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メトロの闇夜は、深く淀んでいる。
空気が汚い、というせいもあるが、全体的に、良からぬどんよりとした空気を纏っていることは、視覚として感じ取れなくとも、肌を撫でる陰惨な空気でよくわかる。
電灯はチカチカと点滅し、野良猫や鼠が闇の中で物音を立てた。生ゴミの詰まった袋が擦れる音に、ツキシマのコートにしがみ付いていたアベルがびくりと震える。
「なっ…なんだ、ネコかよ…。びっくりした…」
顔を青くして呟くアベル。そんな、子供らしい反応を示す彼とは対照的に、タツミは率先して頼りない電灯の光に照らされた夜道を鼻歌交じりに歩いていた。
「チック チック チック! らんららんらー」
「なんでタツミはそんなに元気なんだよ…」
男の自分よりも肝が座っているタツミを見て、僅かな競争心を抱いたアベルが、ジト目で前を行くタツミを見た。その言葉に応えて、タツミはくるりと反転し、不思議そうに首を傾げる。
タツミが孤児院を出てくるときに、急いで部屋から取って来た色褪せた橙色の大きなショルダーバックから、コルトとブリキのロイドが仲良く顔を出していた。
「んっとねー、それはねー、楽しいからかな!」
「こんな夜中にたのしいもなにもあるもんか…」
満面の笑みで答えるタツミに、不満そうに唇を尖らせたアベルが吐き捨てるように言った。
その呟きが聞こえなかったのか、タツミは再び身体を反転させて前を向くと、スキップをしながら上機嫌に歩き出した。
ツキシマも、慌ててタツミの後を追う。
出来れば、タツミもアベルの様に、ツキシマの背中に隠れていてくれたら動きやすいのだが、天真爛漫な少女は、彼のそんな思いに気付きもしないでどんどん前へ進んで行った。
孤児院の庭から、少し離れたスクラップ置き場に、子供が遊んでいた形跡があった。
捨てられていた鉄板の上に、崩れた泥団子が乗っており、画面の割れたブラウン管テレビが低い台の上に乗っている。ままごとの形跡だ。
「エミリーの奴、こんなあぶないとこであそんでたのかよ」
アベルが呟く。スクラップ場のゴミの山は、いつ崩れるかわからない程に不安定だ。カミラの事だ。子供たちには、スクラップ場に入ってはいけない、という事は前から言い聞かせていたのだろう。それに加えて、この地区に限らず、メトロでは剥き出しの線路が多く走っている。子供が電車事故に遭った、という話は、ツキシマのサースに居た時からよく耳にしていた。
だから、メトロの子供は、出来るだけ親と離れてはいけないのだ。彼らの家より外には、危険しか存在しないのだから。
最も、それを全く聞かない子供もいるわけだが。
ツキシマは、しゃがみこんで地面を見つめた。
目を凝らしてみると、暗闇にの上にぼんやりと、地面が緑色に光っているように見える。ヒカリゴケだろうか、それにしては、光が一か所に集中しすぎているような気がする。
「ツッキー、ツッキー! こっちこっち!」
一足先にスクラップ場に辿り着いていたタツミが、スクラップ場から住宅地へ続く路地の入口で手招きをしているのが見えた。
何か見つけたのか、ツキシマとアベルは立ち上がり、足早にタツミの元へ向かう。
「これこれ! アシアトある!」
タツミが地面を指差して、興奮気味に言った。
目を凝らして地面を見ると、先程ツキシマ達がいた個所からこの路地に向けて、小さな足跡型の光が燈っている。緑色の、良く目を凝らして見ないとわからないくらいの光だ。
「足跡? なんでこんなとこに…」
アベルの疑問符に、タツミが元気よく答えた。
「これねー、タツミが作ってたやつだよ! ロイドくんに色塗りしてあげよーとして作ってたの! ひかるやつ!」
タツミの言葉に、ツキシマはピンときた。
昼間、タツミがバケツに入れて、木の棒で掻きまわしていた液体である。結局、タツミが何処かへ遊びに行ってしまった後、ツキシマが足を引っ掛けて零してしまったモノだ。
幸い、足を引っ掛けたツキシマと、運が良かったアベルにはその液体は掛からずに、エミリーと数人の子供たちの靴に付着してしまったのである。
色塗り、という事は、あの液体は蛍光塗料か何かだったようだ。
「なるほどな! でかしたぞタツミ! この足跡をたどれば、エミリーの居場所がわかる!」
「え! え! タツミすごい? おてがら? 一人前?」
アベルの声に、タツミはキャッキャと飛び跳ねながら喜んだ。
ツキシマは、足跡を辿る様に視線を路地に向ける。暗い路地は、電灯が無く、月明かりも寄り付かないので、エミリーの足に付着した蛍光塗料の光が良く見えた。
暗い路地に浮かんだ足跡が、二つ、そして、途中から四つに増えている。小さな足跡と、大きな足跡が二つずつ。並んで歩いたように残っていた。
「パパのおむかえが来たのかな? パパの足跡!」
タツミが、大きな足跡の方を指差して言った。だが、そんなわけがない。エミリーは孤児だ。両親が迎えに来るなんてことはあり得ない。
「おじさん…これ、もしかして…」
顔を蒼白とさせたアベルが、ツキシマのコートにしがみ付いて、縋る様に彼を見上げた。
アベルもまた、気がついたようである。
足跡は、暗い路地に向かっている。ぱっくりとクチを開けた暗闇の中から、恐ろしいまでの狂気と絶望が、手をこまねいて三人を誘っているように見えた。
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今日で三日目。
バスルームに、湯気が立ち込める。清潔な石鹸の香りは、鼻孔の癒しだ。薄いカーテンに仕切られたバスタブの中で、小さな影と大きな影が揺れた。小さな影は、大きな影に寄りかかる様にして湯船に身体を沈め、大きな影は、機嫌良く歌なんかを歌っている。
「どうだい? 温まってきただろう?」
彼が、膝の間に抱えている少年の顔を覗きこむようにして問いかけた。少年は何も言わない。しかし、適度な温度に調節した湯船のお湯は、肩の細い小さな少年と彼の身体を、じわり、じわりと確実に温める。
「そろそろ出ないと、湯だってしまうよ」
彼が言い、バスタブから少年を抱え上げた。カーテンを開け、用意していた小さな子供向けのチェアに少年を座らせる。
自分は素早く身体を拭いて服に着替え、少年の身体が冷え切らないうちに柔らかで清潔なタオルで少年の身体を包んだ。
短い髪の水滴を良く吸い取り、きめ細かな肌を傷つけないよう、優しく拭いてやる。
身体が拭き終わったら、今度はバスローブを着せる。子供用に発注したバスローブは、大人のそれよりも何割も小さくて愛らしい。純白のバスローブにくるまれた少年は、メトロを走り回る子供の様な薄汚さは無く、まるで天の使いの様な美しさで彼の前にあった。
そんな少年を見て満足すると、彼は再び少年を抱き上げ、今度はリビングへ向かう。
大きなソファに腰を下ろし、膝の上に少年を抱える。お菓子とジュースを用意したテーブルの上に乗っていたリモコンを手に取り、テレビを点けた。
モノクロのアニメーションが始まり、猫と鼠が不毛な追いかけっこをしているアニメが、軽快な音楽と共に流れる。
「ははは、君の好きなテレビだ。良いタイミングで見られてよかったね」
彼が笑い声を上げて言った。少年は何も言わない。
猫が、鼠を捕まえようとして酷い目に遭うたびに、彼は大きな笑い声を上げた。笑いながら、テーブルの上に乗っているスナック菓子を手にとってクチに運ぶ。ボロボロとスナックの欠片が零れおちる。
彼は、手に取ったスナック菓子を少年のクチ元にも運んだ。甘ったるいキャラメル味のスナックが、少年の薄い唇に当たって床に落ちる。少年は、クチを開けてそれを食べようとはしなかった。真っ白だった少年のバスローブが、スナック菓子のせいでどんどん汚れていく。
しかし彼は、そんな事は気にせずに何度も少年のクチにスナックを運んでは、床に落とした。時々、自分のクチに運ぶ。
アニメが終わった後、ひとしきり腹を抱えて笑った彼は、目頭の涙を拭って、不意に少年の首筋に顔をうずめた。
白い首筋に噛みつくように、深く顔をうずめる。
ふにゃり、とした少年の肌が、彼の唇に当たると、彼は忌々しげに顔をしかめた。
「…そろそろ代え時か」
彼は、残念そうに呟いた。
すると、彼の耳元で高い悲しげな声がする。
『すてないで』
彼は、驚いて目を見開く。幼い少年の声だ。声は続ける。
『ぼく、先生のことをあいしているから、だから、すてないで』
少年の言葉に、彼の中の愛しさが弾けた。
この少年は、自分がこの様な姿になっても、己を慕い、愛の言葉を紡ぐのだ。
なんと健気で儚く愛しい生き物なのだろう。この世のどんな美術品も、どんなに美しい美女でも、どんなに美味なる料理でも、この一瞬の、すてられることを恐れ、縋る少年の愛しさには敵わない。
彼は、満面の笑みを見せて少年の頬に手を添える。愛おしげに少年を見つめ、儚げな声を上げる少年に応える様に言った。
「ああ、私も愛しているよ」
テレビの光に照らされて、彼と少年の影が重なる。
一つになった黒い影は、そのままソファの上に倒れ込んだ。




