ひまり、敗北す
「おはようございます」
ひまりがはじめて雑談部屋に現れてから数日が経ったこの日、学校は休みだった。
朝から鳥栖はゲームにログインし、表示されたルーム一覧のウィンドウを流し見。
すると、時間帯としては珍しく雑談部屋が立っていた。
「部屋主は……太公望さんか。なら安心かな」
太公望。
数日前の雑談部屋でカズヤと中国・台湾事情について語り込んでいた、あの古参プレイヤーである。
雑談部屋で鳥栖がよく話す相手は、橘や七彩といった大人しめ、悪く言えば陰寄りの同性が多かった。そんな中で太公望は、異性という括りの中では珍しく波長が合う相手だった。
もっとも、太公望には「橘の腰巾着」「橘の奴隷」「橘が投げたボールを拾いに行く犬」などという不名誉な呼称も存在する。
本人がそれをどう思っているのかは分からない。
ただ鳥栖から見れば、太公望は必要以上に自分を曝け出さない人間だった。距離感が近すぎず、余計な詮索もしてこない。そこが何となく自分に近い気がして、鳥栖は彼に安心感を抱いていた。
もっとも向こうからは、鳥栖は「ミステリアスガール」などと思われているらしいが。
とにかく、太公望が部屋主なら大丈夫だ。
鳥栖はそう判断して、雑談部屋へ入室した。
が。
「あれ、太公望……さん?」
部屋主である太公望は、ルームの壁際に寄りかかって俯いていた。
いる。
しかし、いない。
このゲームでは、ルームを建てた状態でログオフすると、アバターだけが抜け殻のように残る仕様になっている。
つまり、今の太公望は信頼できる男性プレイヤーではなく、信頼できる置物だった。
「用事でしょうか?」
鳥栖は首を傾げる。
返事はない。
太公望は壁際で静かに俯いている。
安心材料としては若干心許ないが、家具としての安定感はあった。
その時だった。
ピコンと、入室を知らせる軽快な機械音がルーム内に響き渡る。
「おっはよー!!」
直後、甘ったるいロリータ風の汎用ボイスが聞こえた。長髪のスラリとした女性アバター。
名前は、有栖川ひまり。
数日前、橘に「ネカマ臭い」と評されたプレイヤーである。
「おはようございます、ひまり……ん」
鳥栖の挨拶は、自分でも分かるくらいぎこちないものになってしまう。
ひまり=ネカマ。
その固定観念が、すでに鳥栖の中ではほぼ確定事項になっていたからだ。
「おはよー」
ひまりはにこやかに手を振ってくる。
そのあまりにもフレンドリーな態度に、鳥栖は少し申し訳ない気持ちになった。
自分は目の前の相手を、ネカマという生き物の観察対象として見ている。しかもまだ観察日記の一ページ目だ。
「ところで……あ、何て呼べばいい?」
「何でもいいですよ」
「じゃあ加奈ちゃんにするね。早速だけど、加奈ちゃん、今から2人でグランドオーダー行かない?」
「い、今からですか?」
「うん。今からだよ」
ひまりは当然のように頷いた。
グランドオーダー。
通常マルチボスの中でも最強クラスに分類される敵で、討伐報酬もその分おいしい。「水天の涙」と呼ばれる高級アイテムが落ちることもあり、鳥栖にとっても魅力的な誘いではあった。
「私のランクならソロも出来るし、加奈ちゃんをキャリー出来るよ。加奈ちゃんは何もしなくて良いからさ、行かない?」
言っていることだけを抜き出せば親切である。
ただし要約するとこうだ。
私は強い。あなたは見ているだけでいい。
鳥栖はその微妙な圧を、まだ善意として処理した。
「じゃあ、行きます!」
ひまりがネカマかどうかはさておき、グランドオーダーの報酬は欲しい。
そして何より、ひまりは今のところ普通に優しい。
少なくとも、鳥栖はそう思おうとした。
「じゃ、行こっか! マルチボス自発したら、ボスのIDを雑談部屋に貼るね!」
「わかりまし……」
鳥栖が返事をしようとした時だった。
ピコンと、再び入室音が鳴った。
「おっ、鳥栖じゃん、朝早いな」
やや渋めの男性汎用ボイスと共に入ってきたのは、リムルだった。
某架空宗教で有名な炎上弁護士に似ていると自称する男性プレイヤーである。
悪ふざけの多い成人メンバーや、無駄に元気な年下キッズの多い雑談部屋の中でも、リムルの大人びた雰囲気はよく目立っていた。鳥栖が男性メンバーの中で最も信頼を置いている相手でもある。
「リムルさん! おはようございます」
「おはよう。鳥栖は学校は休み?」
「はい。リムルさんは役所は休みなんですか?」
本人は社畜ならぬ公務員畜、略して公畜を自称していた。
そんな彼が平日の朝からログインしていることは、雑談部屋において小規模な天変地異に等しい。
「有給だよ。久々過ぎて、前いつとったのか忘れたくらいだけどな」
そう言ってから、リムルはひまりに視線を向けた。
「……ところで、そちらは?」
見た。
というより検品した。
雑談部屋にはたまにいる。
初対面なのに距離が近く、声が甘く、名前に平仮名が多く、語尾に星が見えるタイプの人間が。
リムルはそういうものに対して、社会人として最低限の礼儀と、ネット老人として最大限の警戒心を持っていた。
「はじめまして~。有栖川ひまりです。よろしくお願いしますね☆」
「…………よろしく」
リムルは少しだけ間を置いてから返事をした。その間に何を考えたのかは分からない。
ただ、鳥栖にはリムルの頭上に「警戒中」と書かれたアイコンが見えた気がした。
「って、太公望は居ないん?」
リムルは何かを察したのか、ひまりから顔を背けて太公望の方を振り返る。
「多分、太公望さんは……」
「早速ですけど、リムルさんもグランドオーダー行きませんか?」
鳥栖の言葉を遮るように、ひまりが声をかけた。
「加奈ちゃんと行くことになったんですけど、リムルさん1人じゃ寂しいかなーって思いまして」
鳥栖は思わずひまりを見る。
リムルが寂しがっている要素は、今のところ一つもない。
「グランドオーダー? か……」
ひまりからの提案への驚き半分、ひまりの恩着せがましい口調への不快半分、といった表情のリムル。
「いいよ。ちょっと水天少なくなってたんだわ。行くか」
「じゃ、決まりだね☆」
ひまりの目を見つめながら少しばかり考えこんだ後、彼は口元を少し緩めながら快諾した。
「じゃあ早速、行きますか。太公望が戻ってきてたら悪いけど」
「そうですね。サクッと行ってきましょう」
鳥栖とリムルは手持ち武器の一覧ウィンドウを展開し、武器状態の確認に入る。
ひまりはそんな二人を少し後ろから見つめていた。
「だね☆ ふふ、楽しみ」
甘い声。
可愛いアバター。
ロリータ風の仕草。
それらを全部乗せたひまりは、ルームの共通ウィンドウにグランドオーダーのIDを貼った。
この時点で、化けの皮の一枚目はすでに少し剥がれかけていた。
「加奈ちゃん、リムルさん、やっほ~」
鳥栖とリムルがIDからグランドオーダーのマルチフィールドに入ると、ひまりはすでにジョブを変更して二人を待っていた。
ウォーロック。
女性用の服装がフリフリのスカートで有名なジョブであり、見た目の可愛さに反して分類は攻撃タイプである。
肩口にはリボン。腰回りには意味の分からない量のレース。
杖を構えれば、確かに見た目だけは魔法少女のように見えた。中身が本当に魔法少女かどうかは別問題として。
目の前には、美少女の姿形をした巨大なマルチボス──グランドオーダーが、こちらの攻撃を待ち構えていた。
このゲームのマルチはターン制を採用しているため、こちらから攻撃しない限り戦闘は開始されない。
巨体が静かに見下ろしてくる様子は、鳥栖に妙な緊張感を与えた。
グランドオーダーに挑むのは初めてではない。クリア経験もある。
ただ単に、鳥栖はまだゲームを始めて日が浅く、マルチの空気に慣れていないだけだ。
──二人とも、余裕そうですね。
そんな顔でリムルとひまりを見比べていると、リムルが軽く笑った。
「張り切ってるねー、ひまりさん。わざわざウォーロックで行くなんて」
リムルの視線はひまりのフリルだらけの衣装を一度だけ上から下まで流し、最後にほんの少しだけ口元を緩めた。
褒めているようで、褒めていない。似合っているとは一言も言っていない。
むしろ言外にこう言っている。
──その格好で来るんだ。
鳥栖は、その微妙な温度差を何となく察した。
ひまりも察したからこそ、笑顔が少しだけ固まった。
リムルのジョブはスパルタ。
七十パーセントのダメージカットが出来る、防御タイプの中でも特に防御に寄ったジョブである。
対して、ひまりのウォーロックは攻撃タイプ。
この時点で、MVP狙いの気配はかなり濃い。
「そうかな?」
ひまりが小首を傾げる。
可愛い仕草。しかし目は笑っていなかった。
「私からすればリムルさんの方が張り切って見えますよ♪ 女の子の前だからかは知りませんけど」
「で??」
リムルの返答は、短すぎて逆に強かった。
「まあ、私には関係ないですけど……」
ひまりはステッキを指先でくるりと回す。
可愛い仕草で、やっていることは完全に煽りだ。
「ならリムルさん、私と勝負してみませんか? どちらがMVPを獲れるか」
ひまりは、少女漫画のヒロインのように、にこりと笑う。しかしその中身は、ゲーム内ランキングで一つ上の相手を見つけた時の男の顔である。
「俺的には構わないんだが……俺、ひまりさんよりランク下なんだけど、いいの?」
「そういうのは、勝ってから心配して下さいね」
ひまりはステッキを掲げた。
「──ブラックヘイズ」
よーいドンの合図もなしに、ひまりは勝手に開戦した。
勝負とは、双方の合意によって成立するものだ。
しかし、ひまりの中では自分が言い出した時点で、すでに成立していたらしい。
やっていることは完全に辻斬りだった。
◇◇
「お疲れーっした」
「お疲れ様です! 流石リムルさん!」
グランドオーダーのマルチボスの討伐結果は────リムルの圧勝だった。
グランドオーダーの光属性に対して有利な闇属性。
さらにリムルの装備編成は、その闇属性に特化していた。
ランクではひまりの方が十も上。
ジョブもひまりは攻撃タイプ、リムルは防御タイプ。
普通に考えれば、MVP争いではひまりの方が有利だった。
その有利を、リムルは何事もなかったように踏み潰した。
貢献度の数字は残酷である。
ひまりが可愛い声で詠唱していた時間も、ステッキをくるくる回していた時間も、「女の子の前だからですか?」と煽っていた時間も、全てリムルの闇属性に踏み潰された。
「う……まさか負けるなんて……」
ひまりは肩を落とした。ロリータ風の可愛らしいアバターがしょんぼりしている。
本来なら庇護欲を誘う場面なのだろう。だが、鳥栖は一連の流れを見てしまっている。
煽って、勝負を挑んで、先に撃って、負けて、今度は慰められている。
人生の縮図としては少し完成度が高すぎた。
「グランドオーダーの光属性に有利な闇属性。それ、俺の一番得意な属性なんだよね」
リムルが穏やかに言った。
「まあ、でも、俺が言うのも何だけど、ひまりさんもランクに見合った以上の強さだったとは思うよ。だから、あまり落ち込むなって」
完全な善意だった。だからこそ逃げ場がなかった。
鳥栖はその言い方に、少し感心した。
リムルは負けた事実をなかったことにはしないが、負けた相手の顔も潰し切らない。
勝者が敗者に向ける言葉としては手慣れたものだった。
後から聞いた話だが、リムルは大学時代、教育実習で高校に行ったことがあるらしい。
その時、数人の女子生徒から手紙を貰ったという。
本人は「ただの社交辞令だろ」と笑っていたが、雑談部屋の女性陣は誰も信じていなかった。
たぶん、こういうところなのだ。
相手が年下でも、面倒くさくても、多少見え透いた女の子ムーブをしていても、最後の一線ではちゃんと逃げ道を作る。
それが自然にできるから、女性陣から妙に信用される。
そしてそういう男ほど、たまに吐く皮肉がやけに刺さる。
「そ、そうですよ! ひまりんも頑張ったのは見てましたから!」
鳥栖も慌てて励ました。自分がなぜひまりを励ましているのかは、よく分からない。
ただ、このまま放っておくと空気が死ぬことだけは分かる。
「そ、そうかな……」
ひまりは小さく顔を上げて、鳥栖の方を見た。
「また一緒に行ってくれる?」
すっかり弱気なひまりの言葉に、鳥栖は少しだけ迷ってから頷いた。
「はい。また行きましょう」
「じゃ、また行こうね☆」
「は、はい……」
ひまりは笑った。
その笑顔は、さっきまでの甘ったるいものに戻っている。ただ、鳥栖には一瞬だけ、その目元が笑っていないように見えた。
けれど、気のせいだと思うことにした。
その方が、楽だったから。
「俺はパスするわ 2人でいってらっしゃい」
リムルのさらりとした言い方は、冗談めいていた。
しかし彼はこの短時間で、ひまりというプレイヤーの扱いを何となく理解したようだった。
関わりすぎない方がいい。
そんな大人の判断である。
子供みたいに喜怒哀楽が極端なひまりに、鳥栖とリムルが微妙な戸惑いを抱いていた、その時。
「ごめんよ、寝てた。リムルさん、鳥栖さん、ひまり、おはよう。何かあった?」
のんびりとした声が聞こえた。
太公望だった。
ようやくログオン状態になったらしい。彼は壁際の置物状態から、人間に戻っていた。
「相変わらずですね……太公望さんは」
「太公望らしいっちゃ、らしいよな」
鳥栖とリムルの声には、ほとんど同じ種類の諦めが滲んでいた。
「リムルさんと加奈ちゃんとグランドオーダーに行ってきたんだよ。で、リムルさんが強くて強くて。MVP取られちゃった」
ひまりは先ほどまでの空気をなかったことにするように、明るく報告した。
「そうだったのか……」
太公望は頷いた。
雑談部屋ではよくあることだが、大事な場面が起きる時に限って太公望はいない。
炎上の火種が生まれる時。
誰かが失言する時。
橘が悪い笑顔で人間観察を始める時。
そういう時、太公望は大体席を外している。そして全てが終わった後に現れ、「何かあった?」と聞く。
ある意味、才能だ。
「てか、太公望さんってそういうキャラなんだね」
ひまりが笑う。
「それも太公望の魅力だと思うよ、俺は」
リムルはそう返した。
雑談部屋の空気は、少しずつ元に戻っていった。
その後の話題は、リムルが職場で好きになった女性に婚約者がいた話、太公望の中学がやたら荒れていた話、リムルの高校時代、ひまりの高校時代の話へと移っていった。
内容だけを見れば、どこにでもある他愛ない雑談である。
ただし、鳥栖は少しだけ引っかかっていた。
ひまりがリムルに負けた時の沈黙。その後、鳥栖だけに向けた「また一緒に行ってくれる?」という言葉。
そして、目元だけが笑っていなかった気がした、あの笑顔。
それでも、鳥栖は深く考えなかった。考えたところで、何かが分かるわけでもない。
それに、雑談部屋ではこういう小さな違和感が毎日のように発生しては、何事もなかったように流れていく。
だから今回も、そういうものだと思った。
当然、ひまりとリムルの対決の話は、そこで完結したはずだった。
それから数日後。
雑談部屋に、とある噂が流れた。
「リムルって、仕事してないニートらしいよ」
最初は、本当に小さな一言だった。
「リムルって平日の朝からいたよね」
十分後には、
「有給って本当かな」
になり、三十分後には、
「そもそも公務員って設定じゃなかった?」
になった。
一時間後には、
「仕事してない説ある?」
になった。
夕方には、リムルはニートになっていた。
夜にはヒモになり、翌朝には生活保護不正受給者になっていた。
雑談部屋の情報伝達速度は速いが、正確性はない。
奇しくもリムルは、職場先の地方自治体イベントの事前準備で忙殺されていた。ログインして弁明する機会すら与えられないまま、噂は雑談部屋の中で半ば事実として扱われていく。
「リムルさん、最近来ないよね」
「仕事忙しいんじゃない?」
「いや、仕事してないんでしょ?」
「じゃあ何で忙しいの?」
「ヒモ活動?」
「ヒモって忙しいの?」
誰も本気で信じていないようで、誰も完全には否定しない。
それが一番、たちが悪かった。
事情を知った橘と太公望は、噂の出どころを追った。
橘は面白がっている時の数倍、面白がっていない時の方が怖い。
太公望も普段は抜けているが、こういう時だけは妙に手際が良い。
しかし、二人が辿り着けたのは、噂を流したアカウントが捨て垢だったという事実までだった。
誰が流したのか。
なぜ流したのか。
その答えは、まだ表には出なかった。
ただ、鳥栖だけはふと思い出していた。
グランドオーダーで負けた時の、ひまりの沈黙。リムルに慰められた時の、あの笑顔。そして、自分にだけ向けられた、甘ったるい声。
「また一緒に行ってくれる?」
気のせいだと思うことは簡単だった。
実際、証拠は何もない。
けれど何もないはずの場所に、ほんの少しだけ嫌な空気が残っていた。
それは、マルチバトルの終了後にフィールドへ漂うエフェクトの残滓に似ていた。
綺麗で、軽くて、すぐに消える。
だから誰も気にしない。気にしないまま、次の戦闘へ進んでしまう。
これが鳥栖の身に巻き起こる一連の事件のはじまりであることなど、本人さえも知る由はなかった。




