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休日  作者: Atelier Lotus


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第4節 聖王大聖女

 聖王大聖女へ就任してからの日々は、思っていたよりも静かに始まった。

 朝、鐘の音で目を覚ます。

 顔を洗い、髪を整え、法衣へ袖を通す。礼拝堂で祈りを捧げ、部屋へ戻るころには、その日の予定が記された書類が机の上へ置かれていた。

 教会の会議。各地から届いた報告書。外交使節との会談。災害地域への支援。光魔法の研究。教皇補佐としての打ち合わせ。

 予定は、朝から夜まで細かく並んでいた。

 最初の会議が終われば、次の部屋へ向かう。報告を聞き、質問をし、必要な支援を決める。執務室へ戻り、書類へ署名する。

 一枚を読み終えるころには、新しい束が運ばれてきた。

 顔を上げて窓の外を見ると、まだ朝だった。

 もう一度顔を上げた時には、夕暮れになっていた。

 翌日も、その翌日も、ほとんど変わらなかった。

 聖王大聖女とは、人々の前で祈りを捧げるだけの役目ではなかった。

 困っている町があれば、必要な食料と薬を決める。洪水が起きれば、救援隊を送る。病が広がれば、治療院を置く場所と、そこへ向かわせる人員を整える。

 国と国とのあいだで争いが起きれば、双方の話を聞いた。

 教会の運営。神父や修道女たちの育成。各国との調整。光魔法の研究。そして、教皇サンセリテの補佐。

 世界中から届く声は、一日として途切れなかった。

 どの仕事も、大切なものに見えた。

 あとへ回してよいものは、一つもないように思えた。

 ソフィアが目を通さなければ、支援を待つ者が困るかもしれない。決定が遅れれば、救えない命があるかもしれない。

 そう考えると、途中で書類を閉じることができなかった。

 聖王大聖女へ就任してから、ソフィアのもとを訪れる人も増えた。

 各国の王族。教会の代表者。学者。軍人。外交官。

 人間だけではなかった。エルフ族も、ドワーフ族も、竜族も訪れた。

 皆、ソフィアの前へ来ると静かに頭を下げた。

 ある日、教会へ一人の竜族が訪れた。

 雪のように白い髪。黄金色の瞳。

 人の姿をしていても、その人が部屋へ入っただけで、周囲の空気がわずかに変わったように感じられた。

 白竜皇オルド。

 神話の時代から世界を見守り続けてきた、最古の竜だった。

 竜族だけではない。人間も、エルフも、ドワーフも、多くの者が彼へ深い敬意を向けていた。

 ソフィアも椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。

「お目にかかれて光栄です」

 オルドは、静かな顔でソフィアを見つめた。

 それから、ゆっくりと頭を下げた。

「聖王大聖女」

 低く、穏やかな声だった。

「世界のために尽くしてくださったこと、竜族を代表して感謝申し上げます」

 ソフィアは、一瞬だけ言葉を失った。

 自分よりも、はるかに長く生きている。いくつもの時代を見てきた。世界の守護者とまで呼ばれる存在が、自分へ頭を下げている。

「お顔を上げてください」

 考えるより先に、そう言っていた。

「私は、そのようなことをしていただける人間ではありません」

 オルドは顔を上げた。

 黄金色の瞳には、迷いも、疑いもなかった。

「あなたが、そう思っておられることは存じています」

「では」

「それでも、私はあなたへ敬意を表します」

 ソフィアは、何も言えなかった。

 周囲にいた者たちは、誰も驚いていなかった。それが当然のことであるかのように、静かに二人を見ていた。

 ソフィアだけが、どこへ目を向ければよいのか分からなかった。

 オルドの顔を見ることもできず、周囲の者たちを見ることもできない。結局、胸元で重ねた自分の指先へ目を落とした。

「ありがとうございます」

 最後には、そう答えた。

 いつものように微笑み、頭を下げた。

 白竜皇がソフィアへ頭を下げたという話は、まもなく王都中へ広がった。

 それから、人々がソフィアへ向ける目は、さらに変わっていった。

「聖王様」

 町へ出ると、そう呼ばれるようになった。

 馬車が大通りへ入れば、沿道へ人が集まった。

「聖王様!」

「こちらを見てください!」

「いつもありがとうございます!」

 子どもたちは笑顔で手を振った。大人たちは頭を下げた。花を掲げる人も、涙を浮かべながら胸の前で手を組む人もいた。

 ソフィアは馬車の窓を開け、笑顔で手を振り返した。

「ありがとうございます」

 その声は、歓声にのみ込まれた。

「聖王様が笑ってくださった!」

「こちらを見てくださったぞ!」

 自分の笑顔で喜んでくれる人がいる。

 そのことは、うれしかった。

 困っている人を笑顔にしたい。

 幼いころから、ずっとそう願ってきた。

 今、自分が手を振るだけで、人々は笑っている。

 夢が叶っているのだと思った。

 だから、もっと笑おうと思った。

 もっと手を振ろうと思った。

 もっと期待へ応えなければならないと思った。

 けれど。

「聖王様」

 その呼び声を聞くたび、胸の奥へ小さな何かが残った。

 一つひとつは、とても小さかった。

 呼ばれた時には気づかないほどの重さだった。

 それでも、一度、二度、三度と重ねられるうちに、それは消えずに積もっていった。

 聖王様。

 聖王大聖女。

 世界の希望。

 二人の再来。

 どれも、ありがたい呼び名だった。

 人々が、好意から口にしてくれていることも分かっていた。

 だから、重いなどと思ってはいけなかった。

 仕事は、日を追うごとに増えていった。

 初めは机の端へ置かれていた書類が、やがて机の半分を占めるようになった。それでも置ききれなくなり、隣へ小さな机が運ばれた。

 その上にも、書類が積まれた。

 朝、目を覚ます。

 祈る。

 働く。

 昼には会議へ出て、報告を聞き、署名をする。

 夕方には研究と治療があり、夜には教皇の補佐と翌日の準備が残っていた。

 一日を終えるころには、窓の外は暗くなっていた。

 部屋へ戻る。法衣を脱ぐ。寝台へ横になる。

 目を閉じる。

 気づけば、また鐘の音が聞こえている。

 朝だった。

 その繰り返しだった。

 食事の時間になると、修道女が執務室へ入ってきた。

「ソフィア様、お食事をお持ちしました」

「ありがとうございます」

 机の端へ皿が置かれる。

 スープ。パン。温かい野菜。時には肉や魚もあった。

 けれど、ソフィアは書類を閉じなかった。

 一行読み、スープを一口飲む。次の頁をめくり、パンを少しちぎる。

 文字を追いながら、口を動かした。

 修道女がそばに立ったまま、自分を見ていることへ気づくと、ソフィアは顔を上げた。

「きちんといただいていますよ」

「はい」

 修道女も笑った。

 けれど、その笑みには、言葉にしなかったものが少し残っていた。

 食事を終えたあと、ソフィアは空になった皿を見た。

 何を食べたのだろう。

 少し考えた。

 スープがあった。

 パンも食べた。

 けれど、何のスープだったのかは思い出せなかった。

 温かかったことだけは覚えていた。

 甘かったのか。塩辛かったのか。どのような野菜が入っていたのか。

 何も残っていなかった。

 味が分からなくなったのが、いつからなのかも分からなかった。

 午後も仕事は続いた。

 夜も、その翌朝も。

 眠っている時間だけが、仕事をしていない時間だった。

 けれど、夢の中でも書類を読んでいることがあった。

 同じ一行を何度も読み、署名する場所が見つからない。誰かが返事を待っているのに、紙は次々と増えていく。

 目を覚ますと、まだ何かを忘れているような気がした。

 今日の会議は。

 昨日の返事は。

 あの町への支援は。

 胸が落ち着かず、夜のうちに寝台を出て、机へ向かうこともあった。

 胸の下あたりが重くなる日も増えた。

 食事を終えると、鈍い痛みが残った。

 温かいお茶を飲む。椅子の背へ身体を預け、少しだけ目を閉じる。

 けれど、痛みはなくならなかった。

 頭が痛むこともあった。

 こめかみへ指を当て、目を閉じる。

 しばらくそうしていると、ほんの少しだけ痛みが遠のいたような気がした。

 それで十分だと思い、また書類を開いた。

 ある日、一枚の報告書を読んでいた。

 最初の行を読む。

 次の行へ進む。

 そこに書かれている言葉は、どれも知っているものだった。難しい表現でもなく、見慣れない文字でもない。

 けれど、意味が頭へ入ってこなかった。

 もう一度、最初へ戻る。

 同じ行を読む。

 それでも、読んだものがそのままどこかへ消えていった。

 ソフィアは羽根ペンを置き、目を閉じた。

(少し疲れているだけです)

 窓を開ける。

 冷たい風が、頬へ触れた。

 深く息を吸い、もう一度書類へ目を落とす。

 今度は、一文字ずつ、指先でなぞるように読んだ。

 時間をかければ、意味を拾うことができた。

(やはり、大丈夫です)

 そう思うことにした。

 そう思わなければならなかった。

 聖女になることは、ソフィアの夢だった。

 誰かを助けられる人になりたかった。泣いている人を笑顔にしたかった。困っている人の力になりたかった。

 その夢は叶った。

 世界中の人々が、自分を聖女と呼んでいる。白竜皇さえ、頭を下げた。多くの人が、ソフィアの働きを必要としている。

 これほどありがたいことはないはずだった。

 だから、苦しいと思ってはいけなかった。

 疲れたと言ってもいけなかった。

 夢が叶ったあとで、自分が望んだ道を歩きながら、苦しいなどと思う人間になってはいけない。

 世界には、本当に苦しんでいる人がいる。

 家を失った人。病に倒れた人。大切な者を亡くした人。

 その人たちに比べれば、自分の疲れなど小さなものだった。

 温かい部屋で椅子に座り、食事まで用意してもらっている。

 そんな自分が、疲れたなどと言ってはいけない。

 頑張らなければならない。

 期待へ応えなければならない。

 聖王大聖女なのだから。

 言葉に出さず、何度も自分へ言い聞かせた。

 そうしていれば、胸の重さにも、頭の痛みにも、名前をつけずに済んだ。

 ある日の夕方。

 秘書が書類を抱えて、執務室へ入ってきた。

「こちらにご署名をお願いいたします」

「はい」

 ソフィアは椅子から立ち上がり、机の向こう側へ回った。

 差し出された書類を受け取る。

 最初の頁へ目を落とした。

 文字が、わずかに揺れた。

 一度、瞬きをする。

 もう一度見る。

 今度は、紙全体が白く霞んでいた。

「ソフィア様?」

 秘書の声が、遠くから聞こえた。

「大丈夫です」

 そう答えようとした。

 けれど、声が出たのかどうか、自分でも分からなかった。

 手に持っていた書類が、少しずつ重くなる。

 指先へ力が入らない。

 床が遠くなった。

 天井が、ゆっくりと傾いた。

(少しだけ)

 休めば。

 そう思ったところで、意識が途切れた。

 書類が床へ落ちる音がした。

 そのあとに、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。

 目を覚ますと、ソフィアは寝台の上にいた。

 見慣れた天井。閉じられたカーテン。枕元には、水の入った杯が置かれていた。

 身体を起こそうと腕へ力を入れると、頭の奥が重くなった。

「そのままで結構です」

 静かな声がした。

 顔を向ける。

 寝台のそばに、教皇サンセリテが座っていた。

 いつもと変わらない穏やかな顔だった。

 けれど、その目には、ソフィアがあまり見たことのない厳しさがあった。

「……申し訳ありません」

 ソフィアは言った。

「書類の途中で」

「謝る必要はありません」

「ですが」

「ありません」

 サンセリテは、もう一度、静かに言った。

 ソフィアは口を閉じた。

 部屋に沈黙が流れた。

 窓の外から、遠くの鐘の音が聞こえてきた。

 一つ。

 二つ。

 いくつ鳴ったのか数えようとしたが、途中で分からなくなった。

 サンセリテは何も急かさず、寝台の上のソフィアを見つめていた。

「ソフィア」

「はい」

「一週間、お休みなさい」

 ソフィアは、すぐには答えられなかった。

 言葉の意味は分かった。

 けれど、それが自分へ向けられたものだとは、すぐに思えなかった。

「休暇です」

「ですが」

「これは、教皇としての命令です」

 声はやさしかった。

 叱られているわけではない。

 それでも、ソフィアの胸へ最初に浮かんだのは、安堵ではなかった。

 机の上に残した書類。

 明日の会議。

 返事を待っている国。

 支援を必要としている町。

 光魔法研究の報告。

 一つ思い浮かべると、その後ろからまた一つ現れた。

「仕事は」

 声が、かすかに震えた。

「私が引き受けます」

「ですが、サンセリテ様にもお仕事が」

「あります」

 サンセリテは頷いた。

「それでも、引き受けます」

「皆様へ、ご迷惑が」

「あなたが倒れたまま働き続ける方が、皆は困ります」

 ソフィアは、何も言えなかった。

 言われていることは正しかった。

 そのことは分かっていた。

 けれど、仕事を置いていくことを考えるだけで、胸の奥が落ち着かなかった。

 休む。

 何もしない。

 自分がいないあいだも、世界は動く。

 誰かが、自分の仕事を引き受ける。

 そのことが、なぜか怖かった。

 自分がいなければ困る人がいることも怖かった。

 自分がいなくても困らないかもしれないことも、同じように怖かった。

 ソフィアは布団の上で指を重ねた。

 力を入れると、細い指先が白くなった。

「……本当に」

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

 サンセリテは、静かに待っている。

 ソフィアは顔を上げた。

「本当に、休んでもよいのですか」

 サンセリテは、すぐには答えなかった。

 ただ、ソフィアの顔を見つめていた。

 その視線から逃れるように、ソフィアはまた指先へ目を落としかけた。

 けれど、その前に。

 サンセリテが、ゆっくりと頷いた。

「はい」

 短い言葉だった。

 その一言を聞いても、ソフィアはすぐには安心できなかった。

 休んでもよいと言われた。

 けれど、自分が本当に休んでもよい人間なのかは、まだ分からなかった。

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