第3節 二つの聖
朝、まだ日が昇って間もないころ。
教会の鐘が鳴り、澄んだ音が石畳の道を越えて、王都の空へゆっくりと広がっていった。
今日は、ソフィアの就任式だった。
聖女としての就任ではない。大聖女としてでもなかった。
教会の長い歴史の中で、これまで誰一人として授けられたことのない、新しい称号を受ける日だった。
けれどソフィアは、それがどのような称号なのか、詳しく聞かされてはいなかった。
サンセリテからは、
「当日まで楽しみにしていてください」
と、穏やかに笑われただけだった。
どのような役目なのか。これまでと何が変わるのか。自分に務まるものなのか。
ソフィアは何度か尋ねようとした。けれど、そのたびにサンセリテは、
「あなたなら大丈夫です」
と答えた。
その言葉を聞くと、それ以上は尋ねられなかった。
あなたなら大丈夫。
幼いころから、何度も聞いてきた言葉だった。
光魔法の試験を受ける時にも、はじめて大勢の人々の前へ立つ時にも、災害の起きた町へ向かう時にも、誰かがそう言った。
あなたなら大丈夫。
あなたならできます。
皆が信じています。
失敗するかもしれないと口にすれば、心配する必要はないと笑われた。不安で足が止まりそうになれば、背中をやさしく押された。
そう言われるたび、ソフィアは頷いた。
今日も、同じだった。
教会は朝早くから慌ただしかった。
修道女たちは法衣を整え、神官たちは祭壇や座席を確かめていた。運び込まれた花は一輪ずつ丁寧に並べられ、大聖堂へ続く廊下には世界各国の旗が掛けられていた。
白い花。青い花。金色の飾り。
廊下を行き交う足音も、いつもより少しだけ速かった。誰も走ってはいない。それでも皆の動きには、落ち着こうとするほど、かえって隠しきれなくなる浮き立ったものがあった。
その中で、ソフィアは静かに身支度をしていた。
純白の法衣に袖を通す。胸元には、金糸で聖印が刺繍されていた。肩から流れる長い布を掛け、最後に、歴代の大聖女だけが身につけることを許された冠を頭へ載せられた。
いつもの法衣よりも、重かった。
布そのものが重いのではない。刺繍が多いからでもなかった。
肩へ置かれた瞬間、目には見えない何かまで一緒に載せられたような気がした。
けれど、ソフィアは何も言わなかった。
鏡の前で、修道女が襟元を整える。布を少し右へ寄せ、皺を伸ばし、金色の留め具が外れないことを確かめた。
「これでよろしいです」
修道女は一歩下がり、鏡越しにソフィアを見つめた。
「本当に、お美しいです」
「ありがとうございます」
ソフィアは、やわらかく微笑み返した。
鏡の中には、自分がいた。
金色の髪。淡い色の瞳。いつもより立派な法衣。頭の上には、少し大きく見える冠がある。
別の人のようにも見えた。
それでも、顔は自分のものだった。
目も、口も、頬も、昨日と何も変わっていない。
今日からも、人を助ける。祈る。働く。傷ついた人がいれば治療し、困っている人がいれば話を聞く。
昨日と違うのは、着ているものだけなのだ。
そう思うと、少しだけ心が落ち着いた。
「緊張されていますか?」
修道女が尋ねた。
「少しだけ」
「無理もありません。世界中から、たくさんの方がお見えになっていますから」
「世界中から?」
「はい。王族の方々も、各国の教会を代表する方々も。それから、エルフ族、ドワーフ族、竜族の皆様も」
ソフィアは小さく目を見開いた。
「そんなにたくさんの方が?」
「皆様、この日を楽しみにされていました」
修道女はうれしそうに笑った。
「ソフィア様の、新しい門出ですから」
新しい門出。
ソフィアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
どこか遠くへ行くわけではない。教会を離れるわけでもない。明日も同じ部屋で仕事をし、同じ人々と話す。
それでも、今日は新しい門出なのだという。
その意味を、ソフィアはまだよく分からなかった。
やがて、部屋の扉が静かに開いた。
一人の神官が入り、深く頭を下げる。
「お時間です」
「はい」
ソフィアは椅子から立ち上がった。
冠がわずかに揺れ、思わず背すじを伸ばす。修道女が最後に法衣の裾を整えた。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
ソフィアは小さく頭を下げ、部屋をあとにした。
大聖堂へ続く廊下には、朝の光が差し込んでいた。窓の形に切り取られた光が、白い床へ長く伸びている。
歩くたび、法衣の裾が静かに揺れた。
廊下の両側には、神父や修道女たちが並んでいた。ソフィアが近づくと、皆が深く頭を下げる。
「おめでとうございます」
「心より、お祝い申し上げます」
「今日という日を迎えられたこと、うれしく思います」
ソフィアも、そのたびに足を止め、頭を下げ返した。
「ありがとうございます」
何度も、同じ言葉を口にした。
皆が笑っていた。自分のことのように喜び、目を細めていた。
その顔を見ると、ソフィアも笑わなければならないような気がした。
自分のために、これほど多くの人が準備をしてくれた。世界中から人々が集まってくれた。
ありがたいことだった。
だから、緊張している顔を見せてはいけない。不安そうにしてもいけない。
ソフィアは、いつものように微笑んだ。
やがて、大聖堂の前へたどり着いた。
閉ざされた大きな扉の向こうから、かすかなざわめきが聞こえている。
神官が扉の前に立った。
「準備はよろしいでしょうか」
ソフィアは小さく息を吸った。
「はい」
神官たちが左右へ分かれ、扉へ手を掛ける。
重い扉が、ゆっくりと開いていった。
高い天井。色鮮やかなステンドグラス。朝の光を受けて輝く祭壇。
壁には、歴代の聖者や聖女の肖像画が並んでいた。その中には、ソフィアが幼いころから見上げてきた二人の姿もあった。
初代大聖女エリアネ。
大聖女ミュゲ。
二人は昔と変わらない穏やかな顔で、大聖堂を見守っていた。
けれど、その下に広がる景色は、ソフィアがこれまで見たことのないものだった。
祭壇へ続く道の両側を、大勢の人々が埋めていた。
ナルシス王国の国王。各国の王族。教会を代表する聖職者。学者。外交官。
人間だけではない。エルフ族も、ドワーフ族も、竜族もいた。
見たことのない衣装。知らない紋章。名を聞いたこともない国の旗。
世界中という言葉を、ソフィアは幼いころから何度も聞いてきた。けれど、その広さを、本当に見たことはなかった。
今、その世界が一つの大聖堂へ集まっていた。
そして、皆がソフィアを見ていた。
誰も話さない。誰も動かない。
ただ、静かに見つめている。
ソフィアは祭壇へ向かって歩き始めた。
右を見ても、左を見ても、人と目が合った。そのたびに、人々は少しだけ微笑んだ。
胸の前で手を組んでいる者がいた。目に涙を浮かべている者もいた。
祈るような目だった。
何かを願うような目でもあった。
期待されている。
そのことだけは、よく分かった。
ソフィアは、いつものように微笑んだ。
人々を安心させるための笑顔。
期待へ応えるための笑顔。
幼いころから、何度も身につけてきた笑顔だった。
祭壇には、教皇サンセリテが静かに立っていた。
長い年月、教会を導いてきたエルフの教皇は、いつもと変わらない穏やかな顔でソフィアを見つめていた。
その顔を見て、ソフィアは少しだけ安心した。
サンセリテの前へ進み、静かに頭を下げる。
大聖堂は、さらに静かになった。遠くに座る誰かの息づかいまで、聞こえてきそうだった。
やがて、サンセリテが一歩前へ出た。
「本日、私たちは新たな時代の始まりを迎えます」
穏やかな声が、大聖堂の隅々へ広がっていった。
ソフィアは顔を上げた。
サンセリテは、集まった人々をゆっくりと見渡した。
「ここに立つソフィア・アルテミスは、幼いころより光魔法を学び、今日まで多くの人々へ手を差し伸べてきました」
治癒。浄化。災害支援。病に苦しむ者の救済。国と国との仲立ち。
サンセリテは、ソフィアがこれまで行ってきたことを、一つずつ語っていった。
その中には、ソフィア自身が忘れかけていたこともあった。
小さな村で病人を治したこと。洪水で失われた教会を建て直したこと。争っていた二つの国の代表者と、夜が明けるまで話したこと。
どれも、必要だと思ったから行っただけだった。
目の前に困っている人がいた。
だから、助けた。
ソフィアにとっては、それだけのことだった。
けれど、サンセリテの言葉を通して聞くと、それぞれの出来事が一つにつながり、自分の知らない大きな道のように思えた。
「彼女は、初代大聖女エリアネの慈愛を受け継ぎ」
人々の視線が、壁に描かれたエリアネの肖像へ向かった。
ソフィアも、少しだけそちらを見る。
幼いころ、何度も見上げた顔だった。
「大聖女ミュゲの意志を継ぐ者」
今度は、ミュゲの肖像へ視線が集まった。
ソフィアの胸が、わずかに狭くなった。
受け継いだ。
そう言われても、自分には分からなかった。
エリアネのように、世界へ平和をもたらしたわけではない。ミュゲのように、長い災厄を終わらせたわけでもない。
ただ、自分にできることをしてきただけだった。
けれど、誰もその言葉を疑っていなかった。
誰もが静かに受け止め、ソフィアと二人の肖像を交互に見つめている。
サンセリテが、ソフィアへ向き直った。
「ゆえに」
少しだけ間があいた。
誰も動かなかった。
「本日より」
ソフィアは、静かにサンセリテを見つめた。
「史上初、聖王大聖女の称号を授けます」
一瞬、大聖堂から音が消えた。
次の瞬間、拍手が起こった。
最初は、前列に座っていた一人だった。その隣の者が続き、さらに後ろへ、またその隣へと広がっていく。
やがて拍手は、大聖堂を満たした。
立ち上がる人がいた。涙を拭う人もいた。
「おめでとうございます」
「新たな時代の聖女だ」
「世界の希望だ」
歓声が上がる。
拍手は高い天井へ届き、何度も響いて戻ってきた。
その中で、ソフィアはほんの少しだけ思った。
(……聖)
今、サンセリテが口にした言葉を、頭の中でもう一度繰り返す。
聖王大聖女。
(聖という字が、ふたつもあります)
聖王。
大聖女。
たしかに、二つあった。
少し不思議だった。
そして、ほんの少しだけ、可笑しかった。
史上初の、とても立派な称号なのだろう。それなのに、同じ字を二度も使うことが、幼い子どもが強そうな言葉を重ねたようにも思えた。
けれど、誰も笑ってはいなかった。
サンセリテも、王族たちも、各国から集まった聖職者たちも、皆、本気で喜んでいる。
だからソフィアも、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
大きな拍手の中では、その声はほとんど聞こえなかった。
聖という字が二つあることも、その名前が少しだけ不思議に思えたことも、誰にも言わなかった。
言葉にするほどのことではないと思った。
そうして、その小さな違和感は胸の奥へしまわれた。
式典が終わると、世界各国から集まった人々が、順番にソフィアのもとへ歩み寄ってきた。
ナルシス王国の国王。各国の王族。教会を代表する聖職者。学者。外交官。エルフ。ドワーフ。竜族。
立場も、国も、種族も違っていた。
けれど、皆が口にする言葉はよく似ていた。
「おめでとうございます」
「世界の希望です」
「あなたなら、世界を導けます」
「エリアネ様とミュゲ様、二人の再来です」
ソフィアは、一人ひとりへ頭を下げた。
「ありがとうございます」
何度も、何度も、同じ言葉を返した。
祝福は途切れなかった。
握手を求められ、言葉を贈られ、記念の写真を撮る。相手が離れると、すぐに次の人が進み出た。
誰もが笑っていた。
誰もが、そこに希望を見るような目でソフィアを見つめていた。
その目を見るたび、ソフィアも微笑んだ。
喜んでもらえることは、うれしかった。期待してもらえることも、ありがたいと思った。
だから、疲れた顔を見せてはいけないと思った。
ふと、気づいた。
今日になってから、自分の名前を呼ばれていない。
「聖王大聖女様」
「世界の希望」
「二人の再来」
そう呼ばれるたび、ソフィアは振り向いた。
自分のことだと分かっている。けれど、その呼び名は、どこか遠くにいる別の誰かのもののようにも聞こえた。
ソフィア。
そう呼ぶ人は、一人もいなかった。
今日が特別な日だからだろう。
称号を授けられたばかりだから、皆も使いたいのだ。
そう思い直し、ソフィアはまた微笑んだ。
すべての日程が終わるころには、窓の外は夕暮れへ変わっていた。
長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
部屋へ戻り、扉を閉める。
小さな音が響いた。
その瞬間、大聖堂の拍手も、祝福の声も、扉の向こうへ遠ざかっていった。
ようやく、一人になれた。
ソフィアは、息を吐いた。
思っていたよりも深い息だった。
頭へ手を伸ばし、冠を外す。両手で支えながら、机の上へそっと置いた。
朝に載せられた時よりも重く感じられた。
一日中かぶっていたからだろうか。
肩が少しだけ軽くなった。
続いて法衣を脱ぐ。金糸の刺繍が夕暮れの光を受け、静かに輝いていた。皺にならないよう、椅子の上へ丁寧にたたんで置く。
鏡の前へ立った。
そこには、いつもの自分がいた。
金色の髪。
少しだけ疲れた顔。
いつもと同じ淡い色の瞳。
先ほどまで世界中の人々が見つめていたのは、この顔だった。この目だった。この笑顔だった。
けれど。
皆が見ていたのは、本当に自分だったのだろうか。
ソフィアは鏡へ近づき、自分の目を見つめた。
そこには、昨日までと変わらないソフィアがいた。
人を助けたいと思った少女。
困っている人を見ると、放っておけない少女。
はじめて手のひらに生まれた光を見て、
「きれい」
と笑った少女。
その自分は、今もここにいる。
エリアネ。
ミュゲ。
二人の名前を思い浮かべた。
幼いころから憧れてきた人たちだった。目標でもあり、心から尊敬していた。いつか少しでも近づけたらと思い、ここまで歩いてきた。
けれど。
近づこうとすることと、同じ場所へ並べられることは、少し違っていた。
自分は、エリアネではない。
ミュゲでもない。
自分は、ソフィアだった。
それなのに今日、一番多く呼ばれた名前は、ソフィアではなかった。
聖王大聖女。
世界の希望。
二人の再来。
祝福の言葉ばかりが、耳の奥へ残っている。
鏡の中のソフィアは、黙ってこちらを見返していた。
少し疲れていた。
けれど、疲れていると言うほどではないようにも見えた。
不安そうだった。
けれど、何を不安に思っているのか、自分でもうまく説明できなかった。
ソフィアは鏡へ手を伸ばした。
指先が、冷たい表面へ触れた。
(私は、本当に)
胸の中で、小さく問いかける。
(あのお二人と並べられる人間なのでしょうか)
鏡は何も答えなかった。
そこには、聖王大聖女ではないソフィアがいた。
けれど、そのソフィアが誰なのかを、ソフィア自身もまだよく知らなかった。
部屋には夕暮れの光が差し込んでいた。
床へ伸びた光は、少しずつ長くなり、やがて部屋の隅に置かれた冠の影へ静かに重なった。




