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休日  作者: Atelier Lotus


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1/4

第1節 夢

この物語には、大きな戦いはほとんどありません。


世界を揺るがす陰謀も、派手な奇跡もありません。


描かれるのは、一人の女性が「休むこと」を覚えるまでの、小さな時間です。


誰かのために生き続けてきた聖女が、初めて自分のために本を読み、町を歩き、料理を作り、紅茶を味わう。


何気ない日常の積み重ねの中で、少しずつ自分自身を取り戻していきます。


忙しい毎日の中で、立ち止まることに迷ってしまう人へ。


誰かの期待に応え続けて、自分のことを後回しにしてしまう人へ。


この物語が、ほんの少しでも穏やかな時間になれば幸いです。

 幼いソフィアには、一つの夢があった。

 休日になると、父と母はソフィアの手を引いて、町の教会へ連れて行ってくれた。

 大きな扉をくぐると、外とは違う、ひんやりと澄んだ空気が頬に触れた。高い天井の下には、色鮮やかなステンドグラスから差し込んだ光が、床の上へ静かに広がっている。

 誰も大きな声では話さなかった。

 誰も走らなかった。

 衣擦れの音や、誰かが椅子へ腰を下ろす小さな音まで聞こえるほど、礼拝堂は静かだった。

 ソフィアは、その静けさが好きだった。

 教会へ来ると、胸の中にあった小さな騒がしさまで、いつの間にかおとなしくなっていくような気がした。

 父と母のあとを歩きながら、ソフィアはいつも辺りを見回した。

 目を閉じて祈る老人。

 子どもの手を両手で包んでいる母親。

 祭壇へ花を供える修道女。

 ろうそくの火を見つめたまま、長いあいだ動かない人もいた。

 どうして皆が祈っているのか、ソフィアには分からなかった。かなえてほしい願いがあるのかもしれない。悲しいことがあったのかもしれない。それとも、誰かへありがとうと伝えているのかもしれない。

 尋ねたことはなかった。

 教会にいる人たちの顔を見ていると、声をかけてはいけないような気がしたからだった。

 ただ、それぞれの人が胸の中に大切なものを持って、ここへ来ているのだということだけは、幼いソフィアにも感じられた。

 礼拝堂へ来るたびに、ソフィアが決まって立ち止まる場所があった。

 正面の壁には、歴代の聖者や聖女の肖像画が並んでいた。

 長い衣をまとった人。

 剣を手にした人。

 傷ついた兵士のそばへ膝をつく人。

 小さな子どもを抱き、穏やかに微笑んでいる人。

 その中でも、ひときわ大きく描かれた二人の女性がいた。

 一人は、初代大聖女エリアネ。

 争いの絶えなかった時代に、多くの命を救い、人々へ平和をもたらした聖女。

 そして、もう一人は、大聖女ミュゲ。

 長く続いた災厄の中で、傷ついた人々のそばに立ち、希望を灯し続けた聖女だった。

 二人の肖像画は、礼拝堂の中でも特に大切にされていた。

 エリアネは両手を胸の前で重ね、こちらへやさしく微笑んでいる。ミュゲは白い光の中に立ち、どこか遠いところを静かに見つめていた。

 幼いソフィアは、その二人を見上げるのが好きだった。

 穏やかな眼差し。

 人の話を最後まで聞いてくれそうな口元。

 肖像画の中の人だと分かっていても、見つめていると、今もどこかで人々を見守っているように思えた。

「お母さん」

 ソフィアは、母の袖を小さく引いた。

「この人たちは、どんな人なの?」

 母は足を止め、ソフィアと並んで肖像画を見上げた。

「人を助けた人よ」

「たくさんの人を?」

「ええ。困っている人へ手を差し伸べて、多くの命を守ったの」

 ソフィアは、もう一度二人の顔を見た。

「こわくなかったのかな」

 母はすぐには答えなかった。

 肖像画を見つめたあと、ソフィアへ視線を戻した。

「きっと、こわいこともあったと思うわ」

「それでも、助けたの?」

「そうね」

 母は静かに頷いた。

「自分よりも、誰かのことを大切にできる人だったのかもしれないわね」

 ソフィアには、その言葉のすべては分からなかった。

 自分よりも誰かを大切にすることが、どれほどむずかしいことなのか、まだ知らなかった。自分の大切なものを譲ったことも、眠たいのを我慢して誰かのそばにいたことも、それほど多くはなかった。

 けれど。

 こわくても、困っている人を助けた。

 そのことだけは、まっすぐ胸へ入ってきた。

「だから、みんなに愛されているの?」

「そうよ」

 母は微笑んだ。

「今も世界中の人たちが、お二人へ感謝しているの」

 幼いソフィアには、世界がどれほど広いのか分からなかった。

 町の外へ出たことも、まだ数えるほどしかない。遠い国があることは知っていた。山の向こうにも、海の向こうにも、自分の知らない町があり、知らない人々が暮らしていることは、絵本で読んだことがあった。

 けれど、世界中と言われても、どこからどこまでなのかは想像できなかった。

 ただ。

 自分には思い描くこともできないほど広い場所で、今も誰かが二人へありがとうと思っている。

 そのことが、不思議なくらい胸へ残った。

「すごいね」

 ぽつりと呟くと、父がやさしく笑った。

「そうだな」

「きっと、とても強い人たちだったんだね」

「強かっただろうな」

 父はそう答えてから、少し考えるように肖像画を見上げた。

「でも、強いだけではなかったと思うよ」

「どうして?」

「強いだけでは、人は救えないからだ」

 ソフィアは首を傾げた。

 強ければ、悪いものを追い払える。病気を治せる力があれば、苦しんでいる人を助けられる。それだけではいけないのだろうか。

 父は、分からないという顔をしているソフィアを見て笑い、その頭を撫でた。

「きっと、とてもやさしい人たちだったんだろう」

 やさしい人。

 その言葉を、ソフィアは心の中で繰り返した。

 人を助ける人。

 困っている人へ手を差し伸べる人。

 泣いている人のそばにいて、その人がもう一度笑えるまで待てる人。

 こわくても逃げずに、誰かのところへ行ける人。

 そんな人になれたら、どんなに素敵だろう。

 しばらく肖像画を見つめたあと、ソフィアは小さく口を開いた。

「わたしも、あんな人になりたい」

 父と母が、同時にソフィアを見た。

 大きな声ではなかった。

 立派に聞こえる言葉を選んだわけでもない。

 それでも、ソフィアの瞳はまっすぐに二人を見ていた。

「誰かを助けられる人になりたい」

 言葉にすると、胸の中にあったものが少しずつ形になっていった。

「泣いている人を笑顔にしたい」

 もう一度、肖像画を見上げる。

「困っている人の力になりたい」

 褒めてもらいたかったわけではなかった。

 父と母を驚かせたかったわけでもない。

 ただ、そう思った。

 目の前にいる二人の聖女のように、やさしい顔で人のそばへ立てる人になりたかった。

 それは、幼い子どもの、何ひとつ飾らない夢だった。

 母は目を細めた。

「きっとなれるわ」

「ほんとう?」

「ええ」

 母はソフィアの前へしゃがみ、目の高さを合わせた。

「誰かを助けたいと思えるなら、もう最初の一歩は歩いているもの」

 ソフィアは、うれしそうに笑った。

 父も何も言わず、そっと頭を撫でてくれた。大きな手は温かく、髪を通して、そのぬくもりが頭の奥まで伝わってくるようだった。

 父と母が自分の夢を笑わなかったことが、うれしかった。

 子どもの言うことだからと、聞き流さなかったこともうれしかった。

 いつか本当になれるかもしれない。

 その時のソフィアは、迷うことなくそう信じた。

 礼拝堂には、静かな祈りの時間が流れていた。

 遠くで鐘の音がした。

 祭壇のろうそくが、誰かの通った風にかすかに揺れた。

 ソフィアはもう一度、エリアネとミュゲの肖像画を見上げた。

(わたしも、あんな人になりたい)

 誰へ聞かせるでもない、小さな祈りだった。

 その時だった。

 ふわりと、ソフィアの両手が淡く光り始めた。

「……あれ?」

 ソフィアは、不思議そうに自分の手を見つめた。

 初めは、ステンドグラスの光が映っているのだと思った。けれど、手を動かしても光は消えなかった。

 指のあいだから、やわらかな光がこぼれていた。

 白く、淡く、春の日差しのように温かな光だった。

 ソフィアは両手を顔へ近づけた。

 熱くはない。

 痛くもない。

 ただ、手のひらの内側に、小さな明かりが生まれたようだった。

「お父さん」

 光る両手を差し出す。

「見て」

 父は、息を呑んだ。

「これは……」

 母も目を見開いた。

「まさか……」

 やわらかな光は少しずつ強くなり、ソフィアの頬を下から照らした。床へ落ちた光は、薄い水が広がるように、足元へ静かに伸びていった。

 近くで祈りを捧げていた人々も、異変に気づいて顔を上げた。

「何の光だ?」

「あの子の手から……」

 抑えられた声が、礼拝堂のあちこちで重なった。

 さきほどまで一つだった静けさが、細かなざわめきに変わっていった。

 近くにいた神父が、白い法衣の裾を揺らして駆け寄ってきた。ソフィアの前へ膝をつき、光る手を見つめる。

「少し、手を見せてもらえますか」

「はい」

 ソフィアは素直に両手を差し出した。

 神父は光へ顔を近づけた。指先へ触れようとして、けれど触れる直前で手を止めた。

 その顔には、驚きと、信じられないものを目にしたような戸惑いが浮かんでいた。

「光魔法……」

 その一言は小さかった。

 それでも、静かな礼拝堂の中では、離れた場所にいる人にまで聞こえた。

「光魔法ですって?」

「まだ、あんなに幼い子が……」

「本当なの?」

 修道女たちも足を止めた。奥の部屋から、別の神父たちが出てくる。祈っていた人々も、少しずつソフィアの周りへ集まってきた。

 光魔法。

 火でもない。

 水でもない。

 風でも、土でもない。

 ごくわずかな者にしか現れない、特別な力。歴史に名を残した聖者や聖女の多くが、その力を持っていた。

 けれど、ソフィアはまだ、そのことを知らなかった。

 教会の人々がなぜ驚いているのかも、父と母がなぜ言葉を失っているのかも、よく分からなかった。

 ただ、自分の手を包む光がきれいだった。

「……きれい」

 それが、生まれて初めて光魔法を見た幼い少女の、素直な感想だった。

 神父はしばらく光を見つめていた。

 やがて立ち上がり、近くにいた修道女を振り返った。

「すぐに司祭様へお知らせを」

「はい」

 修道女は急いで礼拝堂を出ていった。遠ざかっていく足音が、静かな廊下へ長く響いた。

 その音を聞いているうちに、ソフィアは少し不安になった。

「わたし、何か悪いことした?」

「いいや」

 父はすぐに首を横へ振った。

「悪いことではないよ」

「では、どうしてみんな、びっくりしているの?」

 父は口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。

 代わりに母がしゃがみ込み、ソフィアの肩へ両手を置いた。いつもより少し強く握られているのが、服の上からでも分かった。

「あなたに、とてもめずらしい力が現れたの」

「めずらしい?」

「ええ」

「エリアネ様やミュゲ様と同じ?」

 母の指が、わずかに動いた。

 少しだけ迷うような間があってから、静かに頷いた。

「そうよ」

 ソフィアは、もう一度自分の手を見た。

 肖像画の二人と同じ。

 その言葉だけで、胸の中が明るくなった。さきほど抱いた願いに、光が返事をしてくれたような気がした。

「じゃあ」

 ソフィアは顔を上げた。

「わたしも、聖女になれるの?」

 母の目に、うっすらと涙が浮かんだ。

「ええ」

 声が少しだけ震えていた。

「きっと、なれるわ」

 その言葉を聞いた瞬間、ソフィアは笑った。

 夢が、ほんの少しだけ近づいた。

 それが、うれしかった。

 ただ、それだけだった。

 その日のうちに、ソフィアの光魔法についての話は教会中へ広がった。

 司祭が来た。

 年老いた神父も来た。

 修道女たちは代わる代わるソフィアの手を見て、光を出してみてほしいと言った。

 何度も人に囲まれるうちに、ソフィアの光は消えていた。もう一度出そうとしても、なかなかうまくいかなかった。

 けれど、大人たちは誰も失望しなかった。

「神の祝福です」

「これほど幼くして光魔法が現れるとは」

「きっと立派な聖女になります」

「教会の希望です」

 皆が笑っていた。

 皆が喜んでいた。

 ソフィアは何度も頭を撫でられ、何度も褒められた。

「よかったですね」

「おめでとうございます」

 父と母も、何度も礼を言われた。

「すばらしいお子様です」

「大切に育てて差し上げてください」

 母は目元を拭いながら頷いていた。父も、いつもより少しだけ胸を張っているように見えた。

 その姿を見て、ソフィアもうれしくなった。

 自分の夢が、父と母を喜ばせている。

 教会の人たちも喜んでいる。

 こんなにたくさんの人が、自分を応援してくれている。

 幼いソフィアには、それがとても幸せなことに思えた。

 帰り道、父と母はいつもよりゆっくり歩いた。

 何度もソフィアの顔を見ては、目を合わせて笑った。

「お母さん」

「なあに?」

「わたし、頑張るね」

 母は、つないだ手に少し力を込めた。

「ええ」

「たくさんお勉強して、困っている人を助けるの」

「そうね」

「エリアネ様やミュゲ様みたいになるの」

 母はすぐに返事をしなかった。

 ほんの少しだけ唇を結び、それから、いつものやさしい顔で頷いた。

「楽しみにしているわ」

 その言葉が、ソフィアにはうれしかった。

 それから教会へ行くたびに、ソフィアは声をかけられるようになった。

「未来の聖女様」

「今日もお元気ですね」

「光魔法のお勉強はされていますか」

 初めのうち、その呼び方が少し恥ずかしかった。

「わたしは、まだ聖女じゃないよ」

 そう言うと、大人たちは楽しそうに笑った。

「すぐになりますよ」

「あなたなら、きっと立派な聖女になれます」

 そう言われるたびに、ソフィアはうれしくなった。

 期待されること。

 褒められること。

 応援されること。

 そのすべてが、幼いソフィアには温かなものだった。

 神父から、子ども向けの神学の本をもらった。修道女から、聖女たちの歴史を教わった。光魔法の使い方も、少しずつ学び始めた。

 最初は、小さな明かりを灯す練習だった。

 両手を胸の前へ出し、教えられたとおりに目を閉じる。あの日の礼拝堂で感じたものを思い出しながら、手のひらへ意識を集める。

 何も起こらない日もあった。

 淡い光が一瞬だけ現れ、すぐに消えてしまうこともあった。

 うまくできないと、ソフィアは自分の指を見つめた。あの日は自然にできたのに、どうして今はできないのだろうと思った。

 それでも、できるまで何度も繰り返した。

 昨日より少し強く光った。

 昨日より少し長く保てた。

 そのたびに、神父や修道女は褒めてくれた。

「すばらしいです」

「よく頑張りましたね」

「やはり、あなたには才能があります」

 ソフィアは、その言葉がうれしかった。

 うれしいから、また頑張った。

 頑張れば、誰かを助けられる。

 頑張れば、エリアネやミュゲのようになれる。

 頑張れば、父と母も喜んでくれる。

 だから、苦しいとは思わなかった。

 遊びたいと思う日にも、本を開いた。

 眠たい日にも、光を出す練習をした。

 窓の外から友だちの声が聞こえてくる午後にも、机へ向かい、神学の言葉を書き写した。

 ときどき笑い声に気を取られ、筆を止めることがあった。

 外へ行けば、皆と遊べる。

 呼びに行かなくても、家を出れば誰かが気づいてくれるかもしれない。

 そう思いながら窓を見ていると、母が部屋をのぞくことがあった。

「お勉強しているの?」

「うん」

「偉いわね」

 それだけで、ソフィアはまた机へ向かった。

 遊びたい気持ちは、なくなったわけではなかった。

 ただ、それよりも大切なことがあるのだと思った。

 自分で選んだ夢だったから。

 人を助けたいと思ったのは、自分だったから。

 少しずつ。

 少しずつ。

 ソフィアの毎日は、聖女になるための時間で満たされていった。

 教会へ行けば、未来の聖女と呼ばれた。

 本を読めば、立派だと褒められた。

 光魔法を使えば、期待していると言われた。

 初めは、父と母だけが知っていた夢だった。

 礼拝堂で肖像画を見上げ、小さな声で口にしただけの願いだった。

 けれど、いつの間にか、教会の人々もその夢を知っていた。町の人々も知るようになった。ソフィアが名乗るより先に、未来の聖女様と呼ばれることさえあった。

 ソフィアは、皆が自分の夢を応援してくれているのだと思っていた。

 だから、まだ気づかなかった。

 いつの頃からか。

 誰も、

「ソフィアは、何になりたいの?」

 とは聞かなくなっていた。

 代わりに言われるのは、いつも同じ言葉だった。

「立派な聖女になりますよ」

「教会の希望です」

「期待しています」

「あなたなら、きっとできます」

 ソフィアは、そのたびに笑って頷いた。

 うれしかった。

 期待を裏切りたくないとも思った。

 もっと頑張らなければならないと思った。

 夢を応援されることと、夢を託されることは、同じではなかった。

 けれど、幼いソフィアは、まだその違いを知らなかった。

 その日から、ソフィアの夢は、ソフィア一人のものではなくなった。

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