第2節 期待
光魔法が発現してから、しばらくして。
ソフィアは、聖女候補として正式に教会へ迎えられることになった。
まだ両親と離れて暮らすには幼かったため、朝になると家を出て、夕方には戻るという毎日だった。父か母のどちらかが、教会まで手を引いて送ってくれた。
はじめの頃、ソフィアは何度も振り返った。
家から教会までの道は、これまでにも家族と歩いたことがある。けれど、遊びに行くのでも、礼拝へ向かうのでもないと思うと、見慣れた町が少しだけ違って見えた。
「帰りも迎えに来てくれる?」
教会の前で、ソフィアは母の手を握ったまま尋ねた。
「もちろんよ」
「暗くなる前に?」
「ええ。お勉強が終わる頃に来るわ」
母がそう言って笑うと、ソフィアはようやく手を離した。
大きな扉をくぐれば、神父や修道女たちが笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、ソフィア」
「おはようございます」
ソフィアも背すじを伸ばし、元気よく頭を下げた。
教会の一室には、ソフィアのための机が用意されていた。
小さなからだに合わせた低い机と、まだ木の匂いが残る新しい椅子。机の上には教本がきれいに並べられ、壁には小さな黒板まで掛けられていた。
ソフィアは椅子を引き、座ってみた。
両足が、ちょうど床へ届いた。
机の表面を指で撫でると、ひんやりとしていて、傷一つなかった。
「これは、全部わたしのものですか?」
「ええ。今日からここで学ぶのですよ」
そばにいた修道女が答えると、ソフィアは机の上へ両手を置いた。
自分のためだけに用意された場所がある。
それが、少しくすぐったく、誇らしかった。
白い法衣も用意されていた。
正式な聖女が身につけるものとは異なる、聖女候補のための簡素な法衣だった。飾りはほとんどなく、布地もやわらかかったが、袖口と襟には細い銀糸が縫い込まれていた。
はじめて袖を通した日、ソフィアは何度も鏡の前へ立った。
いつもの服よりも袖が長く、動くたびに白い布が揺れた。胸元を整え、横を向き、もう一度正面を向く。
「似合いますか?」
そばにいた修道女へ尋ねると、修道女は目を細めた。
「ええ。とてもよく似合っていますよ」
「聖女様みたいですか?」
「もう少し大きくなれば、きっと立派な聖女様になります」
その言葉がうれしくて、ソフィアは照れたように笑った。
鏡の中にいるのは、昨日までと同じ自分だった。
顔も、髪も変わらない。
けれど白い法衣を着ているだけで、礼拝堂の肖像画へ、ほんの少し近づいたように思えた。
夢へ近づいている。
幼いソフィアには、そう感じられた。
不安はなかった。
知らないことを学べることが、うれしかった。光魔法を使えるようになることも、エリアネやミュゲの歩いた道を知ることも、すべてが楽しみだった。
一つ覚えるたびに、自分も誰かを助けられる人へ近づいていける。
そのことばかりを考えていた。
最初の日、教本を抱えた神父がソフィアの前へ座った。
机を挟んで向かい合い、何冊もの本を一冊ずつ並べていく。
「今日から、聖女になるためのお勉強を始めましょう」
「はい!」
ソフィアは背すじを伸ばし、元気よく頷いた。
そこから、聖女候補としての日々が始まった。
光魔法。
神学。
礼儀。
歴史。
治癒。
祈り。
学ぶことは、いくらでもあった。
最初に覚えたのは、手のひらへ小さな光を灯すことだった。
光魔法が自然に現れたとはいえ、いつでも自由に使えるわけではなかった。
強くしようとすれば、光はすぐに消えた。長く保とうとすると手が震え、右手では出せても、左手では何も起こらないこともあった。
「力を入れすぎてはいけません」
神父は何度も同じことを言った。
「光は、押さえつけるものではありません。静かに導くのです」
「静かに……」
ソフィアは小さく呟き、自分の手のひらを見つめた。
目を閉じる。
礼拝堂で肖像画を見上げた時のことを思い出す。
困っている人を助けたいと思ったこと。
父と母が笑ってくれたこと。
初めて手の中に生まれた光。
指先が少し温かくなった。
目を開けると、淡い光が浮かんでいた。
光は小さく揺れた。
消えそうになった。
ソフィアは慌てて息を止めた。
その途端、本当に消えてしまった。
「あっ……」
小さく声を漏らし、肩を落とす。
「大丈夫ですよ」
神父は笑った。
「最初から上手にできる人はいません」
「でも、教会で最初に出た時は、もっと光っていました」
「あの時は、出そうと思って出したのではなかったのでしょう」
「はい」
「今は、自分の意志で光を呼ぼうとしています。それは、また別のことなのですよ」
ソフィアは、光の消えた手を見つめた。
出なかったことが悔しかった。
けれど、できない理由があるのだと知ると、もう一度試したくなった。
「もう一度、やってもいいですか?」
「もちろんです」
ソフィアは何度も繰り返した。
一度。
二度。
三度。
光が生まれない時もあった。
生まれても、すぐに消えた。
それでも、そのたびに手を下ろし、呼吸を整え、もう一度差し出した。
その日の終わりには、初めよりもほんの少しだけ長く、光を保てるようになっていた。
「できました」
うれしくなって、神父の顔を見る。
「ええ。よく頑張りましたね」
褒められると、胸の奥に小さな喜びが生まれた。
次の日には、もう少し長く光らせようと思った。
その次の日には、少しだけ明るくしようと思った。
昨日できなかったことが、今日はできる。
今日できなかったことも、明日ならできるかもしれない。
その積み重ねを、ソフィアは好きになった。
神学では、祈りの言葉を学んだ。
古い言い回しが多く、幼いソフィアにはむずかしかった。
見慣れない言葉を読み飛ばし、順番を間違え、同じところで何度もつまずいた。
「もう一度、最初から読んでみましょう」
「はい」
ソフィアは教本を両手で持ち、はじめの行へ視線を戻した。
長い祈りを、何度も読み直した。
言葉が舌に絡まり、思うように声が出ない。自分では正しく読んだつもりなのに、また同じところを直される。
夕方が近づく頃には、教本の文字が少し滲んで見える日もあった。
泣くほどのことではないと思うと、よけいに涙をこぼしてはいけない気がした。
ソフィアは目を何度か瞬かせ、また最初の言葉を読んだ。
やめたいとは思わなかった。
うまく読めるようになれば、祈りを必要としている人の前で、間違えずに唱えられる。
その日が来た時に困らないよう、今、覚えておくのだと思った。
礼儀作法では、まっすぐ立つことから教わった。
頭を下げる角度。
歩く速さ。
椅子へ腰掛ける時の姿勢。
人の話を聞く時の目線。
法衣の裾を踏まない歩き方。
長いあいだ同じ姿勢を保っていると、足がしびれた。
見えないように靴の中で指を動かしていると、修道女に気づかれた。
「足が痛いですか?」
「少しだけです」
「今日はここまでにしましょうか」
そう言われると、ソフィアは一度だけ足元を見た。
休みたい気持ちはあった。
けれど、ここで終われば、覚えるのが一日遅くなるような気がした。
「いいえ。まだできます」
修道女は少し困ったように笑った。
「無理をすることも、よいことではありませんよ」
「無理はしていません」
ソフィアは、そう答えて姿勢を直した。
足はまだ痛かった。
けれど、口にした時には、本当に無理ではないように思えた。
自分で望んだことだった。
聖女になるなら、必要なことなのだと思った。
歴史の勉強では、昔の国の名前や、戦争の起きた年を覚えた。似た名前の王が何人もいて、どの王がどの戦争を始め、誰がそれを終わらせたのか、何度読んでも混ざってしまった。
数字を書き間違えるたび、紙を新しくした。
消した跡の残った紙を提出するのが、何となく嫌だったからだ。
それでも、一つ覚えるたびに、知らなかった世界が少し広がるような気がした。
かつて争っていた国が、今は同じ卓を囲んでいること。
一度結ばれた約束が、何十年もの平和を支えていること。
誰かの言葉が多くの命を救い、別の誰かの言葉が争いを始めたこと。
聖女は、傷を治すだけではない。
人の話を聞き、言葉を選び、争いを避けるために立つこともある。
そのことを、ソフィアは少しずつ知っていった。
年齢が上がるにつれて、学ぶことはさらに増えた。
外交。
教会の運営。
各国の文化。
異なる種族の習慣。
災害が起きた時の対応。
大勢の人々の前で話すための言葉。
物資を必要な場所へ届けるための手順。
治療を受けられる者と、待たなければならない者を決める判断。
聖女は、光魔法を使えるだけではいけなかった。
傷を治すだけでもいけなかった。
人の話を聞き。
国と国のあいだへ立ち。
争いを止め。
困っている者へ、必要なものを届けなくてはならない。
そのためには、多くのことを知る必要があった。
ソフィアは学んだ。
毎日。
少しずつ。
うまくいかない日にも。
誰にも褒められない日にも。
それでも、苦しいとは思わなかった。
自分で望んだ道だったから。
夕方になり、母が迎えに来ると、ソフィアはその日に覚えたことを話した。
「今日は、光を昨日より長く出せたの」
「まあ、すごいわね」
「でも、祈りの言葉を三回も間違えた」
「三回だけだったの?」
「昨日は五回だったから」
母が笑うと、ソフィアも笑った。
家へ帰れば、父が今日の勉強を尋ねてくれた。
食事の途中で眠くなり、匙を持ったまま目を閉じてしまうこともあった。
そんな時、父はソフィアを抱き上げて寝台まで運んでくれた。
翌朝になれば、また教会へ行った。
同じ道を歩き、同じ扉をくぐり、昨日より少しだけ多くのことを覚えた。
その頃のソフィアにとって、努力は夢へ近づくための歩みだった。
歩けば進める。
進めば、いつか誰かへ手を差し伸べられる。
そのことを疑ったことはなかった。
◇
ある日のことだった。
教会の中庭で、小さな子どもが転んだ。
石につまずき、膝を強く打った。すりむいた皮膚から赤い血が流れ、砂の混じった傷口が痛々しく見えた。
「いたい……」
子どもはその場へ座り込み、大きな声で泣き始めた。
近くにいた母親が慌てて駆け寄り、修道女も水と布を持って走ってきた。
ソフィアは、少し離れた回廊からその様子を見ていた。
泣いている。
困っている。
助けたい。
そう思った時には、からだが動いていた。
「わたしに、やらせてください」
修道女が驚いたように振り返った。
「治癒魔法を?」
「はい」
「まだ、練習を始めたばかりでしょう」
「でも」
ソフィアは泣いている子どもを見た。
膝を押さえた小さな手のあいだから、血がにじんでいる。
「少しだけなら、できるかもしれません」
修道女はすぐには答えなかった。
ソフィアと傷口を見比べ、子どもの母親へ視線を向けた。
「傷を清めてから、ソフィア様に試していただきます。完全に治せない場合は、私が処置いたします」
母親は、泣いている子どもの背を撫でながら何度も頷いた。
「お願いします」
傷口の砂を水で洗い流したあと、ソフィアは子どもの前へ膝をついた。
「少しだけ、じっとしていてね」
「いたいの、なおる?」
「たぶん」
答えてから、不安になった。
治せなかったらどうしよう。
もっと痛くしてしまったらどうしよう。
光が出なかったら。
途中で消えてしまったら。
後ろでは修道女が見守っている。失敗しても、すぐに代わってくれる。
それでも、ここで逃げたくはなかった。
ソフィアは両手を傷口へかざした。
習ったとおりに呼吸を整える。
傷を消そうと考えるのではなく、傷ついた場所が本来の形へ戻るよう、光を導く。
手のひらに温かさが集まった。
やわらかな光が生まれ、子どもの膝を包んだ。
すぐには治らなかった。
光は何度も揺れた。
傷口へ意識を向け続けるうちに、両腕が少しずつ重くなった。額へ汗が浮かび、頬を伝った。
子どもが、泣くのを堪えるように鼻をすすった。
「もう少しです」
誰へ言ったのか、ソフィア自身にも分からなかった。
子どもへ言ったのか。
後ろで見守る者たちへ言ったのか。
それとも、自分へ言い聞かせたのか。
手の震えを抑え、もう少しだけ光を保った。
やがて、流れていた血が止まった。
赤く開いていた傷も、少しずつ小さくなっていく。
完全には消えなかった。
膝には薄い傷が残った。
それでも、子どもは泣くのをやめた。
おそるおそる傷へ触れ、何度か膝を曲げてみる。
「もう、いたくない」
それから顔を上げ、ソフィアを見た。
「ありがとう」
涙の残った顔で、子どもは笑った。
その笑顔を見た瞬間、ソフィアの胸の中が温かくなった。
礼拝堂で、エリアネとミュゲの肖像画を見上げた日のことを思い出した。
『誰かを助けられる人になりたい』
『泣いている人を笑顔にしたい』
『困っている人の力になりたい』
あの日に思ったことが、ほんの少しだけ本当になった。
「よかった……」
ソフィアも笑った。
腕は重く、膝をついた足も痛かった。
けれど、その痛みさえ、今はうれしかった。
治癒魔法が使えたことよりも。
修道女に褒められることよりも。
目の前の子どもが、もう泣いていないことが何よりうれしかった。
「よくできましたね」
修道女が、ソフィアの肩へ手を置いた。
ソフィアは頷いたが、子どもから目を離さなかった。
母親に手を引かれて歩いていく小さな背中を、見えなくなるまで見送った。
その頃までは。
ソフィアの夢と、周囲から向けられる期待は、まだ同じ方向を向いていた。
誰かを救いたい。
立派な聖女になってほしい。
ソフィアが進みたいと願う道と、皆が進んでほしいと望む道は、同じに見えた。
だから、期待されることがうれしかった。
もっと頑張ろうと思えた。
期待とは、自分を信じて待っていてくれることなのだと、ソフィアは思っていた。
◇
年月が流れた。
幼かったソフィアは、少しずつ背が伸びた。
白い法衣は一度では足りず、何度も仕立て直された。袖が短くなるたび、修道女が古い縫い目をほどき、新しい布を足した。
机も、いつしか幼い頃のものでは狭くなった。
両足が床へ届くことを喜んでいた椅子は片づけられ、大人と同じ高さの机へ替えられた。
手のひらに小さな光を灯すだけだった魔法は、傷を治し、病をやわらげ、人々を守る結界へと変わっていった。
治癒。
浄化。
結界。
ソフィアが扱える光魔法は増えていった。
教会の中でも、その名を知らない者は少なくなった。
「未来の聖女」
「教会の希望」
「現代最高の光魔法使いになるでしょう」
そう呼ばれるたび、ソフィアは頭を下げた。
「ありがとうございます」
はじめのうちは、素直にうれしかった。
幼い頃から続けてきた努力を、認めてもらえたように感じた。
自分の力が大きくなれば、助けられる人も増える。
小さな傷だけではなく、重い病に苦しむ者も救えるかもしれない。町だけではなく、遠い土地へも行けるかもしれない。
そう思うと、学ぶことも、鍛えることも苦ではなかった。
けれど、少しずつ。
期待の形は変わっていった。
試験でよい成績を取れば、
「やはりソフィア様です」
と言われた。
新しい魔法を覚えれば、
「できて当然だと思っていました」
と笑われた。
初めて成功したことでも、驚かれることは少なくなった。
ソフィアならできる。
皆が、そう思っていた。
それは信頼なのだと分かっていた。
自分が長く積み重ねてきたものを、信じてもらえているのだとも思った。
だから、喜ぶべきことだった。
けれど、褒められているはずなのに、胸のどこかへ小さな空白が残ることがあった。
誰にも見せずに何度も練習したこと。
夜になってもできず、一人で悔しさを堪えたこと。
指先が動かなくなるまで魔法を繰り返したこと。
それらは、できたという結果の向こうへ隠れてしまった。
「できて当然」
そう言われるたび、できなかった時間まで、最初からなかったことになるような気がした。
それでも、ソフィアは笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
失敗した日には、もっと困った。
魔法の制御を誤り、結界が途中で消えてしまった日。
暗記していたはずの祈りの一節を、人前で言い間違えた日。
判断に迷い、返事が遅れた日。
周囲の者たちは、誰も責めなかった。
「今日はお疲れなのでしょう」
「少しお休みになれば、すぐに戻ります」
「本来のソフィア様なら、このようなことはありません」
やさしい声で慰めてくれた。
怒られるよりも、ずっとありがたい言葉のはずだった。
それなのに、ソフィアは返事に困った。
失敗したのは、自分だった。
うまくできなかった。
ただ、それだけのことだった。
疲れていたからではない。
誰かに邪魔をされたからでもない。
自分が間違えたのだと、ソフィアは言いたかった。
「いいえ。私の力が足りなかったのです」
そう答えると、相手は決まって首を横へ振った。
「そのようにご自分を責めてはいけません」
「ソフィア様は十分に努力されています」
「一度の失敗で、何も変わりません」
言葉はどれもやさしかった。
けれど、失敗を失敗のまま受け取ってもらえないことが、かえって苦しかった。
いつものソフィアではなかった。
本当ならできるはずだった。
次は必ずできる。
そう言われるたび、ソフィアという人間は、何でもできる者でなければならないように思えた。
皆は、ソフィアならできると信じている。
だからソフィアも、できなければならないと思った。
次は失敗しないように。
もっと勉強しよう。
もっと練習しよう。
もっと期待へ応えられるように。
夜、自室へ戻ってから、一人で同じ魔法を繰り返した。
手が震えても、もう一度。
頭が重くなっても、もう一度。
誰かに命じられたわけではなかった。
休みなさいと言われれば、きっと皆が休ませてくれただろう。
だからこそ、休みたいとは言いにくかった。
皆が自分を信じてくれているのに、その信頼へ甘えてはいけないと思った。
期待されることは、ありがたいことだ。
信じてもらえることは、幸せなことだ。
だから、その期待へ応えなくてはならない。
ソフィアは、少しずつ自分へ言い聞かせるようになった。
その言葉は、誰かに教えられたものではなかった。
けれど、何度も繰り返しているうちに、祈りの文句よりも深く、心へ馴染んでいった。
◇
さらに年月が流れた。
ソフィアは、教会の外でも人を救うようになった。
洪水が起きれば、被災した町へ向かった。
病が広がれば、治療院へ立った。
争いで傷ついた人々が運ばれてくれば、夜が明けるまで治癒魔法を使った。
泥に濡れた法衣のまま、何人もの傷へ手をかざしたことがあった。
眠る場所がなく、椅子へ腰掛けたまま夜を越したこともあった。
水を飲もうとして杯を持ったのに、次の負傷者が運ばれてきて、そのまま置いたこともあった。
救えた命があった。
救えなかった命もあった。
すべてを救うことはできなかった。
どれほど力を尽くしても、光が届かない者はいた。
あと少し早ければと思ったこともあった。
別の方法があったのではないかと、眠れないまま考え続けた夜もあった。
けれど、人々は、救えた命を見た。
「大聖女エリアネのようだ」
「ミュゲ様の再来ではないか」
「現代に、新しい大聖女が現れた」
そんな言葉が、少しずつ広がっていった。
はじめて聞いた時、ソフィアは驚いて首を横へ振った。
「そんな立派なものではありません」
「私は、まだ学んでいる途中です」
「エリアネ様やミュゲ様とは比べられません」
本気でそう思っていた。
肖像画を見上げていた幼い頃から、二人はソフィアにとって遠い存在だった。
学べば学ぶほど、その遠さは増していった。
二人が救った命。
背負った責任。
残した言葉。
自分には到底及ばないと思っていた。
けれど、周囲の者たちは穏やかに笑った。
「ご謙遜を」
「その慎ましさこそ、聖女にふさわしい」
「やはり、ソフィア様は立派な方です」
否定しても、謙遜だと思われた。
違うと言っているのに、その言葉さえも聖女らしい振る舞いとして受け取られた。
ソフィアは、自分のことを話しているつもりだった。
けれど、人々はソフィアの言葉を聞きながら、その向こうに理想の聖女を見ていた。
「今日は少し疲れました」
そう言えば、
「ご自分を顧みず、民のために尽くしておられるのですね」
と目を潤ませる者がいた。
「私には、できません」
そう答えれば、
「その慎み深さを、皆が慕っているのです」
と微笑まれた。
「怖いのです」
ようやく口にした時には、
「恐れを知りながら立ち向かうことこそ、本当の勇気です」
と褒められた。
それは、どれも間違った言葉ではなかった。
相手は、ソフィアを励まそうとしていた。
傷つけようとする者などいなかった。
だからこそ、自分の感じている違和感を、誰かのせいにはできなかった。
少しずつ。
自分の言葉が、自分のものではなくなっていくような気がした。
口から出た途端に、誰かがより立派な意味へ置き換えてしまう。
疲れは献身に。
迷いは慎ましさに。
恐れは勇気に。
できないという言葉さえ、できる者の謙遜へ変えられた。
自分が何を言えば、自分の言葉のまま届くのか、ソフィアには分からなくなっていった。
それでも、人々の前では笑った。
不安を与えてはいけないと思った。
ソフィアの姿を見て安心する者がいる。
ソフィアの言葉を信じて、今日を生きようとする者がいる。
そう思えば、笑うことは苦ではないはずだった。
◇
今から五年前。
一人の元大聖女が、世界を救う大きな功績を成し遂げた。
長いあいだ人々を苦しめていた災いを退け、多くの命を救った。
本来なら、その人こそ称えられるべきだった。
その名が歴史へ刻まれるはずだった。
けれど、その人はソフィアの前へ座ると、静かに微笑んだ。
「この功績は、あなたが受け取ってください」
ソフィアは、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
机の上には、その功績を記した文書が置かれていた。
何度読んでも、そこに書かれているのは、目の前の元大聖女が行ったことだった。
ソフィアの名前が入る余地など、どこにもなかった。
「できません」
ソフィアは、すぐに首を横へ振った。
「これは、あなたの功績です」
「私は何もしていません」
元大聖女は、穏やかな顔を崩さなかった。
「私は、もう十分です」
「十分だなんて」
思わず声が強くなった。
ソフィアは膝の上で手を握った。
「あなたが命を懸けて成し遂げたことです。私が受け取れるものではありません」
「これからの時代には、あなたが必要です」
「それと、これとは別のことです」
「別ではないのです」
元大聖女の声は、どこまでも静かだった。
怒っているようには見えなかった。
悲しんでいるようにも見えなかった。
ただ、すでに決めたことを伝えている顔だった。
「受け取れません」
ソフィアはもう一度言った。
「皆さんへ、本当のことをお話しします。これは私の功績ではないと」
「それでは、困る人がいます」
「どうしてですか?」
「今の世界には、新しい希望が必要だからです」
ソフィアは、その言葉を待った。
けれど、元大聖女はそれ以上詳しく話さなかった。
「私は、希望ではありません」
「今は、そう思っているのでしょうね」
「違います。そういう意味ではなく」
言葉を探した。
何もしていない人間が、功績だけを受け取ること。
それを正しいと思えないこと。
自分の名が称えられるたび、本当に成し遂げた人の名が薄れていくこと。
口にしたいことはいくつもあった。
けれど、元大聖女の眼差しを前にすると、どの言葉も幼いものに思えた。
「私には、分かりません」
ようやく、そう言った。
「分からなくてよいのです」
「分からないまま、受け取るのですか?」
「いつか、分かる日が来ます」
教会も、その決定を受け入れた。
周囲の者たちも、これが最もよい形なのだと言った。
「ソフィア様が受け取るべきです」
「皆が、あなたを信じています」
「これからのために必要なことです」
どの顔にも悪意はなかった。
皆が、本当に正しいことをしていると信じていた。
自分だけが、理由を理解できなかった。
何もしていないのに。
受け取る資格などないのに。
それでも、返すことはできなかった。
皆が決めたことを、自分一人の気持ちだけで覆すことはできなかった。
「受け取れません」と言い続けることが、やがては多くの者の尽力を無駄にすることになるのだと説明された。
元大聖女自身が望んでいるのだから、拒み続けるほうが失礼なのだとも言われた。
その一つ一つは、理解できる言葉だった。
理解できるからこそ、最後まで拒むことができなかった。
功績は、ソフィアの名のもとへ置かれた。
式典の日、広場には多くの人々が集まった。
ソフィアの名が呼ばれると、歓声が上がった。
花が投げられ、子どもたちが手を振った。
救われたという人々が、涙を流しながら感謝を伝えた。
ソフィアは笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
そう言うほかなかった。
自分は何もしていないのだと、壇上から叫ぶことはできなかった。
それをすれば、目の前で喜んでいる人々を傷つける。
元大聖女の意志も踏みにじる。
教会が整えたすべてを壊すことになる。
だから笑った。
何度も頭を下げた。
胸の中には、受け取ってはいけないものを抱えている感覚だけが残った。
式典を終え、自室へ戻ってからも、花の香りが法衣に染みついていた。
ソフィアは一輪ずつ花を外し、机の上へ置いた。
花には何の罪もなかった。
贈った人々にも、何の罪もなかった。
だから捨てることはできなかった。
最後の一輪を置いたあと、ソフィアは長いあいだ、両手を膝の上へ載せていた。
誰にも見られていない部屋でさえ、自分は何もしていないと声に出すことができなかった。
◇
そして五年後。
もう一人の元大聖女も、同じようにソフィアへ功績を託した。
初代大聖女エリアネを偲び、四種族の友好を祝う大祭。
失われかけていた絆を、もう一度世界へ示した大きな出来事だった。
本来なら、その人の名前が語り継がれるはずだった。
「これは、あなたのものです」
そう言われた時、ソフィアは五年前の部屋を思い出した。
机の上に置かれた文書。
静かな微笑み。
自分には分からないまま、すでに決められていたこと。
胸の奥に残っていた重さが、形を変えずに戻ってきた。
「違います」
ソフィアは、また首を横へ振った。
「私のものではありません」
「あなたが受け取ってください」
二人目の元大聖女も、穏やかに笑っていた。
「私ではなく、あなたが持つべきものです」
「どうしてですか?」
五年前よりも、静かな声が出た。
あの時のように強く否定しても、何も変わらないことを知ってしまっていた。
「なぜ、皆さんは私へ渡そうとするのですか」
「いつか、分かります」
「前にも、同じことを言われました」
元大聖女は少し目を伏せた。
「そうでしょうね」
「五年経っても、私には分かりません」
「それでも、あなたに持っていてほしいのです」
「私が望んでいなくてもですか?」
その問いを口にすると、部屋の中が静かになった。
元大聖女はすぐには答えなかった。
窓から差し込む光の中で、長いあいだソフィアを見つめていた。
「あなたが望まないことは、分かっています」
やがて、そう答えた。
「では、なぜ」
「望んでいないからこそ、託せるのかもしれません」
ソフィアには、その言葉の意味も分からなかった。
二人とも、同じように笑った。
二人とも、同じように自分へ未来を渡した。
なぜなのか。
ソフィアには分からなかった。
自分より強い人がいる。
自分より多くを知る人がいる。
自分より大きな功績を残した人がいる。
それでも、皆は自分へ渡そうとする。
期待しているから。
信じているから。
あなたならできるから。
そう言われた。
けれど。
期待されるほど、断ることはむずかしくなった。
信じられるほど、できないとは言えなくなった。
託されるほど、返すこともできなくなった。
期待されることは、ありがたいことだった。
信じてもらえることは、幸せなことだった。
幼い頃、はじめて光を長く保てた時、神父に褒められたことを覚えている。
中庭で子どもの傷を治し、ありがとうと言われたことも覚えている。
あの頃、期待は確かにソフィアを励ましていた。
自分なら、もう少しできるかもしれない。
明日は、今日より誰かの役に立てるかもしれない。
そう思わせてくれるものだった。
だから、苦しいと思ってはいけない。
重たいと思ってはいけない。
自分で望んだ道なのだから。
聖女になりたいと願ったのは、自分なのだから。
礼拝堂で、誰かを助けられる人になりたいと言った。
父と母がその夢を笑わず、信じてくれた。
教会は、その夢を育ててくれた。
多くの者が、自分のために教え、支え、待ってくれた。
そのすべてを思うと、立ち止まりたいという気持ちは、恩を忘れることのように思えた。
ソフィアは何度も、自分へ言い聞かせた。
これは、望んだ道なのだと。
ありがたいことなのだと。
自分がもう少し努力すればよいだけなのだと。
期待は、はじめのうちは、背中を押してくれる手だった。
転びそうになれば支え、迷えば進む方角を教えてくれる、温かな手だった。
けれど、いつの頃からか。
その手は、ソフィアが立ち止まることを許さないものへ変わっていた。
それでもソフィアは、その重さを、重いと思ってはいけないのだと思った。




