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しまった、きちんと道順を覚えておくんだった。と、カナメが後悔したのは、勢い良く『Arms』を飛び出して、頭の中では先程パンをくれた少女でいっぱいにしながら走り、見覚えのある様な、無い様な、漠然とした記憶の下路地を曲がった先での出来事だった。
サースメトロに来て日は浅い。だが、地理はなんとなく覚えている。頭では無く身体が。しかし、今日一回だけ、しかも偶然行きついた先の場所など、カナメが覚えているはずも無かった。
しかも、辿り着いた時は空腹で意識が朦朧としていて、帰りは少女に出会った興奮で、全速力で『Arms』に向かったのだ。これで覚えている方が可笑しい。
仕方なしに、カナメは一輪の花が生けられた花瓶を抱えて路地を彷徨った。
「あ」
ふと冷静に、自分の手におさまっている花瓶を見つめて、カナメはふと気が付いた。
そういえば、勝手に喫茶店から花瓶を持ってきてしまっていた。後でマスターに謝らないといけない。テーブルに飾ってあったから、店の装飾品だったかもしれないのだ。悪い事をしてしまった。
反省はするも、彼は自分が、いつも以上に周りが見えていない事に気付いていなかった。
何故こうも落ち着かないのか。何故あの子のことを考えると、街中を全速力で走りまわりたい衝動に駆られるのか。どうしてそうなるのか。カナメは疑問にすら思わなかったし、気にもならなかった。
ただ単に、気持ちが膨れ上がるのだ。抑えきれない感情が、わっと身体の中に溢れて、他の事などどうでもよくなってしまうのだ。
「あら、カナメさん?」
花瓶を見つめながら、はにかみ笑いを浮かべて路地を彷徨っていたカナメの耳に、聞き覚えのある高い少女の声が聞こえた。
カナメは、その声に驚くほど速く反応して、声の発生源が何処かを探しだす。
「…ミコトさん!」
キョロキョロと辺りを見渡して、探し求めていた少女の顔を見つけると、カナメは光が差したように一気に表情を明るくさせて走り出した。
声の主は、大通りから外れた路地に面した、小さな白い建物の窓から、優しげな笑みを浮かべてカナメに手を振ってる。
人通りの少ない路地に建てられたその白い建物は、住宅に並んで造られた小さな診療所で、少女が顔を出している窓はその診療所の病室のようである。
「さっきぶりですね。元気になられた様でなによりです」
ミコト、とカナメは呼んだ少女は、その白い顔にニッコリと微笑みを浮かべて言った。
『Arms』で、カナメがツキシマ達に伝えたとおり、ミコトはカナメと同じ年くらいの長い黒髪の少女で、日の光を知らない様な白い肌と白い患者服が、少女の儚さを強調させているようだった。
「その節はありがとう。この場所がわからなくて迷っていたんだ。会えてよかった!」
小走りで少女が顔を出している窓辺に近寄り、カナメは酷く嬉しそうに笑った。カナメの表情と行動は、直接心と繋がっている。わかりやすいほど嬉しげな笑みを浮かべる彼を、ミコトは微笑ましげに見つめた。
「それにしても、またどうしたんですか? つい三十分前に走って行かれたと思ったら、また来てくださって。何かご用が?」
「ああ! そうそう! お礼だよ!」
不思議そうに首を傾げるミコトに、カナメはそう高らかに言って、両手で持っていた花瓶をミコトに差し出した。
ミコトは、不思議そうにそれを見つめるも、差し出されたものなので黙ってそれを受け取る。小さな花瓶が、カナメの手から、白く細い指のミコトの手に渡った。
「お花…? 花瓶ごと、ですか? お礼?」
「そうさ! 行倒れていた僕を助けてくれたお礼だよ。ありがとう、君のお陰で僕は、今もこうして生きながらえることができたんだ」
両拳を握りしめながら、実に真剣な眼差しを自分に向けながら言うカナメを見て、ミコトは彼の言っている事の意味がわからず、数秒キョトンとして目を丸くして見せた。
「パンの、お礼ですか? もしかしてカナメさん、これを私に渡すために、わざわざ走って…?」
「助けて貰ったんだから、お礼をして当然だよ」
「でも、つい三十分前の出来事ですよ?」
「一刻も早くお礼がしたくてね」
「ええと…、この花瓶もくださるんですか?」
「……花瓶は嫌いだったかな…?」
ミコトが、思っていたよりも喜んでくれなかった様に見えて、カナメは不安げに額に眉を寄せて恐る恐る問いかけた。
その問いかけに、ミコトは視線を落とし手元の花瓶を見つめると、可笑しさのあまり思わず噴き出して声を上げて笑い始めた。
「ふっ、ふふ、あははっ! カ、カナメさんは…とても面白い人ですね」
感激して笑うでも無く、お礼の品のくだらなさに嘲笑するでもなく、とても面白そうに腹を抱えて笑い声を上げたミコトに、カナメは虚を突かれた様に目を丸くすると、再び恐る恐る問いかけてみた。
「……もしかして、こんな詰まらないプレゼントはいらなかったかな? やっぱり女の子は、高い宝石やアクセサリーが好きかな?」
もしくは、身を守るための御身銃とか? と、カナメがミコトの様子を覗う様に問いかけると、ミコトは更に愉快そうに笑い声を上げた。
「ご、御身銃って…! あはっ、あはは! ち、違うんです! このプレゼントは、すごく嬉しい! ただ、カナメさんがあまりにも変なことを言うから…」
どうやら、プレゼントを気に入らなかったせいではないらしい。それを聞いて安心する半面、カナメは、自分の発言を振り返ってみて、何か変なことを言っただろうかと首を傾げた。
「変なこと言ったかな…? うーん、やっぱりカグラの言うとおり、僕はまだまだ女心はわからないや」
喫茶店での会話を思い出して、カナメは肩を落とした。女心がわからなそう、と言ったカグラの言葉が、今になって漸く心に染み渡る様に実感できる。
「ふふふ、気を悪くしないでください。邪険にしているんじゃなくて、面白いと思ったから笑ったんです。褒め言葉なんですよ?」
「そう? そうかな! なら良いや。喜んでもらえたら何よりさ!」
カナメのポジティブは、余り深く考えない所から来ている。彼にとっては考える事よりも、ミコトがお礼を受け取ってくれて、嬉しそうに笑っている現状だけが嬉しくてたまらないのだ。
「あ、余り大きな声を出しちゃいけなかったね。病院の前では静かにしないと…」
辺りは、閑散とした住宅街である。カナメが少しでも気を緩めてハイテンションで喋り出したら、病院内のミコト以外の患者にも迷惑がかかるだろう。
それを危惧して慌ててクチに両手をあてたカナメに、ミコトは柔らかく微笑みかけた。
「確かに、余り大きな声を出すと先生や看護師さんが驚かれるかもしれませんが、この病院には私しか入院患者がいないので、そう気にしなくても大丈夫かもしれません」
「患者は、ミコトさんだけなのかい? 街に出たりは…?」
「私は絶対安静なので、外には出られません。周りも、住宅が多い割には静かですし、子供もあまりいませんね」
「そうか…。それは……」
とても……なんだろう。と、カナメは心の中で呟いた。
狭い病室の中で、毎日窓から閑散とした住宅地を眺めるだけ。話し相手も医者や看護師だけで、外の大通りの賑わいや喧騒とは無縁のミコトの姿を想像して、カナメは何だか、とても心が寒くなった様な気がした。
その感覚を露わす言葉が上手く思いつかなくて、カナメは言葉を濁して悲しげに顔をしかめる。
「でも、寂しくは無いんですよ。病院の先生は私が小さい頃から面倒を見てくれている人で、看護師さんも優しい人です。いつも、独りの私を気に掛けてくれますし、話し相手になってくれます。だから、私は寂しいと思った事がありません」
ミコトが、嘘偽りない笑顔を浮かべて答えるのを聞いて、カナメは安心して息を着いた。
ああ、それだ。彼女がさびしそうだと、そう思ったのだ。上手く表現できなかったが、その言葉で納得がいった。
カナメは、『さびしい』という事を感じたことはないが、良くない事である事は理解している。それは、とても悲しい事で。そしてカナメは、ミコトが悲しむのは嫌だと思う。
「そっか。さびしくないか。なら良かった」
「はい。それに、こうして同じ場所にずっといると、カナメさんみたいな行き倒れの方と出会えますしね」
「行き倒れってそんなに良くあることなのか! んー、サースメトロも中々治安が悪いなぁ」
冗談のつもりで言ったミコトだったが、思いの外真面目にカナメに捉えられてしまったので、再び細い風の音の様な声をあげて笑った。
ミコトが笑うと、なんとなくその場の景色が明るくなる様な気がする。日差しの加減が傾くというか、白い病室が更に眩しく見えるというか。そんな気がするので、カナメはミコトが喜ぶのがとても嬉しかった。
「ミコトちゃん、そろそろ検温の時間よ」
少女の細い笑い声が響く病室に、小さなノック音が聞こえたかと思うと、木製の病室のドアが大きく開かれて、外の通路から白い看護婦を着た若い女が入って来た。
看護服は清潔で、片手にカルテを持った短い黒髪の女は、窓辺のベッドに座るミコトと、開け放たれた窓から顔を出しているカナメを見て驚いて目を見開いた。
「あら、お友達? 珍しいのねこんな所に」
看護師は優しげに微笑むと、ミコトのベッドの傍に歩み寄って言った。それを聞いて、ミコトが嬉しそうに笑って答える。
「はい。さっき会ったばかりのお友達で、カナメさんって言うんです。行き倒れていたので、パンをわけたお礼にお花を頂いたんです」
「……行き倒れ? ふふ、ミコトちゃんも冗談が上手くなったわね」
看護師が、驚いた様に目を丸くすると、何処か嬉しそうに笑った。
こう、実際に看護師を前にすると、ミコトが本当に病人であったという事実に驚かされる。
カナメの前で笑うミコトは、とても元気そうなのに。医者にかかる理由など無いほどに、明るい笑顔を向けてくれるのに。
カナメは、それがなんとなく納得がいかずに虚を突かれた様な顔でポカンとしながら、カルテと体温計をベッドの傍の台の上に置く看護師を見つめていた。
「あの、それじゃぁカナメさん…」
「……ん?」
ぼんやりとしていたカナメに、言いにくそうに視線を虚ろわせながら声をかけるミコトの声が届き、カナメは無邪気な顔で首を傾げながらミコトを見た。
何故か困った様に眉を下げて照れ笑いを浮かべる彼女に、カナメは一層不思議そうに首を傾げる。
「検温と一緒に診察もしますから。ほら、年頃の少年は帰った帰った!」
「……ぁえ?」
犬を追い払う様な手付きで手を振る看護師の言葉が、一瞬理解できずにカナメは滑稽な声をあげる。
カナメは病気で医者にかかった事はないが、診察がどういうモノであるかは知っている。診察とは、医者に身体を見せるというわけで、そりゃ当然、服も脱ぐわけで、診察されるのは、当然目の前にいるミコトなわけだ。なので…。
「あっ、わわっ! ちが、違っ…そ、そ、そうだ! 僕はそろそろお暇しよう! 街のパトロールも残っているしね! わわ、悪い奴を一人残らずぶっ殺さないと…」
看護師とミコトが言わんとしている事を、ワンテンポ遅れて理解したカナメは、慌ててその場から飛びのいて赤面して、目が回った様にシドロモドロになりながら早口で言った。
勿論、変な下心があるわけではない。と思うが、ミコトにそんな事で誤解を受けたくないのは当然だ。彼女に軽蔑されるのは、きっととても悲しい。
そんな不安を心に浮かべたカナメの気持ちとは裏腹に、ミコトはクスリと可笑しそうに笑った。
「ふふ、お忙しそうですね、カナメさん。良かったら、また私の話相手になってくれませんか?」
「え……」
オロオロと狼狽していたカナメは、ミコトの言葉を聞いて弾かれた様に顔をあげた。顔をあげると、優しげに笑うミコトの姿があり、それがまた病室の白さと相まって、カナメの眼には白く眩しくキラキラと光って見えた。
「お暇な時だけで良いんです。毎日じゃなくてもいい。気が向いたら、私とお話してください。カナメさんとお話していると、とても楽しいんです」
胸の奥深くに鉛玉でも打ち込まれた様な感覚が、カナメを襲った。
頭の中で、ミコトの言葉が反芻する。
それは、もしかして、彼女は自分といると楽しい、と言う事なのだろうか。嬉しいということか? もしかして、簡単な話、彼女は自分とこれからも会いたいと言ってくれているのだろうか。
それは、それはとても、カナメにとって何よりも光栄で、堪らなく嬉しい言葉だった。
「っも、もちろん! もちろんだよ! 明日も来るし明後日も来る! その次の日も…いや、毎日! 毎日来るよ!」
「まぁ、本当ですか!?」
力強く拳を握って、興奮した様な口調で答えたカナメに、ミコトは両手を合わせて嬉しそうに言った。感激した様に頬を赤らめるミコトに、カナメは何度も首を縦に振る。
「絶対に来る! 約束するよ! お見舞いだ。毎日お見舞いする!」
「ふふ、嬉しいです。あ、でも……」
何度も頷いて意気込んでいるカナメを見て、ミコトは可笑しそうに笑うと、そうだと思いだしたように軽く手を打って視線をゆっくりと病室のドアの方に向けた。
「今度は、窓の外じゃなくて、屋根の下でお話しましょう?」
柔らかな笑みを浮かべながら、冗談めかして言うミコトの声に、カナメは思わず硬直してしまった。
心臓を鷲掴みにされた様な衝撃と、一気に顔に血液が集まったかのような火照りだ。
お話をしませんか、と言うミコトの笑顔は、カナメには殺風景な病室にオレンジ色の花が咲いたようで、とても眩しくて温かく見える。
そしてその笑みが自分に向けられているのだと思うと、どうしようもなく足がムズムズとして、今ならメトロを一瞬で走り抜けられるような気分になってくる。
「あ、あ、あ……」
「カナメさん?」
何故か、ワナワナと震えだしたカナメを不審に思い、どうしたのだろうとミコトが彼の顔を覗きこむ様に首を傾げて見上げてみる。
しかし、ミコトがカナメの顔を確認するよりも先に、カナメはくるりと路地の道なりに身体を向けた。
「あ、明日また来ますぅぅぅぁぁあああ!!」
「きゃっ」
方向転換したかと思うと、カナメは勢い良く地面を蹴り、スタートダッシュから全力走行で、土煙りを砂嵐の様に巻き上げながら走り出した。
ミコトが窓から顔を出して見ると、土煙りが落ち着く頃には既にカナメの姿は真っ直ぐに伸びた路地の果てに消えていて、いかにカナメが全速力で走り去って行ったかがよくわかった。
「まぁまぁ、若いっていいわねぇ、ホント」
「はい。カナメさん、やっぱりお忙しかったんですね。引きとめてしまって、少し悪い事をしてしまいました」
意味深に、ニタリと笑みを浮かべる看護師の思惑とは真逆に、純粋に申し訳なさそうに眉を下げるミコトの小さな呟きが、清々しいほどに病室内ですれ違っていた。




