5
*
診察時間が過ぎた診療所は、メトロの夕闇も混じって酷く静かだった。受付の看護師はすでに帰宅したのか、待合室は暗く、人気も無い。
様子が可笑しい。診察時間が終了しているとはいえ、静かすぎる。看護師が返った後は、ミコトはエドガーと談笑しているはずなのだ。その様子も無い。
カナメは、嫌な予感を振り払う様に頭を振って、待合室の奥へと進むと、ミコトの病室に向かって真っ直ぐに歩いた。通路にも明かりは点いておらず、病室も、照明がついている様子はない。
ミコトの病室にたどり着くと、カナメは緊張で心臓の音を耳元で聞きながら、ごくりと生唾を呑んで病室の扉に手を掛ける。そして、逸る気持ちを押さえて、ゆっくりとドアを開けた。
「……」
並べられた花瓶とプランター、締め切られた窓と夕焼けを透かす白いカーテン。暗い病室のベッドの上には、白い顔をしたミコトが静かに横たわっていた。
「……麻酔で眠っているだけだ。心配無い、朝になれば目覚める」
そっと、ミコトのベッドに歩み寄ったカナメの背後から、低い声が響いた。カナメが反射的に振り返ると、そこには暗い表情をしたエドガー医師が、後ろ手を組んで俯きがちに立っていた。
「先生…! 貴方は…!」
「やはり、ダメだったか。街のゴロツキなんぞでは君は止められなかった」
エドガーが溜息交じりに言うのを聞いて、カナメは煮えたぎる様な怒りを覚えた。
「そんなことはどうでもいい! ミコトさんの治療費を、ギャングたちに流したって言うのは本当なのか!?」
「……」
カナメの問いに、エドガーは沈黙で以て肯定した。カナメの頭に、カッと血が上る。
「ミコトさんのお兄さんが送った金は、ミコトさんの治療をする為だけの物だ! アンタが勝手にして良いものじゃない! それどころか、アンタは金欲しさにミコトさんとお兄さんを会わせないつもりなのか!? ミコトさんはアンタを信じているのに、アンタは彼女を裏切るっていうのか!」
カナメがエドガーを睨みつけながら、強く拳を握りしめて声を荒らげた。
エドガーは、鬱々とした顔に僅かに焦りを浮かべてカナメを見る。その暗い瞳には、迷いと、幾許かの困惑があるように思えた。
「……君の蔑みは何でも聞こう。けれど、一つだけ聞いて欲しい。私は、ミコト君に、彼女の兄と再会させたくないと思ってなど…いないよ」
「じゃぁ…なんで!?」
冷静さの中に、動揺を隠しきれないエドガーは、語尾を震わせて言った。エドガーへの警戒が解けないカナメは、ぎりと奥歯を噛みしめて問う。
「……会えないんだ。彼女は、恐らく、二度と。彼は、もうこの世にはいないんだよ」
「……え…?」
握った拳を僅かに震わせながら、エドガーは思いつめた様に吐き出した。俯く彼の表情はカナメには見えないが、その震える声音は、虚言とは思えないほどに涙で滲んでいた。
「もうずっと、彼からの手紙は来ていないんだ。金も、本当はずっと送られてきていない。ずっと前から、彼からの音沙汰は何も無いんだ」
病室内の空気が、ずしりとカナメの肩に圧し掛かった。
にわかには信じがたいエドガーの告白に、カナメは頭の中が真っ白になった様に何も考えられなくなり、頭の中でエドガーの言葉を再度思い返して、拒絶した。
「嘘だ。だって、手紙はちゃんと来ているじゃないか。今日も、先生がミコトさんに手紙を…」
「あれは、私が彼の筆跡を真似て書いた物だ。その前も、その前もだ。全部、私が彼の代筆をしていたんだよ」
その言葉に、カナメはゾッとする。そして昼間、嬉しそうにエドガーから渡された手紙を読むミコトの顔を思い出した。
あんなにも嬉しそうに笑っていたのだ。兄との唯一の接点だから、と、何の変哲も無い便せんに綴られた手紙を、彼女は兄が寄越した物だと嬉しそうに話していたのだ。
なのに、それが偽物だったなんて。
「そんな…、なんで、そんな事を…! お兄さんを信じて待っているミコトさんを、騙しているっていうのか…? 嘘を、ついているのか…?」
「…今となっては、本当に君の言う通りだ。私は、彼女を騙している。けれど、仕方が無かったんだ…!」
エドガーはそう言って、膝から崩れ落ちる様に頭を抱えてその場に蹲った。
「仕方が無かったんだ…! あの時、彼からの手紙が途絶えた時、ミコト君は丁度快復の兆しが出ていて、精神的にも大きなダメージを負うわけにはいかなかった! とても重い病だったんだ。好くなったのが奇跡の様なものだ! そんな時に、実の兄の不幸の知らせを聞いてみろ。ただ、死んだという知らせだけならまだマシかもしれない。手紙が途絶えたということは、変に考えてしまえばミコト君は、彼に…見捨てられたと言うことにもなり得る」
「……」
カナメは黙りこむ。エドガーが続けた。
「病などは、心の持ちようで簡単に一変する。その時の彼女に、その事実は余りにもショックが大きすぎた。だから私は…筆を取った。彼の代わりに、彼女に宛てて手紙を書いた。前まで同封されていたカセットテープまでは真似できなかったから、いつかばれる日が来るとはわかっていたんだ。でも、嘘の手紙を連ねる内に、私は引っ込みがつかなくなってしまっていた。私の書いた手紙を読んで喜ぶ彼女に、真実を打ち明ける事が怖くなってしまっていた…」
自分が書いた手紙をミコトに渡す時、エドガーはどんな気持ちだったのだろうと、カナメは考えた。
正確にはわからないが、きっととても苦しかったのだろうと、懺悔するエドガーの声を聞きながら思った。
真実を知り、ダメだとわかっていても、一度ついた嘘は消せはしない。嘘は嘘によってしか繕えない。それを重ねていくうちで、エドガーは何度、泣きたくなるほど苦しい思いをしたのだろう。
それを考えると、カナメは自然と、喉が圧迫された様な苦しさを感じた。
ミコトが寂しそうだ、と思った時と同じ様に、心が寒くなった。
「…本当は、ミコト君は、もう完治しているんだ。でも、自分が好くなったと知ったら、彼女は兄を探しに行くだろう。何処にもいない兄を。いたとしても、きっと彼は彼女の事など…」
エドガーは、消え入るような声で呟いた。後悔の念だけを心に抱きながら、頭を垂れる様に病室に蹲るエドガーの姿は、痛々しくも悲しかった。
「先生、もう一つだけ聞きたい。なんで先生は、そうまでしてミコトさんを…?」
身の裂ける様な思いだっただろう。一人の医師である彼に、ミコトに対してどんな気持ちがあったのだろうか。
カナメの問いに、エドガーは僅かに顔を上げて答えた。
「…ミコト君の兄妹は、昔からの馴染みでね。彼らの親とは医師仲間だったんだ。二人が成長する姿を、両親と同じ位置から見て来た。だから、息子娘も同然なんだよ」
「……そうか」
カナメは、今自分がどんな顔をして頷いたのか、まるでわからなかった。
ただ、握りしめた拳がやけに熱く、噛みしめた唇から、生温い鉄の味がじんわりと広がった事だけが、生々と感じられた。
*
夜のメトロは、昼間以上に荒んだ風が住民たちの頬を撫ぜる。
眼下に浮かぶ街灯の光は、虫が寄りついて小まめに点滅しており、チカチカとした白い光が目に痛い。
通りには、人一人すらいなかった。人々は、郊外に住まうクリーチャー達の影に怯え、ギャングすらも夜のメトロでは外出を控える。
廃墟となったビルの立ち並ぶ雑居街の、とあるビルの屋上で、乾いた風に吹かれながら錆びたフェンスの上に腰かけて、荒れた街並みを見下ろしているカナメの姿を、ツキシマは漸くの思いで見つけた。
「誰かの為に動いたのに、その人の為にならない事って、あるんだね。変な話だ」
背後のツキシマの気配に気がついて、カナメはフェンスの上で片膝を抱えながら、苦笑する様に言った。
ツキシマは、そんなカナメの横に歩み寄る。自分もフェンスに登ってみようと思ったが、思っていた以上にフェンスが錆びていたのでやめておいた。
「先生は、ミコトさんの為を想って嘘の手紙を出した。なのに今は、その手紙の存在は、先生が彼女を裏切った証でしか無い。変だそんなの。可笑しい。先生は、ミコトさんの為に行動したんだ。嘘や騙りなんて、ましてや裏切るなんて事をしたわけじゃないのに。どうしてそうなってしまったんだろう」
「……」
それは、正しく真っ直ぐに生きている人たちが、悪によって蹂躙される姿に似ていた。カナメが、最も嫌悪すべきことだった。
しかし今回、カナメが拳を向ける相手など存在しない。誰に何を言っても、正しい事をした人が傷付く事になってしまう。とても、可笑しな話だった。
「先生から、手紙を受け取ったよ。僕に真実を知られてしまったら、もう隠し通す気はないって。どんな蔑みの言葉も受けるって。本当の事を、ミコトさんに話してもいいって」
そう言ってカナメは、懐から白い便箋を取り出してツキシマに見せた。
エドガーは、カナメに手紙を託したのだった。カナメの知る真実をどうするかも、彼の自由だと。その意思としてミコトに渡すはずの、一番新しい『兄からの手紙』を彼に託した。
もしかしたら、漸く吐き出せた懺悔の言葉に揺さぶられて、嘘をつく役をカナメに押しつけただけなのかもしれない。
しかし、そんな事は問題では無い。真実を知った今、カナメにも、その事実をどうするか、選ぶ義務があるのだ。
「僕は、どうしたらいいんだろう。本当の事を言えば、ミコトさんはすごく、悲しい思いをすることになる。今まで嘘を重ねて来た先生の、ミコトさんへの想いも砕け散ってしまう。でも僕は、ミコトさんに嘘をつきたくない」
いずれにせよ、ミコトはいずれ、真実を知る事になる。しかし、もっと他の形で真実を知る機会があるのではないだろうか、と希望を抱いてしまう。もっと、時間が経った後でもいいのではないか、せめて、ミコトが一人で生きていける様になるまで待つとか、そんな風に、現実から逃れたくなってしまう。
そんな淡い希望を抱くと、今ここで、彼女に真実を打ち明ける事が正しい事なのか、わからなくなるのだ。
俯くカナメを、ツキシマは音の無い防毒マスクの内側からじっと見つめた。そして意を決すると、錆びたフェンスに足を掛けて、不安定にユラユラと揺れながら登り切り、慎重に金具の上に腰を下ろす。
揺れるフェンスの上でも、体勢を崩さずに片膝を抱えて座り続けるカナメは、突然フェンスの上に登って来たツキシマに怪訝そうな顔を向けた。
「ツキシマ?」
「……」
自分を見上げるカナメに、ツキシマは無言のまま彼のヘルメットに片手を乗せて、何度か緩く叩いた。ペンペン、と間の抜けた音がして、浅めに被っていたカナメのヘルメットが目深にズレる。
「うわっ! 何するんだツキシマっ」
「……」
ヘルメットを被りなおして、顔をしかめるカナメの肩を叩いて、ツキシマは今度はビルの下を指差した。
ツキシマの指差す方向を見てみると、覆面を被った数人の男たちが、銃や刃物を持ってビルの一階にテナントを設けている質屋の様子を覗っているのが見えた。
どう見ても、強盗である。命知らずのギャングたちが、金の臭いを嗅ぎつけて蠢いているのだ。
「強盗だ! 質屋を襲う気か!?」
そう言って、カナメは勢い良くフェンスの上で立ち上がり、眼下の強盗たちを睨みつけて、そしてはたと気がついた。
はて、今ここで、強盗たちが憎らしいと思った自分は、一体何なんだろう。
それは、悲しむ人が産まれない様にする為に必要なモノだ。平和を守る存在、ヒーロー、のはずだ。
罪の無い人が悲しむのが嫌いだ。苦しむのが嫌いだ。だからカナメは、人を苦しめる悪を根絶やしにしてやるのだ。それは、どんな想いよりも彼の根底に根を張る願望だった。その為なら、何だって捨てられる。
人を悲しませる悪があるならば、それは全部ヒーローが打ち砕けばいい。どんな凶悪なモノだって、怖がらずにぶち壊してやればいい。
世界中の悪を任せてくれれば、それでいいのだ。
「あ…はっ…。そっか。僕は、ヒーローだったんだ。そしたら、やることは決まってるんだよね」
立ち上がったカナメは、噴き出したように笑う。そして機嫌良くくるりとツキシマの方を向いて、ニッコリと吹っ切れた様な笑みを見せた。
「僕は、人が悲しむのが嫌だ。ミコトさんにも先生にも、二人に笑ってもらいたいんだ。苦しい思いをしてほしくない。なら、全部僕が請け負えばいいよね。だって僕は、ヒーローなんだから。悲しみや苦しみを与える『悪』は、全部僕に任せてくれればいいんだ」
簡単なことだ。カナメは、二人の笑顔が見たいだけ。だから、やることは決まっているのだ。考える、までもない。
「ありがとうツキシマ。君のおかげで気が付けた」
カナメが言うと、ツキシマは、わけがわからない、とでも言う様に小首を傾げる。
それを見てカナメは、手にしていた手紙を懐にしまうと、酷く嬉しそうな笑みを浮かべて宙に一歩踏み出した。わからなくてもいいのだ。殆ど、自己完結した様なものだから。
カナメが重心を前に移動させると、身体が斜めに傾いて、呆気に取られているツキシマを残し、乾いた風に身を任せる様にカナメはビルのフェンスを蹴って宙に飛び上がった。
そして彼は厚い雲の隙間から差し込む月明かりの中に溶けて行った。
**
カナメは、その選択肢は、たぶん間違ったものなのだろうと、ぼんやりと気づいていた。
誰かのためと銘打っておきながらも、それは嘘でしかないのだ。いくら綺麗事を並べても、嘘は嘘でしかない。人が、どんな涙なしでは語れない様な理由をつけて悪事を働こうとも、それが悪事でしかない限り、その人間は悪党でしかないのと一緒だ。
嘘をつくのは、ずるくて臆病な悪人だけだと思っていた。だから嘘をつくのはとても嫌だが、それ以上に、誰かが悲しむ事の方が、ずっと嫌だったのである。
思っていた以上に、自分が臆病で卑怯で、カナメは自分自身に失望した。
「それで、私も慌ててカナメさんを追いかけようとして、気を失っちゃったみたいなんです。それから今日の朝までずっと眠っていて…、ふふ、恥ずかしい話ですよね」
夕暮れ時、ミコトの診察が終わる頃合いを見計らって診療所を訪れたカナメは、いつものように明るい声を上げて笑うミコトの話を、可笑しそうに笑って聞いた。
「あはは、でも僕も早とちりしてたし、ミコトさんのこと笑えないか。お兄さんの写真でもあれば探しに行けるんだけど」
「写真は…ありますけど…。でもカナメさん、どうか兄を探しに行こうだなんて思わないでください。せっかく出来たお友達に遠くに行かれるのは、やはり寂しいんです」
視線を逸らしながら、言いにくそうに言葉をつぐむミコトの声を聞いて、カナメは驚いたように目を丸くした。
真実がどうであれ、ミコトの兄を探したいという気持ちに変わりがなかったカナメだが、ミコト自身がそんな風に思っていたとは全く気が付かなかった。友人として、ミコトはカナメを心配してくれていたのだ。そんな彼女の好意が、カナメの胸に罪悪感となって降りかかる。
「そう…か。ミコトさんがそう言うんじゃ、そうしようかな」
「…! はい! お願いしますね」
にっこりと、嬉しそうな微笑みを浮かべるミコトに、カナメは全身を細い針で刺されたような、ずくりとした痛みを感じて言葉に詰まった。
そんなカナメの心中など気が付かず、ミコトは続ける。
「兄さんなら、きっと大丈夫です。手紙は毎日のように来ていますし、元気でやっています。私は信じていますから」
「…あ……」
手紙を、渡さなければ。
遠くの地にいる兄に想いを馳せながらそう語るミコトに、カナメは懐の中の白い封筒に手を伸ばして、一瞬たじろいだ。
本当に、渡してしまっていいのだろうか。ミコトは真実を知らないままでも、本当にいいのだろうか。それでいいと、頭の中で何度も自分に言い聞かせたのだが、身体が言うことを聞かない。
手紙を掴もうとする手が、ぎこちなく揺れ、喉が渇いて言葉が出なくなる。迷いが全身を駆け巡る。
「あら? それは、兄さんからの手紙ですか? カナメさん、先生から預かってくださったんですか?」
カナメが取り出しかけた、見覚えのある白い封筒に、ミコトは反応して驚きの声を上げた。
手紙が見つかってしまったカナメは焦る。ミコトに変に怪しまれてしまうわけにはいかない。渡すならば、自然に彼女の手に渡さなくてはならない。
カナメは、一瞬だけかたく目を閉じ、ごくりと唾をのんだ。
「これ、先生から預かってたんだ。ミコトさんに、渡してくれるようにって。ついさっき、届いたらしくて…」
「まぁ! ありがとうございます!」
にっこりと微笑んだカナメが差し出した手紙に、ミコトはすぐさま飛びつくと、封を丁寧にあけて中身を確認する。
昨日と同じ、白い便せん。きっと、内容はそう変わらないのだろう。エドガーが、ミコトを心配させまいとして書いた手紙なのだ。難の無い内容に決まっている。
一通り読み終えたミコトは、嬉しそうに微笑みながら顔を上げた。
「兄さん、字が間違ってます。見てください、ほらここ」
ミコトが見せる手紙を覗きこみ、カナメが頷いた。
「あ、本当だ」
「急いで書いたのでしょうね。いつもより字が汚いです。ただでさえ汚いのに」
「あはは、僕のがもっと汚いよ」
「そうなんですか? じゃあ今度、練習しましょう。字は綺麗な方が良いです」
「そうかな? 考えたこと無かったよ」
「……カナメさん?」
「……ん?」
「どうして、泣いているんですか?」
顔を上げたミコトの瞳が、真っ直ぐにカナメを映した。
カナメは、彼女の言葉に驚いて、彼女の澄んだ瞳に視線を向ける。黒曜石を思わせる、少女の大きな瞳には、驚いたような顔をして両眼から涙を流しているカナメ自身の姿が映っていた。
「あ、れ? あ、あはは、目にゴミが、目にゴミが入ったんだ! さっきから痛くって、それで……」
「カナメさん」
両手で慌てて目をこすり、言い繕うように早口で言うカナメに、ミコトは無感情な声で静かに声をかけた。
真っ直ぐにカナメを見つめるミコトの表情は真剣で、ゾッとするような冷たい顔であったが、一瞬の後にその顔は一変して、どうしたらいいのかな、と困ったような、仕方がないな、と呆れたような苦笑を浮かべた。
「カナメさんは、嘘をつくのが本当に下手ですね」
小首を傾げてそう言ったミコトの言葉を聞いて、カナメは、胸の内から溢れ出るのを止められない湧水のように、感情がせり上がってくるのを感じた。
彼女が、どんな気持ちでそう言ったのは分からない。どんな意図があって、その言葉をクチにしたのかもわからない。けれど、それを聞いてしまっては、カナメは彼女に真実を黙っているわけにはいかなかった。
「……っ、ごめ…ごめん。ミコトさん…。僕は…君に嘘をついた」
「……」
はたはたと、頬を伝って生温い涙が、膝の上の拳に零れ落ちた。
ヒーローは、いつでも笑っていなくてはいけないのだ。そうでないと、悲しい表情を見せたら、人々が不安になってしまうから。しかし、カナメの涙は止まらない。こんなに悔しくて悲しいことが、あっていいはずないのにと考えると、涙が一層溢れてくるのだ。
「その手紙、書いたのは先生なんだ。昨日のも、その前の手紙も…。ミコトさんのお兄さんからの手紙は、長いこと届いてないって…。もしかしたら、お兄さんはもう…亡くなっているのかもしれないって」
溢れ出る涙を拭いながら、真実を語るカナメの言葉に、ミコトは真剣なまなざしのまま無言で耳を傾けた。
「本当は、先生も、何度も本当のことを言おうとしたんだ。でも、ミコトさんを悲しませたくなくて、言えなくて、だから、先生は全部悪いってわけじゃないんだ。ずっと、隠してたけど、それは本当はミコトさんを思ってのことで……」
けれど、それはミコトを裏切ったこと以外の何でもなくて。それは、カナメ自身も同じで。
可笑しな話だった。エドガーも、カナメも、ミコトのことを想っていたのに、実際行ったことはミコトを悲しませる行為でしかなかったのだ。
そんな理不尽を、どう伝えたらいいのかもわからず、どうすれば、正しくミコトに伝わるのかもわからず、どんな言葉が、兄を失ったと知ったミコトを勇気づける言葉になるかもわからず、言葉にならない想いが氾濫したカナメの頭の中は、ぐるぐると回って結論を出せずに、代わりに涙となって零れ落ちた。
「ごめん、大事なことなのに…、ミコトさんに真っ先に知らせなきゃいけないことだったのに、僕は言えなかった。それどころか、嘘をついてミコトさんを騙そうとしたんだ…。嘘はばれる、ダメだなんて言っておいて、僕が嘘つきになった。本当に…、ごめん…なさい」
「……」
俯いて、両手で顔を抑えるカナメには、今ミコトがどんな顔をしているかわからなかった。
悲しみに肩を震わせているだろうか。怒りに唇を噛みしめているだろうか。どちらにせよ、自分がミコトに何か言葉を掛ける権利など無いのだと、カナメは感じた。
「……そうですか。兄は…、死にましたか」
窓から入りこむ風に溶けてしまいそうなほど、小さくミコトは呟いた。
しかし次の瞬間、不意に、自分の涙で濡れる掌が、何か温かいものに包まれるのを、カナメは感じた。
「どうか、自分を責めないでください。先生もカナメさんも、私を想って嘘をついてくれたのでしょう? ならそれはただの嘘じゃなくて、優しい嘘です。悪い事なんかじゃない」
カナメの手を取って言うミコトは、目を細めて優しく微笑んだ。
カナメは、予想外の彼女の表情に驚いて、赤く腫れた目を丸くする。
「なんとなく、気付いてはいたんです。兄さんは、私に自分の創った音楽を聞かせるのがとても好きだったのに、長いことそれが無かったから。筆跡も、昔の手紙と見比べるとちょっと違ってて。気にはなっていたんです。でも、先生にそれを確かめることはできなかった。本当の事を知るのが、怖くて堪らなかったから」
微笑みを浮かべたミコトは、僅かに俯いてカナメの手を握る力を強めながら言った。
当然である。唯一の肉親の悲報など、誰が聞きたいものだろうか。絶望から目を逸らそうとするのは、人として当たり前なのだ。
「だから、ありがとうございます。本当の事を言ってくれて。私の事を想ってくれて、ありがとうございます。真実を知って、辛かったと思います。苦しかったと思います。でも、カナメさんがいなかったら、ずっと私は、真実から目を逸らし続けていました。無理矢理にでも、前を向けて、良かったんです」
そう言い切ったミコトは、額に眉を寄せ、目尻にじわりと涙をためると、掴んでいたカナメの手を引いて、カナメの肩に顔を埋める様にして彼に抱きついた。
「……っ!」
一瞬の出来事に、カナメが驚く。しかしその驚愕も、一瞬で切なさに変わった。耳元で、しゃくりあげる様な静かなミコトの泣き声が、空気を震わせたのである。
「…っ…でも、ごめんなさい」
カナメを抱きしめるミコトの手は、悲しみに震えながら彼の色褪せたマントを掴む。ミコトの震えは全身から伝わった。その悲痛さに、カナメは悲しげに顔をしかめた。
「少しだけ、少しだけ……泣かせてください」
目の前で、人が泣くのが嫌だった。人が苦しんでいるのを見るのが堪らなく嫌いだった。
けれど、こうして目の前で、大切な人が悲しみに涙を流している。悲しむ様な事なんてしていないはずの人が、理不尽な世界に嘆いている。
こんな人が産まれない様に、拳を振り上げたカナメであったのに、本当に守りたいと思った人すら悲しみから守れない自分は、一体何なのだろうと、カナメはミコトの肩を支えながら、涙を堪え、血が滲むほどに唇を噛みしめて、思った。
「子供は、どうしてか、強いなぁ…」
ミコトの病室の外で、一人の医師が頭を抱えながら、震える声音で言葉を絞り出した。
通路の壁を背に、カナメとミコトのやり取りを聞いていたツキシマは、声を押し殺して言うエドガーに視線を向ける。
「いいや、強いだけではない、か。傷付きやすいはずなのに、弱いはずなのに、子供はどうして、強く見えてしまう。歳を取った私自身が、弱すぎるのかも知れん」
どうだろう、と、ツキシマは首を傾げる。
彼らは、強いとか弱いとか以前に、まだ知らないだけなのではないだろうか。知らないから、きっとどんなことでも許せてしまう。どんなことも嬉しくて、悲しい事になり得る。知っているようで知らないのだ。真っ白ではないだろうが、彼らの形は、まだ形成の途中段階でしか無いのだ。
形が出来上がった後、どんな人間になるか。成長した後、改めて彼女がエドガーを許せるかどうかは、未だわからない、とツキシマは思う
「それに比べて、大人はずるい。結局私は、彼に苦しみを押しつけてしまっただけなのだから」
「……」
ツキシマは沈黙した。きっと、声があっても黙っていたことだろう。
「私はこれから二度と、彼らに頭が上がらないな」
苦笑交じりでエドガーは言った。
安心した様な、ホッとした様な、重荷がようやく溶けた様な彼の安堵の溜息は、地平線に沈む夕日の様に、ゆっくりと沈んで行った。
**
「ひひひ…。大漁大漁」
数日後、いつものように何の前触れも無く、喫茶店『Arms』に現れたカグラは、ニヤニヤと嬉しそうな笑みを浮かべながらツキシマ達のいる窓際の席に歩み寄ってきた。
「うひひ、ありがとーツキシマ。アンタの情報のお陰で報奨金たーんまり貰えたわ。しばらくは遊んで暮らせそうよ。ふふふふふ」
「……」
妙にご機嫌なカグラは、窓際で本を読んでいるツキシマの後ろに回ると、彼女なりの感謝の気持ちの表れなのか、ツキシマのフードの上から両手で頭をぐしゃぐしゃとやって陽気に言う。
「何だぁ? ツキシマのお陰って。なんかしたのか」
「最近流行ってた貧乏人カツアゲ事件の情報提供よ。ツキシマが教えてくれた場所に行ったら、ノコノコ馬鹿共が集まって来たわ。待ち伏せしてた私が一網打尽よ。もー、笑いがこみあげてくるわ」
「お前、自分じゃやんねぇのな」
ヨツヤが、迷惑そうにカグラの手を振り払うツキシマを横目で見て言った。
その声にツキシマは答えないまま、素知らぬフリで再び文庫本の文面に視線を走らせる。気まぐれなんだか意図があったんだか、ヨツヤには計り知れない。
「いいなーカグりんたのしそーで。タツミは全然楽しくないのだー」
ごろんと、テーブルの上に頭を乗せて、数日前から憂鬱続きのタツミが唇を尖らせて言った。
それを見てツキシマは、はたと思いだす。そういえば、ここら辺の解決がまだだったのだ。
「あらら? またどっか行くの?」
読んでいた本を閉じて、すくっと立ち上がったツキシマに、カグラは驚いて声を上げる。
ツキシマは立ち上がって通路に出ると、ぐだっていたタツミの頭をコツコツと叩いて呼んだ。
「ん? んー? タツミは今日もだるいんだー! ツッキーの相手してる場合じゃないの!」
「……」
ぐだったまま、何やら喚きだすタツミを見て、ツキシマは無言のままタツミを見下ろすと、次の瞬間、彼女の首根っこを掴んで軽々と持ち上げた。
「わわっ! なんだなんだ! 謎の飛行物体につれさらわれる!」
「……」
急に宙に浮いた自分に驚くタツミの喚きなど全く気にせず、ツキシマは暴れる猫を持ちあげる様にタツミを掴んだまま、スタスタと喫茶店の出口に向かって歩き出した。
*
「ミコトさん! 退院おめでとう!」
満面の笑みを浮かべたカナメが、寝具もカーテンも綺麗に片付けられた病室で、白いワンピースに紺色のカーディガンをはおったミコトに色とりどりの大きな花束を渡すのを見て、その場にいたエドガーと看護師は驚いて目を丸くした。
「まぁ、ありがとうございます! 大きな花束ですね、どうなさったんですか?」
「花屋で買って来たよ! 退院祝いだっていったら、見繕ってくれたんだ! ミコトさんには白が似合うと思って、白い花を多めにって」
「まぁ…、ふふ。嬉しいです」
大きな花束を抱えて、ミコトは嬉しそうに笑った。喜んでもらえた様で、カナメも満足げに頷く。
「ミコトさんは、これからどうするんだい? メトロに出たら、色んな生き方があると思うけど…。ええと、その、良かったら僕と……」
「はい。私、この診療所で看護師見習いをしようと思っています。先生には、大変お世話になりましたし。幸い、人よりも少しは医療の知識があると思うので!」
「あー……、そっか」
にっこりと満面の笑みで即答され、カナメは、苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
彼が何を言いかけたのか、今となっては本人しか知りえない事だが、張り切っているミコトを見てしまっては、カナメの望みなど靄の様に消してしまった方が良いだろう。
「ミコトさんなら、きっといい看護婦さんになれるよ。頑張って!」
「はい! でもまずは、カナメさんに街を案内してもらってからですね」
それを聞いて、カナメとミコトはクスリと笑いあった。
つい先日、涙が枯れるまで泣いていたのに、今の彼女の顔には一点の曇りも無かった。初めてカナメと出遭った時の様な、眩しい笑みを浮かべるミコトに、カナメは嬉しげにはにかむ。
ミコトの笑顔には、もう悲しみの色は残っていない。忘れてしまうことは決してないだろうが、今、こうして明るく笑ってくれる彼女がいることが、カナメには嬉しくて仕方なかった。
病室に笑い声があがると、部屋のドアが数回ノックされ、がちゃりという金属音と共に扉が開いた。
「あ、ツキシマ! ツキシマもミコトさんの退院祝いに?」
カナメが振り返ると、見慣れたフードの防毒マスクが部屋の入口に立っていた。
ツキシマは、一通りエドガー達に挨拶をすると、カナメの傍に歩み寄る。
「今日は、来てくださってありがとうございます。その節は…大変お世話になった様で…」
「……」
ミコトは仰々しく頭を下げた。数日前の事を言っているのだろうが、実際あの件に関してツキシマは何もしていないので、慌てたように首を横に振った。
そして、ツキシマもミコトにお祝いの品を渡そうとして、ハッとする。先程まで横を歩いていた小さな影が、病室に入るなり忽然と姿を消してしまったのだ。
「…!」
「?」
慌てたように病室を飛び出すツキシマに、カナメとミコトは首を傾げる。
ツキシマが病室のドアから通路を覗くと、険しい顔をした少女がフルーツバスケットを抱えて棒立ちになっていたので、ツキシマは困った様に溜息をついてそのタツミの手を引いた。
「うぁー! やだやだ! 知らない人と喋ったらだめって前せんせーにならったー!」
「……!」
喚くタツミを、無理矢理病室の中に引っ張り込んできたツキシマに、ミコト達は怪訝そうに顔を見合わせる。
「あれ? タツミじゃないか。タツミもお祝いに?」
「うっ…」
タツミの存在に気付いたカナメに問われて、タツミは顔をしかめるとフルーツバスケットを抱えたまま慌ててツキシマの背後に隠れる。
人見知りをする、と言うわけではないと思うのだが、どうもタツミは、初対面であるはずのミコトに苦手意識があるようだった。
「カナメさんの、お友達ですか? 私はミコトと言います。宜しくお願いしますね」
「……」
ツキシマの後ろに隠れるタツミに視線を合わせる様に姿勢を低くして、微笑みを浮かべて挨拶するミコトを、タツミは様子を覗う様に見上げる。
そして、しばらくにらめっこをした後、そっとツキシマの陰から出てきて、おずおずと抱えていたフルーツバスケットをミコトに差し出した。
「ぁ…う…、たいいん、オメデト、ございます…」
「…! ありがとうございます!」
たどたどしく言うタツミからバスケットを受け取って、ミコトはとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
そんな素直な笑顔を向けられて、気恥ずかしくなったタツミは珍しく顔を赤くして、慌ててツキシマのコートの中に隠れる。
そんな彼女を見て、ミコト達は微笑ましげに笑った。慣れたわけではなさそうだが、タツミも一つ、壁を越えられた様な気がする。ツキシマは少しだけ安心した。
窓辺に置かれた花瓶やプランターに咲いた花が、薄い太陽の光にあたって水滴を反射する。まるで園芸園の様に咲き誇った花は、ミコトの退院を祝福する様に、キラキラと輝いていた。
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