第4話『同じ夢』
夢は、朝になれば消えていく。
そこにあった景色も、聞こえた声も、目を覚ました時には輪郭を失い、やがて思い出せなくなる。
だから人は、それを夢として片づけられる。
けれど。
忘れかけた景色を、別の誰かも見ていたとしたら。
それは本当に、ただの夢なのだろうか。
風の向こうの記憶
風が吹いていた。
冷たくはない。
けれど、春の風とも、夏の風とも違う。
草と水の匂いを含んだ、澪の知らない風だった。
澪は森の中に立っていた。
高く伸びた木々が空を覆い、辺りには白い霧が漂っている。
空は見えない。
足元も暗く、どこから来たのかも分からなかった。
「……誰か、いるの?」
声を出したつもりだった。
けれど、自分の声は耳に届かなかった。
遠くで木々がざわめく。
風が、森の奥へ向かって吹いている。
澪は、その風を追うように歩き始めた。
なぜ進むのかは分からない。
戻る道も見えない。
それでも、森の奥に何かがあるような気がした。
しばらく進むと、霧の向こうに影が浮かび上がった。
古い門だった。
石で造られているように見える。
長い年月を経たのか、柱の一部は崩れ、表面には蔦が絡みついていた。
門の向こうは見えない。
ただ、淡い光だけが揺れていた。
澪は足を止める。
その時。
門の向こうから、声が聞こえた。
遠く、かすかな声。
何を言っているのかは分からない。
けれど、その声が自分を呼んでいるように感じられた。
「誰……?」
澪は一歩、門へ近づいた。
突然、強い風が吹き抜ける。
長い黒髪が大きく舞い、澪は思わず目を閉じた。
声が、もう一度聞こえた。
今度こそ言葉を聞き取れそうな気がした。
けれど。
その意味を理解するより先に、澪は目を覚ました。
「……っ」
息を吸い込み、澪は上体を起こした。
見慣れた天井。
薄暗い自室。
窓の外には、夜明け前の青い光がわずかに差し込んでいる。
澪は何度か深呼吸を繰り返した。
枕元の時計へ視線を向ける。
午前四時四十七分。
目覚ましが鳴るまで、まだ十三分あった。
「夢……」
口にした瞬間、記憶が曖昧になっていく。
森。
風。
古い門。
誰かの声。
確かに見たはずなのに、細かな景色はすでに思い出せなかった。
声が何を伝えようとしていたのかも分からない。
ふと、右手に何かを握っていることに気づく。
澪は視線を落とした。
手の中には、神門家の御守りがあった。
「どうして……?」
眠る前、御守りは机の上へ置いたはずだった。
制服の内側へ身につけることは多いが、眠る時には外している。
寝ぼけて手を伸ばしたのだろうか。
御守りは光っていない。
熱を持っている様子もない。
いつもと変わらない、古びた布製の御守りだった。
澪はしばらくそれを見つめた後、静かに机へ戻した。
ただの夢だ。
昨日、蔵で見た古い品々が記憶に残っていたのかもしれない。
そう自分へ言い聞かせ、布団から出る。
少し早いが、もう一度眠るほどの時間ではない。
澪はいつもどおり、朝の支度を始めた。
夜明け前の道場は、普段と変わらず静かだった。
冷えた板張りの床。
淡い木の香り。
壁に掲げられた神門家の家紋。
澪は稽古着へ着替え、長い黒髪を低い位置で結んでいた。
正面には宗一郎が座っている。
濃紺の作務衣を身につけ、背筋を真っ直ぐに伸ばしながら、澪の動きを静かに見守っていた。
澪は木刀を構える。
呼吸を整える。
足の裏で床を捉え、重心を落とす。
何百回、何千回と繰り返してきた動作。
いつもどおりの型だった。
一歩踏み込む。
木刀を振り下ろす。
身体を返し、次の動きへ移る。
その瞬間。
頬を風が撫でた。
夢の中で感じた、草と水の匂いがした。
澪の動きが、ほんのわずかに遅れる。
木刀の先が、普段の軌道から外れた。
「そこまで」
宗一郎の声が道場へ響く。
澪は動きを止め、木刀を下ろした。
「すみません」
「謝ることではない」
宗一郎はゆっくり立ち上がった。
年齢を感じさせない、隙のない動きだった。
「珍しいな。お前が型の最中に気を散らすとは」
「少し……寝不足なのかもしれません」
「眠れなかったのか?」
「いえ。変な夢を見ただけです」
「夢か」
宗一郎はそれ以上、すぐには聞かなかった。
澪も話を続けるべきか迷う。
「知らない森にいて、風が吹いていました。それから、古い門があって」
口にすると、薄れかけていた景色がわずかに蘇る。
宗一郎の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「夢の中でも門を見たのか」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「起きたら、ほとんど忘れてしまって。自分でも本当に見たのか分からないんです」
「そうか」
宗一郎は少し考えた後、静かに言った。
「一度だけなら、気にしすぎる必要はない」
「……はい」
「だが、同じ夢を繰り返すようなら、覚えておけ」
澪は顔を上げた。
「どうしてですか?」
「夢に限らず、繰り返されるものには理由があることもある」
それは悠斗が言いそうな言葉にも聞こえた。
「おじいちゃんは、何か知ってるの?」
「今の話だけでは、何とも言えん」
宗一郎は道場の中央へ戻った。
「続けるぞ」
「……はい」
澪は木刀を構え直す。
いつもどおりの稽古が再開された。
けれど、宗一郎の言葉は、夢の中の風のように澪の胸へ残り続けた。
「澪、今日は少し眠そうねえ」
朝食の席で、千鶴が言った。
「そう見える?」
「ほんの少しだけ」
千鶴は柔らかく微笑みながら、味噌汁の椀を澪の前へ置いた。
食卓には、ご飯と味噌汁、焼き鮭、だし巻き卵、それから漬物が並んでいる。
いつもと変わらない朝食だった。
「変な夢を見て、少し早く起きただけ」
「あら。怖い夢?」
「怖いというより……不思議な夢かな」
「そう」
千鶴は詳しく聞こうとはしなかった。
澪が話したければ続きを話す。
話したくないのであれば、無理に聞き出さない。
昔から変わらない距離感だった。
「今日は早く休めるといいわね」
「うん」
澪は味噌汁を口に運ぶ。
温かさが身体へ広がっていく。
森も、門も、風も。
こうして普段どおりの朝食を前にすると、急に現実感を失っていった。
やはり、ただの夢だったのだろう。
澪はそう考え、いつもどおり朝食を食べ終えた。
神門家を出る頃には、空はすっかり明るくなっていた。
澪は制服の白いブレザーを整え、学校へ続く道を歩く。
風はほとんど吹いていない。
住宅街の木々も、庭先の洗濯物も静かだった。
そのはずなのに。
ふいに、黒髪が揺れた。
頬を柔らかな風が通り過ぎていく。
澪は足を止めた。
周囲を見回す。
誰も気にしていない。
道端の草も動いていなかった。
「気のせい……?」
小さく呟き、再び歩き始める。
胸元には御守りがある。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ重さ。
登校中の生徒たちとともに校門をくぐっても、目に見える異常はなかった。
友人と笑い合う声。
朝練を終えて戻ってくる運動部員たち。
昇降口に響く靴音。
いつもと変わらない、星見ヶ丘学園の朝だった。
「澪、おはよー」
教室へ入ると、陽菜がすぐに近づいてきた。
「おはよう、陽菜」
「ん?」
陽菜は澪の顔を覗き込む。
「何?」
「ちょっと眠そう」
「おばあちゃんにも言われた」
「夜更かし?」
「してないよ」
「じゃあ朝稽古のやりすぎ?」
「いつもどおり」
「澪のいつもどおりは、普通の高校生のいつもどおりじゃないんだよね」
陽菜は呆れたように言いながら、自分の席から椅子を引き寄せた。
「そういえばさ」
机へ頬杖をつき、何気ない調子で続ける。
「昨日、変な夢見たんだよね」
澪の指が止まった。
「夢?」
「うん。知らない森みたいなところにいて」
澪は陽菜を見る。
「すごい風が吹いてた。少し先に誰かがいたような気がして、追いかけてたんだけど……全然追いつけなかった」
「その人の顔は?」
「見えなかった。そもそも、本当に誰かがいたのかも分かんない。誰かを探してた感じだけ残ってるんだよね」
「ほかには?」
「え?」
陽菜が目を瞬く。
澪は、自分が身を乗り出していたことに気づいた。
「ごめん。続きは?」
「それくらい。呼び止めようとしたんだけど声が出なくて、そこで目が覚めた」
陽菜は軽く笑う。
「変な夢でしょ?」
「何時に起きた?」
「時間?」
「夢から覚めた時間」
「見てないよ。まだ暗かったのは覚えてるけど」
陽菜はそこで、ようやく澪の表情を確かめた。
「澪も見たの?」
「……似たような夢を」
「本当に?」
陽菜の声が少し大きくなり、近くの生徒が振り返った。
陽菜は慌てて声を落とす。
「どんな夢?」
「森にいて、風が吹いてた。陽菜と同じように、知らない場所だった」
「誰かを探してた?」
「それは分からない。でも、古い門があった気がする」
「門?」
「うん。門の向こうから、誰かの声が聞こえた」
「何て?」
「分からない。聞き取れなかったから」
澪はもう一度、夢を思い出そうとした。
けれど、森の景色は朝よりもさらに薄れていた。
「二人で似た夢って、ちょっとすごくない?」
「偶然じゃないかな」
「でも、森と風まで一緒だよ?」
「昨日、同じようなものを見たとか」
「見たっけ?」
陽菜は首を傾げた。
「悠斗にも聞いてみようか」
「悠斗に?」
「こういう時、一番細かいこと覚えてそうじゃない?」
陽菜らしい理由だった。
澪は少し迷ったが、頷く。
「昼休みに聞いてみよう」
「決まり」
そこで予鈴が鳴った。
陽菜は椅子を戻し、自分の席へ駆けていく。
教室へ入ってきた水瀬佳乃が、出席簿を教卓へ置いた。
「朝から元気なのはいいけれど、席にはついてね」
「はーい」
陽菜が返事をする。
クラスに小さな笑いが起きた。
いつもと変わらない朝の教室。
けれど澪には、もうあの夢を単なる偶然として忘れることができなかった。
昼休み。
澪と陽菜は、悠斗の教室へ向かった。
悠斗は自分の席で、開いた図鑑を読んでいた。
「悠斗」
陽菜が声をかけると、悠斗は顔を上げた。
「どうしたの」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「その言い方をする時は、大体ろくでもない話だよね」
「失礼な」
「違う?」
「今日は、ちょっと不思議な話」
「余計に警戒した方がよさそうだ」
悠斗は図鑑を閉じた。
三人は昼食を持ち、校舎の端にある休憩スペースへ移動した。
窓の向こうには、中庭の大楠が見える。
周囲にいる生徒は少なく、落ち着いて話せる場所だった。
「それで、不思議な話って?」
悠斗が尋ねる。
陽菜は澪と顔を見合わせた後、先に口を開いた。
「昨日、森の夢見なかった?」
悠斗の表情が止まった。
「どうして?」
「見たの?」
「質問に質問で返さないで」
「今はいいから。見た?」
悠斗は陽菜を見た後、澪へ視線を移した。
「二人とも?」
「似た夢を見たみたい」
澪が答える。
悠斗は数秒黙り、眼鏡の位置を直した。
「森かどうかは分からない。暗かったから。ただ、木みたいなものはあった」
「風は?」
「音はしてた」
「やっぱり!」
陽菜が身を乗り出す。
「待って。似ていると決めるのはまだ早い」
「森っぽい場所で、風の音がしてたんでしょ?」
「夢としては珍しい組み合わせじゃない。二人の話を聞いた後だから、自分の記憶が引っ張られている可能性もある」
「夢の話でも、そんなに理屈っぽくなる?」
「夢だからこそだよ。記憶は曖昧なんだから」
悠斗はスマートフォンを取り出した。
「二人は何を覚えてる?」
陽菜が、自分の夢について説明する。
知らない森。
強い風。
誰かを探していた感覚。
声が出なかったこと。
次に、澪が話す。
森。
風。
古い門。
聞き取れない声。
悠斗は内容を簡単にスマートフォンへ打ち込んでいく。
「悠斗は?」
「暗い場所と、円みたいな輪郭があった」
「円?」
「門だったかもしれない。ただの光だった可能性もあるけど」
澪は夢の中の門を思い出す。
「ほかには?」
「起きた後、スマホの時刻表示が一度止まった」
陽菜が眉を上げる。
「何時?」
「四時四十七分」
澪は息を止めた。
「私も」
悠斗の指が止まる。
「時計を見た?」
「うん。起きてすぐに」
二人の視線が陽菜へ向いた。
「私、見てないよ」
「大体でいい」
「まだ暗かった。すぐ寝直したと思うから、四時台だったかもしれないけど……」
陽菜は困ったように首を傾げる。
「そんなにぴったり同じことってある?」
「ないとは言えない」
悠斗は落ち着いた声で答えた。
「同じ学校に通って、昨日も同じ場所にいた。何か共通の刺激を受けた可能性はある」
「例えば?」
「音、匂い、授業で見た映像、誰かが話していた内容。本人が意識していなくても、夢に影響するものはいくらでもある」
「じゃあ、同じ時間に起きたのも?」
「澪と僕の二人だけなら、偶然の範囲かもしれない。陽菜の時刻は分からないし」
「三人で夢が繋がる電波みたいなのを受信したとか」
「その仮説を採用する前に、もっと普通の可能性を考えたい」
「冗談だよ」
陽菜は笑った。
けれど、澪には悠斗が完全に偶然だと思っていないことが分かった。
悠斗はスマートフォンのメモを見つめる。
「また似たことがあったら、時間と内容を残しておこう」
「調べるの?」
「まだ調べるってほどじゃない。比較できるようにしておくだけ」
「何もなかったら?」
「その時は、偶然だった可能性が高くなる」
「またあったら?」
「偶然じゃない可能性を考える」
陽菜は澪を見る。
澪は窓の向こうへ視線を向けていた。
中庭の大楠。
昼休みの生徒たちが、その下で話したり食事をしたりしている。
何も変わらない。
どこにでもある学校の日常だった。
「澪」
陽菜に呼ばれ、澪は振り返る。
「どうしたの?」
「夢のことだけじゃないよね?」
澪は答えられなかった。
昨日見た蔵。
古い記録。
宗一郎の態度。
今朝、手の中にあった御守り。
どこまでが関係しているのか。
そもそも、本当に関係があるのかも分からない。
「自分でも、まだよく分からない」
ようやく、そう答えた。
陽菜はそれ以上、理由を聞かなかった。
「そっか」
ただ、それだけ言って。
「分かったら話して。聞くくらいならできるから」
澪は陽菜を見つめた。
「うん。ありがとう」
「僕も聞くくらいならできるけど」
悠斗が言う。
「悠斗は質問攻めにしそう」
「必要な確認をするだけ」
「それを質問攻めって言うんだよ」
陽菜の声に、澪は小さく笑った。
ほんの一瞬だけ、胸の中の不安が薄らいだ。
放課後。
「じゃあ私、今日はバイトだから」
陽菜は鞄を肩へ掛けた。
「澪、今日はちゃんと寝るんだよ」
「分かってる」
「変な夢を見ても、一人で何か調べに行ったりしないこと」
「しないよ」
「本当に?」
「本当」
陽菜はまだ少し疑うような目を向けた後、笑って手を振った。
悠斗も自然科学部へ向かうため、途中で別れる。
「また何かあったら連絡して」
「悠斗もね」
「分かった」
三人は、それぞれの放課後へ戻っていく。
澪は一人、昇降口へ向かった。
途中、中庭の脇を通る。
大楠の近くには、部活動へ向かう生徒が数人いた。
澪は足を止めた。
夢で感じた風の匂いがした。
草と水。
知らない森の匂い。
けれど、楠の葉はほとんど動いていない。
ほかの生徒も何も感じていないようだった。
澪は大楠を見上げる。
太い幹。
長い年月を生きてきた枝。
日の光を受ける緑の葉。
その根元から、誰かに呼ばれたような気がした。
声が聞こえたわけではない。
ただ、夢の中の門を見た時と同じ感覚が胸に残った。
「神門さん?」
近くを通った生徒に声をかけられ、澪は我に返った。
「どうかした?」
「ううん。何でもない」
澪は大楠へ背を向けた。
歩き始めた後も、背中へ風が触れているような感覚だけが残った。
同じ頃。
自然科学部へ向かっていた悠斗は、中庭脇の渡り廊下でスマートフォンを確認していた。
表示された時刻は、午後四時十二分。
画面を消そうとした瞬間、数字が止まった。
秒の表示だけが進まない。
悠斗は眉を寄せる。
数秒後、画面が一度暗くなった。
すぐに点灯し、時刻は午後四時十三分へ変わる。
「……故障?」
通信状態を確認する。
問題はない。
ほかのアプリも正常に動いていた。
悠斗は周囲を見回す。
目の前には大楠がある。
風はない。
葉も揺れていない。
悠斗はスマートフォンのメモを開いた。
午後四時十二分。
中庭北側の渡り廊下。
時計表示が数秒停止。
それだけを記録し、再び歩き始めた。
現時点では、ただの端末の不具合だった。
少なくとも、今はそう判断するしかなかった。
神門家へ帰宅した澪は、着替えを済ませた後、書庫へ向かった。
障子の向こうに人の気配がある。
「おじいちゃん?」
「入れ」
中では、宗一郎が古い記録を開いていた。
澪が入ると、宗一郎は静かに本を閉じる。
「どうした」
「朝の夢のことなんだけど」
「何か思い出したか?」
「学校で、陽菜と悠斗も似た夢を見ていたことが分かって」
宗一郎の表情がわずかに変わった。
「二人もか」
「完全に同じじゃないけど、森と風は共通してた。悠斗も、門みたいなものを見たって」
「そうか」
「それから、私と悠斗は同じ時間に目を覚ましてた」
「何時だ」
「午前四時四十七分」
宗一郎は黙り込んだ。
ほんの短い沈黙だった。
けれど、澪には宗一郎が何かを考えていることが分かった。
「何か知ってるの?」
「いや」
「本当に?」
「その時刻に、私が思い当たる明確な意味はない」
宗一郎は嘘をついているようには見えなかった。
「でも、普通の夢じゃないんだよね?」
「三人が似た夢を見て、二人が同じ時刻に目を覚ました。それは事実として覚えておくべきだろう」
「神門家に、似たような記録はないの?」
「門に関係する夢や、同じ時刻に起きた異常の記録は残っている」
「四時四十七分の記録も?」
「古い時代の記録に、現在と同じ時刻表現は使われておらん」
宗一郎は閉じた本へ手を置いた。
「夜明け前、空が白み始める頃、鳥が鳴くより前――記された表現も、時代によって異なる」
「じゃあ、同じ時刻だったかもしれない?」
「分からん」
宗一郎は静かに首を振った。
「現代の時計へ置き換えられるほど、正確な記録ではない。似ているからといって、同じものだと決めることもできん」
澪は少し考える。
「悠斗も、似たことを言ってた」
「ほう」
「またあった時に比較できるように、記録しておこうって」
宗一郎の口元が、わずかに緩んだ。
「よい考えだ」
「おじいちゃんも?」
「分からぬ時は、分かることから残しておけばよい」
「悠斗と同じこと言ってる」
「ならば、あの少年の考え方が正しいのだろう」
宗一郎は穏やかに言った。
「夢の内容、目を覚ました時刻、その前後に起きたこと。覚えている範囲で書いておけ」
「分かった」
「ただし、無理に思い出そうとする必要はない。記憶へ自分の想像を混ぜれば、かえって分からなくなる」
「うん」
澪は頷いた。
宗一郎は再び記録を開く。
澪は書庫を出ようとして、足を止めた。
「おじいちゃん」
「何だ」
「少し、怖くないの?」
宗一郎はすぐには答えなかった。
「分からぬものを警戒することと、恐れることは違う」
その声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
「今はまだ、何も起きておらん。お前はいつもどおり過ごせばよい」
「……うん」
澪は障子を閉め、書庫を離れた。
その足音が遠ざかった後。
宗一郎は机の上の古い記録へ視線を落とした。
そこには、時刻を示す数字は書かれていない。
ただ、薄れた墨で、
夜と朝の境に、門は夢を見せる。
そう記されていた。
夜。
入浴を終えた澪は、自室の机へ向かっていた。
ノートを開き、今日の出来事を書き残す。
午前四時四十七分に目覚めた。
知らない森。
強い風。
古い門。
聞き取れない声。
御守りを握っていた。
陽菜も森と風の夢を見た。
誰かを探していた。
悠斗も森らしき場所と風、門のような光を見た。
同じ午前四時四十七分に目覚めた。
澪はペンを止めた。
聞き取れない声。
その横へ、何かを書こうとする。
何を言われたのか。
自分が呼ばれていたのか。
それとも、別の誰かへ向けられた声だったのか。
思い出せない。
無理に考えれば、宗一郎の言ったとおり、自分の想像を夢の記憶だと思い込んでしまうかもしれない。
澪はペンを置いた。
「……今日は、ここまで」
机の端には御守りが置かれている。
澪はそれを手に取り、しばらく見つめた。
いつもと変わらない。
熱も、光もない。
けれど、窓の外で風の音がした。
澪は顔を上げる。
木々の葉が、小さく揺れていた。
それはどこにでもある、夜の風に見えた。
それでも澪には、夢の中の森から吹いてきた風のように思えた。
誰もいない、夜の星見ヶ丘学園。
校舎は暗く、中庭には月の光が落ちていた。
大楠が、静かに立っている。
風はない。
それでも、一枚の葉が揺れた。
続いて、もう一枚。
やがて枝全体が、何かに触れられたように小さくざわめき始める。
校舎外壁の時計が明滅した。
一度、数字が消える。
次に表示されたのは、
午前四時四十七分。
実際の時刻とは異なる数字だった。
数秒後。
時計は何事もなかったように、正しい時刻へ戻る。
大楠の葉のざわめきも、ゆっくりと収まっていった。
再び静けさに包まれた学園で。
その異常を見ていた者は、誰もいなかった。
第4話『同じ夢』了
同じ夜。
同じ風。
同じ時刻。
けれど、三人が見た夢は、少しずつ違っていた。
それが何を意味するのか、まだ誰にも分からない。
記録にも、記憶にも、明確な答えは残されていない。
ただ一つ。
午前四時四十七分。
その時刻だけが、忘れられたはずの何かを示すように、静かに繰り返されていた。




