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Crazys!  作者: ノンアルコール
C,8-B-1 Good Bye My Sweet Song.
60/65

「変な人たちだったなぁ」

 騒々しい街道の中で、誰に言うでもなく漏れたケイナの呟きは、雑踏の中に溶けて消える。先程遭遇した変な二人組を思い返して、ケイナは首を傾げていた。

 見た目や言動なども可笑しかったのだが、何よりこんな騒がしい街道から逸れた、寂しげな路地裏で一体どんな仕事をしていたのだろう。街の人々は殆ど外で露店を構えていて、屋内にいる人など少ないはずなのに、路地裏から現れた彼らが奇妙で仕方が無かった。祭りを楽しんでいる素振りも無く、彼らの言葉を信じるなら、正に『仕事仲間』といった雰囲気。

 この楽しげなお祭りムードのメトロでは、明らかに浮いていた。

「あ、もしかして、水道管とか、ブレーカー修理の人だったのかも」

 首を捻りながら考えていたケイナは、ピンと一つの可能性に行きつく。

 その手の作業員だとしたら、表通りに並んだ商店の裏手にある、住宅に入る為に路地裏にいたとも考えられる。なるほど、それなら辻褄が合う。カサイの目があんなに濁っていたのは、祭り気分を背中で聞きながら、仕事をこなしていた鬱憤が堪っていたせいだろう。ジンが不機嫌だったのもそのせいだ。

しかしそれにしては、カサイは陽気だったように思うが、そうでもしていないとやっていられない業界なのかもしれない。

 あとは、カサイがケイナに残した言葉が気になるのだが。

「夕方、もしかして何かお祭りのイベントでもあるのかな。混雑するから気をつけて、とか」

 ああ、と一人で頷いて、ケイナは結論付ける。どうやら、カサイはケイナにその事を忠告してくれていたらしい。最初はわけのわからない怖い人だと思ったが、思いの外、彼はいい人だったようだ、とケイナは心の中で認識を改める。

「なるほどー。そういうことか……あ」

 ケイナは、腕を組んで満足げに頷きながら、ふと前方を見て驚いた様に目を丸くした。

 いつの間にか、ケイナはメトロエクスプレスの通るステーションの前広場まで出てきており、開けた土地の中で、一つの見覚えある人影を見つけた。

 大きなギターケースを背負ったその後ろ姿は、紛れも無くミカドの姿である。ケイナに背を向ける形で、駅に繋がる石階段の横に佇んでいるので、ケイナには後ろ姿しか見えなかったが、メトロで楽器を背負った人間など限られるし、今度こそ見間違いではないはずだ。そう思い、ケイナは小走りでその背中へと駆け寄る。

「ミカドさん!」

 ケイナが名前を呼ぶと、ギターケースを背負った青年は、弾かれた様に顔を上げて振り返った。

 紛れもない、ケイナの知るミカドの顔だった。ただ、振り返った黒髪の青年は、何処か困惑した様に額に眉を寄せていて、狼狽した様な目でケイナを見た。

「ケイナちゃん……」

「おはようございます! あれ、お手紙ですか?」

 ケイナは、ミカドが持っていた白い封筒と、彼が前にしている色褪せ、錆びついた赤いポストを見て問いかけた。

「あ、ああ。まぁ……」

「妹さんにですか? 私も、お世話になった皆さんに、お手紙出そうと思って書いて来たんです」

 何故か、目を逸らしながら頷くミカドにそう言って、ケイナはローブの下から一通の手紙を出して笑みを浮かべる。

 昨夜、寝る前に机に向かって書いた物だった。

「そう、なんだ。そうだよな、定期的な連絡は大事だから……」

 そう言いながらも、ミカドは慌てる様にケイナから目を逸らして手紙をジャケットのポケットにしまった。

 それを見て、ケイナは不思議そうに首を傾げる。

「手紙、出さないんですか……?」

「……」

 ケイナの問いに、ミカドは考え込む様に沈黙した。一呼吸するほどの間をおいた後、ミカドは苦笑いを浮かべてケイナに視線を合わせる。

「ああ、いいんだ。大事な人に、嘘はつけないから」

「……」

 諦めた様な苦笑を浮かべて言うミカドに、今度はケイナが黙り込む。

 まるで、自分の事を言われている様な気がして、ケイナはずくりと胸が痛むのを感じた。ミカドも、立場はケイナと同じなのだ。故郷には、自分を心配してくれる人がいる。が、故郷を出た自分は、自分がやりたいと思った事上手く出来ずに、努力の空回った暮らしをしている。

 心配を掛けたくないから、元気でやっていると言う手紙を書く。心配を掛けたくないから、上手く仕事が回っている、という手紙を書く。結果、それは嘘の手紙になってしまう。そういう嘘が、ミカドの中にもあったのだろうか。

「……手紙、出さないの?」

 じっと、手元の封筒を見つめるケイナに、ミカドが柔らかい声音で問いかけた。

「……はい。やっぱり、良いです。書き忘れた事があったので、もう一回書きなおす事にします」

 ニッコリと笑って、ケイナは手紙を再び懐に仕舞い込んだ。

 大事な人に、嘘はつきたくない。ケイナは、恥ずかしかった。心配させたくないとは言え、その嘘をついて楽になるのは、結局のところ自分だ。滞っている報告をさっさと片付けて、安心したいだけなのだ。自分の事ばかりだ。そんな事を考えていた自分が、とても恥ずかしい。

「よっし、そんじゃ早速新曲のお披露目と行きますか!」

 落ち込んだ空気を払拭するように、ミカドが声を張り上げて言った。その力強い声に、ケイナも勢い良く顔を上げて、嬉しげに笑う。

「本当に新曲作ってきてくれたんですね! 私、客引きしますよ! サクラにもなります!」

 両手のこぶしを握り締めて、息を巻きながら少々ズレたやる気を見せるケイナに、ミカドは苦笑して頬を掻く。

「はは、サクラなんていらないほど人が集まってくれるといいんだけどね」

「はい! たくさんの人にミカドさんの歌を聞いてもらえるよう、頑張ります!」

 そう言ってケイナは頷き、気合いに満ち溢れて爛々と輝く瞳でミカドを見上げた。そんな彼女の顔を見ると、ミカドは可笑しそうにはにかんで笑う。

 そうだ。今日は、祭典の日なのだ。きっと、何時もより人通りも多くて、休憩がてらに音楽に耳を傾けてくれる人がいるはずだ。それに、ミカドは新曲も用意したと言っていた。これで聞かれないわけが無いのだ。ケイナはそんな期待を胸に、心に溜めこんでいた憂鬱を全て吹き飛ばしてミカドと共に歩きだした。




 *



 ミカドの小さな路上ライブは、昨日ケイナがミカドと出遭った場所と同じ、街道の街角で行われた。

 昨日は、時間が遅かった事もあって人通りの少ない街角だったが、今日は祭日と言う事もあって人通りが多かった。

 立ち並ぶ露店の邪魔にならない様、昨日と同じようにギターケースに腰かけて、足元に空き缶を置いたミカドは、古ぼけたクラシックギターを抱えて深く息を吸う。

 ミカドが奏でる音楽は、ケイナの耳に実によく馴染む音楽だった。

 確かに平凡、何の変哲も無く、ありきたりな音階ではあるが、声は優しく、音は暖かだ。

 ケイナはその場にしゃがみこんで、目を閉じた。緩やかな音階の波に身を横たえながら、眠ってしまいそうになる様な心地よさだった。まだ、客はケイナ一人しかいないが、それでもこんな風に歌を歌えるミカドは、本当に歌が好きなのだとケイナは思った。

 好きだから、やりたいからやる。そんな強い気持ちを知っているからこそ、ケイナの耳にミカドの歌は心地よい。道行く人が、彼の歌を無視して行くのが不思議なくらいだ。

 ケイナが、目を閉じてミカドの歌に聴き入っている最中に、チラホラと、ミカドの傍に集まる人影があった。

 ある人は、しばらく歌を聞いた後でミカドの足もとにある空き缶に小銭を投げ入れて去り、ある人は、拍手を送りながら小銭を投げ入れる。

 多くの人が集まったわけではないが、それでもミカドの声を耳に留めて、立ち止まった人が確かに存在した。ギターの音色の合間に響く、小銭が缶の中に落ちる音を聞きながら、ケイナは緩やかな風の様なメロディに耳を傾けながら、悠久とも思える時間を過ごした。




 途中、休憩をはさみながら、ミカドとケイナは本日の路上ライブを終了した。

 ケイナが思うに、人の集まりは中々上々だったように思う。立ち止まって聞いてくれた人はたくさんいたし、拍手だっておこっていた。それは、空き缶に堪った小銭の量が物語っている。路上ライブは、成功したと言っていいとケイナは考える。

「……こんなもんか」

 しかし、ケイナの考えと裏腹に小銭の堪った缶を持ちあげたミカドは苦笑交じりに呟いた。

 前向きで無いミカドの呟きに、ケイナは表情を曇らせる。

「微妙……でしたか? たくさんの人に聞いてもらえた様に思いますけど……」

「ああ、たくさんの人が聞いてくれたね。でも、その歌に金を出そうと思った人はこれだけさ」

 そう言って、ミカドはケイナに空き缶を見せる。確かに、空き缶に溢れるほど小銭が入っているわけではない。そこから数センチばかり堪っているくらいだ。

 昨日の晩、ケイナが見た時よりもずっと多い量ではあるが、客観的に見れば確かに、少ない。

「お金……。ミカドさんは、好きだから音楽をやっているんじゃないんですか? お金は確かに少ないですけど、昨日よりずっと、たくさんの人がミカドさんの歌を聞いてくれましたよ!」

 金、という言葉を聞いて、ケイナは顔を強張らせる。

 ミカドは、好きだから、やりたいことだから、やらなきゃいけないことだから、音楽をやるのだと言った。ケイナに、やりたいことをやればいいと言ってくれた。それは、金などでは換算できない尊い気持ちのはずである。いや、ケイナはそう思っていた。

 ケイナの主張を聞いて、ミカドは困った様に笑みを浮かべると、金の入った缶を地面に置いて答えた。

「好きだからやってるよ。でも、俺のその『好き』に金を出す奴はこれっぽっちってこと。俺の『好き』じゃ、生きるのに十分な資金さえ稼げない。でも、これが俺の精いっぱいの『好き』なんだよ。だから本当に、これ一本で食っていくのだとしたら、俺は『好きじゃない』音楽をやっていかなきゃいけなくなる」

 そう言って、ミカドはギターを撫でた。弾き過ぎたギターの弦は、それぞれ色が異なっていて、何度も張り変えたのであろう事が覗える。

 そんなになっても、ミカドの音楽は世間に通じないと言うのだろうか。ミカドが握るギターを見つめながら、ケイナは額に眉を寄せた。

「だから、今日いっぱいで俺は、音楽を辞めようと思うんだ。俺の『好きな音楽』が世間に通じないなら、世間を相手にしていても仕方ない。金にならない職で、のたれ死ぬのはごめんだからね」

 カラリと、乾いた様なあっさりとした笑顔を浮かべて、ミカドは言った。

 清々しいほどの潔い笑みだった。未練など、一切無いような。そんな笑顔を見て、ケイナは今にも泣き出しそうに顔を歪めながら声を上げる。

「そ、そんな! 辞めちゃうんですか……? 諦めちゃうんですか……? 好きなことなのに……」

 通じないから、相手にされないから辞めてしまうのだろうか。それは、とても悔しい。それに、悲しいことではないか。

 震える声で問いかけるケイナに、ミカドは慌てて首を横に振る。

「違う違う! 音楽を辞めるわけじゃない。試すのを辞めるんだ。俺の音楽じゃダメだってことが分かった。なら、俺の音楽を好きだって言ってくれる人の為に歌えば好い。ケイナちゃんや、俺の妹みたいな、ね」

 ニコリと微笑むミカド。その笑顔は、何処か達観した様な笑みにも見え、同時に、諦めた様な表情でもあった。

 ミカドは笑うが、彼の言っている事は、彼にとってとても辛い事だろう。自分がどんなに好きなものでも、世間はそうでは無かったのだ。自分が、今までずっと好きだと思っていた事が、世間にとっては、とりとめのない事でしかなかったのだ。

 ミカドは、それを痛感して言っている。大勢の人の前で歌うのを辞めると言っている。

 それは、とても悔しくて、残念で、辛い事に決まっているのだ。

 しかし、それでも尚ミカドは柔らかく笑った。少しだけ悲しげな影を目元に落としながら、自分よりもずっと落ち込んでいるケイナを見て続ける。

「別に、音楽は一つじゃないんだ。飯を食う為の音楽もあれば、ただ、誰かに聞いて欲しくて奏でる音楽もある。どっちも音楽だけど、方向がまるで違うんだ。だから俺は、俺がやりたい事をやる」

 ギターを、ケースに仕舞い終えたミカドは、ケースを肩に背負って立ち上がると、二カッと眩しい笑みを浮かべた。

「それに、いつまでも夢ばっかり追ってはいられないし。俺のやりたい事は、故郷の、妹の傍でも出来る事だからさ」

 ミカドには、故郷であるサースメトロに置いて来た病弱な妹がいるそうだ。その妹の事を語るミカドの表情は、とても暖かで、優しい『お兄ちゃん』の顔だった。

 そんな、大切な妹を置いて、故郷を離れて決して資金面から見ても安定的でない音楽の道に走ったミカドの決意は、きっと生半可なものでは無かったのだろう。今のケイナには、その決意を想像することしか出来ないが、ケイナが口出しして好いような、浅い気持ちでは無いはずだ。

 それくらいは、ケイナにもわかった。身勝手なわがままで、彼を引きとめてはいけないことくらい、簡単にわかる。

「サースメトロに、帰ってしまうんですね」

「今すぐに、ってわけじゃないけど、近々かな」

「……」

 ケイナの後ろから注ぐ西日を見てミカドは眩しそうに目を細めながら、少しだけ寂しそうに笑って言った。

 ケイナは、そんなミカドの微笑みを見て強く唇を噛みしめた。街を出て、初めての友達が出来たと思った。目的は違えど、もしかしたら、一緒に支え合いながら頑張って行けるかもしれない、そんな友達が出来たと思った。

 そう思っていたのは、ケイナだけだったのかもしれない。ミカドにとってのケイナは、たまたま自分の歌に耳を傾けてくれた、物好きな人間の一人でしかなかったのかもしれない。

 けれど、ケイナが彼の音楽を聞いて、そして話をして、元気を貰ったのは本当だ。失敗ばかりしている自分でも、頑張って行ける様な気がしたのも本当なのだ。だから、例えミカドは気付いていなくとも、それだけは知って欲しい。

「でも、私、ミカドさんの歌を聞けて、本当に好かったと思ってます」

 震える声で、ケイナは呟く。

 零れそうになる涙を堪えて、誤魔化しの笑みを浮かべながらケイナはミカドを見上げた。

「私だけじゃないです。今日、いえ、今までミカドさんが街角で歌って来て、ミカドさんの歌を聞いてくれた人は、ミカドさんが思うほど多くは無かったにしろ、確実に居ます。彼らが、どんな気持ちで歌を聞いていたのかはわかりませんが、少なくとも、好いなって思った事は確かです」

 ミカドはこれっぽっちと言ったが、彼のファンは確実に居た。彼の好きなことを、好い、と思ってくれる人は確かに居たのだ。

 それは、ミカドが欲しかったものではないかもしれない。彼にとっては、賞賛なんてものはどうでもよく、ただ自分の好きなことをしていただけだったのかもしれない。

 それでも、ミカドの『好き』に救われた人間もいるのだ。それだけは、ケイナはミカドに知っておいて欲しかった。

「ミカドさんが人前で音楽を辞めるのは、私はとても寂しいですけど、ミカドさんが決めた事なら仕方が無いと思います。でも、私や妹さん以外にも、ミカドさんの歌を聞いていたいと思った人が、この街に居た事、忘れないでください」

 ケイナは、目尻に涙を溜めながら、ニコリと笑ってミカドを見上げた。何故か、驚いた様に目を丸くしているミカドの顔が、なんだか可笑しかった。

「だから、悔しがったり、残念に思ったり、あと、後悔したりしないでください。ミカドさんが今までやってきた事は、決して無駄な事じゃないんです。ミカドさんの歌は、私や、この街の何処かにいる誰かの心に、しっかりと残っているんですから」

 街角で立ち止まって聞いてくれた人も、通りすがりに少しだけ聞いてくれた人も、顔も名前もわからなくても、彼らは確実に存在する人だ。

 そんな彼らが、ほんの頭の隅だけにでもいい。ミカドの歌を少しだけでも覚えていてくれたなら、それだけで、ミカドがしてきた事は意味のある事なのだ。ケイナは、そう思う。

「……そう、だな」

 ケイナの笑顔を見たミカドは、そんな事言われるとは思っていなかった、とでも言わんばかりの顔で目を丸くして、そして僅かの間をおいて、何かに気が付いた様にクスリと笑った。


「そうだった。はは、ほんと、大事なことを、忘れてた」

「……?」

 何処か、吹っ切れた様な笑い声を上げて、吐き出す様な声で言うミカドに、ケイナは少しだけ首を傾げた。

 何を忘れていたのだろう、それを問うよりも先に、ケイナの鼻先に小銭の入った空き缶が向けられる。

「よし! それじゃ、今から今日稼いだこの金で、飯でも食いに行こう!」

「え、えぇ!?」

 まるで文脈の繋がりの無い急な提案に、ケイナは驚いて目を丸くする。

「な、なんでそうなるんですか!? そのお金は、妹さんの治療費にあてるべきですよ!」

 せっかくミカドが稼いだ金だ。彼の妹の為に使わなくてどうすると言うのだろう。

 慌ててミカドの申し出を拒否するケイナに、ミカドはバツが悪そうに一瞬目を逸らすと、頭を掻いて誤魔化すような笑みを浮かべ、僅かに目を伏せて小銭の堪った空き缶の中身を見る。

「……いいんだ。もう、遅いから」

「……え?」

 問いかけたケイナの声は、再び鼻先に突き付けられた空き缶の中の小銭の音に掻き消された。

「いいから! 俺がそうしたいんだよ! だから、これちょっと持ってて」

 そう言ってミカドは、ケイナに空き缶を押し付ける様に持たせると、ギターの入ったケースを背負って素早く立ち上がった。つられてケイナも立ち上がる。

「み、ミカドさん!」

「ありがとう、ケイナちゃん。ケイナちゃんのお陰で、俺も大事なことを思い出せた」

 慌てた様に立ち上がって声を上げるケイナに、ミカドは明るい笑みを浮かべて言った。

 ケイナは、ミカドが何を言っているのかわからなかった。自分がお礼を言われる理由すらもわからない。

 そんなケイナの戸惑いを知ってか知らずか、ミカドは更に言葉を繋げる。

「俺さ、サースメトロに帰るから。だから、こっちで世話になった人達に挨拶してくるよ」

「あ、挨拶……?」

 混乱したケイナが漸く絞り出せた言葉は、実に頼りない音で乾いた空気を響かせる。

 その問いに、ミカドはニッコリと笑って頷いた。

「そう。だから、ケイナちゃんはそれ持ってここで待っててくれ」

 ぴ、とミカドはケイナの手の中にある空き缶を指差すと、不安げな面持ちで自分を見上げるケイナに微笑みかけ、くるりと彼女に背を向ける。

 ケイナは困惑した。話を、はぐらかされてしまった様な気がする。

 ミカドが何を考えているのか、ケイナのどんな言葉が、ミカドに『ありがとう』と言わせたのか。勘の鈍い自分では、全く分からなかった。

 しかしそれでも、わからないまま、彼を行かせてはいけない様な気がした。昨日と同じ、柔らかな微笑み。眩しいくらいの笑顔。けれどもその笑みの中には、どこか強固な決意さえ感じられる。

 いいのだろうか。そんな言葉がケイナの心の中に浮かび上がった。歌を辞めるのも、故郷に帰るのも、ミカドは、本当にそれでいいのだろうか。

「ミカドさん! ……本当に、いいんですか!?」

 腕を伸ばせば届く様な距離にいる背中に、ケイナは思わず問いかけた。自分が、何を思って問いかけたのかいまいちわからない。けれど、言わなきゃいけない気がした。

 ミカドは、ケイナの声を聞くと、驚いた様に目を丸くして振り返る。そして、僅かにケイナを見た後、にんまりと笑った。

「敬語」

「え?」

「敬語口調。もうやめてもいいよ。歳もそんなに離れてないし、それに、もう友達なんだし、さ」

 そう、微笑みながら言って、ミカドは再びくるりと踵を返すと、雑踏の中に足を踏み出した。

 人混みの中に消えゆく背中は、人のウミに溶けてゆくような様でもあった。

「…………うん」

 ミカドの言葉に答える様にして、ケイナは呟く。しかし、彼女の声は既に人混みの中に消えて行ったミカドに届くはずも無かった。

 その背中に伸ばせなかったケイナの手は、古く、錆びついた空き缶を握り、不安げに眉を寄せた面持ちのまま、ケイナはミカドの背中が消えて行った雑踏を見つめていた。



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