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Crazys!  作者: ノンアルコール
C,8-B-1 Good Bye My Sweet Song.
59/65

 *



 空が、褪せたオレンジ色から紫を交えた闇色に染まる頃。ケイナとミカドは、他愛のない身の上話と雑談に花を咲かせながら、賑やかな街道を歩いていた。

 そもそもは、ミカドがせっかくだからケイナを下宿先に送ろうと提案しただけだったのだが、話してみると、どうやら二人とも故郷がサースメトロということが発覚し、それにより二人が想像していたよりも賑やかな家路となったのである。

 先ほどまで、一人でとぼとぼと歩きながら、言いしれぬ疎外感を感じていた街道も、今のケイナには何てことはなかった。

「そうなんですか……。妹さんの医療費を稼ぐために、サースメトロを……」

 ケイナは、ミカドの身の上話を聞きながら、少しだけ俯いて申し訳なさそうに言った。それを見て、ミカドは慌てたように首を横に振る。

「そんな、別にケイナちゃんが暗い気持ちになることはないんだぜ。妹のため、ってのは勿論あるけど、それ以前に、俺がやりたくてやってることなんだ。気にしないでくれよ」

 にこやかに笑って言うミカドに、ケイナは一層胸が痛んだ。

 ミカドの歌を聴いたとき、平凡でも努力が空回っても、必死に頑張っている人間が自分以外にいるのだと、ケイナは安堵した。ミカドが、どんな想いで街角で唄を歌っているかも知らず、図々しくもそんな仲間意識を抱いてしまったのだ。ケイナは、自分がとことん情けないと思うと同時に、ミカドと、その妹に申し訳が立たない気持ちになった。

「でも、その、私……。ミカドさんの唄を聴いて、安心したんです。平凡な唄で、平凡なメロディで、誰にも振り向いてもらえないのに、ずっと歌い続けて……」

「お、おう……」

 人が聞けば、大変失礼な言葉を連ねているケイナに、ミカドは引き攣った笑いを浮かべる。何か突っ込みを入れようにも、それを言う彼女の表情は、泣くのを必死で押さえつける子供のように繊細で、真剣で、そんな軽口は叩けなかったのである。

「私だけじゃないんだ、と思ったんです。平凡でもあがいてる人は、私だけじゃなかったんだって。そんな、ズルイことを考えながら、私はミカドさんの唄を聴いていたんです。ミカドさんが、どんなモノを背負っているかも知らないで。だから、申し訳ないんです……」

 一人でも強くありたいと、宣ったものの実際は、誰かと一緒でないと何もできない、自信も持てない卑小な存在なのだと、ケイナは改めて実感する。何も変わっていないのだ。自分は、未だ。

 変えてもいない、変わってもいない。それが、どうにも苦しくて仕方がなかった。

 ケイナの話を聞いたミカドは、考えるように視線を斜め上の虚空に向けて頬を掻いた。そして、少しだけ黙り込んだ後、にんまりと眩しいばかりの笑みを浮かべてケイナを見る。

「なんつーか、何も知らない俺が言っても説得力無いかもしれないけど、そんなに焦んなくてもいいんじゃないか?」

「……焦る?」

 ミカドの言葉に、ケイナが顔を上げて問いかけた。夜の闇が迫りかけた黄土色の空を背景に、眩しい微笑みが視界に入って、ケイナは無意識に目を細める。

「そうそう。ケイナちゃんはさ、賞金稼ぎとは言ってもまだ駆け出しなわけだろ? 別にそう、生き急ぐ事は無いんじゃないかな。急いで変わろうとしなくても、少しずつ変わって行けたらいいんじゃないか?」

 提案するように、ミカドが言った。それを聞いて、ケイナは顔をしかめる。

「でも、変われる保証は無いんです。もしかしたら、何も変わらないまま、ドジって死んでしまうかもしれない。そしたら元も子もないです。今すぐにでも変わらないと、私なんて、きっとこの街じゃ簡単に死んでしまう」

 死ぬのは、いけない。彼が救ってくれた命だから。死ぬ事は、彼への裏切りとなってしまう。

 それを思うと、ケイナの胸がずくりと痛んだ。下唇を噛みしめて、ケイナは自分でも気付かぬうちに顔をしかめる。

こんな事を、ミカドに言うのも、愚痴を零しているようで気が引けたのだが、それだけは嫌だったのだ。

 彼を悲しませる様な事だけは、どうしてもしたくなかった。

「生き方を選ぶって、すごく難しいです。ただ流されるまま、あるがままに生きるだけなら、不満も文句も無いのに。何かを選ぼうとすると、格段に難易度が上がるんです。それってきっと、その選択が、自分に合ってないからなんですよね。合わない事をするから躓くんです」

 人間は、身の丈に合った事だけをするべきだ。無理に背伸びをする事は、きっと、この世界では愚かな事なのだろう。それは、言うなれば理想と現実のギャップ。縮める事の出来ない距離が、その二つの間には空いているのだと、ケイナは考える。

「……そんな事は、無いと思うけどなぁ」

 ケイナが呟く様に言うのを聞いて、ミカドが顎に手をやりながら考える様に言った。落ち込んだ顔を上げ、ケイナは再びミカドを見る。

「自分に合わない選択、なんてのは無いよ。流されるままに生きてる人間だって、人生の中で数え切れないほどの選択をしてる。そしてどの選択をしたところで、後悔をして、同時に安心もするんだ。ああ、あの時こうしていれば、なんてのは、いつだって呟かれる愚痴さ」

 ミカドが言った。どこか、昔を思い出す様なクチぶりは、彼の過去での経験のせいなのか。しかし、それを知らないケイナは黙って彼の言葉に耳を傾けた。

「だったら、今やりたいことをやればいいじゃないか。何かあった時は、また自分が思う様に選択すればいい。なるようになるさ。俺だって、夢ばっかり追って病気の妹を置いて来て、それでもなんとかやってる。妹の傍に残ればよかったって思う時もあるけど、でもそれでも俺はやりたいことが……やらなきゃいけないことがあるから。だから俺は、もう前しか見られないんだよ」

「……」

 二カッと笑みを浮かべて言うミカドの顔を見て、ケイナは無性に泣きたくなった。

 ずっと不安だったのだ。心細くて、自分の知っている賞金稼ぎは皆、破天荒で常識外れで。自分自身と同じ目線でも、それでも前向きに自分の状況を考える事の出来るミカドの言葉を聞いて、ケイナはじわりと目頭が熱くなるのを感じた。

「あ、あれっ? なんか俺、厳しい事言った?」

 目頭に涙を溜め始めたケイナを見て、ミカドは慌てた様に言った。そんな彼の反応に、ケイナは勢い良く首を横に振って否定する。

「ちが、違うんです! その、嬉しくて……。そう言う風に考えられるのって、すごく素敵だと思って! 私も、やらなきゃいけない事があるから、その為なら頑張れると思って……、その」

 慌てふためきながら、早口で喚く様に言うケイナは、語尾で小さく息を吸うと、声の調子を整える様に、目頭を拭って一度深呼吸をすると、両眉を精悍にキリッと伸ばしてミカドを見上げた。

「私も、もう一回頑張ってみようと思います。やらなきゃいけない事、絶対にやり遂げてみせます。ありがとうございます、ミカドさんのお陰で、元気が出てきました」

「!」

 そうだ、諦めるのは、まだ早い。サースメトロを出て、まだ三カ月も経っていないのだ。まだまだ、ケイナの知らない事がこの街にはある。落ち込むとしたら、それを知ってからでもいいだろう。

 両の拳を力強く握り締めて言うケイナに、ミカドは一瞬だけ驚いた様に目を丸くすると、ニッコリと嬉しそうに笑って、そっか、と安心した様に言った。

 ミカドの笑顔に、ケイナも釣られて頬の筋肉が緩み、はにかんだ瞬間、イースメトロの街中に、一瞬どきりとしてしまう様なベルの音が鳴り響いた。金属で厚い金属を叩いた様な、鈍くて間延びしたベルの音は、人々の鼓膜を揺らして脳味噌まで響いて来る様であった。

『こんばんは、皆さん。イースメトロ電波塔が、夕刻をお知らせいたします』

 ベルの音に続いて、機械的な女の声が響いた。街の各所に取り付けられた拡声器から流れ出る、時報である。

 街中での時報など、サースメトロでは無かったので、ケイナはこれを聞いた時には驚いたものだが、もはや耳慣れた日常を形成する要素の一つとなっていた。

「もうこんな時間ですね。電波塔も、毎日時報を流すなんてマメですよね」

 そう、しみじみと言って頷いたケイナは、顔を上げて濁った空を見上げ、街外れの空へと視線を投げた。

 ケイナの視線の先には、高く、聳える様な黒色の塔が、街の民家や建物を見下ろす様に高々と建っている。

 それは、メトロの情報網を司る唯一の存在である、電波塔だ。メトロ中で放映されるラジオやテレビ、それから媒体が変われば、新聞や雑誌、果ては賞金首の手配書まで。情報と言う情報は、全てイースメトロの電波塔から発信された物なのである。

 一見、細長いだけの唯の鉄骨製の塔にも見えるが、その内部にはテレビ局やラジオ収録場、雑誌や新聞の編集部が組み込まれているのだ。人々は、電波塔から発信された情報のみを買い、そしてその情報のみで他のメトロの街がどのような状況にあるのかを知るのである。

 メトロの唯一の情報の発信源であり、源である電波塔は、人々に酷く重宝された。未だ、テレビなどの電波受信機は、エストメトロの富裕層などの一部の人々にしか普及していないものであるとはいえ、ラジオ放送や雑誌などは貧困な市民の娯楽の一つと化し、それと同時に新聞や手配書と共に、世の中の世情を知る為には欠かせない物と化している。

 先のベルから始まる放送も、電波塔から流された物だ。いつからか、電波塔は、情報媒体を流すだけでなく、一日に朝昼夕の三度、先程の様な放送を流す様になった。

 人々が、今の時刻がわかりやすくなったと言ってありがたがっているのを、ケイナは初めてイースメトロに来た時に聞いている。確かに、毎日がどんより空のメトロでは、昼か夜かしかなく、時計を逐一見ないと時間の確認ができない。気付くと定時を過ぎていたなどはザラである。細かな時間など気にせず体内時計を頼りに生きている人が多いかもしれない、と、ケイナはその話を聞きながら思ったものである。

「マメ……か。いや、アレは『枷』だよ」

「え?」

 ケイナが視線を向けた先にミカドも顔を向けると、大きなギターケースを背負った音楽家は、忌々しげに顔をしかめて電波塔を睨みつけた。

 先程までとは違う、憎々しげに籠ったミカドの声を聞いて、ケイナは目を丸くして驚く。

「枷……ですか?」

 問いかけるケイナに、ミカドは苦笑して答えた。

「なんとなく、ね。あの放送が始まってから、人が、同じように動く様になった気がするんだ。放送と同時に起きて、食事をして、家に帰る。きっと、そうしようと思ってそうしているわけじゃないんだろうけど、あの放送が流れる事で無意識のうちに、生活サイクルが定められ始めたような気がするんだよ」

 ケイナは、難しい顔をしてミカドを見た。

 そうしよう思っているわけじゃないのに、人々は電波塔からの放送に従って生活をしている。しようとしているわけではないのにそうしている、その意味がわからなくて、ケイナは首を傾げる。

「でも、朝起きるのは人の自由だし、お店を何時閉めるかっていうのも、人の自由ですよね。しようと思わないと、行動ってできませんよ」

「うーん、何て言うのかな。しようと思っているわけじゃないんだけど、行動を促されるって言うのかな。他の、電波塔から発信される情報もそうなんだけど、そう思わされてると言うのかな。言葉では説明しにくいんだけど。自由が、内側から制限され始めているって言うか」

 ミカドは、腕を組みながらううんと唸って考え込んでしまった。

 ミカドの言葉を聞いても、ケイナは一向に彼が何を言いたいのかいまいちよく分からなかったのだが、なんとなく、ミカドが電波塔に好い印象を持っていないことだけはわかった。

「ミカドさんは、電波塔が嫌いなんですか?」

 唸るミカドに、キョトンとした顔でケイナが問いかけると、考え込んでいたミカドはバツが悪そうに苦笑いを浮かべて僅かに肩を竦めた。

「好きでは、無いかな。……芸術家ってのは、いつの世も人が好む物を批判したくなるのさ」

「それって、ただ天の邪鬼なだけじゃないですか」

 何処か得意げに鼻を鳴らして、胸を張るミカドに、ケイナはクスクスと笑いながらミカドの顔を覗きこむ。ミカドは再度くしゃりと苦が笑いを浮かべて、今度は困った様に頬を掻いた。

「あ、私が下宿してるホテル、すぐそこなのでもう大丈夫ですよ。送ってくださってありがとうございました」

 見覚えのある路地の入口を見つけて、寂れたバーに挟まれたその路地に駆け寄ると、ケイナはミカドの方を向いて嬉しげに笑いながらペコリと頭を下げた。

 それを見ると、ミカドは立ち止まってケイナにはにかむ。

「いやいや、気にしなくていいよ。ケイナちゃんと話せて楽しかったし、歌も気に入ってもらえて良かった」

 にこやかに微笑みかけられると、ケイナは心中で安堵した。話の流れのせいとは言え、ミカドの生い立ちにまで突っ込んだ話を聞いてしまったとは自覚している。 それについて、ミカドが気にしていないならばそれで好かった。

「はい! 私も楽しかったです! あ! ええと、ミカドさん、いつもあの場所で演奏してるんですか?」

 ケイナが、嬉しそうに頬を緩めて元気よく答えた。それに続いて、彼女は思い出したように声を上げてミカドに問いかける。

「ん? そうだけど?」

 何て事無い様な口ぶりでミカドが答えると、ケイナは再び表情をパァッと明るくしてミカドを見上げた。

「それじゃぁ、ミカドさんの歌、また聞きに行ってもいいですか!? ミカドさんの歌って、心安らぐって言うか、安心するって言うか、元気になるんです。だから、時間があったら聞きたいな、と思って……迷惑、ですかね?」

 ケイナは、俯きがちに問いかける。初対面の人間で、しかもその歌もまだ一回しか聞いた事が無いにも関わらず、そんな事を言われたら『このミーハー女!』と思われてしまうかもしれない。歌に熱心な人ならば尚更だ。

 そんな不安を募らせるケイナとは裏腹に、ケイナの問いかけを聞いたミカドは、初めは何を問われているのか理解できなかったのか、目を丸くしてキョトンとしていたのだが、じわじわとケイナの言葉の意味が身に染みて理解出来てきたのか、みるみる内に顔を真っ赤にすると、頬の筋肉を上へと押し上げて、慌てふためいて言い繕う様にクチを開いた。

「な、いや! め、迷惑なんて事無いよ! 寧ろ歓迎、嬉しい! 歌を聞きたいって言ってくれる人が一人でもいるってだけで、すげえ嬉しいよ!俺!」

 興奮した様に、早口で言いながら、照れたように顔を赤くするミカドは、両の拳を力強く握ってケイナを見た。

 不安げに唇を噛みしめていたケイナだが、ミカドが酷く嬉しそうに言って視線を合わせるのを見て、自分の申し出を受け入れてくれた事に安堵し、そしてそれが自分が思っていたよりも歓迎された様で嬉しげに頬を緩ませた。

「あ、ありがとうございます! 明日も、早速聞きに行ってもいいですか? 今日はあんまり聞いていられなかったから……」

「いつでも歓迎するよ! よっし! そうと決まれば、明日までに新曲作ってくるから、楽しみに待っててな!」

「え!? あ、ミカドさん!」

 鼻息荒く意気込んで、子供の様に目をキラキラと輝かせたミカドは、ケイナにそう言うと勢い良く地面を蹴って薄暗くなった街道を駆けだした。

 勢いだけで飛び出して言った様な青年の背中に、ケイナは声を掛けて呼び止めようと試みるも、その背中は全てをはじき返すかのような勢いでどんどんケイナから遠ざかって行く。

「気を……つけて」

 走り出したミカドの背中を見つめながら、余りの速さにポカンと目を丸くして、ケイナは遠ざかっていく背中に向かって小さく呟いた。




 その後、ケイナは少し前から利用している下宿に戻った。

 五畳ほどの狭い集合住宅で、木造の壁や床は歩くたびにミシミシと嫌な音がする。賞金稼ぎを捕まえる為に街を奔走しているケイナにとって、下宿先は寝に帰る為の寝床にすぎなかったので、できるだけ予算を抑えて選んだのである。部屋は、通路からのドアを開けるとブリキ製の照明スタンドが付いた、簡素なディスクとイスがあり、その横手にはパイプのベッドが冷たく置かれているのみである。

 オレンジ色の照明の下、ケイナは部屋の寒々しさとは裏腹に、軽い足取りで寂れたイスに座ると、一枚の便箋と封筒を取り出した。

 黒インクでケイナらしい小さな文字で綴られた手紙には、まだ便箋の下の方に、数行分の空白があった。

 ケイナは手紙を取りだすと、黒インクの安物のペンを取り出して、手紙の文章の続きを書き始める。

 鈍く光る金属のペン先を揺らしながら、ケイナは便箋の空白の欄に、今日はこっちで初めて友達……と呼べるかはわからないが、心を許せる人に出会えたこと、なので、心配せずとも上手くやれている、と言う事を書き足した。

「……よし」

 文末にサインを載せると、ケイナは息をついてペンを置いた。

 故郷の街の『彼ら』に、手紙を送るとは言ったものの実はまだ一通も送っていないのだ。というのも、便箋一枚、という限られた範囲の中で、何を伝え込めようか迷ってしまったからである。本音を書いてしまうと、仕事が上手くいかず、自信も無くて、今にもサースメトロに逃げ帰りたいと弱音を吐いてしまう。現状を馬鹿正直に書いても、彼らに心配を掛けてしまう様な内容になってしまったので、ケイナはそれらを避けて、なんとか無難で彼らを心配させない様な言葉を選びながら手紙を書きあげた。

 そうしたら。当人であるケイナから見れば、酷く真実味の薄い手紙となってしまった。

 ケイナは、書き上がった手紙を読み返しながら、浮かれてはにかんでいた表情を険しくしかめて、睨みつけるように便箋を見つめる。

 改めて読み返してみると、手紙は今日書き足した文章以外、殆どケイナの虚言で満ちていた。いや、正確には、嘘では無い。

 賞金首を捕まえた事は本当だし、街中走りまわって犯罪者を追いかけ回したのも本当だ。しかしその中には、ケイナが起こして来た数々の失敗が書かれていない。

 心配させたくないから、だけではない。相変わらずドジをやっている自分を知って、彼らが幻滅するのではないかと恐れる気持ちもあるのだ。馬鹿で鈍間な自分に力を貸してくれた彼らだからこそ、落胆されるのが怖いのである。

 そんな自分の恐怖心に気がついて、ケイナは己の小心具合にホトホト呆れるのだ。

 しかし、ケイナは再び文面に視線を落とす。手紙を送る、と言ってから、もう大分日が経つ。ようやく一枚便箋を書き終えたというのに、これで書き直しをすると言うならば、手紙を出すのにもっと時間がかかってしまう。

 それは、なんとなく嫌だった。早く手紙を投函して、無事にやっている、という知らせだけでもしたかったのだ。


 ケイナは、暫く悩んだ末、意を決した様に小さく頷くと、便箋を封筒の中へと入れた。便箋を丁寧に折って封筒の中に差し込み、きちんと封をする。宛名は、大分前に書いていた。

 ケイナは、その手紙をディスクの上に置くと、部屋の照明を落としてローブを脱ぎ捨てて、ベッドの中に潜り込んだ。

 ベッドに潜り込むと、手紙を書いていたせいか、サースメトロでの日々が無意識のうちに思いだされた。

 何も知らない、ただの小娘だった自分。世界を知らずに、小さな自分だけの箱庭で、憧れだけを追っていた自分。今と、一体何が違うのだろう。少なくとも、世界は広がったはずだが、憧れだけを追っているのは変わらない。

 あの人の様に、優しく強い人間になりたいと思うだけで、能力が伴わないのが歯がゆくて仕方が無い。

 それを考えると、じんわりと目頭が熱くなった気がした。ケイナは慌てて薄い毛布の中に顔を埋め、きつく目を閉じた。

 時間はまだ早かったが、疲れていたのか、眠気がケイナを包み込むまで、そう時間はかからなかった。




 *



 翌日。ケイナは楽団の軽快な演奏の音で目が覚めた。

 固いベッドの上から、寝癖のついた髪と眠気眼で上体を起こすと、宿の窓から差し込む柔らかな日の光に瞳孔が刺激される。それと同時に、鼓膜を揺らしていた軽快な音階を脳が認識し、ただの音は街道を行くパレードの愉快な楽器の音色と成り変わった。

 ケイナは、目を擦ると素早く部屋の窓辺に走り、外を見る。残念ながら下宿は表通りに面していないので、パレードの本隊を見る事は叶わなかったが、耳を騒がす愉快な音色は、窓を開けると部屋の中で踊りだすかのような騒々しさに満ち溢れていた。

「エクスプレス……記念祭典か……」

 ケイナは自分で呟くと、腹の底から湧きあがる様な、子供染みたワクワク感を感じて、思わずニヤケ笑いを浮かべるとぶるりと身震いした。

 愉快な音色と人々の歓声を聞いては、どんな人間も気持ちの高ぶりを感じずには居られない。昨夜、眠りに着く前まで、酷くナイーブになっていたケイナも、お祭り騒ぎを目の当たりにしては、そんな高揚を湧きあがらせないわけにはいかなかった。

 ケイナは、素早く支度を整えて乾パンと水の食事を済ませると、軽い足取りで下宿を飛び出した。昨夜書いた白い封筒の手紙も、忘れずに懐に仕舞いこみながら。




 *



 表通りに出てみると、そこはケイナが思っていた以上に賑わっていた。

 街道の両端には、数々の露店が立ち並んでおり、ケイナが何時も見ている陰鬱としたメトロの雰囲気など微塵も感じさせないほどに華やかに見える。

 電波塔が呼んだのか、ラジオなどでよく聞く楽団の演奏が街中に響いていて、街中に取り付けられた拡声器からは、駅前広場で開催されるラジオのトークショーや簡易な演劇のプログラムが流れている。その辺りは、さすが電波塔と言うべきか。他のメトロには無いイベントだろう、とケイナは思った。

ケイナは、足の赴くままに街道を歩いた。立ち並ぶ露店は、それを囲む人々の活気と相まって、どれもつい目移りしてしまうほど魅力的である。

 暗く、寂れたメトロにすむ人々も、今日ばかりは楽しそうな笑顔を振りまいているのを見るのも、ケイナにとってはまた一興であった。

「お祭り……いいなぁ」

 街道を歩きながら、ケイナはどこか寂しげに眉を寄せてぼんやりと呟く。

 賑やかな街の雰囲気に、ふと自分の孤独を感じたのだ。華やかな街並み、笑顔に溢れる人々。そんな中で、ケイナはただ独りきり。知らない土地での独りには慣れたつもりだったが、ふとした拍子にそんな心細い気持ちになるのだ。

 所謂、懐郷病と言う奴だろうか。ケイナは、ここ最近サースメトロでの日々を思い出して感傷に浸る事が多くなってしまっていた。

「…………あれ?」

 少し前までの賑やかな日々を思い出して、寂しげに笑みを浮かべながらケイナが街道を歩いていると、騒がしい人だかりの中に何処か懐かしい様な、それでいて、ずっと心の隅で追い続けて来た、見覚えのある人影が見えた様な気がした。

 ゆらゆらと、揺れる人々の頭の間から、人気の多い街道から少し外れて、路地の壁を背にして佇む影が見える。

 懐かしい匂いのする、色褪せたカーキ色だ。頭部にすっぽりと被せられたカーキ色のフードのついた、膝ほどまでの丈があるロングコートに、褪せた黒色のボトムス。目深に被られたフードの裾からは、チラリと厳つい黒のフィルターが覗いているのが遠目からでも見えた。

「え、あれ……? そんな……」

 ケイナは、その人影に目を奪われたまま、無意識のうちに駆けだした。

 こんな場所に、いるわけないのに。いるなんて聞いていないのに。

 路地の入口に佇むフードを被った人影を、ケイナはじわじわと溢れ出る様な喜びに頬を緩ませて見つめた。そして、今この場にあるはずの無い懐かしいその人影に、どくりと心臓を鳴らして足早に駆け寄る。

「ツッ……キシマさ……!!」

 色褪せたカーキ色のコートに手が届く距離まで近づくと、ケイナは喜びと、そして驚愕に息を着きながらそのコートの裾を掴んで声を上げた。

 あの人が、あの人が何らかの理由でイースメトロに来てくれたのなら、心に滲んだこの不安もきっと解消される事だろう。

 そんな期待を込めてケイナは、キラキラと目を輝かせながら自分よりも幾分背の高いフードの人物を見上げる。

 瞬間、ケイナに腕の布地を掴まれたフードの人物が、怪訝そうな声を上げてケイナの方に振り向いた。

「……何か」

「…………あ」

 フードの人物が振り返った瞬間、ケイナと目が合った。鈍い、黄金色の瞳が、不愉快そうにしかめられてケイナを見下ろしたのである。

 振り返ったカーキ色のフードの中の顔は、ケイナが想像していたモノと全く異なっていた。目深に被られたフードの端からは、目と同色の鈍い金色の髪が覗いており、長く伸ばされた前髪は、右目を覆い隠す様に頬まで垂れている。右目に掛かった前髪の隙間からは、人工的な赤い光が燈っており、冷たく恐ろしかった。クチ元には、先程ケイナが見た物と相違無い、厳ついフォルムの半面型防毒マスクをつけており、フィルター越しのしゃがれた声が籠って聞こえる。

 そして何よりも、ケイナの想像していた人物と、目の前の金髪の人物の違いは、振り向きざまに視界の端が捉えた、コートの下の黒インナーを押し上げる様にしてふくらむ、控えめな胸であった。

「あ、うあ……ごっごめんなさい! ひ、人違いでしたぁ!!」

 ケイナは、不機嫌そうなフード女の顔を見ると、慌てて掴んでいたコートの裾を離し、びくりと身体を震わせ落胆よりも焦るがままに、慌ただしく頭を下げて謝罪した。

 本当に、人違いであった。しかも、女性を男性と見間違えるなど失礼極まりない。確かに目の前の女は、ケイナよりも背が高く、コートを着こんでいる上にフードや防毒マスクを装備していて顔が見難く、声も決して女らしい声とは言えず、一見するだけでは性別の区別が付かないが、ケイナが見た胸のふくらみを見てしまえば議論の余地は無い。

「人違い? ふぅん」

 深く頭を下げるケイナに、女は興味なさそうに呟くと、目を細めてケイナを見下ろした。

 頭を下げてはいるものの、後頭部に女の冷たい視線を感じ、ケイナは再度、びくりと身体を震わせる。

「う、え、その……、私の知り合いにそっくりだったので……つい……」

「へぇ、知り合い。似てたって、顔が?」

「い、いえ……。その、後姿が、そっくりで……」

 女の声とは思い難い、背筋を這う様な低いハスキーボイスで問われ、ケイナは身震いしながら答えた。

 怒っているのだろうか。心の中で問うも、突然見ず知らずの人間にコートの裾を掴まれて、不快に思わないわけが無い。目の前の女は、顔がよく見えないので表情がわかり難いが、機嫌が好いというわけではないのはケイナでもわかる。

「ふぅん。どんな奴?」

「……え?」

「その知り合い。アタシに見間違えるような奴なんて、一体どんな奴なんだ?」

 ケイナの顔を覗きこむ様に、見を屈めて視線を合わせてくる黄金色の瞳に、ケイナは怪訝そうに顔をしかめた。

 何故、そんな事を聞くのだろう。何故、そんな事を知りたいのだろう。

 女の質問に、ケイナは酷く違和感を覚えた。別に、聞かれて何か問題のある問いでは無いのだが、ケイナを見る女の目が怖かったのである。

 まるで興味を持っていないとでも言う様な冷たい瞳。にも拘らず、何故そんな詮索染みた問いを投げてくるのか。やはり、怒っているのだろうか。

 ケイナの心の不安は募る一方だ。

「あっれージンくーん。俺を抜きにしてナンパかなぁ? いやいやまさか逆ナンとかぁ?」

 ドクドクと、不安に高鳴る心臓の音を聞いていたケイナの耳に、どこか気だるげな、しかし陽気なテンポの、低い声が聞こえて来た。

 驚いて、ケイナがその声のする方に視線を向けると、ジン、と呼ばれたフードの女が立っていた路地の奥から、一人の男が近づいて来た。

 褪せた深緑色のハンチング帽を被った、猫背気味の男だった。帽子の端からは、くすんだ茶色の短髪が伸びており、にたりとした品の無い笑みを浮かべたクチ元には無精髭がはえている。深い藍色のジャケットを羽織っていて、青み掛かった黒色の生地が伸びきった、カーゴパンツがだらしない。

 ハンチング帽を被った中年の男は、帽子のツバをちょいと持ちあげてジンの顔を確認すると、次にその傍にいたケイナを見た。

 目尻の垂れた、緩み切った紫色の瞳が、ケイナを映して愉快そうに笑む。得体の知れない紫の瞳に捕えられ、ケイナは人知れず身震いした。

「黙れカサイ。仕事は済んだのか」

 中年の男を見るなり、ジンはケイナと言葉を交わした時よりも、ずっと冷たい声で問う。その声の中には、嫌悪と侮蔑の念が混じっているようにさえケイナには思えた。

 しかし、対するカサイと呼ばれた中年の男は、そんな声などまったく気にしていない様で、ニタリと歯を見せてやはり、笑う。

「終わり終わり。だからこーして出て来たんでしょーが。んで、そっちのお嬢ちゃんはどちらさま? ジン君には似合わない、えらく可愛らしい女の子じゃないの」

 カサイが、顎の無精髭を撫でながら、見定めるような目つきで爪先から頭の天辺まで、じろりとケイナを見る。そして、ケイナの頭の先まで流れた視線が、再び下がって彼女の胸元で止まった。

「フム、まだまだ未発達」とカサイが誰に言うでもなくぽつりと呟く。しかしケイナは、彼の若干落胆したような意味深な呟きには微塵も気づかずに、見知らぬ人物が陽気なテンションで自分に視線を向けてきたことに戸惑い、呆けていた意識を持ち直すと、慌てて舌を回す様に喋りだした。

「あ! す、すみません! 私は、ケイナと言います。えっと、その、今しがた、こちらの方を、知り合いと見間違えてしまって……」

「見間違いぃ? ジン君とぉ?」

 カサイはケイナの話を聞くと、一度怪訝そうに眉を寄せたが、瞬時に、にへら、と目を細めて愉快そうな笑みを浮かべて噴き出した。

「ブフッ! ジン君と見間違えるとか! 言っちゃあ悪いけど、えと、ケイナちゃん! そのお友達は、随分目つきの悪い男女なんだねぇ! 哀れだ可哀そうだ! 女に生まれといてこんな色気のない地平線胸なんてなぁ!」

「……」

 げひゃげひゃと腹を抱えて笑いながら、カサイはジンに対して『遠慮』をまるで知らないかのような言葉を並べた。

 確かに、ジンは一見したら男性に見間違えても可笑しくない容姿ではあるが、そんなに涙を浮かべて笑うほど面白い事でもない。ケイナは、爆笑するカサイと、彼の笑い声をまるで気にもしていないような無表情で、寧ろ呆れ果てたようなため息を零すジンに挟まれて、慌ててフォローするようにクチを開いた。

「そ、そうじゃなくて……。私、が人違いを起こしたのは、女性じゃなくて男性で……」

「男っ!! ヒーッヒヒヒヒヒ!! ついに野郎と間違われるとはねぇ! ジンくーん、もー豊胸手術受けなよー。女の子はおっぱいあってナンボよ?」

 どうやら、良かれと思って放ったケイナのフォローは完全なる逆効果となって働いてしまったようだ。さらに笑い声を大にして高らかに言うと、カサイはジンの肩にがしりと腕を回して片眉を吊り上げて問いかける。その瞬間、沈黙していた防毒マスクの中から小さな舌打ちが漏れた。


「黙れ。いい加減その下品なクチを閉じないと舌を引き千切って殺すぞ」


 我関せず、とばかりに沈黙していたジンも、カサイの遠慮無しの言動と行動に苛立ったようで、切れ長の鋭い瞳でじろりとカサイを睨みつけた。自分が睨まれているわけではなかったが、飛ぶ鳥さえ射殺さんばかりのジンの眼光に、ケイナも人知れずびくりと身体を震わせた。


 二人の関係性は、今のケイナに推し量れるところではないが、やたらとテンションの高いカサイと頑なに仏頂面を守っているジンが、一体どうしたらこんな賑やかな祭典の最中、肩を並べて街道を歩けるのかわからなかった。


「うひひ……、おー怖い怖い。ところでさぁ、ケイナちゃん。君、一人なの?」

 にたり、と笑みを浮かべた後、カサイは今度は、ニッコリと人当たりの良さそうな柔らかな笑みを浮かべて、下から覗き込むようにしてケイナを見た。ジンが一瞬、面倒くさそうな視線を空中に向けたのに気づかずに、ケイナは何も考えずにカサイの問いに素直に答える。

「あ、はい。本当は今日も悪い人を追いかけようと思ってたんですけど、お祭りが楽しそうだったからつい出てきちゃって……」

「悪い人? ケイナちゃん、婦警さんか何か?」

「い、いえ。ダメダメの、賞金稼ぎです」

 ケイナが答えると、目の前のカサイの目が驚いたように少しだけ見開かれた。

 そりゃあ、驚きもするだろう。とケイナは思う。賞金稼ぎという職は、全うな職にありつけなかったならず者がなるものだと言う認識が、きわめて強いのだから。

 いきなり自分をならず者だとカミングアウトするのだ。驚かれて当然である。

「へぇ、驚いたな。ケイナちゃんみたいな若い子が。なんか事情でもあんの?」

「カサイ」

 初対面にも関わらず、無遠慮な質問を投げかけてくるカサイを、ジンがとがめる。しかしケイナは、苦笑交じりに首を横に振った。

「いえ、実は、私、シティコンプレックスだったんです。最近立ち直ることができて。弱い自分を帰るために、賞金稼ぎをしているんです」

 その道は、決して上手くいっているとは言いがたいが。ケイナは心の中で呟いて付け足した。

 そう答えたケイナに、カサイはやはり驚いたような顔のまま、しかし感心したような声で頷いて腕を組んだ。

「そっかぁ……。若いのに大変だねぇ。いやぁ、俺が養ってあげれれば、絶対そんな苦労は……」

「そろそろ行くぞ」

 しみじみとして頷きながら、何やら意味ありげな含み笑いを携えてわけのわからないことを言い出したカサイの肩をどついて、ジンが面倒くさそうなため息をついて歩き出した。

 ジンに肩をどつかれ、少しだけよろめいたカサイは、歩き出したジンの背中に不満げな視線を向けて文句を言う。

「えー、いいじゃんよー。もーちょっとケイナちゃんのこと詳しく知りたいしー」

「語尾を伸ばすなうっとおしい。さっさとしろ。まだ仕事が残ってる」

 舌打ち交じりにジンに睨まれると、カサイは不満げな顔に落胆の色を浮かべてがっくりと肩を落とした。

 どうやら、彼らの会話から察するに、二人は仕事仲間の様だ。それならば、妙に相性の合わなそうな二人が祭事の真ん中で肩を並べている事にもケイナは納得できた。

「あ、お仕事の途中だったんですね。ご、ごめんなさい。なんか、変に引きとめてしまって」

 ケイナは慌てて言って、半歩退いて頭を下げた。そんな彼女を見て、カサイの笑い声が愉快に響く。

「ははは、気にしなさんな、ケイナちゃん。大した仕事じゃないからね。あ、そうだ」

 陽気な声音で言いながら、ステップを踏む様にカサイは街道に躍り出ると、帽子のツバをちょいと摘まみ上げてケイナを見る。

 紫色の、緩んだ相貌に捕らわれて、ケイナは不意にゾッとした。

 明るく、おちゃらけた言動と行動とは裏腹に、カサイの瞳は、泥の混ざった雨水の様に暗く淀んでいたのだ。深く、底の見えない泥沼の様な瞳。捕らわれたら、抜け出す事の出来ない様なドロドロと身体に纏わりついて来るような視線。クチ元は、だらしのない気の抜けた様な笑みを浮かべているのに、その紫の双眸だけが、濁って不気味な色に光っていた。

「夕時には、気をつけなさい。今日は、早めに宿に帰る事をお勧めするよ」

「……えっ」

 カサイの瞳に、言い知れぬ恐怖を感じていたケイナは、先の台詞に続いて放たれた彼の言葉の意味がすぐに飲みこめず、間の抜けた声を上げる。

 カサイは、そんな彼女の様子を見て楽しげに笑うと、再びハンチングを深く被り直してくるりと踵を返した。その背中を、ジンが睨む。

「あ、あの! 気をつけろって……、それってどういう……」

 意味深な言葉を残して街道の人ごみに紛れようと足を踏み出したカサイを見て、その背中にケイナが慌てて声を掛ける。

 しかし、ケイナに背を向けたカサイは、ケイナの声を制するかのように片手を上げてちらりと視線をケイナに向けた。

 帽子のツバの陰から、どろりとした瞳が覗き、にんまりと笑ってヒラヒラと手を振る。

「じゃあな、お嬢ちゃん。生きてたらまた会おうじゃないの」

「……」

 先程までと同じような軽い口調で言いながら、カサイは雑踏の中へと溶け込み、無言の視線をケイナに向けたジンもその後に続いた。

 その言葉は、一体どういう意味なのだろう。生きていたら、とは、気をつけて、とは。何か、危険なことでも起きると言うのだろうか。今日の、夕時に?

「おい、カサイ」

「いいじゃないの。笑かしてくれたんだから。ちょっとしたお礼」

「……」

 低い声で、カサイを咎める様に言うジンに、カサイは先程までと同様の軽い調子で笑みを浮かべながら答えた。

 歩み出したカサイとジンが、そんな会話を交わしているなど露知らず、まったくわけのわからない、謎の二人が放った言葉を頭の中で巡らせながら、路地の入口で呆けたように立ちつくすケイナは目を丸くして、カサイとジンが人混みの中に紛れて行くのを、見つめていた。



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