第5節 一日目
翌朝、ソフィアはいつもの鐘の音で目を覚ました。
目を開けると、見慣れた天井があった。閉じたカーテンのすき間から、朝の薄い光が部屋へ差し込んでいる。
ソフィアは、しばらくそのまま横になっていた。
鐘は一度、二度、三度と鳴り、静かな朝の空気へゆっくりと広がっていった。
もう起きる時間だった。
いつもなら、最初の鐘が鳴り終わるころには寝台を出ている。顔を洗い、髪を整え、法衣へ着替える。礼拝堂で祈りを捧げたあと、執務室へ向かう。
そのころには、机の上へ一日の予定が置かれていた。
ソフィアは布団の中で、今日の予定を思い出そうとした。
朝の会議。各国から届いた報告。昼には外交使節との会談。午後には光魔法研究の確認。
けれど、どれも今日の予定ではなかった。
今日は休暇だった。
昨日、サンセリテから一週間休むよう命じられた。
仕事は置いていくこと。教会のことも、各国から届く報告も、すべてサンセリテが引き受けると言っていた。
だから今日は、起きる必要がなかった。
会議へ行かなくてもよい。書類を読まなくてもよい。誰かに会わなくてもよい。
そう考えると、胸の中が少しだけ落ち着かなくなった。
(本当に、何もしなくてよいのでしょうか)
ソフィアは天井を見つめた。
何もしない。
その言葉の意味が、よく分からなかった。
祈ることは、してもよいのだろうか。本を読むことは。光魔法の練習は。部屋を掃除することは。
どこまでが休暇で、どこからが仕事なのだろう。
考えているうちに、頭の中へいくつもの予定が浮かんできた。
せっかくいただいた休暇なのだから、無駄にしてはいけない。
普段できないことをしよう。
部屋をきれいにする。読みかけの本を読む。長く止まっていた光魔法の研究を、少しだけ進める。
散歩へ出るのもよいかもしれない。
町を歩き、人々の暮らしを見る。それなら今後の教会運営にも役立つだろう。
そこまで考えたところで、ソフィアは小さく息を吐いた。
結局、仕事へ戻っていた。
人々の暮らしを見ることも、光魔法を学ぶことも、ソフィアにとっては誰かのためにすることだった。
自分のために何かをする。
そう考えてみても、何も思い浮かばなかった。
それでも、起きなければならないと思った。
せっかくの一日を、寝台の上で過ごすわけにはいかない。
布団へ手をつき、身体を起こそうとする。
けれど、腕へうまく力が入らなかった。
少しだけ持ち上がった肩が、また枕へ沈んだ。
「あれ……」
小さな声が漏れた。
もう一度、起き上がろうとした。
今度は肘をつき、身体を横へ向ける。足を寝台の外へ出そうとする。
けれど、足は布団の中に残ったままだった。
腕が重かった。脚も重い。胸のあたりには、小さな石を置かれているような感覚が残っていた。
眠いわけではないと思った。
目は開いている。頭も、少しは働いている。
苦しいわけでもなかった。どこかに強い痛みがあるわけでもない。
ただ、身体が動かなかった。
起きようとするたび、まだ早いと身体の方から言われているようだった。
ソフィアは枕元の時計を見た。
まだ朝だった。
時間なら、十分にある。
(もう少しだけ)
横になろう。
少し休めば、きっと起きられる。
そう思って目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
ほんの少し。鐘がもう一度鳴るまで。それくらいのつもりだった。
けれど、意識はすぐに遠のいた。
夢は見なかった。
書類も、会議も、誰かの声もなかった。
いつも眠りの中にまで残っていたものが、何一つ追いかけてこなかった。
次に目を開けた時、部屋の中は薄暗くなっていた。
朝の白い光ではない。
カーテンのすき間から差し込んでいるのは、赤い光だった。
夕暮れ。
そう思って、ソフィアは何度か瞬きをした。
目がまだ覚めていないのだと思った。少し待てば、部屋も明るく見えるはずだった。
けれど、窓の外の色は変わらなかった。
身体を起こす。
今度は、朝よりも少しだけ楽に起き上がることができた。
寝台から手を伸ばし、カーテンをゆっくりと開く。
空は、赤から深い青へ変わろうとしていた。町の屋根には夜の影が落ち始めている。
遠くで、夕刻の鐘が鳴った。
「……あ」
ソフィアは、しばらく窓の外を見つめた。
朝ではない。
昼でもない。
一日が、もう終わろうとしていた。
時計を見る。針は、夜に近い時刻を指していた。
「寝過ぎました……」
声に出すと、その事実が少しだけ重くなった。
朝、目を覚ました。起きようとした。もう一度、目を閉じた。
それだけで、一日が過ぎていた。
ソフィアは寝台へ座ったまま、しばらく動かなかった。
休暇の一日目。
何もしていない。
部屋を掃除していない。本も読んでいない。散歩にも行かなかった。
町を見ることも、光魔法について考えることも、何一つできなかった。
一日を丸ごと失ってしまったような気がした。
(もったいないことをしました)
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
休暇は一週間しかない。
そのうちの一日が、もう終わった。
残りは六日。
六日しかない。
そう考えると、急に何かをしなければならないような気がした。
今からでも本を読める。少しだけ部屋を片づけることもできる。夜の町を歩くことは難しくても、教会の中庭なら散歩ができる。
ソフィアは寝台から立ち上がった。
床へ足をつける。
身体が少し揺れ、寝台の縁へ手を置いた。
けれど、倒れるほどではなかった。
朝よりも、昨日よりも、身体がほんの少し軽かった。
肩へ置かれていたものが、少しだけ小さくなっている。頭の奥を覆っていた霞も、薄くなっていた。
胸のあたりへ手を当てる。
いつも感じていた重さは、まだ残っている。
けれど、ほんの少しだけ遠くなっていた。
ソフィアは、自分の手を見つめた。
眠っただけだった。
朝から夕方まで、何もせず、誰とも会わず、何の役にも立たず、ただ眠っていた。
それだけなのに、身体は昨日とは少し違っていた。
(眠ることも、必要だったのでしょうか)
そう思ってから、すぐに打ち消したくなった。
眠ることは、誰にでもできる。何かを成し遂げたわけではない。誰かを助けたわけでもない。
それを休暇と呼んでよいのだろうか。
休暇とは、もっと楽しいものではないのだろうか。
町へ出掛けたり、好きなものを食べたり、誰かと笑ったりする。そういう時間を、休暇と呼ぶのではないだろうか。
眠って終わった一日には、何も残っていない。
そう思った。
けれど、身体には何かが残っていた。
昨日よりも、ほんの少しだけ楽に息ができる。
目には見えない。誰かへ見せることもできない。
それでも、その小さな違いは確かにあった。
ソフィアは、部屋の中を見回した。
机の上には、書類がなかった。
いつもなら高く積まれているはずの紙の束がない。予定表も、報告書も、署名を待つ書類も置かれていなかった。
机は広かった。
こんなに広いものだったのだと、初めて気づいた。
窓辺へ歩く。
夜になりかけた王都には、少しずつ明かりが灯り始めていた。
家々の窓。通りの魔法灯。遠くの店先。
誰かが夕食の支度をしているのか、細い煙が屋根から上がっている。
町は、ソフィアが眠っているあいだも動いていた。
朝になり、人々が起き、働き、夕方を迎えた。
ソフィアが何もしなくても、一日は過ぎていった。
自分が仕事をしなければ、何かが止まってしまうような気がしていた。
けれど、王都はいつもどおり夜を迎えている。
鐘も鳴った。
町の明かりも灯った。
世界は動いていた。
ソフィアが一日眠っていても。
それは、安心してよいことなのだろうか。
少し寂しいことなのだろうか。
自分でも分からなかった。
ただ、誰かが代わりに仕事をしてくれている。
誰かが、自分の知らないところで今日を支えてくれている。
そのことだけは分かった。
「ありがとうございます」
声に出してみた。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
サンセリテへ。秘書へ。神父や修道女たちへ。今日、自分の代わりに働いてくれたすべての人へ。
小さな声は、夜の部屋へ静かに消えた。
そのあと、ソフィアは簡単な食事をとった。
修道女が持ってきてくれた、温かいスープとやわらかなパンだった。
「よくお休みになれましたか?」
皿を机へ並べながら、修道女が尋ねた。
「はい」
ソフィアは少し迷ってから頷いた。
「一日中、眠ってしまいました」
「それだけ、お疲れだったのですよ」
「でも、せっかくの一日を」
「眠るために使ったのなら、無駄ではありません」
修道女は、当たり前のことを言うように微笑んだ。
ソフィアは、すぐには返事をしなかった。
眠るために使った一日。
そのような考え方をしたことがなかった。
一日は、何かをするためのものだと思っていた。
学ぶ。働く。助ける。進む。
けれど、何もしないために使う一日もあるらしい。
スープを一口飲む。
温かかった。
舌の上へ、塩の味が少し残った。それから、やわらかく煮えた野菜の甘みが広がった。
ソフィアは、もう一口飲んだ。
昨日までの食事とは違っていた。
料理が特別なものだったわけではない。
自分が、味を感じていた。
そのことに気づいた。
「おいしいです」
思わず口にすると、修道女はうれしそうに目を細めた。
「よかったです」
それだけの会話だった。
けれど、ソフィアの胸には、小さく残った。
食事を終え、顔を洗い、寝間着へ着替えた。
昼まで眠っていたのだから、夜は眠れないかもしれないと思った。
けれど、寝台へ入ると、身体はすぐに布団の温かさへ沈んでいった。
目を閉じる。
明日は何をしよう。
そう考えかけた。
部屋を掃除する。本を読む。町へ出る。
いくつかの予定が浮かんだ。
けれど、今日はもう考えなくてもよいような気がした。
(明日のことは、明日、考えましょう)
昨日までなら、考えることをやめる方が難しかった。
けれど、その夜は違った。
眠りは、すぐにやってきた。
休暇の一日目。
ソフィアは何も成し遂げなかった。
誰も救わず、何一つ前へ進めなかった。
それでも、眠りの中へ置いてきたものが、ほんの少しだけあった。
そのことを、ソフィアはまだうまく言葉にはできなかった。




