第1節 夢
この物語には、大きな戦いはほとんどありません。
世界を揺るがす陰謀も、派手な奇跡もありません。
描かれるのは、一人の女性が「休むこと」を覚えるまでの、小さな時間です。
誰かのために生き続けてきた聖女が、初めて自分のために本を読み、町を歩き、料理を作り、紅茶を味わう。
何気ない日常の積み重ねの中で、少しずつ自分自身を取り戻していきます。
忙しい毎日の中で、立ち止まることに迷ってしまう人へ。
誰かの期待に応え続けて、自分のことを後回しにしてしまう人へ。
この物語が、ほんの少しでも穏やかな時間になれば幸いです。
幼いソフィアには、一つの夢があった。
休日になると、父と母はソフィアの手を引いて、町の教会へ連れて行ってくれた。
大きな扉をくぐると、外とは違う、ひんやりと澄んだ空気が頬に触れた。高い天井の下には、色鮮やかなステンドグラスから差し込んだ光が、床の上へ静かに広がっている。
誰も大きな声では話さなかった。
誰も走らなかった。
衣擦れの音や、誰かが椅子へ腰を下ろす小さな音まで聞こえるほど、礼拝堂は静かだった。
ソフィアは、その静けさが好きだった。
教会へ来ると、胸の中にあった小さな騒がしさまで、いつの間にかおとなしくなっていくような気がした。
父と母のあとを歩きながら、ソフィアはいつも辺りを見回した。
目を閉じて祈る老人。
子どもの手を両手で包んでいる母親。
祭壇へ花を供える修道女。
ろうそくの火を見つめたまま、長いあいだ動かない人もいた。
どうして皆が祈っているのか、ソフィアには分からなかった。かなえてほしい願いがあるのかもしれない。悲しいことがあったのかもしれない。それとも、誰かへありがとうと伝えているのかもしれない。
尋ねたことはなかった。
教会にいる人たちの顔を見ていると、声をかけてはいけないような気がしたからだった。
ただ、それぞれの人が胸の中に大切なものを持って、ここへ来ているのだということだけは、幼いソフィアにも感じられた。
礼拝堂へ来るたびに、ソフィアが決まって立ち止まる場所があった。
正面の壁には、歴代の聖者や聖女の肖像画が並んでいた。
長い衣をまとった人。
剣を手にした人。
傷ついた兵士のそばへ膝をつく人。
小さな子どもを抱き、穏やかに微笑んでいる人。
その中でも、ひときわ大きく描かれた二人の女性がいた。
一人は、初代大聖女エリアネ。
争いの絶えなかった時代に、多くの命を救い、人々へ平和をもたらした聖女。
そして、もう一人は、大聖女ミュゲ。
長く続いた災厄の中で、傷ついた人々のそばに立ち、希望を灯し続けた聖女だった。
二人の肖像画は、礼拝堂の中でも特に大切にされていた。
エリアネは両手を胸の前で重ね、こちらへやさしく微笑んでいる。ミュゲは白い光の中に立ち、どこか遠いところを静かに見つめていた。
幼いソフィアは、その二人を見上げるのが好きだった。
穏やかな眼差し。
人の話を最後まで聞いてくれそうな口元。
肖像画の中の人だと分かっていても、見つめていると、今もどこかで人々を見守っているように思えた。
「お母さん」
ソフィアは、母の袖を小さく引いた。
「この人たちは、どんな人なの?」
母は足を止め、ソフィアと並んで肖像画を見上げた。
「人を助けた人よ」
「たくさんの人を?」
「ええ。困っている人へ手を差し伸べて、多くの命を守ったの」
ソフィアは、もう一度二人の顔を見た。
「こわくなかったのかな」
母はすぐには答えなかった。
肖像画を見つめたあと、ソフィアへ視線を戻した。
「きっと、こわいこともあったと思うわ」
「それでも、助けたの?」
「そうね」
母は静かに頷いた。
「自分よりも、誰かのことを大切にできる人だったのかもしれないわね」
ソフィアには、その言葉のすべては分からなかった。
自分よりも誰かを大切にすることが、どれほどむずかしいことなのか、まだ知らなかった。自分の大切なものを譲ったことも、眠たいのを我慢して誰かのそばにいたことも、それほど多くはなかった。
けれど。
こわくても、困っている人を助けた。
そのことだけは、まっすぐ胸へ入ってきた。
「だから、みんなに愛されているの?」
「そうよ」
母は微笑んだ。
「今も世界中の人たちが、お二人へ感謝しているの」
幼いソフィアには、世界がどれほど広いのか分からなかった。
町の外へ出たことも、まだ数えるほどしかない。遠い国があることは知っていた。山の向こうにも、海の向こうにも、自分の知らない町があり、知らない人々が暮らしていることは、絵本で読んだことがあった。
けれど、世界中と言われても、どこからどこまでなのかは想像できなかった。
ただ。
自分には思い描くこともできないほど広い場所で、今も誰かが二人へありがとうと思っている。
そのことが、不思議なくらい胸へ残った。
「すごいね」
ぽつりと呟くと、父がやさしく笑った。
「そうだな」
「きっと、とても強い人たちだったんだね」
「強かっただろうな」
父はそう答えてから、少し考えるように肖像画を見上げた。
「でも、強いだけではなかったと思うよ」
「どうして?」
「強いだけでは、人は救えないからだ」
ソフィアは首を傾げた。
強ければ、悪いものを追い払える。病気を治せる力があれば、苦しんでいる人を助けられる。それだけではいけないのだろうか。
父は、分からないという顔をしているソフィアを見て笑い、その頭を撫でた。
「きっと、とてもやさしい人たちだったんだろう」
やさしい人。
その言葉を、ソフィアは心の中で繰り返した。
人を助ける人。
困っている人へ手を差し伸べる人。
泣いている人のそばにいて、その人がもう一度笑えるまで待てる人。
こわくても逃げずに、誰かのところへ行ける人。
そんな人になれたら、どんなに素敵だろう。
しばらく肖像画を見つめたあと、ソフィアは小さく口を開いた。
「わたしも、あんな人になりたい」
父と母が、同時にソフィアを見た。
大きな声ではなかった。
立派に聞こえる言葉を選んだわけでもない。
それでも、ソフィアの瞳はまっすぐに二人を見ていた。
「誰かを助けられる人になりたい」
言葉にすると、胸の中にあったものが少しずつ形になっていった。
「泣いている人を笑顔にしたい」
もう一度、肖像画を見上げる。
「困っている人の力になりたい」
褒めてもらいたかったわけではなかった。
父と母を驚かせたかったわけでもない。
ただ、そう思った。
目の前にいる二人の聖女のように、やさしい顔で人のそばへ立てる人になりたかった。
それは、幼い子どもの、何ひとつ飾らない夢だった。
母は目を細めた。
「きっとなれるわ」
「ほんとう?」
「ええ」
母はソフィアの前へしゃがみ、目の高さを合わせた。
「誰かを助けたいと思えるなら、もう最初の一歩は歩いているもの」
ソフィアは、うれしそうに笑った。
父も何も言わず、そっと頭を撫でてくれた。大きな手は温かく、髪を通して、そのぬくもりが頭の奥まで伝わってくるようだった。
父と母が自分の夢を笑わなかったことが、うれしかった。
子どもの言うことだからと、聞き流さなかったこともうれしかった。
いつか本当になれるかもしれない。
その時のソフィアは、迷うことなくそう信じた。
礼拝堂には、静かな祈りの時間が流れていた。
遠くで鐘の音がした。
祭壇のろうそくが、誰かの通った風にかすかに揺れた。
ソフィアはもう一度、エリアネとミュゲの肖像画を見上げた。
(わたしも、あんな人になりたい)
誰へ聞かせるでもない、小さな祈りだった。
その時だった。
ふわりと、ソフィアの両手が淡く光り始めた。
「……あれ?」
ソフィアは、不思議そうに自分の手を見つめた。
初めは、ステンドグラスの光が映っているのだと思った。けれど、手を動かしても光は消えなかった。
指のあいだから、やわらかな光がこぼれていた。
白く、淡く、春の日差しのように温かな光だった。
ソフィアは両手を顔へ近づけた。
熱くはない。
痛くもない。
ただ、手のひらの内側に、小さな明かりが生まれたようだった。
「お父さん」
光る両手を差し出す。
「見て」
父は、息を呑んだ。
「これは……」
母も目を見開いた。
「まさか……」
やわらかな光は少しずつ強くなり、ソフィアの頬を下から照らした。床へ落ちた光は、薄い水が広がるように、足元へ静かに伸びていった。
近くで祈りを捧げていた人々も、異変に気づいて顔を上げた。
「何の光だ?」
「あの子の手から……」
抑えられた声が、礼拝堂のあちこちで重なった。
さきほどまで一つだった静けさが、細かなざわめきに変わっていった。
近くにいた神父が、白い法衣の裾を揺らして駆け寄ってきた。ソフィアの前へ膝をつき、光る手を見つめる。
「少し、手を見せてもらえますか」
「はい」
ソフィアは素直に両手を差し出した。
神父は光へ顔を近づけた。指先へ触れようとして、けれど触れる直前で手を止めた。
その顔には、驚きと、信じられないものを目にしたような戸惑いが浮かんでいた。
「光魔法……」
その一言は小さかった。
それでも、静かな礼拝堂の中では、離れた場所にいる人にまで聞こえた。
「光魔法ですって?」
「まだ、あんなに幼い子が……」
「本当なの?」
修道女たちも足を止めた。奥の部屋から、別の神父たちが出てくる。祈っていた人々も、少しずつソフィアの周りへ集まってきた。
光魔法。
火でもない。
水でもない。
風でも、土でもない。
ごくわずかな者にしか現れない、特別な力。歴史に名を残した聖者や聖女の多くが、その力を持っていた。
けれど、ソフィアはまだ、そのことを知らなかった。
教会の人々がなぜ驚いているのかも、父と母がなぜ言葉を失っているのかも、よく分からなかった。
ただ、自分の手を包む光がきれいだった。
「……きれい」
それが、生まれて初めて光魔法を見た幼い少女の、素直な感想だった。
神父はしばらく光を見つめていた。
やがて立ち上がり、近くにいた修道女を振り返った。
「すぐに司祭様へお知らせを」
「はい」
修道女は急いで礼拝堂を出ていった。遠ざかっていく足音が、静かな廊下へ長く響いた。
その音を聞いているうちに、ソフィアは少し不安になった。
「わたし、何か悪いことした?」
「いいや」
父はすぐに首を横へ振った。
「悪いことではないよ」
「では、どうしてみんな、びっくりしているの?」
父は口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。
代わりに母がしゃがみ込み、ソフィアの肩へ両手を置いた。いつもより少し強く握られているのが、服の上からでも分かった。
「あなたに、とてもめずらしい力が現れたの」
「めずらしい?」
「ええ」
「エリアネ様やミュゲ様と同じ?」
母の指が、わずかに動いた。
少しだけ迷うような間があってから、静かに頷いた。
「そうよ」
ソフィアは、もう一度自分の手を見た。
肖像画の二人と同じ。
その言葉だけで、胸の中が明るくなった。さきほど抱いた願いに、光が返事をしてくれたような気がした。
「じゃあ」
ソフィアは顔を上げた。
「わたしも、聖女になれるの?」
母の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「ええ」
声が少しだけ震えていた。
「きっと、なれるわ」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアは笑った。
夢が、ほんの少しだけ近づいた。
それが、うれしかった。
ただ、それだけだった。
その日のうちに、ソフィアの光魔法についての話は教会中へ広がった。
司祭が来た。
年老いた神父も来た。
修道女たちは代わる代わるソフィアの手を見て、光を出してみてほしいと言った。
何度も人に囲まれるうちに、ソフィアの光は消えていた。もう一度出そうとしても、なかなかうまくいかなかった。
けれど、大人たちは誰も失望しなかった。
「神の祝福です」
「これほど幼くして光魔法が現れるとは」
「きっと立派な聖女になります」
「教会の希望です」
皆が笑っていた。
皆が喜んでいた。
ソフィアは何度も頭を撫でられ、何度も褒められた。
「よかったですね」
「おめでとうございます」
父と母も、何度も礼を言われた。
「すばらしいお子様です」
「大切に育てて差し上げてください」
母は目元を拭いながら頷いていた。父も、いつもより少しだけ胸を張っているように見えた。
その姿を見て、ソフィアもうれしくなった。
自分の夢が、父と母を喜ばせている。
教会の人たちも喜んでいる。
こんなにたくさんの人が、自分を応援してくれている。
幼いソフィアには、それがとても幸せなことに思えた。
帰り道、父と母はいつもよりゆっくり歩いた。
何度もソフィアの顔を見ては、目を合わせて笑った。
「お母さん」
「なあに?」
「わたし、頑張るね」
母は、つないだ手に少し力を込めた。
「ええ」
「たくさんお勉強して、困っている人を助けるの」
「そうね」
「エリアネ様やミュゲ様みたいになるの」
母はすぐに返事をしなかった。
ほんの少しだけ唇を結び、それから、いつものやさしい顔で頷いた。
「楽しみにしているわ」
その言葉が、ソフィアにはうれしかった。
それから教会へ行くたびに、ソフィアは声をかけられるようになった。
「未来の聖女様」
「今日もお元気ですね」
「光魔法のお勉強はされていますか」
初めのうち、その呼び方が少し恥ずかしかった。
「わたしは、まだ聖女じゃないよ」
そう言うと、大人たちは楽しそうに笑った。
「すぐになりますよ」
「あなたなら、きっと立派な聖女になれます」
そう言われるたびに、ソフィアはうれしくなった。
期待されること。
褒められること。
応援されること。
そのすべてが、幼いソフィアには温かなものだった。
神父から、子ども向けの神学の本をもらった。修道女から、聖女たちの歴史を教わった。光魔法の使い方も、少しずつ学び始めた。
最初は、小さな明かりを灯す練習だった。
両手を胸の前へ出し、教えられたとおりに目を閉じる。あの日の礼拝堂で感じたものを思い出しながら、手のひらへ意識を集める。
何も起こらない日もあった。
淡い光が一瞬だけ現れ、すぐに消えてしまうこともあった。
うまくできないと、ソフィアは自分の指を見つめた。あの日は自然にできたのに、どうして今はできないのだろうと思った。
それでも、できるまで何度も繰り返した。
昨日より少し強く光った。
昨日より少し長く保てた。
そのたびに、神父や修道女は褒めてくれた。
「すばらしいです」
「よく頑張りましたね」
「やはり、あなたには才能があります」
ソフィアは、その言葉がうれしかった。
うれしいから、また頑張った。
頑張れば、誰かを助けられる。
頑張れば、エリアネやミュゲのようになれる。
頑張れば、父と母も喜んでくれる。
だから、苦しいとは思わなかった。
遊びたいと思う日にも、本を開いた。
眠たい日にも、光を出す練習をした。
窓の外から友だちの声が聞こえてくる午後にも、机へ向かい、神学の言葉を書き写した。
ときどき笑い声に気を取られ、筆を止めることがあった。
外へ行けば、皆と遊べる。
呼びに行かなくても、家を出れば誰かが気づいてくれるかもしれない。
そう思いながら窓を見ていると、母が部屋をのぞくことがあった。
「お勉強しているの?」
「うん」
「偉いわね」
それだけで、ソフィアはまた机へ向かった。
遊びたい気持ちは、なくなったわけではなかった。
ただ、それよりも大切なことがあるのだと思った。
自分で選んだ夢だったから。
人を助けたいと思ったのは、自分だったから。
少しずつ。
少しずつ。
ソフィアの毎日は、聖女になるための時間で満たされていった。
教会へ行けば、未来の聖女と呼ばれた。
本を読めば、立派だと褒められた。
光魔法を使えば、期待していると言われた。
初めは、父と母だけが知っていた夢だった。
礼拝堂で肖像画を見上げ、小さな声で口にしただけの願いだった。
けれど、いつの間にか、教会の人々もその夢を知っていた。町の人々も知るようになった。ソフィアが名乗るより先に、未来の聖女様と呼ばれることさえあった。
ソフィアは、皆が自分の夢を応援してくれているのだと思っていた。
だから、まだ気づかなかった。
いつの頃からか。
誰も、
「ソフィアは、何になりたいの?」
とは聞かなくなっていた。
代わりに言われるのは、いつも同じ言葉だった。
「立派な聖女になりますよ」
「教会の希望です」
「期待しています」
「あなたなら、きっとできます」
ソフィアは、そのたびに笑って頷いた。
うれしかった。
期待を裏切りたくないとも思った。
もっと頑張らなければならないと思った。
夢を応援されることと、夢を託されることは、同じではなかった。
けれど、幼いソフィアは、まだその違いを知らなかった。
その日から、ソフィアの夢は、ソフィア一人のものではなくなった。




