表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
正解圏外 – The Outside of the Answer – 《世界を繋ぐ魔道姫》  作者: 咲凪すず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/7

第3話『神門家』後編

夕食を終え、湯浴みを済ませた頃には、境内はすっかり夜の静けさに包まれていた。

 開け放たれた自室の窓から、夏の夜気がゆっくりと流れ込んでくる。

 遠くでは虫の声が重なり合い、時折、山の木々が風に揺れる音が聞こえた。

 机の上には、翌日の教科書とノート。

 その隣には、読みかけの本。

 いつもと変わらない夜だった。

 澪は椅子に座り、ノートへ視線を落とす。

 けれど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。

 蔵で見つけた紙片。

 桐箱に刻まれていた、見知らぬ文字。

 御守りの熱。

 そして、自分の手にだけ反応したかのように、わずかに動いた蓋。

「……お父さんも、開けられなかった」

 呟きながら、制服から外して机へ置いていた御守りを手に取る。

 宗一郎に言われた通り、今夜は眠る時も身につけておくつもりだった。

 見た目は、幼い頃から変わらない。

 白い布地。

 赤い糸。

 特別な装飾もない、小さな御守り。

 それが自分の知らない何かへ反応した。

 偶然ではない。

 そう思ってしまえば、もう見なかったことにはできなかった。

 澪は御守りを首へ掛け、服の内側へしまう。

 その時だった。

 ちりん。


 小さな音がした。

 澪は顔を上げる。

 風鈴ではない。

 この部屋に、鈴は置かれていない。

 耳を澄ませる。

 虫の声。

 風が木々を揺らす音。

 それ以外には、何も聞こえない。

「気のせい……?」

 そう呟いた直後。

 ちりん。


 今度は、はっきりと聞こえた。

 遠くから響いてくる、澄んだ鈴の音。

 神社の鈴とは違う。

 もっと小さく。

 けれど、不思議なほど耳の奥へ届く音だった。

 澪は立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。

 境内は暗い。

 廊下の灯りと、石灯籠のわずかな明かりがあるだけだった。

 それでも、音がどこから聞こえたのかは分かった。

 拝殿の奥。

 本殿よりも、さらに山側。

 普段は立ち入らない、古い社殿の方角だった。

 神門家の敷地内には、いくつかの社がある。

 祭事で使用されるものもあれば、今では役目すら分からなくなったものもある。

 その中でも、山の斜面に近い場所に建つ古い社殿だけは、幼い頃から近づくことを禁じられていた。

 理由を尋ねても、宗一郎はいつも同じように答えた。

 古く、傷んでいるから危ない。

 それだけだった。

 

 ちりん。

 三度目の音。

 今度は、胸元の御守りがかすかに温かくなった。

「……また」

 澪は御守りへ手を当てる。

 蔵で感じた熱ほど強くはない。

 けれど、確かに反応している。

 宗一郎の言葉が頭をよぎった。

 一人で勝手に調べることは許さん。

 わしに知らせろ。

 澪は部屋を出ようとする。

 祖父へ知らせなければならない。

 そう思った。

 けれど廊下へ出たところで、足を止める。

 宗一郎の部屋は暗かった。

 千鶴の部屋にも、すでに灯りはない。

 眠っているのだろうか。

 起こすべきか。

 そう迷っている間にも、御守りの熱が少しずつ増していく。

 

 ちりん。

 鈴の音が、澪を呼ぶように響いた。

 ほんの少しだけ。

 場所を確認するだけなら。

 近づかず、何が起きているのかを見るだけなら。

 そんな考えが浮かぶ。

 澪はしばらく廊下に立ち尽くした後、自室へ戻り、薄手の羽織を肩へ掛けた。

 懐中電灯を手に取り、音を立てないよう静かに玄関へ向かう。

 外へ出ると、夜の空気が肌へ触れた。

 昼間の暑さは残っている。

 それでも、山から下りてくる風にはわずかな冷たさがあった。

 石畳を進む。

 拝殿の脇を通り、本殿の裏手へ回る。

 辺りは次第に暗くなっていった。

 懐中電灯の光が、足元の石と草木を細く照らす。

 奥へ進むにつれ、虫の声が遠のいていくような気がした。

 実際に鳴き止んだわけではない。

 それなのに、耳へ届かなくなっていく。

 周囲の空気だけが、別の場所へ切り離されていくようだった。

 やがて、木々の間に古い石段が見えてきた。

 苔の生えた石段。

 その先には、小さな社殿がある。

 社殿の前には、背の高い木製の囲いが設けられていた。

 さらに奥。

 月明かりの下に、巨大な門が立っている。

 澪は息を呑んだ。

 幼い頃、遠くから見たことはある。

 けれど、これほど近くまで来たことはなかった。

 二枚の扉を持つ、古い門。

 木造のようにも見えるが、表面には金属とも石ともつかない黒い板が張られている。

 柱には太い注連縄が巻かれ、何枚もの札が重なるように貼られていた。

 門の周囲には、細い縄が幾重にも張り巡らされている。

 まるで、何かを中へ閉じ込めているかのように。

 

 ちりん。

 鈴の音は、門の向こう側から聞こえた。

「この中から……?」

 澪は一歩だけ近づく。

 胸元の御守りが熱を増す。

 熱い。

 それでも、不思議と苦痛はなかった。

 むしろ、門へ近づくよう背中を押されているように感じた。

 懐中電灯の光を門へ向ける。

 その中央には、蔵の桐箱に刻まれていたものと同じ紋があった。

 円環。

 門。

 一本の剣。

 環門一剣紋。

「神門家の家紋……」

 家紋の周囲にも、あの文字が刻まれている。

 古い紙片。

 桐箱。

 そして、この門。

 すべてが同じもので結ばれていた。

 澪は門の文字へ視線を凝らす。

 読めない。

 意味も分からない。

 それなのに、胸の奥がざわついた。

 何かがそこにいる。

 そんな根拠のない感覚があった。

「誰か、いるんですか?」

 声を掛ける。

 返事はない。

 ただ。

 門の表面に刻まれた紋が、淡く光った。

「……え?」

 ごく弱い光だった。

 月明かりを反射しただけとも思えるほどの、かすかな輝き。

 けれど、その光は確かに家紋の線に沿って流れていた。

 円環から、一本の剣へ。

 そして中央へ集まっていく。

 胸元の御守りが、鼓動のように熱を放つ。

 一度。

 二度。

 三度。

 澪は思わず門へ手を伸ばした。

「触れるな」

 背後から、鋭い声が響く。

 澪は振り返った。

 石段の下に、宗一郎が立っている。

 寝間着の上から羽織を纏い、片手には鞘へ収められた刀を持っていた。

 その表情は、これまで見たことがないほど厳しい。

「おじいちゃん」

「門から離れろ」

「でも、光って――」

「離れなさい」

 有無を言わせぬ声だった。

 澪は伸ばしていた手を下ろし、ゆっくりと門から距離を取る。

 宗一郎は石段を上がり、澪と門の間へ立った。

 刀を抜くことはない。

 けれど、その手は柄の近くへ添えられていた。

 門の紋から、淡い光が消えていく。

 同時に、御守りの熱も少しずつ弱まった。

「どうして、ここへ来た」

 宗一郎は門へ向いたまま尋ねた。

「鈴の音が聞こえたんです」

「鈴?」

「部屋にいたら、この門の方から」

「御守りは」

「反応しました」

「それで、一人で来たのか」

 澪は答えられなかった。

 宗一郎がゆっくりと振り返る。

「昼間、何と約束した」

「何かあれば、おじいちゃんに知らせると」

「知らせたか」

「……いいえ」

「なぜだ」

「眠っているかもしれないと思って」

「それで一人で来たのか」

「見るだけのつもりでした」

「お前が今、何をしようとしていたか分かっているのか」

「門に触れようとしただけです」

「その門が何なのかも知らずにか」

 宗一郎の声が、低く響く。

 澪は唇を結んだ。

「ごめんなさい」

「謝って済む話ではない」

「でも、この門は御守りに反応しました」

「だから触れたというのか」

「何か分かるかもしれないと思って」

「分からぬものへ安易に手を伸ばすな」

「安易にしたつもりはありません」

「ならば、なお悪い」

 宗一郎の言葉は厳しかった。

 それでも澪は退かなかった。

「この門は何なんですか?」

「……」

「神門家の家紋があって、蔵の箱と同じ文字が刻まれている。学校の楠も、この門と関係があるんですか?」

「今は話せん」

「また、それですか」

「澪」

「分からないなら、分からないでいいと言いました」

 澪は胸元の御守りを握る。

「でも、おじいちゃんは何も知らないわけじゃない」

「知っていることが、すべて話せることとは限らん」

「どうしてですか」

「話せば、お前はさらに踏み込む」

「それは――」

「今夜のことが、その証拠だ」

 澪は言葉を失った。

 否定できなかった。

 宗一郎は門へ目を向ける。

「この門には、決して近づくな」

「理由も分からないままですか?」

「そうだ」

「納得できません」

「納得する必要はない」

 宗一郎の声から、祖父としての柔らかさが消える。

「これは、神門家を預かる者としての命令だ」

 夜の静寂の中へ、その言葉が重く落ちた。

「門へ近づくな。触れることも許さん」

 澪は宗一郎を見つめる。

 そこにいるのは、いつもの祖父ではなかった。

 道場で剣を教える師とも違う。

 長い年月、神門家とこの場所を守ってきた者の顔だった。

「……おじいちゃんは、この門が危険だと思っているんですか?」

「危険かどうかさえ、断言はできん」

「それなのに?」

「わしらが理解できていないものだからこそだ」

「お父さんは、この門を調べていたんですか?」

 宗一郎の表情がわずかに強張る。

 澪はそれを見逃さなかった。

「やっぱり、関係があるんですね」

「今夜はもう戻れ」

「お父さんとお母さんは、この門の向こうへ行ったんですか?」

「澪」

「答えてください」

 宗一郎はしばらく沈黙した。

 木々の間を風が抜ける。

 門に貼られた札が、乾いた音を立てて揺れた。

「……分からん」

 やがて宗一郎は答えた。

「二人がどこへ消えたのかは、今も分かっていない」

「でも、この門を調べていた」

「関係する記録を調べていた。それ以上のことは断言できん」

「門を開こうとしていたんですか?」

「それも分からん」

「何も聞いていなかったんですか?」

「最後まで、すべてを話してはくれなかった」

 その声には、怒りとも悲しみともつかないものが混じっていた。

 澪は、そこで初めて気づいた。

 何も知らされずに残されたのは、自分だけではない。

 宗一郎も同じだった。

 息子と、その妻を失い。

 何が起きたのか分からないまま。

 この門と、残された家を守り続けている。

「……ごめんなさい」

 澪が小さく言う。

 宗一郎は首を横へ振った。

「お前が知りたいと思うのは当然だ」

「でも、私は約束を破りました」

「ああ」

 そこは否定しなかった。

「もう、一人では来ません」

「本当だな」

「はい」

「音が聞こえても、御守りが反応しても、必ずわしを呼べ」

「分かりました」

 宗一郎は澪の顔をしばらく見つめ、やがて短く息を吐いた。

「戻るぞ」

「おじいちゃんは?」

「封を確かめてから戻る」

「私もいます」

「駄目だ」

「でも」

「今度は従いなさい」

 厳しい言葉だったが、先ほどまでの鋭さは少しだけ和らいでいた。

 澪は迷った末に頷く。

「分かりました」

 石段を下りかけ、もう一度だけ振り返る。

 宗一郎は門の前へ立ち、札や注連縄を一つずつ確認していた。

 刀を携えたその背中は大きく見えた。

 けれど同時に。

 ひどく孤独にも見えた。


 澪を自室へ戻した後、宗一郎は書庫へ向かった。

 境内の一角に建つ古い書庫。

 鍵を開け、中へ入る。

 室内には、神門家に伝わる記録や文書が棚いっぱいに収められていた。

 系図。

 祭事の記録。

 土地の由来。

 歴代当主の日誌。

 長い歴史の中で書き残された紙の多くは、変色し、傷み始めている。

 宗一郎は灯りをつけ、昼間に蔵から移した桐箱の前へ座った。

 机の上には、澪が見つけた紙片も置かれている。

 箱の表面を見つめる。

 環門一剣紋。

 そして、その周囲を囲む古い文字。

 宗一郎は棚から一冊の古書を取り出した。

 紙片と、古書に書かれた文字を見比べる。

 すべてを読むことはできない。

 ただ、長年調べ続けてきたことで、わずかに意味の分かる文字もあった。

 門。

 封。

 血。

 継承。

 宗一郎は紙片の汚れを傷つけぬよう、柔らかな布で慎重に拭う。

 隠れていた文字が現れる。

 目を細め、一文字ずつ形を追った。

「……継ぐ、者」

 掠れた声が漏れる。

 続く文字は欠けている。

 読むことはできない。

 それでも、その一節だけは見間違えようがなかった。

 宗一郎は桐箱へ手を伸ばす。

 蓋へ指を掛け、ゆっくりと力を込める。

 動かない。

 何度試しても、箱は固く閉ざされたままだった。

 澪が触れた時には、わずかに開いたという。

 御守りも反応した。

 門の紋まで光った。

「やはり、澪なのか……」

 宗一郎は目を閉じる。

 かつて、澪の父も同じ箱を調べていた。

 何度も開こうとした。

 古い記録を読み解こうとした。

 そして、最後には何も告げぬまま、妻とともに姿を消した。

 あの日のことを思い出す。

 家を出る息子へ、宗一郎は問いただした。

 どこへ行くのか。

 何をしようとしているのか。

 息子は、ただ一言だけ答えた。

 確かめなければならないことがある。

 

 そして。

 澪を頼む。

 それが最後の言葉だった。

 宗一郎は机の上で拳を握る。

「同じ道を歩ませるわけにはいかん」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 しかし、隠し続けるだけでは止められないことも分かっていた。

 澪はもう、何も知らずに守られるだけの幼子ではない。

 御守りが反応し。

 箱が動き。

 門が応えた。

 すでに何かは始まっている。

 宗一郎は古書の頁をめくる。

 長い間、意味を読み取れずにいた一節へ目を落とす。

 そこには、かろうじて判別できる文字が並んでいた。

 門が開く時。

 二つの世界。

 継ぐ者。

 そして、その先は大きく欠けている。

「何を継がせようというのだ……」

 宗一郎の問いに、答える者はいない。

 その時。

 書庫の外から、かすかな音が聞こえた。

 ちりん。


 宗一郎は顔を上げる。

 鈴の音。

 澪が聞いたというものと同じなのか。

 音は一度きりで消えた。

 宗一郎は立ち上がり、書庫の戸を開ける。

 夜の境内。

 木々。

 静まり返った社殿。

 何も変わった様子はない。

 だが、山側に立つ古い門の周囲だけが。

 一瞬。

 本当に一瞬だけ。

 夜の闇よりも深い影に包まれたように見えた。

 宗一郎は腰の刀へ手を添える。

 そして、長い間門を見つめ続けた。


 自室へ戻った澪は、布団の中で目を閉じていた。

 眠ろうとしても、なかなか眠れない。

 胸元の御守りは、すでに熱を失っている。

 それでも、門の紋が淡く光った光景が頭から離れなかった。

 宗一郎の言葉も。

 神門家を預かる者としての命令。

 近づくな。

 触れるな。

 澪は、その命令に従うと約束した。

 けれど、知りたいという気持ちまで消えたわけではない。

 父と母は、何を知ろうとしていたのか。

 神門家は、何を守っているのか。

 御守りは、なぜ自分に反応するのか。

 そして、あの門の向こうには何があるのか。

 澪は御守りを服の上から握る。

 やがて眠りへ落ちる直前。

 耳の奥で、もう一度だけ。

 鈴の音が聞こえた気がした。

 ちりん。


 それは、遠い場所からの呼び声のように。

 まだ出会ったことのない世界から届く、微かな合図のように。

 夜の静寂へ溶けていった。


第3話『神門家』了


家には、受け継がれてきたものがある。

名前。

記憶。

守るべき場所。

そして、言葉にされないまま残された願い。

誰かを守るために閉ざされた真実は、

いつしか、その人自身を真実へ導いていく。

閉ざされた門は、まだ何も語らない。

それでも、その向こう側では。

長い時を眠っていた何かが、

少女の存在に気づき始めていた。

鈴の音は、ただ静かに。

遠い約束を思い出すように、

夜の奥で鳴り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ