からず困ったことは、ほとんどなかった。
いつも誰かが待っていた。いつも何かを必要とされていた。
だから、次にすることは自然と決まった。
けれど今は、誰も待っていない。
誰からも求められていない。
好きなことをしてよいと言われている。
そのはずなのに、自分が何をしたいのかは、なかなか思い浮かばなかった。
ソフィアは窓の外へ目を向けた。
夕暮れは少しずつ薄くなり、王都には明かりが灯り始めている。
このまま椅子へ座っていても、答えは出そうになかった。
「少し、歩いてみましょう」
部屋を出る。
教会の廊下は、昼間よりも静かだった。窓から差し込む夕暮れの光が、白い床を赤く染めている。
修道女たちは、夕方の祈りの準備をしていた。神官たちは書類を抱え、執務室と会議室のあいだを行き来している。
ソフィアを見ると、皆が足を止めた。
「聖王大聖女様」
「ご体調はいかがですか」
ソフィアは微笑み、頭を下げた。
「おかげさまで、随分よくなりました」
「それは何よりです」
「どうか、ごゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
皆、やさしかった。
誰も仕事を頼もうとはしなかった。抱えていた書類を、ソフィアから見えないよう背中へ隠す神官までいた。
その仕草を見て、ソフィアは小さく笑った。
気を遣ってくれているのだと分かった。
ありがたかった。
けれど、皆が働いている中を、自分だけ何もせず歩いていることに、少しだけ居心地の悪さも感じた。
邪魔にならないよう、廊下の端を歩く。
普段なら足早に通り過ぎる場所だった。
窓辺に飾られた花。壁に掛けられた絵。磨かれた燭台。
どれも、毎日見ていたはずだった。
けれど、立ち止まって眺めたことはなかった。
修道女が飾った花には、小さな水滴が残っていた。夕暮れの光を受け、その雫が淡く輝いている。
ソフィアは足を止めた。
「きれいですね」
小さく呟く。
光魔法が発現した日にも、同じ言葉を口にした。
ふと、そのことを思い出した。
あのころは、光を見るだけでうれしかった。
何に使えるのかも、誰に期待されるのかも、まだ何も知らなかった。
ただ、きれいだと思った。
ソフィアはしばらく花を眺め、それから再び歩き始めた。
廊下の角を曲がったところで、一つの棚が目に入った。
巡礼者や旅人が多く集まる場所だった。棚の上には、何冊もの薄い冊子が並んでいる。
王都の地図。巡礼者向けの宿の案内。教会の歴史を紹介する冊子。
その中に、色鮮やかな表紙のものがあった。
『王都ルミエール観光案内』
ソフィアは足を止めた。
「観光案内……」
そこへ置かれていることは、以前から知っていた。
けれど、手に取ったことはなかった。
観光客や巡礼者のためのものだと思っていた。王都で暮らしている自分には、必要のないものだとも思っていた。
それでも今は、少しだけ気になった。
一冊を手に取る。
表紙には、王都の街並みが描かれていた。
中央にある噴水。大通りに並ぶ店。遠くには教会の高い鐘楼も見える。
毎日見ている町だった。
けれど、絵の中の王都は、知らない場所のようにも見えた。
ソフィアは窓辺の長椅子へ腰を下ろし、冊子を開いた。
最初の頁には、王都で人気の菓子店が紹介されていた。
色鮮やかなケーキ。焼き菓子。果物を使ったタルト。
小さな絵の下には、店の名前と場所が記されている。
『王都で一番人気の菓子店』
「おいしそうですね」
思わず呟いた。
甘いものは嫌いではなかった。
けれど、最後に菓子店へ入ったのがいつだったのかは思い出せなかった。
教会で出される菓子を口にすることはある。会談の席にも、紅茶と一緒に焼き菓子が並ぶ。
けれど、それは自分で食べたいと思って選んだものではなかった。
出されたから食べる。
それだけだった。
次の頁をめくる。
『王都市場・季節の市』
野菜。果物。花。布。異国から運ばれた珍しい品。
多くの露店が並ぶ市場の絵が載っていた。
馬車の中から見たことはある。大勢の人々が歩き、商人たちの声が響いていた。
一度、ゆっくり歩いてみたいと思った。
さらに頁をめくる。
『感動のロマンス劇』
劇場の案内だった。
身分の違う男女が、さまざまな困難を乗り越える物語らしい。連日、多くの人が訪れていると書かれている。
「恋愛のお話……」
ソフィアは小さく首を傾げた。
本で読んだことはあった。
けれど、劇場で観たことはない。
恋をする人が何を考えるのか。どうして誰か一人を特別に思うのか。
ソフィアには、よく分からなかった。
それでも、多くの観客が涙を流したと書かれていることが、少し気になった。
次の頁には、公園が紹介されていた。
広い芝生。大きな噴水。季節の花が咲く庭園。
子どもたちが遊び、木陰では本を読む人がいる。
『何もしなくても、ゆっくりと過ごせる場所です』
「何もしなくても……」
ソフィアは、その言葉を小さく読み上げた。
何もしないために、わざわざ出掛ける。
それが少し不思議だった。
部屋で何もしないこととは、何が違うのだろう。
公園の木陰なら、何もしないことも楽しいのかもしれない。
ソフィアは、もう一度最初の頁へ戻った。
菓子店。
市場。
劇場。
公園。
どれも気になった。
菓子を食べてみたい。市場を歩いてみたい。劇を観てみたい。公園で、何もせずに過ごしてみたい。
どれも少しずつ、してみたいと思った。
けれど、明日どこへ行くのか決めようとすると、手が止まった。
菓子店を選べば、市場には行けないかもしれない。市場へ行けば、劇の開演に間に合わないかもしれない。公園で過ごすなら、天気も確かめた方がよい。
人の多い時間を避けるべきだろうか。
移動する順番は。
食事はどこで取るのか。
考え始めると、決めるために必要なことばかりが増えていった。
ソフィアは冊子を膝の上へ置いた。
国家間の問題なら、決められる。
双方の言い分を聞き、必要なものを整理する。多くの人へ与える影響を考え、最も被害の少ない道を選ぶ。
災害支援の優先順位も決められた。
食料。薬。人員。道の状態。救える命の数。
必要な情報を集めれば、選ぶべき道は見つかる。
間違えることが許されない判断も、何度もしてきた。
それなのに、自分がどの店へ行きたいのか、何を食べたいのか、何を見たいのか。
それだけのことが決められなかった。
(どれが正しいのでしょう)
そう考えてから、ソフィアは小さく瞬きをした。
休日の過ごし方に、正しいものなどあるのだろうか。
好きなものを選べばよい。
きっと、そういうことなのだと思う。
けれど、自分が一番好きなものは何かと考えると、また分からなくなった。
ソフィアは冊子を閉じた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。王都の明かりが、夜の中へ静かに浮かんでいる。
冊子の表紙には、昼間の明るい王都が描かれていた。
同じ町なのに、自分の知らない時間が、たくさんあるように見えた。
冊子を元の棚へ戻そうとした。
けれど、少し迷ってから胸元へ抱えた。
今日は決められなかった。
それでも、明日もう一度読んでみようと思った。
自室へ戻り、観光案内を机の上へ置く。
色鮮やかな表紙は、何も置かれていない机の上でよく目立った。
ソフィアは椅子へ腰を下ろし、もう一度冊子を開いた。
菓子店。
市場。
劇場。
公園。
やはり、どれも気になった。
そして、やはり一つを選ぶことはできなかった。
「皆さんは、どうやって決めているのでしょう」
誰もいない部屋で呟いた。
友人と相談するのだろうか。家族と出掛けるのだろうか。恋人と、どこへ行くかを話し合うのかもしれない。
同じくらいの年の女性たちは、休日をどのように過ごしているのだろう。
服を選び、町へ出て、買い物をして、誰かと話して笑うのだろうか。
ソフィアは窓の外へ目を向けた。
向かいの通りを、二人の若い女性が歩いていた。何かを話しながら、楽しそうに笑っている。
その姿を見ているうちに、ふと一つの疑問が浮かんだ。
(普通の女の子は、休日に何をするのでしょうか)
それは、とても小さな疑問だった。
国の未来にも、教会の運営にも、誰かの命にも関わらない。
けれど、ソフィアはその答えを知らなかった。
聖女になるために必要なことは、幼いころから教えられてきた。
祈り方も。
光魔法の使い方も。
人々の前で笑う方法も。
国と国とのあいだへ立つ方法も。
けれど、一人の女性として一日を過ごす方法だけは、誰からも教わらなかった。




