第3話『神門家』後編
夜
夕食を終え、湯浴みを済ませた頃には、境内はすっかり夜の静けさに包まれていた。
開け放たれた自室の窓から、夏の夜気がゆっくりと流れ込んでくる。
遠くでは虫の声が重なり合い、時折、山の木々が風に揺れる音が聞こえた。
机の上には、翌日の教科書とノート。
その隣には、読みかけの本。
いつもと変わらない夜だった。
澪は椅子に座り、ノートへ視線を落とす。
けれど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。
蔵で見つけた紙片。
桐箱に刻まれていた、見知らぬ文字。
御守りの熱。
そして、自分の手にだけ反応したかのように、わずかに動いた蓋。
「……お父さんも、開けられなかった」
呟きながら、制服から外して机へ置いていた御守りを手に取る。
宗一郎に言われた通り、今夜は眠る時も身につけておくつもりだった。
見た目は、幼い頃から変わらない。
白い布地。
赤い糸。
特別な装飾もない、小さな御守り。
それが自分の知らない何かへ反応した。
偶然ではない。
そう思ってしまえば、もう見なかったことにはできなかった。
澪は御守りを首へ掛け、服の内側へしまう。
その時だった。
ちりん。
小さな音がした。
澪は顔を上げる。
風鈴ではない。
この部屋に、鈴は置かれていない。
耳を澄ませる。
虫の声。
風が木々を揺らす音。
それ以外には、何も聞こえない。
「気のせい……?」
そう呟いた直後。
ちりん。
今度は、はっきりと聞こえた。
遠くから響いてくる、澄んだ鈴の音。
神社の鈴とは違う。
もっと小さく。
けれど、不思議なほど耳の奥へ届く音だった。
澪は立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
境内は暗い。
廊下の灯りと、石灯籠のわずかな明かりがあるだけだった。
それでも、音がどこから聞こえたのかは分かった。
拝殿の奥。
本殿よりも、さらに山側。
普段は立ち入らない、古い社殿の方角だった。
神門家の敷地内には、いくつかの社がある。
祭事で使用されるものもあれば、今では役目すら分からなくなったものもある。
その中でも、山の斜面に近い場所に建つ古い社殿だけは、幼い頃から近づくことを禁じられていた。
理由を尋ねても、宗一郎はいつも同じように答えた。
古く、傷んでいるから危ない。
それだけだった。
ちりん。
三度目の音。
今度は、胸元の御守りがかすかに温かくなった。
「……また」
澪は御守りへ手を当てる。
蔵で感じた熱ほど強くはない。
けれど、確かに反応している。
宗一郎の言葉が頭をよぎった。
一人で勝手に調べることは許さん。
わしに知らせろ。
澪は部屋を出ようとする。
祖父へ知らせなければならない。
そう思った。
けれど廊下へ出たところで、足を止める。
宗一郎の部屋は暗かった。
千鶴の部屋にも、すでに灯りはない。
眠っているのだろうか。
起こすべきか。
そう迷っている間にも、御守りの熱が少しずつ増していく。
ちりん。
鈴の音が、澪を呼ぶように響いた。
ほんの少しだけ。
場所を確認するだけなら。
近づかず、何が起きているのかを見るだけなら。
そんな考えが浮かぶ。
澪はしばらく廊下に立ち尽くした後、自室へ戻り、薄手の羽織を肩へ掛けた。
懐中電灯を手に取り、音を立てないよう静かに玄関へ向かう。
外へ出ると、夜の空気が肌へ触れた。
昼間の暑さは残っている。
それでも、山から下りてくる風にはわずかな冷たさがあった。
石畳を進む。
拝殿の脇を通り、本殿の裏手へ回る。
辺りは次第に暗くなっていった。
懐中電灯の光が、足元の石と草木を細く照らす。
奥へ進むにつれ、虫の声が遠のいていくような気がした。
実際に鳴き止んだわけではない。
それなのに、耳へ届かなくなっていく。
周囲の空気だけが、別の場所へ切り離されていくようだった。
やがて、木々の間に古い石段が見えてきた。
苔の生えた石段。
その先には、小さな社殿がある。
社殿の前には、背の高い木製の囲いが設けられていた。
さらに奥。
月明かりの下に、巨大な門が立っている。
澪は息を呑んだ。
幼い頃、遠くから見たことはある。
けれど、これほど近くまで来たことはなかった。
二枚の扉を持つ、古い門。
木造のようにも見えるが、表面には金属とも石ともつかない黒い板が張られている。
柱には太い注連縄が巻かれ、何枚もの札が重なるように貼られていた。
門の周囲には、細い縄が幾重にも張り巡らされている。
まるで、何かを中へ閉じ込めているかのように。
ちりん。
鈴の音は、門の向こう側から聞こえた。
「この中から……?」
澪は一歩だけ近づく。
胸元の御守りが熱を増す。
熱い。
それでも、不思議と苦痛はなかった。
むしろ、門へ近づくよう背中を押されているように感じた。
懐中電灯の光を門へ向ける。
その中央には、蔵の桐箱に刻まれていたものと同じ紋があった。
円環。
門。
一本の剣。
環門一剣紋。
「神門家の家紋……」
家紋の周囲にも、あの文字が刻まれている。
古い紙片。
桐箱。
そして、この門。
すべてが同じもので結ばれていた。
澪は門の文字へ視線を凝らす。
読めない。
意味も分からない。
それなのに、胸の奥がざわついた。
何かがそこにいる。
そんな根拠のない感覚があった。
「誰か、いるんですか?」
声を掛ける。
返事はない。
ただ。
門の表面に刻まれた紋が、淡く光った。
「……え?」
ごく弱い光だった。
月明かりを反射しただけとも思えるほどの、かすかな輝き。
けれど、その光は確かに家紋の線に沿って流れていた。
円環から、一本の剣へ。
そして中央へ集まっていく。
胸元の御守りが、鼓動のように熱を放つ。
一度。
二度。
三度。
澪は思わず門へ手を伸ばした。
「触れるな」
背後から、鋭い声が響く。
澪は振り返った。
石段の下に、宗一郎が立っている。
寝間着の上から羽織を纏い、片手には鞘へ収められた刀を持っていた。
その表情は、これまで見たことがないほど厳しい。
「おじいちゃん」
「門から離れろ」
「でも、光って――」
「離れなさい」
有無を言わせぬ声だった。
澪は伸ばしていた手を下ろし、ゆっくりと門から距離を取る。
宗一郎は石段を上がり、澪と門の間へ立った。
刀を抜くことはない。
けれど、その手は柄の近くへ添えられていた。
門の紋から、淡い光が消えていく。
同時に、御守りの熱も少しずつ弱まった。
「どうして、ここへ来た」
宗一郎は門へ向いたまま尋ねた。
「鈴の音が聞こえたんです」
「鈴?」
「部屋にいたら、この門の方から」
「御守りは」
「反応しました」
「それで、一人で来たのか」
澪は答えられなかった。
宗一郎がゆっくりと振り返る。
「昼間、何と約束した」
「何かあれば、おじいちゃんに知らせると」
「知らせたか」
「……いいえ」
「なぜだ」
「眠っているかもしれないと思って」
「それで一人で来たのか」
「見るだけのつもりでした」
「お前が今、何をしようとしていたか分かっているのか」
「門に触れようとしただけです」
「その門が何なのかも知らずにか」
宗一郎の声が、低く響く。
澪は唇を結んだ。
「ごめんなさい」
「謝って済む話ではない」
「でも、この門は御守りに反応しました」
「だから触れたというのか」
「何か分かるかもしれないと思って」
「分からぬものへ安易に手を伸ばすな」
「安易にしたつもりはありません」
「ならば、なお悪い」
宗一郎の言葉は厳しかった。
それでも澪は退かなかった。
「この門は何なんですか?」
「……」
「神門家の家紋があって、蔵の箱と同じ文字が刻まれている。学校の楠も、この門と関係があるんですか?」
「今は話せん」
「また、それですか」
「澪」
「分からないなら、分からないでいいと言いました」
澪は胸元の御守りを握る。
「でも、おじいちゃんは何も知らないわけじゃない」
「知っていることが、すべて話せることとは限らん」
「どうしてですか」
「話せば、お前はさらに踏み込む」
「それは――」
「今夜のことが、その証拠だ」
澪は言葉を失った。
否定できなかった。
宗一郎は門へ目を向ける。
「この門には、決して近づくな」
「理由も分からないままですか?」
「そうだ」
「納得できません」
「納得する必要はない」
宗一郎の声から、祖父としての柔らかさが消える。
「これは、神門家を預かる者としての命令だ」
夜の静寂の中へ、その言葉が重く落ちた。
「門へ近づくな。触れることも許さん」
澪は宗一郎を見つめる。
そこにいるのは、いつもの祖父ではなかった。
道場で剣を教える師とも違う。
長い年月、神門家とこの場所を守ってきた者の顔だった。
「……おじいちゃんは、この門が危険だと思っているんですか?」
「危険かどうかさえ、断言はできん」
「それなのに?」
「わしらが理解できていないものだからこそだ」
「お父さんは、この門を調べていたんですか?」
宗一郎の表情がわずかに強張る。
澪はそれを見逃さなかった。
「やっぱり、関係があるんですね」
「今夜はもう戻れ」
「お父さんとお母さんは、この門の向こうへ行ったんですか?」
「澪」
「答えてください」
宗一郎はしばらく沈黙した。
木々の間を風が抜ける。
門に貼られた札が、乾いた音を立てて揺れた。
「……分からん」
やがて宗一郎は答えた。
「二人がどこへ消えたのかは、今も分かっていない」
「でも、この門を調べていた」
「関係する記録を調べていた。それ以上のことは断言できん」
「門を開こうとしていたんですか?」
「それも分からん」
「何も聞いていなかったんですか?」
「最後まで、すべてを話してはくれなかった」
その声には、怒りとも悲しみともつかないものが混じっていた。
澪は、そこで初めて気づいた。
何も知らされずに残されたのは、自分だけではない。
宗一郎も同じだった。
息子と、その妻を失い。
何が起きたのか分からないまま。
この門と、残された家を守り続けている。
「……ごめんなさい」
澪が小さく言う。
宗一郎は首を横へ振った。
「お前が知りたいと思うのは当然だ」
「でも、私は約束を破りました」
「ああ」
そこは否定しなかった。
「もう、一人では来ません」
「本当だな」
「はい」
「音が聞こえても、御守りが反応しても、必ずわしを呼べ」
「分かりました」
宗一郎は澪の顔をしばらく見つめ、やがて短く息を吐いた。
「戻るぞ」
「おじいちゃんは?」
「封を確かめてから戻る」
「私もいます」
「駄目だ」
「でも」
「今度は従いなさい」
厳しい言葉だったが、先ほどまでの鋭さは少しだけ和らいでいた。
澪は迷った末に頷く。
「分かりました」
石段を下りかけ、もう一度だけ振り返る。
宗一郎は門の前へ立ち、札や注連縄を一つずつ確認していた。
刀を携えたその背中は大きく見えた。
けれど同時に。
ひどく孤独にも見えた。
澪を自室へ戻した後、宗一郎は書庫へ向かった。
境内の一角に建つ古い書庫。
鍵を開け、中へ入る。
室内には、神門家に伝わる記録や文書が棚いっぱいに収められていた。
系図。
祭事の記録。
土地の由来。
歴代当主の日誌。
長い歴史の中で書き残された紙の多くは、変色し、傷み始めている。
宗一郎は灯りをつけ、昼間に蔵から移した桐箱の前へ座った。
机の上には、澪が見つけた紙片も置かれている。
箱の表面を見つめる。
環門一剣紋。
そして、その周囲を囲む古い文字。
宗一郎は棚から一冊の古書を取り出した。
紙片と、古書に書かれた文字を見比べる。
すべてを読むことはできない。
ただ、長年調べ続けてきたことで、わずかに意味の分かる文字もあった。
門。
封。
血。
継承。
宗一郎は紙片の汚れを傷つけぬよう、柔らかな布で慎重に拭う。
隠れていた文字が現れる。
目を細め、一文字ずつ形を追った。
「……継ぐ、者」
掠れた声が漏れる。
続く文字は欠けている。
読むことはできない。
それでも、その一節だけは見間違えようがなかった。
宗一郎は桐箱へ手を伸ばす。
蓋へ指を掛け、ゆっくりと力を込める。
動かない。
何度試しても、箱は固く閉ざされたままだった。
澪が触れた時には、わずかに開いたという。
御守りも反応した。
門の紋まで光った。
「やはり、澪なのか……」
宗一郎は目を閉じる。
かつて、澪の父も同じ箱を調べていた。
何度も開こうとした。
古い記録を読み解こうとした。
そして、最後には何も告げぬまま、妻とともに姿を消した。
あの日のことを思い出す。
家を出る息子へ、宗一郎は問いただした。
どこへ行くのか。
何をしようとしているのか。
息子は、ただ一言だけ答えた。
確かめなければならないことがある。
そして。
澪を頼む。
それが最後の言葉だった。
宗一郎は机の上で拳を握る。
「同じ道を歩ませるわけにはいかん」
誰に聞かせるでもなく呟く。
しかし、隠し続けるだけでは止められないことも分かっていた。
澪はもう、何も知らずに守られるだけの幼子ではない。
御守りが反応し。
箱が動き。
門が応えた。
すでに何かは始まっている。
宗一郎は古書の頁をめくる。
長い間、意味を読み取れずにいた一節へ目を落とす。
そこには、かろうじて判別できる文字が並んでいた。
門が開く時。
二つの世界。
継ぐ者。
そして、その先は大きく欠けている。
「何を継がせようというのだ……」
宗一郎の問いに、答える者はいない。
その時。
書庫の外から、かすかな音が聞こえた。
ちりん。
宗一郎は顔を上げる。
鈴の音。
澪が聞いたというものと同じなのか。
音は一度きりで消えた。
宗一郎は立ち上がり、書庫の戸を開ける。
夜の境内。
木々。
静まり返った社殿。
何も変わった様子はない。
だが、山側に立つ古い門の周囲だけが。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
夜の闇よりも深い影に包まれたように見えた。
宗一郎は腰の刀へ手を添える。
そして、長い間門を見つめ続けた。
自室へ戻った澪は、布団の中で目を閉じていた。
眠ろうとしても、なかなか眠れない。
胸元の御守りは、すでに熱を失っている。
それでも、門の紋が淡く光った光景が頭から離れなかった。
宗一郎の言葉も。
神門家を預かる者としての命令。
近づくな。
触れるな。
澪は、その命令に従うと約束した。
けれど、知りたいという気持ちまで消えたわけではない。
父と母は、何を知ろうとしていたのか。
神門家は、何を守っているのか。
御守りは、なぜ自分に反応するのか。
そして、あの門の向こうには何があるのか。
澪は御守りを服の上から握る。
やがて眠りへ落ちる直前。
耳の奥で、もう一度だけ。
鈴の音が聞こえた気がした。
ちりん。
それは、遠い場所からの呼び声のように。
まだ出会ったことのない世界から届く、微かな合図のように。
夜の静寂へ溶けていった。
第3話『神門家』了
家には、受け継がれてきたものがある。
名前。
記憶。
守るべき場所。
そして、言葉にされないまま残された願い。
誰かを守るために閉ざされた真実は、
いつしか、その人自身を真実へ導いていく。
閉ざされた門は、まだ何も語らない。
それでも、その向こう側では。
長い時を眠っていた何かが、
少女の存在に気づき始めていた。
鈴の音は、ただ静かに。
遠い約束を思い出すように、
夜の奥で鳴り続けていた。




