第5話【冥府へ渡るもの】10
朝起きると隣に祥吾がいないので『また私の前から居なくなってしまうのではないか』と不安になりリビングに行くと祥吾が朝ご飯を作ってくれていた。
「おはよう、舞。朝ご飯作っておいたよ。目玉焼きとトースト、あとサラダだけだけどね」
「ふふっ、エプロン似合ってるね」
女性物のレース付エプロンを身につけている祥吾の姿がとても微笑ましく思えた。
「これしか無かったからさー。向こうではレースの付いていないのを買うよ」
祥吾の作った料理を食べながらワイドショーを見ていると天気予報が流れて今日の夕方から数日間雨が降るようだ。
「祥吾さん、夕方から雨みたいだけど傘持って出た方がいいかな?」
「大丈夫、マンションから出たらすぐだから雨には濡れないよ」
ん?とも思ったがマンションの外にタクシーを呼ぶのだろうとあまり気にしないことにした。
その後は昼までソファーでテレビを見て、2人で昼食のパスタを作る。食べ終わって洗い物を済ませて、ソファーに座りながら少しウトウトしながら祥吾の顔を眺める。そうこうしている内に夕方が近づいてきた。
「それじゃあ、準備して出発しようか」
私は部屋着からお洒落着に着替えてメイクをする。その間に天気予報通りに雨が降ってきたのが窓から見えていた。
「何か持って行くものあるかな?下着とか着替えは持ったけど」
「何も持たなくても平気だよ。向こうに全部そろっているから。でもお金は少し必要かな。2,000円くらい。じゃあ、出発しよう」
2,000円とはずいぶん少額だなとは思ったが祥吾が大丈夫というなら大丈夫なのだろう。
祥吾は私の手を引いて歩き出す。家の玄関を出てエレベーターに乗る。今まで『祥吾と一緒ならどこにいっても平気』と思ってはいたものの引越し先が気になり訊いてみた。
「祥吾さん、引越し先ってどういう所なの?」
「そうだね。しがらみが少なくて自由な所かな。舞もすぐに慣れると思うよ」
曖昧な表現ではあるが『悪い所ではなさそうだ』と納得して少し安心した。そしてエレベーターの扉が開く。
「えっ!」
私は驚きのあまり声を出す。
そこに見えたのは1階のエントランスではなく、川の向こう岸も見えないほど大きな大河だった。
「びっくりした?あっちに見える船で川を渡るんだよ。あのお爺さんのオールさばきがすごいんだから」
祥吾はこちら側の岸にある船乗り場に停まっている小舟と船乗り場の端の椅子に腰かける長い髭の老人を指差して言った。
『あんな小舟で大丈夫だろうか?それにお爺さんが船を漕ぐの?』そう思い、私は少し不安になる。
「大丈夫だよ。あのお爺さんは大ベテランだからね。それより船に乗るまで絶対に僕の手を離してはいけないよ」
そう言って祥吾はニタッと笑うと船乗り場に速足で歩きだす。
「ふへへっ、もう少しだ。もう少しで帰れる。ふへへっ」
彼の口から漏れたのは、祥吾さんとは似ても似つかない、気味の悪い下卑た声だった。掴まれた手首は、優しさのかけらもなく私の骨を軋ませる。
「待って!!……痛いよ。祥吾さん!」
「うるさい!!もう少しなんだからさっさと歩け!!」
引きずられるように歩き、船乗り場まであと30mという所で、私は異変に気付いた。空からピンク色の何かが降ってきている。
「……桜の花びら?」
ひらひらと落ちてきていた桜の花びらは勢いをましてドカドカと降り始めて私たちの視界を覆う。
「クソッ、あんな奴が居るなんて聞いてないぞ。ふざけるな!!」
そう言って振り返った祥吾だと思っていたものの顔は……骨だった。
髑髏、されこうべ、しゃれこうべ、色々な言い方があるが、学生の時に理科室で見た人体骨格模型によく似ていた。
「キャーッ、離して!!」
私は驚いて髑髏顔の男の手を全力で振りほどく。
手が振りほどけた瞬間、桜の花びらが方向を変えて髑髏顔の男の方に飛んでいく。そして、男の体が見えなくなるほど張り付いた桜の花びらが一斉に燃えだして炎の塊となった。
メラメラと燃える炎の塊から何かが空に向かって飛び出した。
飛び出したものをよく見ると黒い蛾だ。それも人の顔ほどもある大きな蛾で背中に大きな髑髏のような模様がある。
「クソ、クソ、クソったれ!!」
蛾の髑髏模様が口を動かし叫びをあげる。
炎から逃げる蛾を追尾するように、桜の花びらが執拗に蛾を追いかけて、一枚二枚と花びらが蛾に付く度に燃えて、どんどん蛾の速度が落ちていく。その度に蛾の羽はボロボロになり、速度が落ちた所で大量の花びらに覆われて燃え尽きた。
呆然とする私の近くで「フーッ」というため息をつく声が聴こえて前を向くと、5~6m程度前に船乗り場があり、そこで椅子に腰かける外国人の老夫がいた。
「Δεν μπορείς να διασχίσεις το ποτάμι, πήγαινε σπίτι」
どこの国の言葉だろうか、聞いたことの無い言葉なので私は首を傾げる。
「δεν καταλαβαίνεις; 、ン、ウン……お前は川を渡ることは出来ない、家に帰りなさい」
その声は、深く低く、耳ではなく頭の芯に直接響いて、それを聞くと私の意識は暗転した。




