第3話『神門家』前編
家とは、帰る場所である。
そこには、朝の挨拶があり。
温かな食卓があり。
「おかえり」と迎えてくれる誰かがいる。
それは、決して特別なものではない。
当たり前だからこそ、人はその尊さに気づきにくい。
けれど、その当たり前を守るために、
長い年月をかけて受け継がれてきたものがある。
誰にも語られず。
誰にも知られず。
静かに時を越えてきた、その想いは、
少女の知らない場所で、少しずつ目を覚まそうとしていた。
翌朝。
東の空が淡く色づき始める頃、神門家の道場には木刀が風を切る音だけが響いていた。
踏み込み。
斬り上げ。
返し。
そして、静止。
神門澪は深く息を吐き、木刀を正眼に構えた。
身に纏うのは、神門流の稽古着。
深い紺色の上衣に袴。
腰は黒帯で締められ、長い黒髪はうなじの低い位置で一つに結ばれている。
裸足で踏む板張りの床は朝の冷気を含み、足裏へ心地よい緊張を伝えていた。
道場に満ちる静寂の中で、澪は再び構えを取る。
木刀を振り上げた、その瞬間だった。
「遅い」
低く落ち着いた声が響く。
澪は動きを止め、視線を向けた。
壁際に正座している祖父、神門宗一郎が、静かな眼差しでこちらを見ていた。
作務衣姿の老人は、道場にいるだけで空気を引き締める。
「すみません。」
澪は木刀を下ろした。
「身体は動いている。」
宗一郎は静かに言う。
「だが、振る前に迷った。」
澪は少しだけ苦笑した。
「……分かりましたか。」
「分からねば、お前の師は務まらん。」
宗一郎は立ち上がり、ゆっくりと澪の前へ歩み寄る。
「何を考えていた。」
澪は少しだけ視線を落とした。
「昨日のことです。」
「学校か。」
「はい。」
昨日。
星見ヶ丘学園の中庭。
大きな楠の木。
風もないのに揺れた枝。
胸元の御守りが、一瞬だけ熱を帯びた感覚。
そして帰り道で見た、時計の違和感。
どれも決定的な出来事ではない。
けれど、不思議と頭から離れなかった。
「学校でも、一度だけ御守りが熱くなりました。」
「……中庭の楠か。」
澪は顔を上げる。
「どうして分かったんですか?」
宗一郎は少しだけ考えるように目を閉じた。
「あの木が神門家と無関係ではないことだけは、古い記録に残っている。」
「そうなんですか。」
「詳しいことは、わしも知らん。」
「おじいちゃんでも?」
「ああ。」
宗一郎は頷く。
「昔から伝わっているという、それだけだ。」
澪は少し安心した。
祖父が何もかも知っていて、自分だけ秘密にされているわけではない。
分からないものは、祖父にも分からないのだ。
「時計のことは?」
「それは分からん。」
「やっぱり気のせいだったのかな。」
「そうなら、それが一番いい。」
宗一郎は木刀を受け取る。
「だが、気になったことは忘れるな。」
「忘れない、ですか。」
「気のせいなら、それで終わる。」
宗一郎は木刀を構えた。
「だが、本当に何かが起きているなら、小さな違和感ほど大切になる。」
次の瞬間。
宗一郎の木刀が一閃する。
風切り音さえほとんど聞こえない。
それでも澪は、その一太刀が自分の剣とはまるで違うことを理解した。
「力ではない。」
宗一郎は木刀を下ろす。
「迷いを切るのだ。」
「……はい。」
「あと十本。」
「はい。」
「今度は、振ると決めてから振れ。」
澪は木刀を握り直した。
違和感は消えていない。
それでも今は考えすぎない。
一歩踏み込み。
呼吸を整え。
木刀を振り下ろした。
稽古を終えた澪は、自室で制服へ着替える。
白を基調としたブレザー。
白いシャツ。
胸元には深紅のリボン。
白いプリーツスカート。
鏡の前で髪をほどくと、黒髪がさらりと肩から背中へ流れ落ちた。
軽く櫛を通し、机の上に置いてあった御守りを手に取る。
昨日とは違う。
今は何の熱も感じない。
「……気のせい、だったのかな。」
小さく呟き、御守りを制服の内側へしまう。
鞄を持ち、部屋を出た。
「おはよう、澪。」
居間では祖母・千鶴が朝食の支度をしていた。
淡い色の着物に割烹着姿の千鶴は、朝の光によく似合う穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます。」
「今日も朝から元気だったわね。」
「宗一郎さんに、まだ迷いがあるって言われました。」
「あらあら。」
千鶴が微笑む。
「でも、それだけ真剣に考えているってことでもあるでしょう?」
「そうならいいんですけど。」
そこへ宗一郎も居間へ入ってくる。
「考えることと迷うことは違う。」
「また始まりました。」
澪は苦笑する。
「朝御飯の前くらい、剣のお話はお休みにしてください。」
「朝飯だからこその話だ。」
「おじいちゃんは結局、ご飯のことしか考えてませんよね。」
「腹は減る。」
「そこは否定しないんですね。」
三人で笑い合う。
食卓には焼き魚、だし巻き卵、味噌汁、小鉢。
いつもの朝食。
「いただきます。」
三人の声が重なる。
澪は味噌汁を口に運び、ほっと息をついた。
朝稽古を終えた身体へ温かさが染み渡っていく。
「陽菜ちゃん、今日はアルバイトだったかしら。」
千鶴が尋ねる。
「はい。放課後そのまま行くって言ってました。」
「頑張り屋さんねぇ。」
「悠斗君は?」
「自然科学部です。」
「相変わらず真面目だ。」
宗一郎が頷く。
「澪も十分真面目だけどね。」
千鶴が笑う。
「私は普通ですよ。」
「毎朝四時半に起きる高校生が普通なら、世の中の普通は大変だ。」
宗一郎の言葉に、澪は思わず笑ってしまった。
こんな他愛ない会話も、神門家ではいつもの朝だった。
「澪、おはよう!」
校門へ続く坂道で、朝倉陽菜が駆け寄ってきた。
「おはよう。」
「昨日ちゃんと眠れた?」
「うん。」
「まだ時計のこと考えてる?」
「少しだけ。」
「悠斗も気にしてたよ。」
陽菜は歩調を合わせながら笑う。
「駅前の時計だけじゃなくて、学校の時計まで確認してた。」
「悠斗らしいね。」
「ほんとに。」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時だった。
「あ、そうそう!」
陽菜が指を立てる。
「昨日の約束、忘れてないよね?」
「約束?」
「今度のお休み。」
「ああ。」
「三人で遊びに行くって話!」
「忘れてないよ。」
「じゃあ今日は昼休みに作戦会議!」
「もう決めるの?」
「こういうのは勢いが大事!」
陽菜は満面の笑みを浮かべる。
「バイトもちゃんと休み取るからね。」
「楽しみにしてる。」
「よし、それでこそ澪!」
二人は笑いながら校門をくぐった。
昨日の違和感が嘘だったかのように。
学校はいつも通りの朝を迎えていた。
昼休み。
「候補を考えてきた。」
悠斗が教室へやって来るなり、真面目な顔で言った。
「早い早い。」
陽菜が笑う。
「まずは聞こう。」
「水族館。」
「おお。」
「駅前から電車一本。天候に左右されない。展示も多い。」
「さすが悠斗。」
「理屈で選んでる。」
「悪いか?」
「悪くない。」
陽菜は笑いながらスマートフォンを取り出した。
「私はショッピングモール!」
「理由は?」
「映画も見られるし、ご飯も食べられるし、本屋もある!」
「合理的だ。」
「悠斗に褒められた。」
二人が笑う。
「澪は?」
突然話を振られ、澪は少し考える。
「私は……。」
二人の顔を見る。
「二人と一緒なら、どこでも。」
陽菜はすぐに苦笑した。
「そういうところだよ、澪。」
「え?」
「もっと自分の行きたい場所、言っていいんだよ?」
「そうだな。」
悠斗も頷く。
「希望があれば、予定も立てやすい。」
澪は少しだけ考える。
行きたい場所。
見たいもの。
ふと、一つだけ思い浮かんだ。
「大きな本屋さん。」
「本屋?」
「うん。本を少し見てみたい。」
「それなら水族館の近くにあるよ!」
陽菜がすぐ検索を始める。
「じゃあ、水族館に行って、ご飯食べて、本屋!」
「十分回れる。」
悠斗が頷く。
「じゃあ決まり!」
陽菜は嬉しそうに両手を合わせた。
「今度のお休み、楽しみだね!」
澪は自然と笑みを浮かべる。
「うん。」
本当に楽しみだった。
何気ない休日。
何気ない約束。
それが、こんなにも温かいものだとは思わなかった。
窓の外では、夏の風が校庭の木々を静かに揺らしていた。
その中庭に立つ一本の大きな楠もまた、何事もなかったかのように、
青々と葉を茂らせていた。
中編へ続く




