第5話「楠の下で ― 止まる時間」
夢なら、目を覚ませば終わる。
見間違いなら、忘れてしまえばいい。
偶然なら、きっと二度は続かない。
だから私たちは、
理解できないものに名前をつけて、
いつもの日常へ戻ろうとする。
けれど…
もし、その違和感が。
目を覚ましたあとも、
すぐそばに残っていたとしたら。
それでもまだ、
「気のせい」
と笑っていられるのだろうか。
午前5時。
目覚まし時計が鳴るより少しだけ早く、澪は目を覚ました。
薄暗い部屋。
カーテンの向こうには、まだ朝になりきっていない空がある。
澪は布団の中で、しばらく天井を見つめていた。
「…………」
夢は見なかった。
少なくとも、覚えてはいない。
森も。
風も。
古い門も。
あの、聞き取れない声も。
何もなかった。
「……そっか」
小さく息を吐く。
安心したのか、それとも少し拍子抜けしたのか。
自分でもよく分からなかった。
身体を起こし、机を見る。
そこには昨夜閉じたままのノートが置かれている。
澪は少し迷ってから手を伸ばした。
ページを開く。
自分の字で書かれた言葉が並んでいた。
午前4時47分。
森。
風。
古い門。
声。
昨日の夢で見たもの。
忘れてしまわないように、覚えている限りを書き留めた。
「……夢、なんだよね」
呟いてみる。
当然、返事はない。
胸元へ視線を落とす。
神門家に伝わる御守り。
いつもと変わらない。
熱を持っているわけでもない。
光っているわけでもない。
ただ昔から持っている、いつもの御守りだ。
澪はノートを閉じた。
「よし」
今日は学校だ。
朝の稽古もある。
考えていても仕方がない。
そう自分に言い聞かせるように、澪は布団から抜け出した。
夜明け前の道場に、木刀が空気を切る音が響いた。
踏み込む。
振る。
止める。
呼吸を整える。
澪の視線は、真っ直ぐ前へ向いていた。
昨夜まで頭の中を占めていた夢のことも、今だけは消えている。
剣を持っている時に余計なことを考えれば、動きへ出る。
それは幼い頃から、何度も教えられてきたことだった。
やがて。
「そこまで!」
宗一郎の声が響いた。
澪は構えを解く。
「ありがとうございました」
深く一礼する。
顔を上げると、宗一郎はいつもの穏やかな表情を浮かべていた。
夢のことを聞かれるかと思った。
けれど、宗一郎は何も言わない。
「朝餉に遅れると、千鶴に叱られるぞ」
「……おじいちゃんもでしょ?」
「わしはもう慣れておる」
「それ、威張るところじゃないと思う」
宗一郎が小さく笑う。
いつもの朝だった。
その後も、何も起こらなかった。
千鶴が用意した朝食を三人で食べて。
制服に着替えて。
鞄を持って玄関へ向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、澪」
「気をつけてな」
「うん」
玄関を出る。
朝の空気。
山を下り、いつもの通学路を歩く。
昨日までと何も変わらない。
だから澪も、少しずつ思い始めていた。
昨日のことは、本当にただの偶然だったのかもしれない、と。
星見ヶ丘学園へ着いた時も、特に変わったことはなかった。
校門を通る生徒たち。
朝練へ向かう運動部。
友人を見つけて駆け寄る女子生徒。
眠そうに欠伸をしながら歩く男子生徒。
どこにでもある朝の学校風景。
澪もその中へ混ざって歩いていく。
「…あれ?」
昇降口へ入ろうとしたところで、近くにいた女子生徒の声が聞こえた。
「また繋がらない」
手にしているのはスマートフォンだった。
隣の友人が画面を覗き込む。
「ネット?」
「うん。昨日も変じゃなかった?」
「人が多いからじゃない?」
「かなあ」
二人はそれ以上気にすることなく、話題を変えて歩いていく。
澪は一瞬だけ立ち止まった。
自分のスマートフォンを取り出す。
表示を見る。
通信は正常。
「…………」
昨日のことが頭をよぎった。
けれど。
「……まあ、学校だし」
多くの生徒が一斉に使えば、通信が不安定になることくらいある。
そう考え、スマートフォンを鞄へ戻した。
「おはよ、澪!」
教室へ入って間もなく、聞き慣れた声が飛んできた。
「おはよう、陽菜」
朝倉陽菜が澪の席までやってくる。
「ねえねえ」
「うん?」
陽菜は少しだけ声を落とした。
「昨日さ」
澪にも何の話か分かった。
「夢?」
「そう、それ」
陽菜が頷く。
「今日、見た?」
「……ううん」
「私も」
二人は顔を見合わせた。
数秒。
陽菜が、ふう、と息を吐く。
「じゃあ、やっぱ昨日だけだったのかな」
「かもしれないね」
「なんだぁ。ちょっと怖かったんだけど」
「怖かったの?」
「そりゃ怖いでしょ。同じ日に三人で変な夢見るとか」
「昨日は面白がってなかった?」
「それはそれ、これはこれ」
「便利だね」
「澪、最近ちょっと悠斗みたいなこと言うようになってない?」
「それは嫌かも」
「本人に言ってやろ」
「やめて」
二人で笑う。
その笑い声に混じるように、始業を知らせるチャイムが鳴った。
水瀬佳乃が教室へ入ってくる。
「はい、席について。ホームルーム始めるわよ」
いつもの学校が始まった。
三時間目。
現代文。
教壇では水瀬が教科書を開きながら説明を続けている。
澪はノートへ板書を書き写していた。
ふと。
何気なく壁時計を見る。
10時18分。
特に意味はない。
ただ、視界に入っただけだった。
再びノートへ視線を戻す。
水瀬の説明を聞きながら、数行書く。
教科書をめくる。
そして、しばらくして、
澪はもう一度、時計を見た。
10時18分。
「……?」
手が止まる。
さっきも、
同じ時刻だった。
秒針を見る。
動いていない。
「…………」
教室を見回す。
誰も気づいていない。
陽菜も普通にノートを取っている。
水瀬も授業を続けている。
澪は再び時計を見る。
止まっている。
10時18分。
その瞬間。
カチッ。
秒針が動いた。
19秒。
20秒。
21秒。
何事もなかったように、時計が時を刻み始める。
澪は眉を寄せた。
「神門さん?」
「え?」
水瀬に呼ばれ、反射的に顔を上げる。
「どうしたの? 時計に何か書いてある?」
教室から小さな笑いが起こる。
「あ……すみません」
「珍しいわね。ぼーっとして」
「ちょっとだけ」
「寝不足?」
「たぶん違います」
「そこは普通に『違います』でいいと思うけど」
また笑いが起きる。
澪も困ったように笑った。
けれど。
もう一度時計を見る。
それは普通に動いていた。
次の休み時間。
澪と陽菜が廊下を歩いていた。
パッ。
突然、頭上の照明が明滅した。
「うわっ」
陽菜が肩をすくめる。
少し先の照明も、一瞬遅れて瞬く。
パッ。
「何これ」
近くにいた男子生徒が天井を見上げた。
「切れかけじゃね?」
「こんな一気に?」
「知らね」
それだけだった。
誰も騒がない。
故障。
そう言われれば、それで納得できる程度のこと。
「最近こういうの多くない?」
陽菜が天井を見ながら言った。
「……うん」
澪は自分のスマートフォンを取り出した。
画面を点ける。
その瞬間。
アンテナ表示が消えた。
「……あ」
「どうしたの?」
「圏外」
陽菜も自分の端末を見る。
「あ、私も」
数秒。
表示が戻る。
「直った」
陽菜は首を傾げながらスマートフォンをしまった。
「学校って、こんな電波悪かったっけ?」
「場所によっては悪いけど……」
澪は画面を見つめる。
昨日。
悠斗のスマートフォンで起きたこと。
朝の昇降口で聞いた言葉。
「昨日も変じゃなかった?」
時計。
照明。
通信。
一つなら、珍しいことではない。
けれど。
澪はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。
「それで?」
昼休み。
悠斗は箸を止めた。
いつものように澪と陽菜の教室へ来て、三人で昼食を取っていた。
「時計が止まってた気がする」
澪が言う。
「気がする?」
「最初に見た時は10時18分。そのあと、何分かして見た時も10時18分だった」
「何分?」
「……正確には分からない」
悠斗が少し考える。
陽菜が呆れたように見る。
「出た。尋問」
「確認してるだけだ」
「昨日もメモしてたじゃん。夢の研究でも始める気?」
「そんな研究はしてない」
「でも記録してたよね?」
澪が言うと、悠斗は一瞬黙った。
「比較できるように残しただけ」
「それを研究っていうんじゃないの?」
「違う」
「どこが?」
「研究っていうのは」
「はいはい、長くなるからいいです」
陽菜が遮る。
「まだ何も言ってないだろ」
「言う顔してた」
「どんな顔だ」
「理屈っぽい顔」
「普段と同じじゃん」
澪が笑う。
「澪まで……」
悠斗がため息をつく。
いつもの三人。
いつもの昼休み。
そのはずだった。
「でもさ」
陽菜が箸を止める。
「今日、ちょっと変じゃない?」
悠斗を見る。
「何が?」
「電気とか、スマホとか」
「通信障害?」
「うん。澪もなったよね」
「一瞬だけ」
悠斗の表情が少し変わる。
「他には?」
「時計」
澪が答える。
「照明も一回だけ」
「時計、照明、通信……」
悠斗が小さく呟く。
陽菜が眉を寄せる。
「何?」
「いや」
悠斗は自分のスマートフォンを取り出した。
「俺のも、今日また一回止まった」
澪と陽菜が同時に見る。
「また?」
「ああ」
「どこで?」
澪が尋ねる。
「二時間目のあと。こっちへ来る途中の渡り廊下」
悠斗は少し考えてから付け加える。
「中庭の北側」
澪の視線が、わずかに動いた。
「昨日も、その辺じゃなかった?」
「近いな」
悠斗は頷いた。
「ただ、同じ端末だから本体側の故障って可能性もある。二回だけじゃ何とも言えない」
「買い替えたら?」
陽菜が言う。
「原因も分からないのに?」
「そういうとこだよ」
「どういうとこだよ」
澪は二人のやり取りを聞きながら、窓の外へ視線を向けた。
中庭。
その向こうに。
大きな楠が見える。
風に揺れる緑の葉。
いつもと変わらない。
はずなのに。
なぜだろう。
今日は、妙に気になった。
放課後。
「じゃ、私バイト!」
陽菜が鞄を肩にかける。
「うん。頑張って」
「ありがと。澪は?」
「今日はそのまま帰るよ」
「悠斗は部活でしょ?」
「ああ」
「じゃあ、今日は解散!」
陽菜が手を振る。
「また明日!」
「また明日」
澪も手を振った。
悠斗も自然科学部へ向かう。
一人になった澪は、鞄を持って教室を出た。
廊下。
階段。
昇降口。
いつもの帰り道。
校庭では運動部の掛け声が響いている。
遠くから吹奏楽部の音も聞こえる。
笑いながら校門へ向かう生徒たち。
どこにでもある放課後。
澪は中庭の近くまで来て。
足を止めた。
「…………」
大楠。
昨日。
ここを通った時。
風が吹いた。
夢と同じ、草と水の匂い。
そして。
誰かに呼ばれたような。
澪はしばらく、その場に立っていた。
帰ろうと思えば、そのまま帰れた。
いつもの道を歩いて。
家へ戻って。
今日のことも、学校の設備が少し調子を崩していただけだと思えばいい。
けれど。
視線を逸らせなかった。
「……少しだけ」
誰に言うでもなく呟いた。
澪は校門へ向かう道を外れ、中庭へ入った。
大楠は、星見ヶ丘学園の中でも特に古い木だ。
太い幹。
大きく広がった枝。
何人もの生徒を覆えるほどの木陰。
普段なら、ベンチで話している生徒もいる。
昼休みなら、弁当を食べている姿も珍しくない。
けれど放課後の今は、人が少なかった。
澪はゆっくり歩く。
一歩。
また一歩。
近づく。
風が吹く。
葉が揺れる。
ざわ。
「…………」
澪は立ち止まった。
匂い。
草。
水。
湿った土。
昨日と同じ。
いや。
夢の中と同じ。
「どうして……」
もう一歩。
楠へ近づいた。
その瞬間だった。
音が、遠くなった。
「……え?」
校庭から聞こえていた運動部の声。
吹奏楽部の演奏。
廊下を歩く生徒たちの話し声。
全部が急に遠ざかる。
消えたわけではない。
聞こえている。
けれど。
まるで水の中から、外の世界を聞いているような。
薄い膜を一枚隔てたような。
そんな感覚。
「…………」
澪は息を呑んだ。
自分の呼吸だけが、妙に近い。
すう、と吸う音。
吐く音。
制服の胸元が、小さく上下する。
耳を澄ませば、自分の鼓動まで聞こえてきそうだった。
澪は周囲を見回した。
風が吹いている。
自分の長い黒髪が揺れている。
楠の葉も揺れている。
けれど。
その向こうにある木々は。
揺れていない。
「……何、これ」
胸の奥がざわつく。
怖い。
そう感じるより先に。
懐かしい。
そんな感覚があった。
知らないはずなのに。
初めてのはずなのに。
ずっと昔にも、こんな風を知っていたような。
澪は楠を見上げた。
木漏れ日が揺れる。
葉の隙間から差し込む光。
その向こうに。
ほんの一瞬。
深い森の緑が重なった気がした。
瞬きをする。
もうない。
そこにあるのは、いつもの空と楠の葉だけ。
「…………」
そして。
感じた。
声ではない。
耳で聞いたわけでもない。
言葉ですらない。
ただ。
そこに何かがいる。
何かが。
こちらを知っている。
そんな感覚。
澪の唇が自然に動いた。
「……誰?」
返事はない。
風だけが吹く。
ざわ。
「誰か、いるの?」
もう一度。
何もない。
澪は無意識に胸元へ手を伸ばした。
御守り。
指先が触れる。
けれど御守りは、いつもと変わらない。
熱もない。
振動もない。
光りもしない。
それでも。
澪は一歩、楠へ近づいた。
そして。
「神門さん?」
「っ!」
突然、背後から声がした。
振り返る。
同じクラスの女子生徒が立っていた。
「どうしたの? こんなところで」
「……え?」
瞬間。
音が戻った。
運動部の掛け声。
吹奏楽部。
生徒たちの話し声。
鳥の声。
風。
全部。
一度に。
思わず一歩、後ろへ下がる。
木々が普通に揺れている。
大楠も。
何も変わらない。
「神門さん?」
「あ……ごめん」
「大丈夫?」
「うん」
澪は楠を見る。
「ちょっと……木を見てただけ」
「楠?」
「うん」
「そっか。じゃ、また明日」
「うん。また明日」
女子生徒は不思議そうにしながらも、そのまま校門の方へ歩いていった。
澪は一人残る。
スマートフォンを取り出す。
時刻。
正常。
通信。
正常。
何もおかしくない。
「…………」
もう一度。
楠を見る。
初めて気づいた時は、光ったように見えただけだった。
気のせいだと思った。
昨日の風も。
夢も。
時計も。
偶然かもしれないと思った。
だけど。
「……気のせい、じゃないよね」
今度は。
その言葉を、自分で否定できなかった。
自然科学部の部室。
悠斗はパソコンの画面を見ながら、ふと思い出したようにスマートフォンを手に取った。
今日。
時計が一瞬止まった。
昨日も。
画面に簡単なメモを残す。
昨日。
中庭北側、渡り廊下付近。
今日。
中庭北側、渡り廊下。
「…………」
悠斗の指が止まる。
場所が、ほとんど重なっている。
たった二件。
偶然と言えば、それまで。
発生時間も違う。
端末そのものの故障も否定できない。
証拠と呼べるものではない。
それでも。
悠斗は画面を見つめた。
「……中庭」
小さく呟く。
その文字を消さず、そのまま保存した。
「ただいま」
神門家へ帰ると、夕食の準備をしていた千鶴が顔を出した。
「おかえりなさい、澪」
「うん」
靴を脱ぎ、廊下へ上がる。
「今日も学校、楽しかった?」
「普通かな」
「そう」
千鶴は柔らかく笑う。
澪はその横を通り過ぎようとして。
「澪」
呼び止められた。
「なに?」
「何かあった?」
澪の足が止まる。
「……どうして?」
「少し考え事をしている顔だったから」
「そんな顔してた?」
「少しだけね」
千鶴はそれ以上何も聞かなかった。
澪は迷う。
夢のこと。
学校の時計。
通信障害。
楠。
全部話してしまおうか。
けれど。
まだ、自分でも何が起きているのか分からない。
「……ちょっと学校で、変なことがあっただけ」
「そう」
千鶴は静かに頷いた。
「話したくなったら、いつでも聞くわよ」
「……うん」
「それより、着替えてらっしゃい。今日は鮭よ」
「あ、やった」
「ちゃんと手も洗うのよ」
「分かってるよ」
思わず笑う。
いつもの家。
いつもの会話。
夕食の匂い。
澪は自分の部屋へ向かった。
その足取りは、帰ってきた時より少しだけ軽くなっていた。
夜。
勉強を終えた澪は、机の引き出しからノートを取り出した。
ページを開く。
ペンを持つ。
今日あったことを、一つずつ書いた。
校内の時計が止まったように見えた。
スマートフォンが一時的に圏外。
廊下の照明が明滅。
悠斗のスマートフォンにも再び異常。
そして。
澪のペンが止まる。
少し迷ってから、続きを書く。
楠の下。
夢と同じ風。
草と水の匂い。
周囲の音が遠くなった。
誰かに呼ばれたような感覚。
そこまで書いて。
最後に。
一行だけ空けた。
ペン先を置く。
ゆっくりと書く。
気のせいではないと思う。
澪はその一文を見つめた。
昨日までは。
そう書くことができなかった。
ノートを閉じる。
窓の外を見る。
夜の山。
静かな神門家。
遠くに見える街の灯り。
そのどこかに。
星見ヶ丘学園もある。
澪は胸元の御守りへ触れた。
何も起こらない。
それでも。
「……何なんだろう」
答えはなかった。
夜の星見ヶ丘学園。
生徒の姿はもうない。
暗い校舎。
静かな廊下。
誰もいない教室。
そして。
中庭に立つ、大楠。
風はない。
葉も動いていない。
パッ。
校舎の一角。
照明が消えた。
数秒。
パッ。
離れた廊下。
また一つ。
パッ。
さらに別の場所。
一つ。
また一つ。
離れた場所から順に、灯りが消えていく。
故障なのか。
偶然なのか。
それを見ている者は、誰もいない。
やがて。
大楠の根元。
ン……。
低い。
低い。
音とも振動ともつかない何か。
ざわっ。
風のない夜。
大楠の葉だけが、一斉に揺れた。
第5話「楠の下で ― 止まる時間」了
夢には、
目を覚ませば逃げることができる。
見間違いなら、
振り返らなければいい。
偶然なら、
いつか忘れてしまえる。
けれど。
いつもの場所で。
いつもの景色の中で。
確かに感じてしまったものを、
なかったことにするのは難しい。
友人と笑い。
授業を受け。
明日も当たり前のように訪れるはずの場所。
星見ヶ丘学園。
その中庭に立つ、大きな楠。
風のない夜。
誰も見ていない場所で。
その葉が、
静かに揺れていた。




