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「ぐっ……!」
カナメの身体は、高い音を立ててガラスを割ると、驚きの声を上げて数メートルほど落下する。観察室に隣接された暗い実験室は、光が余りなく、ガラスの破片と共にカナメは冷たい床へと落ちていく。
直後、どさりと背中から落下して、カナメは鈍痛に呻いた。
「……」
機材の置かれた部屋から見下ろす形で造られた実験室は、ツキシマが思っていたよりも広く暗かった。身体を捩じり切られそうな痛みに、ツキシマは腹の辺りを緩くさすりながら、割れたガラス窓から下の実験室を見下ろし、数秒躊躇った後にそこから飛び降りた。
「い…てて……。ここは…?」
顔をしかめながらヘルメットで守られた頭を擦って上体を起こすカナメの数歩後ろに、ツキシマは降り立った。
顔を上げる。
実験室の中心には、床に設置されたライトに照らされた、大きな試験官があった。外側には、起動装置やメーターの類の機器が設置されでおり、何らかの薄い青色の液体で満たされたその中には、白い色の、丸い何かが浮かんでいるのが見える。
それは、胎児だった。
胎児が膝を抱え、まるで胎盤の羊水に身を沈め、日の目を見る瞬間を今か今かと待ち焦がれて眠る様に、それは装置の底から供給される酸素と共に、液体の中に浮かんでいた。
しかし、その胎児の姿は、一般的なその姿とは大きく異なっていた。
まず、頭が大きい。それが一番、一般的な胎児とは異なる部分で、同時にこの世の物とは思えない不気味さを醸し出している。
突如頭蓋骨が肥大化した様な頭に、巨大な眼球を誇張するかのように閉じられた薄い瞼の下では、痙攣するように巨大な眼球が蠢いている。さらにその胎児の皮膚は、血が通っていないのではないか、と思われるほどに白い。そして、胎児の臀部からは、見覚えのある長い尾が伸びていた。今にも動き出しそうなその尾は、街の外に蔓延るクリーチャーのそれである。
試験管の中の胎児を見上げたツキシマは、おぞましいばかりのその光景に、防毒マスクの下で驚愕に大きく眼を見開きながら絶句した。
本来ならば、母親の腹の中で緩やかな眠りについているべき人の子が、人工的で無機質な機器に囲まれて、人肌の羊水とは思えない不気味な青色の液体の中で浮いている。
有機と無機が、彼らとは直接意識の関係の無い理不尽な何らかの『手』によって融合させられたその光景を見て、ツキシマの隣にしゃがみこんでいたカナメも何かを感じたのか、言葉を失ってそれを見上げていた。
「ヒッ……」
試験管の中の胎児を見上げていた二人の耳に、酷く怯えた様な男の声と、慌てて机の角に足をぶつけた様な物音が聞こえた。
ハッとして我に返り、ツキシマは物音のした方を向くと同時に銃を抜き構える。
白衣を着た男だった。資料を掻き集めていたのか、壁際に取り付けられた長いディスクの傍で、手元には分厚い紙の資料を大量に抱え怯えた目でツキシマ達を見ていた。
ツキシマは、照準を合わせると躊躇い無く男を撃った。
「ぐあああ!」
逃げられない様に、足を撃たれた男は叫び声を上げてその場に蹲る。ツキシマはすぐさま地面を蹴ると、足早に男の傍に歩み寄り、白衣の男の胸倉を掴んで引き上げ、顎に銃口を当てた。
何だこれは、何だこれは何だこれは! 心の中の声で一心に問いかけるも、ツキシマの問いが男に届くことは無い。ツキシマは、防毒マスクのカラーガラスの奥から金色の瞳で白衣の男を射殺すように睨みつける。
いくら心の中で叫ぼうにも、今にも引かれそうな銃のトリガーでは、相手に恐怖を与えることしかできない。
「ヒッ、ヒイイイ!」
圧迫感のある眼前の防毒マスクに、男は情けないだけの悲鳴を上げる。
男の顎に突き立てた銃の引き金を引く事など、ツキシマには出来はしない。疑問を問うことすら、容易には叶わない。相手を安心させるための言葉を放つことすらできないし、それ以前に『人間らしさ』を持ち合わせていない自分が人間とコミュニケーションを取ろうということ自体が間違っているのだ。人に、恐怖を与えるだけの冷たい血の流れる自分の存在が、この世界に不必要と感じて仕方が無い。
白衣の男に銃口を向けたままのツキシマの思考は、メトロの退廃的な環境から切り離された、まるで異世界の様な実験室の環境に呑みこまれ、海上の渦のように目まぐるしく回る。
人と、普通に関わることが、関わる術を持ち合わせていない事実が、恐ろしくてたまらないのだ。どんなに彼らを羨んでも、どんなに彼らを好いていても、交われないなら意味がない。胸を締め付けるような孤独感が溢れて堪らない。
思考の渦の中心、メトロの砂で作られたアリジゴクのちょうど真ん中の、深い深い記憶の底に埋めたその中で、金髪の彼女が自分を罵る。恐ろしいほどの眼光を携えた金目をコチラに向けて。
『お前みたいな化け物が、人間みたいに生きられるわけないだろ』
吐きそうになった。たとえ記憶の中の声だとしても、あの声で囁かれると、手足が震えてもうダメなのだ。
「これは、何だ?」
ツキシマを混沌とした思考の海から引きずりあげたのは、背後から響いたカナメの声だった。
彼自身も、この試験管の胎児がマトモなものではないと理解したらしく、驚愕と動揺に瞳を揺らしながら、ツキシマが胸倉を掴む白衣の男を睨みつけた。
「そ、それ、は……ッ…!」
小刻みに震えながら、言葉を発しようとした男の頭が、ツキシマの目の前で爆ぜた。
乾いた発砲音と共に男のこめかみを貫通した金色の弾丸によって、男の頭は前後に大きく揺れて支えをなくす。
驚いたツキシマは、弾丸が飛んできた方向に顔を向け、事切れた白衣の男を床に落とした。
「ハァ…ハァ……この、ウジ虫共め…、次から次へと湧いて出て、私の邪魔ばかりする……」
実験室のドアの縁に寄りかかりながら、肩で息をする厳めしい制服に身を包んだ初老の男が、ツキシマ達に向けて銃を構えていた。先程の弾丸は、この男が撃ったものと見える。
「署長……」
ドアに寄りかかる男を見て、カナメが呟く。ノアメトロの警察署署長、マーティン・ノールズは、苛立たしげに彼を睨みつけると血の滴る片足を引きずって実験室の中に入り、傍の機器に寄りかかった。
「資料を持ち逃げしようとして逃げ遅れたか……。馬鹿で使えない研究員共め、誰のお陰で研究が進んだと…、畜生! どうして、どうしてこうなった…、足が……、外の飛行物体はなんなんだ、クソ!」
クチ汚く悪態をつきながら、ノールズは息も絶え絶えにツキシマの傍に散らばった紙の資料を書き集めようと、地べたを這いつくばる。白衣の男の血や脳漿で汚れた資料を両手で掻き集めるその様は、何だか不気味で気持ち悪かった。
「署長! 一体これはどういうことなんだ!? なんだこの…この部屋は! この地下の研究施設で、貴方は何を……」
「黙れ! 何も知らんガキが!」
カナメが、どこか焦った様に声を張り上げて問いかけるも、冷や汗をダラダラと流して資料を書き集めるノールズは唾を飛ばして罵声を上げた。
「何も知らん、現実の見えないガキが……、私の邪魔をするな! やはり貴様は、早急に留置所にぶち込んでおくべきだった……、先に実験体にでもしておくべきだったんだ……」
「署長……、貴方は、何を……」
緊張した面持ちで問いかけるカナメに、ノールズは鋭い眼光で彼を睨みつける。
「ふ、ははは、君と同じ事だよ。同じ事をしようとしていた…。化け物と人間を組み合わせて、更に強力な化け物を造り、メトロに平和を齎そうとしたのさ。だれも逆らうことのできない、巨大な力によって!」
ノールズは、焦点の合わない双眸で試験管の中の胎児を見つめた。まるで、それを崇め、崇拝する様なその視線に、カナメは顔をしかめる。
「ははは、はは、力によって支配された世界、誰もが私にひれ伏し、罪を犯す者はいない。悪は潰しても潰しても蛆の様に湧いてくる……そんな犯罪者共が消えるんだ! あは、あは、夢のような世界さ……、君もそう思うだろう? ヒーロー」
ノールズが、同意を求める様に視線をカナメに移した。
悪が無くならないというのなら、力で以てそれを支配する。強力な力、権力と言う、絶大な力にものを言わせて。
人が何故争うのか、それは、神が乱立するからだ。
多くの『縋るもの』があるせいで、それらを個々に崇拝する人間の間で争いが起きる。ならば、全ての人間が、頭を垂れ、一人の人間だけを敬う世界があればいい。同じ秩序の中で、同じ教えの中で。不自由は、時として平和を齎すのだ。それが『平和な世界』の本当の姿である。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
しかし、ノールズの思想はカナメの一言によって、一蹴された。
「署長、貴方はなぁんにもわかっちゃいない。力って言うのは、人を支配するためにあるわけじゃない。人を助け、悪を消し去る為に得るものだ」
「……綺麗事を……」
ノールズは、忌々しそうに舌打ちをする。
子供の戯言だ。現実を知らない子供だからこそ、クチにできる幻想だ。
「それに加えて悪とは、支配するものじゃない。ましてや潰すものでもない。消し去るんだ。この世から存在の痕跡を微塵も残さずに。貴方の言っているのは『臭い物には蓋をしろ』っていうヤツだ。力で悪を押さえこむんじゃ何も変わらない。人々は変わらず、悪党の脅威に晒されて、不安な毎日を過ごすことになるじゃないか」
「そ、そんなのは、今だって同じことだ! 人は次から次へと湧いてくる悪に恐怖し、眠れない日々を過ごしている! ならば、力で奴らを抑えつけるべきだ。どんな黒色だって、その上から無理矢理白色で塗りつぶせばいい! そうすれば……」
「黒の混じった白は、灰色だろう?」
ノールズの言葉を聞いて、カナメは不思議そうに首を傾げる。
「湧いてくるなら、片っ端から殺せばいい。終わらないなら、終わるまで永遠に続ければいい。僕は悪党の存在を絶対に許さない。悪党を殺し続けることが、ヒーローである僕の人生なんだよ」
腰に手を当てて仁王立ちしながら、カナメはニッコリと笑って言い放った。
ノールズは、瓦礫で潰れた足の痛みも忘れて唖然とした顔でカナメを見た。
悪党を殺し続ける人生だと、自分の長い人生を、躊躇い無く言い放ったその一言で完結してしまう少年が、ノールズには酷く恐ろしく感じられた。何故そんな事が言えるのか。目の前の少年が、唯馬鹿なだけなのか、それとも、それを言い放つだけの想いが少年にあるというのだろうか。
どちらにせよ、わからない。この数十年間、ノアメトロの平和を率先して守って来たノールズにも、その言葉は理解できなかった。
「それにそもそも、こんな禍々しい物体Xで平和を守るだなんて外道だ! ダークヒーローとも言えない! どう考えたって悪の秘密組織の地下研究施設じゃないか! 人々に安心と平和を齎すのは、いつだって空飛ぶカッコイイヒーローと決まっているんだ! だからダメだこんなのは!」
「……」
一人、実験室をぐるりと見渡して癇癪を起すカナメに、ツキシマは僅かに呆れた様な視線を送った。
最後の癇癪部分以外は、僅かだがツキシマにも同意できる部分がある。
要は、湧いてくるなら消し去ってしまえばいいのだ。目の前にある残酷な研究も、それに基づく資料も、壊してしまえば何も怖くない。メトロで、そんな研究を行う人間が潰えるまで。
「黙れ…黙れ黙れ! 貴様に私の何がわかる! 私がどんな想いで『それ』を造り上げたか…貴様等には微塵もわからんだろう!」
声を張り上げて叫んだノールズは、傍にあった機器のスイッチを叩いた。赤い警告マークのついた、そのあからさまなスイッチは、ノールズが叩くと同時に実験室の中心に置かれていた胎児の浮いた試験管の装置を起動させる。液体で満たされた試験管の中に、ゴポリと気泡が浮かび、それに応じて中の胎児がその大きな眼を開眼させた。
「は、ははははは! 目覚めよ……、私の愛しい化け物……。そしてこいつらを殺し、その力を私に見せてくれ!」
ノールズが両手を大きく広げ、賛美するかのように声を張り上げる。
その声に応える様に、開眼した胎児の入った試験管のガラスに、ピシリとヒビが入った。液体が漏れる。試験管の中の胎児は、見る見るうちに変貌していった。
開かれた両眼には白目が無く真っ黒なビー玉のようで、白い肌の背中からは、皮膚を突き破って骨の様な角ばった角が左右対称に飛び出し、ボコボコと細胞が増殖するかのように、手足が伸び始める。黒くて筋肉質の腕が二本、足は身軽そうでスマートな二脚が現れる。どのパーツも、突如発達した身体の部位を支えきれずに破れた皮膚から噴き出る血液で赤く染まっている。
試験管が完全に割れ、そのクリーチャーと人間の融合体……化け物は、子鹿の様に震える足で実験室の床に立つと、大きな声を上げて啼いた。
言葉に、し難い啼き声だった。
赤子が泣き叫ぶ様な、群れを成した鳥が夕焼け空で啼く様な、哺乳類の断末魔の様な、もしくは、人間の悲しみにくれる様な、耳を塞ぎたくなる様な高音で、数秒雄たけびを上げると、それは真っ黒な眼球にカナメを映してゆらりと揺れる。
「ほら見ろ! どう見ても悪役だ! グロい汚いえげつない! こんなおぞましい生物の先に、人々の平和があるなんて到底思えない!」
「……」
カナメの言い分には全面的に同意するが、この血まみれで異形のショッキングな生物を目の当たりにして、気落ちしないどころか更に闘志を燃やすカナメの精神のタフさは、ツキシマには理解ができない。
しかし逆に考えれば、カナメのこの折れない心がツキシマのヤワな精神をフォローしてくれたとも言える。カナメがいなかったら、ツキシマは今頃目の前の異形の生物に対する生理的嫌悪感から、戦意喪失していたところだろう。
「黙れ黙れ! 行け! 試作品Ⅰ号! まずはその生意気なガキを殺せ!」
ノールズが裏返った声で叫ぶ。それに応じてか、はたまた最初からそれはカナメに目標を定めていたのか、実に緩慢な動作でユラユラと揺れながら動き出した。
「来たなクリーチャーめ。ううん、定めるに君は、中ボスってところかな。こんな薄暗い研究室に現れるんだからそれくらいのランクに違いな……」
カナメが言いかけた瞬間、ヒュウと顔に僅かな風を感じ、目の前にクリーチャーの血に濡れた不気味な顔が現れた。
クリーチャーは、呑気に腕を組んで喋っているカナメに狙いを定め、その屈強な左右の腕で上方と下方から挟みこむように攻撃を加えようと拳を振り上げて踏み込んだ。
クリーチャーが拳を振り切り、カナメの頭上から振り下ろされた拳が実験室の床に突き刺さって床板を破壊し、轟音と共に埃を巻き上げる。
「やったか!?」
ノールズが歓喜する。完全に隙を突いた攻撃だ。かわす事などできまい。更にあのクリーチャーの攻撃力は、ノールズが想像していた以上のもので、ノールズがいかに『力』に執着しそれを欲していたかわかるというものである。
研究員の脳無し共は、アレが失敗作だと言っていたが、とんでもない。奴らがそうだというのなら、アレはもはやノールズの物として使っても何ら問題は無いだろう。ノールズは心中で呟き、口角を上げてニタリと笑う。
しかし、クリーチャーが巻き起こした埃が晴れて、徐々に視界が明らんで来た時、ノールズのその喜びは驚愕に変わった。
「……やめだ。そんな速さじゃ、せいぜい小ボス、クリーチャー共の群れの長ってところがちょうどいい」
「なっ……!?」
ノールズが驚きの声を上げる。
視界を遮っていた埃の向こう側で、クリーチャーの攻撃を回避したカナメが、床に突き立てられた化物の腕の上に乗り、腕を組んでにんまりと笑って言った。
クリーチャーの眼球が、ギョロリとカナメを捕えて蠢く。それを合図に、カナメ自身も動いた。
「ギャッ!」
長く屈強な腕を足場に、カナメはそれを蹴って爪先でクリーチャーの顎下を勢い良く蹴りあげる。脳の揺れたクリーチャーはぐらりと後ろによろめくと、カナメを捕えようと腕を伸ばした。
「とうっ!」
しかし、カナメの身体は宙に浮くとぐるりと一回転して、軽快な掛け声とともに人型のクリーチャーの胸を蹴り飛ばす。
カナメを捕えんと伸ばされた腕が宙を掻き、ドゴォ! と音がしてカナメの便所サンダルが血まみれのクリーチャーを吹き飛ばした。クリーチャーの身体が、床を擦って人形のようにバウンドする。
「まだまだ!」
宙を舞う化け物を見ると、カナメは更に地面を蹴り、クリーチャーの元へ移動した。クリーチャーが態勢を立て直す前に攻撃態勢に移ったカナメの攻撃を、クリーチャーは阻めない。
「くたばれ、化け物」
「!?」
拳を強く握り締めて放たれたカナメのパンチは、クリーチャーの腹部に炸裂すると風を起こすほどの衝撃を産んで、クリーチャーの身体を実験室の壁に叩きつけた。
クリーチャーの身体がコンクリート製の壁にめり込み、パラパラと瓦礫の欠片が床に落ちる。それを見て、カナメは上空に飛ぶとくるりと身軽に一回転してクリーチャーから距離を取った。
「ふぅん、署長。これが貴方の言う、力でメトロを支配しようとした結果か? それにしては味気ない。見た目が恐いだけで、その辺のチンピラと変わらないじゃないか」
肩を竦めてカナメが笑う。確かに攻撃の威力には目を見張るものがあったが、総合的な強さではイマイチピンとこない。これならば、脳のある人間を相手にした方がずっと強いと、カナメは思う。
しかし、壁に叩きつけられたクリーチャーを見ても、ノールズは眉一つ動かさず、不敵な笑みを浮かべている。
「ふ、ふふふ。まさか。ソレの力はそんなものではないさ」
「……!」
ノールズが言った瞬間、カナメの目の前に再度気配が現れた。復活したクリーチャーが、再びカナメの前に接近したのである。
棒立ちになっていたカナメに攻撃を与えんと、クリーチャーは再び同じようにその屈強な拳を振り上げた。
「また同じ事を……」
先程の第一撃と同じように腕を振りあげるクリーチャーを見て、カナメは呆れた様な嘆息をついて地を蹴り回避行動に移る。
先程と同様、床に突き立てられるであろう腕の上に着地せんと足を伸ばした瞬間、カナメの片足はクリーチャーの巨大な手にがしりと掴まれた。
「なっ……!」
驚きの声をあげると間もなく、クリーチャーは足を掴んでカナメの身体を振り回す。ぐるりと反転し、雄たけびを上げながら片手に掴んだカナメを床に叩きつけた。
「オギャアアアアアアア!」
床が割れる。クリーチャーの叫びと共に、カナメは二、三度床に叩きつけられた後、今度は勢い良く実験室の壁に向けて投げつけられた。
全身に鈍痛が駆け巡った後、背中に強烈な衝撃を受けてカナメは堪らず噎せかえる。
「がっ…! ぐ…ゲホッ……」
回避を読まれていたようである。身体の痛みを跳ねのける様に、カナメは素早く起き上がると、生温い血の流れるクチ元を拭ってクリーチャーを睨み、地を蹴った。
「なるほど、確かに脳はあるらしい」
呟いて、カナメはクリーチャーに接近する。脳はあるとは言っても、さっきは同様の攻撃に対して同様の反応を示したのがいけなかったのである。こちらから仕掛ければ、そう簡単に攻撃の軌道を読まれることは無いはずだ。
そう考え、カナメは軽やかなフットワークでクリーチャーを撹乱すると、向かって右の下方より拳を繰り出す。
「っ!?」
しかし、カナメの拳はクリーチャーの腕によって軌道を逸らされた。先程は、まるでサンドバックの様に避ける事も防御する事もなく攻撃を受け続けていたというのに、ここに来てクリーチャーはカナメの攻撃に良く反応するようになったのだ。
その事実に、カナメは顔をしかめて拳を引くと、ゆらりと揺れて片足を軸に回転し、爪先で相手の首を狙う。が、またしてもカナメの攻撃はクリーチャーの屈強な腕に阻まれて首にまで届かない。
瞬き一つしない、静かな黒目の化け物の顔にゾッとしつつ、カナメは僅かに後ろに飛んだ。
「……なら、これでどうだっ!」
叫んでカナメは、息を止めて地面を蹴る。先程よりも速く、態勢を低くし一瞬でクリーチャーとの距離を詰め、相手の眼球がぐるりと蠢いてカナメの姿を認識する前に、カナメはクリーチャーの小脇をくぐりぬけて背後に回った。
僅かに息を吸い、反転してガラ空きになった背中に向けて拳を突き上げる。
しかし。
「なっ……」
視界が揺れる。と共に、脇腹と肋骨の間に強烈な衝撃を感じた。
メリッ、と嫌な音がして、横から薙ぐように、クリーチャーの太い腕がカナメの脇腹にめり込んでいた。衝撃で息が止まる。脇腹を中心に、激痛がカナメの体内を駆け巡った。
何故、コイツはこの攻撃に気付いたのか。目で追ってこれたはずが無い。少なくとも、カナメがクリーチャーの後ろを取った瞬間は、クリーチャーは全く背後のカナメの存在に気づいていなかった。奴の意識は完全に前方に向いていたはずである。
このカナメの攻撃にクリーチャーが気付けるはずが無かった。気付けるとしたら、昼間のヨツヤの様な、人並み外れた反射神経を持った者だけのはずだ。
ならば何故。疑問符を浮かべるカナメの目に、不気味な光景が飛び込んできた。
目だ。クリーチャーの双眸とは異なる、ギョロリとした白目のある人間の目が、クリーチャーの突きだした後頭部で開眼していた。
「ぐあっ…!」
クリーチャーの腕は綺麗に床に対して水平に弧を描き、力任せにカナメを床に転がした。
腹部に与えられた衝撃は、胃を圧迫しカナメの意思を無視して酸っぱい胃液を逆流させる。
「ぐ…う…っ……」
「は、はははは! これが私の研究の成果だ! 見たかね! あの化け物が、思考を持って戦うのだ!」
愉快そうな笑い声が上がる。ノールズは、狂喜に満ちた笑みを浮かべて両手を広げた。
「貴様の行動パターンを記憶し、次にどのような行動に移るか計算したのさ。やはりな。思った通りだ。人の思考、それに加えて高度な機械的演算能力、化け物の力、それらが組み合わされれば最強の化け物になる! コイツにかかれば、街の悪党共を殺し、人々にも破壊屋などと言われ恐れられたヒーロー様が、この様だ!」
ノールズが叫ぶと、クリーチャーがなんとか起き上がろうと床に手をつくカナメに歩み寄る。その姿は、更に見るもおぞましいものへと進化していた。
クリーチャーの身体中、腕や掌、足先に掛けて人間の目玉が大量に埋め込まれていたのである。ギョロギョロと辺りを探索する眼球の動きは実に生々しく、その眼球一つ一つに神経が通っている事が覗える。実に不気味な光景であった。
これはまずそうだ、ツキシマは思った。ツキシマにとってはカナメも、彼をぶっ殺すと言って向かって来た『敵』であるかもしれないが、少年があのクリーチャーの餌食になるのを見す見す見過ごせるわけもない。
ツキシマは無言で素早く銃を抜き、トリガーに指をかけた。しかし、ノールズがそれを見逃すはずもなく、ツキシマに顔を向ける。
「待てェ! ふはは、撃つか? 撃つのか? 今撃てばあのガキに当たるぞ!」
ノールズが叫ぶと、カナメの傍に歩み寄ったクリーチャーが、少年の首を掴んでツキシマの盾にする様に高く掲げた。確かに、これでは下手に撃つことはできない。今にもカナメの首をへし折ってしまいそうなクリーチャーの腕は、ミシリと背筋が凍るような音を立てる。
「……」
力無く垂れたカナメの両腕は、今や先程の様に仁王立ちで堂々と喋っていた頃の安心感は無く、ツキシマを焦燥させる。クリーチャーが少しでも力を入れれば、年相応よりは細い彼の首は、容易にあり得ない方向に折れてしまうだろう。
ツキシマは、じわりとマスクの下で冷や汗を流すと、ゆっくりと銃を下ろした。
「ふはは、それでいい。あのガキを始末したら、次はおま……」
「ぐっ…ぅ…そう、それでいいよ……、ツキ、シマ……」
ノールズの声を遮って、カナメの細い声が響いた。
まだ意識があったのか、とノールズは驚いたように目を丸くする。
「コイツは、僕の敵だ。倒さなきゃならない。僕が……、ヒーローだから……」
カナメは言うと、グローブを嵌めた手で自分の首を掴むクリーチャーの野太い腕を掴んだ。腕についた眼球が、カナメの掌の中でギョロリと蠢く。カナメの抵抗に緊張して、クリーチャーがカナメの首を掴む力を強まった。
しかし、カナメは動じない。それどころか、口角を吊り上げてりんまりと笑い、強い光の宿る黄土色の瞳で、まっすぐにクリーチャーを睨みつけた。
「ヒーローは悪を倒すものだから。ヒーローより強い敵なんているわけがない。だから、ヒーローは決して負けないのさ」
クリーチャーの腕を掴んだカナメのグローブが、真っ赤な火を燈して煌々と燃えあがった。グローブから放たれた炎は、クリーチャーの腕に燃え移り、皮膚を焦がしながら更に火力を上げる。
「ギャオオオオオオオ!」
熱さに耐えきれず、クリーチャーは思わずカナメを手放した。カナメは地面に降り立つとしゃがんで勢いを付けて床を蹴り、拳をクリーチャーの鳩尾に叩きこむ。
「ゲゲッ!」
クリーチャーの身体が宙に浮く。真下からのカナメの攻撃は、クリーチャーを大きく上空へ跳ねあがらせた。
「攻撃が読まれるなら、防御される前に攻撃すればいい。もっと加速して、先に拳が届けば問題ないよ」
そう言って、カナメは走り出す。近くの壁に駆け寄って足をかけ、勢い任せに天井まで登り詰める。
「上からならそうそう外す事もないね!」
クリーチャーが浮き上がった場所の真上まで上り詰めると、カナメは眼下のクリーチャーを睨みつけた。そして力いっぱい天井を蹴ってギリギリまで拳を引き、真下のクリーチャーに向かって急降下する。
目指すはクリーチャーの背中のど真ん中。重力に従って落下速度を上げる拳で、クリーチャーを串刺しにしてやるのだ。
「喰らえ! 真・フレイムバーストカナメスペシャルスパイラルアタァァァック!!」
長い。落下するカナメの叫び声が、広い実験室に響き渡る。
そして、クリーチャーの身体が地上に叩きつけられ床板を破壊すると同時に、クリーチャーの背にカナメの燃える拳が炸裂した。
「ガッ……!」
爆弾でも投下されたかのような轟音と共に、クリーチャーは身体中の眼球が飛び出さんばかりに大きく瞼を見開いて床にめり込む。短い呻きと共に吐き出された吐血は、破壊された床板の瓦礫の陰に消えて行った。
「なっ…そんな…馬鹿なっ……!!」
全てを見ていたノールズは、喉から絞り出すような悲痛な声を上げて、クリーチャーの様に眼球が飛び出さんばかりに目を大きく見開いて頭を抱えた。
こんな事があるはずが無い。あれだけの年月と資金を費やして造り上げたあのクリーチャーが、こんな子供に倒されるなんて事は、あってはならないのだ。
しかしながら、現実は非情なもので、それは現に『起こって』しまった。目の前の現実をすんなりと受け入れることができず、ノールズは深く頭を抱える。
一方ツキシマは、とにかく一仕事片付いた様でホッとした。どうやら心配は無用だったようだ。カナメが壁を走り出した時は流石に驚いたが、それはなんとなく、ツキシマ自身人の事を言える様な事ではない様な気がしたのでツッコミは心の奥底にしまっておくことにした。
安心したところで、ツキシマはカナメから目を離して隣で膝をつくノールズの方を向く。
ツキシマにも、片付けなくてはならない仕事が残っているのだ。
「ヒッ!? な、何だ貴様! 何をするつもりだ!?」
クリーチャーを倒されて、すっかり怯え腰になったノールズは肩を竦めて怯える。そんな彼に、ツキシマは問答無用で手を伸ばした。
「ヒィッ!」
身を強張らせるノールズに手を伸ばしたツキシマが掴んだのは、ノールズが抱えていた紙のデータだった。
今回のクリーチャーを産みだした研究についての資料だ。軽く目を通して、ツキシマは手にしたそれを真っ二つに破いた。
「なっ! 何をする貴様! やめろ!」
ノールズの静止の声など聞かず、ツキシマは破ったそれを更に細かく破る。何度も何度も、二度とこのデータが人の目に触れないように、細かくそれを破った。
「……」
ショックに震えるノールズの目の前でツキシマは、細かく千切った紙の欠片を全て宙に投げた。紙吹雪の様にヒラヒラと宙を舞うそれを見て、ノールズは震える手で手元の銃を握る。
「や、やめ…やめろ……! それは、大事なデータなんだ……! 私が、金をかけて…、やっとの思いで……、力が、権力が……」
ノールズが、血走った両目から涙を流しながら言いかけた時、彼の上空から影が下りた。
赤々と燃え盛るクリーチャーの死体を横に、ボロボロの赤マントをはためかせた少年は、大きく目を見開いて地上に降り立つと共にノールズの後頭部を踏みつけた。
「署長、貴方は、メトロの平和を願っていたわけじゃない。いや、願っていたかもしれない。けれどその願いは、いつの間にか他のものへと摩り替わっていたんだな」
どこか悲しそうに、しかし同時に忌々しそうに、カナメはノールズを見下ろしながら言った。
ギリギリと強まる後頭部からの圧迫感に、ノールズは冷汗を浮かべて反論する。
「替わってなどいない……! 私の望みは、統一された絶対的な秩序によって…平和を……!」
「秩序ってヤツが、本当に平和を齎してくれるのかな」
カナメは薄く眼を細め、首を傾げて呟いた。酷く冷めた様なカナメの声に、ノールズは息を呑む。
「ルールは、完璧な規律は、確かに犯罪者を減らす要になるだろう。けれど、犯罪が無くなることが平和かと問われれば、それはきっと違う」
犯罪は、確かに平和を脅かす大きな要素だ。だが、それだけである。犯罪とは、世の中に蔓延る『悪』の、片鱗でしかないのだ。
「根絶すべきは『悪』だ。犯罪者でも悪党でもないんだ。『悪』が平和を陰らせる」
カナメの言葉に、ノールズは唾を呑んだ。
犯罪者を駆逐することが、平和への道では無いとしたら。カナメの言うその『悪』が平和の敵であるとしたら。
そんなもの、消し去るなんてそれこそ不可能だ。
「そんな、そんなこと…は…どうでもいい! 力だ、権力があれば、平和も意のままにできる……! すべての人間が、私に跪けばそれだけで世界は平和になるのだ!! 何故わからない!? 何故……!」
焦点の合わなくなったノールズは、揺れる瞳で実験室の真ん中で煌々と燃えるクリーチャーの亡きがらを見つめて叫んだ。
平和を訴えていたはずの署長の目は、もはや濁って炎の赤い光だけを反射していた。
「貴方は、確かにメトロの平和を願った。でも今や、それは権力への執着へと変わっていた。……そんな貴方は」
カナメは、両目を鋭く細めてノールズの後頭部を踏む足に力を込めた。
「唯の悪だ」
ゴシャッと、頭蓋骨が割れる音がして、ツキシマの足元に散らばった書類に血液とも脳漿とも区別のつかない液体が飛び散った。
じわりと、くしゃくしゃになって散らばった書類に血がにじむ。まるで、そのデータの犠牲になった人々の痛みを示唆しているかのようにも見える。
それを見下ろして、ツキシマは無言のまま視線を上げた。血濡れになったそこの薄いサンダルを履いて、そこにはにんまりと年相応の人懐こい笑みを浮かべたカナメが、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「さっきは、助けてくれようとしてくれてありがとう。その書類、全部破くんだろ? 僕も手伝う」
にんまりと笑って言うカナメに、ツキシマは無言のまま縦に頷いた。それを見て、カナメは首を傾げて嬉しそうに笑う。
狂気と純粋は紙一重だ。二元論は、極端でもあり、一方に傾けば一方を強く批判する極度の潔癖さを孕む。
ツキシマは、極端なのが正しいことであるとは思わない。しかし、中途半端なのも良いことであるとは思えない。というか、良いか悪いかと区別をつけること自体が可笑しいのかもしれない。要は『人それぞれ』なのだ。結局ここに帰結する。
ツキシマは、世の中思うほど単純な構造ではないようだ、と、なんだか無意味に疲れてため息とともに肩を落とした。それを見てカナメがなんとなく怪訝そうに首をかしげていた。
そして、爆音が鳴り響いて地下研究施設の天井が崩壊するのは、その数分後の出来事であった。




