第2話『放課後の三人』
毎日は、特別ではないからこそ大切なのかもしれない。
同じ教室。
同じ友人。
くだらない話をして、笑って、授業を受けて。
放課後になれば、それぞれの場所へ帰っていく。
そして別れ際に交わす何気ない言葉。
また明日。
明日が来ることを疑わないから、人はその言葉を簡単に口にする。
けれど時として。
当たり前に続くはずだった時間は、本人さえ気づかない場所から、
ほんの少しずつ形を変え始めている。
これはまだ、門が開く前の物語。
神門澪と、二人の友人。
三人が過ごした、いつもと変わらない放課後の物語である。
「セーフ……!」
始業を知らせる予鈴が鳴り響く中、朝倉陽菜は教室の扉をくぐるなり、小さく拳を握った。
そのすぐ後ろから、神門澪も教室へ入る。
「陽菜は余裕だったでしょ」
「何言ってるの。澪を待ってたんだから、遅刻したら連帯責任だよ」
「そんな制度ないよ」
「友情にはあるの」
「初めて聞いた」
言いながら、澪は自分の席へ向かった。
教科書を取り出す者。
まだ友人との話を続けている者。
慌てて席へ戻る者。
朝の教室には、始業直前にしかない慌ただしさが満ちている。
「はい。朝から元気なのは結構ですけど、そろそろ席についてくださいね」
穏やかな声が飛んできた。
教卓の前に立っていたのは、担任の水瀬佳乃だった。
肩より少し長い暗い栗色の髪を低い位置でまとめ、出席簿を手に教室を見渡している。
「特に朝倉さん」
「私ですか?」
「今、一番大きな声を出していたでしょう」
「……はーい」
陽菜が素直に席へ戻る。
教室のあちこちから小さな笑い声が上がった。
澪も席へ座り、鞄を机の横へ掛ける。
その時。
何気なく窓の外へ目を向けた。
中庭。
朝の光を受けた大きな楠が、そこに立っている。
先ほど見たものが嘘だったように、枝も葉も静かだった。
やっぱり、見間違いだったのかな。
風もないのに揺れた枝。
聞こえたような気がした声。
そして、わずかに熱を帯びた御守り。
制服の内側へ、そっと手を添える。
今はもう、何の変化もない。
「神門さん」
「はいっ」
突然名前を呼ばれ、澪は反射的に顔を上げた。
水瀬がこちらを見ている。
「どうかしました?」
「いえ。何でもないです」
「そう?」
少しだけ澪を見たあと、水瀬は出席簿へ視線を戻した。
「では、朝のホームルームを始めます」
澪も前を向く。
窓の外には、もう目を向けなかった。
小テスト
「はい、そこまで」
教師の声とともに、教室のあちこちからため息が漏れた。
一時間目。
予告されていた小テストが終わったところだった。
答案用紙が順番に前へ送られていく。
澪も自分の答案を渡した。
昨夜もいつも通り予習と復習をしている。
少なくとも、大きく間違えてはいないと思う。
やがて授業終了のチャイムが鳴った。
教師が教室を出ていく。
ほとんど同時に。
「澪ー」
予想通りの声がした。
顔を上げると、陽菜がすでに目の前に立っていた。
「早いね」
「何が?」
「来るの」
「休み時間だもん」
当然のように言って、陽菜は近くの椅子をこちらへ向けた。
「で、どうだった?」
「テスト?」
「それ以外に何があるの」
「普通かな」
「出た、澪の普通」
「なにそれ」
「この前も『普通』って言って九十点超えてたじゃん」
「あれはちゃんと勉強したから」
「今回も?」
「したよ」
陽菜は少し黙ってから、澪の顔を覗き込んだ。
「……でも、やっぱり眠そう」
「そんなに?」
「朝からちょっと」
澪は自分の目元へ触れる。
確かに今日は、いつもより少しだけ身体が重い。
「昨日、変な夢見たからかな」
「夢?」
「うん」
「どんな?」
「それが……」
巨大な門。
知らない都市。
夜空を横切った巨大な影。
そして、
『ミオ』
自分を呼ぶ声。
そこまでは覚えている。
けれど、誰かに説明しようとすると途端に輪郭が曖昧になる。
「……よく覚えてない」
「怖いやつ?」
「怖いっていうより、不思議な感じ」
「ふーん」
陽菜は少しだけ考えたあと、あっさり頷いた。
「じゃあ今日は早く寝なよ」
「うん。そうする」
それ以上、陽菜は聞いてこなかった。
「あ、そうだ」
思い出したように手を打つ。
「今日、私バイトだから」
「今日だったんだ」
「うん。放課後そのまま行く」
「悠斗は?」
「部活じゃない?」
「ああ、そっか」
「澪は安定の帰宅部?」
「安定って何。家でやることあるから」
「知ってる」
陽菜が笑う。
澪もつられて笑った。
次の授業を知らせるチャイムが鳴る。
「じゃ、またあとで」
「うん」
陽菜は自分の席へ戻っていく。
いつもの授業。
いつもの休み時間。
いつもの友人。
朝に感じた胸のざわめきは、いつの間にか随分と小さくなっていた。
昼休み。
「お腹すいたー!」
チャイムとほぼ同時に、陽菜が澪の席へやってきた。
「陽菜、さっきも何か食べてなかった?」
「チョコ一個だけ」
「食べてるじゃん」
「あれはおやつ。これは昼ご飯」
「同じ食べ物でしょ」
「役割が違うの」
「そういうもの?」
「そういうものです」
陽菜が胸を張る。
澪は笑いながら弁当箱を取り出した。
二人が机を寄せたところで。
「俺が来る前から、ずいぶん楽しそうだな」
教室の入口から声がした。
「あ、来た」
陽菜が振り返る。
細身のスクエア型眼鏡をかけた男子生徒が、昼食を片手に立っていた。
相沢悠斗。
澪の幼馴染であり、陽菜とも長く付き合いのある友人だ。
「今日は来ないかと思った」
「昼休みくらい来る」
「昨日来なかったじゃん」
「昨日は部活」
「澪にも同じこと言われた」
「じゃあ聞く必要なかっただろ」
「会話ってそういうものじゃないでしょ」
「そうか?」
「そうなの」
悠斗は納得したのか分からない顔で、近くの席を借りた。
三人で机を囲む。
「いただきます」
澪が弁当箱を開く。
卵焼き。
焼き魚。
煮物。
青菜のおひたし。
派手ではないが、きれいに詰められた弁当だった。
「いいなあ。今日もおいしそう」
陽菜が覗き込む。
「澪が作ったの?」
「……その聞き方、何?」
「確認」
「おばあちゃんが作ってくれたけど」
「やっぱり」
「何、その反応」
向かい側で悠斗が箸を止めた。
「妥当な確認だと思う」
「悠斗まで?」
「前例がある」
「卵焼き?」
陽菜が吹き出した。
「普通に食べられたでしょ」
「食べられたけど、甘かった」
「砂糖がちょっと多かっただけ」
「ちょっと?」
二人が同時に澪を見る。
「……何?」
今度は同時に視線を逸らした。
「ちょっと!」
「神門流に料理の型はないのか?」
悠斗が真顔で言う。
「ないよ!」
陽菜が笑った。
澪も少し遅れて笑う。
こうして三人で昼食を食べる時、話題に意味などない。
昨日見たもの。
授業のこと。
先生の話。
陽菜のバイト。
悠斗が読んでいる本。
明日になれば忘れてしまうような話ばかりだった。
「そういえば」
陽菜が飲み物を手にする。
「今日、三人とも予定あるんだよね」
「私は帰るだけだけど」
「澪は家で勉強と稽古でしょ?」
「うん」
「俺は部活」
「私はバイト」
陽菜が順番に指を向ける。
「見事にバラバラ」
「毎日三人で帰ってるわけじゃないしな」
「予定合う日は帰るじゃん」
「それはそうだけど」
陽菜が何かを言おうとした時。
悠斗がスマホを取り出した。
画面を見る。
次に左腕の時計。
そして教室の壁掛け時計。
「……?」
「どうしたの?」
澪が尋ねる。
「いや」
悠斗はもう一度スマホを見る。
「最近、この辺だけスマホの時計ずれることない?」
「時計?」
澪もスマホを取り出す。
特におかしなところはない。
「スマホ壊れた?」
陽菜が言う。
「その可能性もある」
「あるんだ」
「ないとは言えないだろ」
「でもスマホの時刻って、自動で合わせるんじゃなかった?」
「普通はね」
「じゃあ悠斗の腕時計じゃない?」
「昨日合わせた」
「細かいなあ」
「時計なんだから正確な方がいいだろ」
「私は一分くらいなら気にしない」
「陽菜は五分早めておいた方がいいんじゃないか」
「どういう意味?」
「遅刻防止」
「しないって!」
「今日バイトだろ」
「間に合う!」
話題はそのまま、今日の予定へ移っていった。
悠斗も、それ以上は時計について話さなかった。
午後の授業は現代文。
教壇に立つ水瀬が教科書を開く。
「では、前回の続きからですね」
ページをめくる音が教室に広がる。
窓から入る穏やかな風に、カーテンがゆっくり揺れていた。
教師の声。
黒板へ走るチョークの音。
時折聞こえる、誰かがページをめくる音。
午後の教室には、人を眠くさせる何かがある。
澪はノートへ文字を書きながら、ふと横を見る。
陽菜の頭が少しずつ下がっていた。
下がる。
戻る。
また下がる。
澪は口元を押さえた。
「では、朝倉さん」
「はいっ!」
陽菜の頭が跳ね上がる。
教室に小さな笑い声が広がった。
「続きを読んでもらえますか?」
「はい!」
元気よく返事をしたものの。
「…………」
陽菜の目だけが教科書の上を忙しく動く。
やがて、そっと澪を見る。
どこ?
澪は笑いを堪えながら、自分の教科書のページを指で示した。
陽菜が小さく頷く。
「……では、読みます」
何事もなかったように読み始める。
水瀬はたぶん気づいている。
けれど何も言わなかった。
「助かったあ……」
授業が終わるなり、陽菜が机へ突っ伏した。
「寝てたでしょ」
「寝てない」
「寝てたよ」
「目を閉じて考えてただけ」
「何を?」
「人生について」
「授業中に?」
「人生について考える時間は選べないんだよ、澪」
「教科書のページは分からなくなってたけど」
「それとこれとは別問題」
「そうなの?」
「そうなの」
陽菜が顔を上げる。
「でもありがと」
「どういたしまして」
何事もないまま、午後の時間は過ぎていった。
放課後を告げるチャイムが鳴る。
終礼が終わった途端、教室の空気が一気に変わった。
「部活行こうぜ!」
「今日、駅前寄らない?」
「待って、荷物取ってくる!」
あちこちから声が飛ぶ。
澪も教科書を鞄へしまった。
隣では、陽菜が慌ただしく荷物をまとめている。
「陽菜、そんなに急がなくても間に合うんじゃない?」
「間に合うけど、着替えたりするから」
「忘れ物ない?」
「たぶん!」
「それ一番危ないやつ」
「大丈夫大丈夫」
鞄を肩へ掛けた陽菜が立ち上がる。
「行こ!」
「うん」
二人で教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちが行き交っている。
大きな鞄を抱えた運動部員。
楽器ケースを持った吹奏楽部員。
道着姿で武道館へ急ぐ生徒。
階段を下りたところで、見慣れた白い制服姿を見つける。
「悠斗!」
陽菜が手を上げた。
悠斗がこちらを見る。
「今帰り?」
「私はバイト。澪は帰宅」
「悠斗は部活でしょ?」
「ああ」
三人で昇降口まで歩く。
「自然科学部って今日は何するの?」
陽菜が尋ねた。
「昨日の観測結果の整理」
「何の?」
「気温と湿度」
「地味」
「科学の大部分は地味だ」
「夢がないなあ」
「夢でデータは取れないからな」
「そういう意味じゃないんだけど」
陽菜が呆れた顔をする。
澪は二人のやり取りを聞きながら、ローファーへ履き替えた。
悠斗は校舎側へ身体を向ける。
「じゃ、俺はこっち」
「あ、そっか」
陽菜が手を振る。
「部活頑張ってねー」
「バイト遅刻するなよ」
「だからしないって!」
「また明日、悠斗」
澪も言う。
「ああ。また明日」
悠斗は軽く手を上げ、校舎の奥へ戻っていった。
「じゃ、行こっか」
「うん」
二人は校舎を出た。
午後の光が町を照らしていた。
澪と陽菜は並んで学校から続く道を歩く。
朝とは違い、時間に追われてはいない。
同じ制服を着た生徒たちが、それぞれの方向へ散っていく。
自転車で走り去る者。
駅へ向かう者。
店へ寄っていく者。
部活動の掛け声が、学校の方角から聞こえてくる。
「ねえ、澪」
「なに?」
「今度の休み、三人でどっか行かない?」
「いいけど」
「やった」
「どこ行くの?」
「それを今から決める」
澪は陽菜を見る。
「決めてから誘ったんじゃないの?」
「三人で決めた方が楽しいでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
陽菜が指を一本立てた。
「映画」
「うん」
「買い物」
「うん」
「カフェ」
「買い物と一緒にできるんじゃない?」
「細かいことはいいの」
さらに指が増える。
「水族館とか」
「あ、それいいかも」
「でしょ?」
「写真も撮れそう」
澪が言うと、陽菜が笑った。
「やっぱり」
「何?」
「澪、絶対カメラ持ってくると思った」
「持っていっちゃ駄目?」
「いいけどさ。写真ばっかり撮って、私たち置いていかないでよ?」
「そんなことしないよ」
「前に神社行った時、石段ずっと撮ってたじゃん」
「あれは光の入り方がきれいだったから」
「石段だよ?」
「石段でもきれいなものはきれいだよ」
「澪らしいなあ」
陽菜が笑う。
澪も笑った。
「悠斗にも聞かないとね」
「どうせ『どこでもいい』って言うよ」
「言いそう」
「で、後から一番真剣に調べる」
「それもありそう」
結局、行き先は決まらなかった。
映画でもいい。
水族館でもいい。
少し遠くまで行ってもいい。
また三人で話せばいい。
「あ」
陽菜が突然スマホを見る。
「どうしたの?」
「時間」
「大丈夫?」
「大丈夫!」
言いながら、歩く速度が明らかに上がった。
「陽菜」
「何?」
「急いでるよね?」
「急いでない!」
「走り始めてるけど」
「これは早歩き!」
「どう見ても走ってるよ」
やがて分かれ道へ着く。
陽菜のバイト先へ向かう道と、神門家へ向かう道。
「じゃ、私こっち!」
「うん」
「また明日!」
「また明日」
陽菜が走り出す。
「休みの予定、あとで送るからー!」
「バイト中に送っちゃ駄目だよ!」
「分かってるー!」
声だけが遠ざかっていく。
澪はその背中を見送り、笑った。
「……本当に間に合うのかな」
陽菜の姿が角の向こうへ消える。
それまで隣にあった賑やかな声がなくなると、帰り道が急に静かになった気がした。
澪は一人、神門家へ向かって歩き出す。
夕方の住宅街。
買い物袋を提げた人が歩いている。
自転車に乗った小学生が横を通り過ぎる。
犬を散歩させる老人。
どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。
車がゆっくり交差点を曲がっていく。
朝とは違う。
けれど、これも澪が昔から知っている星見ヶ丘の風景だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
「ん?」
取り出す。
三人のグループメッセージ。
陽菜からだった。
『今度の休みどこ行くー?』
「もう送ってる……」
すぐに次のメッセージ。
悠斗。
『今、部活中なんだが』
陽菜。
『返信してるじゃん』
悠斗。
『通知がうるさい』
澪は思わず吹き出した。
歩きながら文字を打つ。
『陽菜もバイトじゃないの?』
数秒もしないうちに返事が来る。
『まだ着いてない!』
「……大丈夫かな」
今度は声を出して笑った。
悠斗からもう一件。
『走りながら打つなよ』
陽菜。
『歩いてる!』
『さっき走ってたよ』
澪が送る。
しばらく返事がない。
やがて。
『澪の裏切り者ー!』
「なんで?」
誰もいない道で、澪は笑う。
どうでもいいやり取り。
明日学校へ行けば、また顔を合わせる。
それなのに、別れた直後からこうして話している。
澪にとっては、それもいつものことだった。
スマホをしまう。
ふと。
道路沿いにある小さな店の時計が目に入った。
17時02分。
澪はそのまま歩く。
少し先。
交差点近くに設置された時計。
何気なく見る。
17時02分。
「……?」
足が止まった。
同じ時刻。
別におかしくはない。
時計が同じ時刻を示しているのは、むしろ当然だ。
それなのに。
妙な違和感があった。
最初の時計を見てから、ここまで歩くのに一分ほどはかかったはずだ。
澪はスマホを取り出した。
17時03分。
「……あれ?」
交差点の時計へ目を戻す。
17時03分。
秒針も普通に動いている。
カチ。
カチ。
カチ。
何もおかしくない。
澪は首を傾げた。
昼休み。
悠斗が言っていたことを思い出す。
『最近、この辺だけスマホの時計ずれることない?』
もう一度スマホを見る。
17時03分。
時計を見る。
17時03分。
「……気のせいか」
澪はスマホをポケットへ戻した。
再び歩き始める。
空は少しずつ茜色へ変わっていた。
神門家のある山が、夕日に照らされている。
今日も帰れば、祖父と祖母がいる。
夕食を食べる。
勉強をする。
夜の稽古をする。
風呂へ入って、眠る。
そして明日になれば、また学校へ行く。
教室へ行けば、陽菜がいる。
昼になれば、悠斗がやってくる。
くだらない話をして。
笑って。
授業を受けて。
放課後になれば、それぞれの場所へ帰っていく。
陽菜はバイトへ。
悠斗は部活へ。
澪は神門家へ。
そして、また次の日に会う。
そんな毎日が。
これからも、ずっと続いていく。
澪はそう思っていた。
夕暮れの星見ヶ丘学園。
昼間の賑わいが嘘のように、校舎は静かになっていた。
遠くから運動部の掛け声が聞こえる。
吹奏楽部の楽器の音。
グラウンドを走る足音。
けれど、一つの教室には誰もいない。
夕日が窓から差し込み、机と椅子の長い影を床へ落としている。
黒板。
教卓。
並んだ机。
そして、
壁に掛けられた時計。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針が規則正しく進んでいく。
カチ。
カチ。
…カチ。
その瞬間。
秒針が止まった。
一秒。
二秒。
誰もいない教室から、音が消える。
やがて。
カチ。
秒針が、一つだけ逆へ戻った。
そして、
カチ。
カチ。
カチ。
教室には再び。
いつもの時間が、流れ始めた。
「また明日」と言えることを、人は普段、それほど特別には思わない。
明日も同じ場所へ行き。
同じ顔を見て。
昨日の続きを話せる。
そんな未来を、疑う必要がないからだ。
澪にとっても、この日の放課後はただの日常だった。
三人で笑い、それぞれの道へ別れ、また明日会う。
まだ誰も知らない。
ほんの少しずつ狂い始めた時間の先で、その当たり前が大きな意味を持つことを。
時計の針は、何事もなかったように前へ進む。
けれど一度戻った一秒は、もう確かに存在していた。




