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正解圏外 – The Outside of the Answer – 《世界を繋ぐ魔道姫》  作者: 咲凪すず


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第1話『いつもの朝』

夜明けは、いつも同じように訪れる。

鳥が目を覚まし、町に光が差し、誰かが食卓を囲み、誰かが学校へ向かう。

昨日と変わらない朝。

明日も続くはずの、ありふれた時間。

けれど世界が変わる瞬間は、きっと大きな音を立てて始まるとは限らない。

風のない場所で、一枚の葉が揺れるように。

忘れていた声が、遠くから名前を呼ぶように。

ほんの小さな違和感が、少女の日常へ静かに触れる。

これはまだ、門が開く前の物語。

神門澪という一人の少女が、自らの運命と出会う少し前

いつもと変わらない、ある朝の物語である。

第一部 日常の門

第一章 星見ヶ丘の少女


夜明け前の空は、まだ夜の色を残していた。

 山の稜線が薄い群青に浮かび、その向こうから朝の光が静かに滲み始めている。

 鳥たちも目を覚ましていない静寂の中。

 澄んだ音が、神門家の道場に響いた。

「ふっ」

 短く息を吐き、神門澪は一歩を踏み込んだ。

 右足が板張りの床を捉える。

 腰を落とし、両手に構えた木刀を振り下ろす。

 速く。

 けれど、力任せではない。

 頭上から真っ直ぐに落ちた木刀は、目の前に立つ見えない相手の中心を斬り抜き、ぴたりと止まった。

 遅れて、長い黒髪が背中で揺れる。

 稽古の邪魔にならないよう、今は低い位置で一つに結んでいた。

 澪は構えを解かない。

 呼吸を整えながら、次の動きへ移る。

 踏み込み。

 受け流し。

 切り返し。

 身体を反転させ、その勢いを殺さず横薙ぎへつなげる。

 木刀の切っ先が、薄暗い道場の空気を鋭く裂いた。

 その軌道に沿って、細い白光が一瞬だけ浮かぶ。

 朝日に照らされた埃にも見える、かすかな残光。

 澪が気づくより早く、それは空気へ溶けて消えた。

 再び正眼に構える。

 正面には誰もいない。

 それでも澪の意識の中には、相手の姿があった。

 間合い。

 呼吸。

 足の向き。

 わずかな重心の偏り。

 存在しない相手の動きを想像し、その先を取る。

 幼い頃、父から何度も教えられた稽古だった。

 ただ形を繰り返すな。

 相手も考え、迷い、こちらを倒そうとしている。

 それを忘れるな。

 澪は床を蹴った。

 一歩目は小さく。

 二歩目で間合いへ入る。

 木刀が斜め下から跳ね上がり、相手の構えを崩す。

 そのまま手首を返し、首筋へ寸止めする、はずだった。

 ほんのわずかに、右肩が先へ出た。

「そこまで」

 道場の隅から、低く落ち着いた声が届いた。

 澪は木刀を下ろし、振り返る。

 板壁を背に、一人の老人が座っていた。

 神門宗一郎。

 澪の祖父であり、長年にわたって彼女へ剣を教えてきた師でもある。

 白髪を短く整えた宗一郎は、年齢を感じさせない真っ直ぐな姿勢で澪を見つめていた。

 澪は木刀を脇へ置き、静かに一礼する。

「ありがとうございました」

「うむ」

 宗一郎は立ち上がると、澪が最後に踏み込んだ場所まで歩いてきた。

「今の一太刀。右肩が先に出たな」

「やっぱり分かった?」

「分からんと思ったか」

「少しくらいなら、ごまかせるかなって」

「十年早い」

「十年経ったら、おじいちゃん百歳近いよ」

「ならば、あと二十年はごまかされんように生きねばならんな」

 冗談なのか本気なのか分からない顔で宗一郎が言う。

 澪は困ったように笑った。

「そういう問題かなあ」

「そういう問題だ」

 宗一郎は先ほどまで澪が立っていた場所へ目を落とす。

「焦ったな」

 澪の笑顔が、少しだけ固まった。

「……剣に出てた?」

「剣には出る」

「ちょっと、考え事してた」

「昨夜のことか」

 澪は目を瞬いた。

「どうして分かるの?」

「稽古を始めてから、もう三度あくびをしている」

「数えてたの?」

「今ので四度目だ」

 言われた途端、また眠気が込み上げた。

 澪は慌てて口元を手で隠す。

「これは、身体が温まったから」

「便利な言い訳だな」

 宗一郎の口元が、わずかに緩んだ。

 澪もつられて笑う。

 けれどすぐに、昨夜見た光景が脳裏へ蘇った。

 無数の星。

 見知らぬ都市。

 天を突くほど巨大な門。

 そして、自分を呼ぶ声。

 ただの夢だ。

 そう思っているのに、目覚めてから何時間経っても、色も音も薄れてくれない。

「怖い夢でも見たか」

 宗一郎に尋ねられ、澪は少し迷ってから首を横へ振った。

「怖いというより、不思議な夢」

「不思議な夢?」

「うん。ものすごく大きな門が出てきたの」

 宗一郎の目が、かすかに細められた。

「門の向こうに知らない町があって、空には鳥みたいな……でも、鳥よりずっと大きな何かが飛んでた」

「それから?」

「誰かに呼ばれた気がする」

「名前をか」

「たぶん」

「何と呼ばれた」

「それが、よく聞き取れなくて」

 澪は無意識に、自分の胸元へ手を置いた。

 稽古着の下には、小さな御守りが下がっている。

 白い布で包まれた、古びた御守り。

 両親が姿を消す前、澪へ残したものだった。

 夢の中で声を聞いた瞬間、この御守りが光ったような気がした。

 それも夢の一部だったのかもしれない。

「女の人の声だったと思う。でも、子どもみたいにも聞こえたし……」

「そうか」

 宗一郎はそれ以上尋ねなかった。

 いつもの静かな表情に戻り、道場の入口へ向かう。

「朝食にするぞ」

「うん」

「今日は金曜だろう。遅刻するなよ」

「大丈夫。まだ時間あるから」

 澪は壁の時計を見た。

 そして、固まる。

「……おじいちゃん」

「何だ」

「あの時計、進んでる?」

「昨日、時刻を合わせたばかりだ」

 長針は、澪が思っていた場所より遥か先を指していた。

「あと三十分しかない!」

「だから言っただろう」

「言うのが遅いよ!」

 澪は木刀を片づけ、慌てて道場を飛び出した。


「澪。味噌汁が冷めるぞ」

「今行く!」

 二階の廊下を駆ける音が響く。

 宗一郎が食卓の前で待っていると、制服姿の澪が居間へ飛び込んできた。

「お待たせ!」

 白いブレザーに白いシャツ。

 胸元には深紅のリボン。

 白のプリーツスカートに、黒いハイソックス。

 髪も結び直され、今は腰まである黒髪をそのまま背中へ流している。

 少し前まで道場で木刀を振っていた剣士の面影は薄れ、そこにいるのは時間に追われる普通の女子高校生だった。

 澪は椅子へ座り、両手を合わせる。

「いただきます」

 すぐに茶碗を持ち上げた。

「慌てて食べるな」

「慌ててないよ」

 言いながら、焼き鮭を口へ運ぶ。

「口に物を入れたまま話すな」

「んむ」

「返事にもなっておらん」

 宗一郎は呆れたように眉を寄せる。

 澪は急いで飲み込み、味噌汁へ手を伸ばした。

「今日は一時間目から小テストがあるの。遅刻したら、たぶん受けさせてもらえないから」

「昨夜のうちに支度をしておけばよかっただろう」

「してたよ。夢を見るまでは」

「夢を見た後に、何か支度が増えたのか」

「眠れなくなったの」

「なるほど。それは大変だったな」

「全然心配してない言い方だよね」

「心配しているとも」

 宗一郎は澪の空きかけた茶碗へ、ご飯を追加しようとする。

「おじいちゃん、多い」

「朝の稽古をしたのだから、これくらいは食べろ」

「そんなに食べたら、授業中に眠くなるよ」

「食べなくても眠いのだろう」

「それはそうだけど」

 反論を諦めた澪は、少し山盛りになったご飯へ箸を伸ばす。

「学校では、何か変わったことはなかったか」

 宗一郎が不意に尋ねた。

「変わったこと?」

「何でもいい。普段と違うと感じたことだ」

 澪は箸を止める。

 尋ね方が、少しだけ不自然だった。

「特にはないと思うけど……」

「そうか」

「どうして急に?」

「夢の話を聞いたからな。念のためだ」

「夢と学校が関係あるの?」

「さあな」

 宗一郎は湯飲みへ口をつけた。

 それ以上説明する様子はない。

 澪は首を傾げたが、視界の端に時計が入った。

「あっ」

 残された時間が、さらに減っている。

 澪は急いで最後のご飯を口へ運んだ。

「だから慌てるなと…」

「ごちそうさまでした!」

 宗一郎の言葉を最後まで聞かず、澪は手を合わせて立ち上がる。

 鞄をつかみ、玄関へ向かおうとしたところで呼び止められた。

「澪」

「なに?」

「忘れているぞ」

 宗一郎が自分の胸元を指差した。

 澪も視線を落とす。

「あ」

 御守りがない。

 着替える際、机の上へ置いたままにしてしまったらしい。

「取ってくる!」

 再び階段を駆け上がる。

 ほどなくして戻ってきた澪の首には、紺色の御守りが下がっていた。

 表面には、円環に包まれた門と、その中央を一本の剣が貫く紋章が刺繍されている。

 制服の上では目立つため、普段はシャツの内側へ入れていた。

「忘れるな」

 宗一郎が言った。

 いつもより、少し強い声だった。

 澪は御守りを胸元へしまう。

「分かってる。お父さんとお母さんにもらったものだもん」

「……そうだ」

 宗一郎の目が一瞬だけ伏せられた。

 澪はそれに気づきながら、何も言わなかった。

 父と母がいなくなった日のことを、宗一郎はほとんど語らない。

 澪も、朝からその話を蒸し返したくはなかった。

 今はただ、二人がいつか帰ってくると信じていたかった。

「行ってきます」

「ああ。行ってこい」

 玄関の引き戸を開けると、朝の光が差し込んだ。

 澪はローファーを履き、外へ飛び出す。

 門を出る直前、一度だけ屋敷を振り返った。

 瓦屋根の母屋。

 古い道場。

 その向こうに広がる山の緑。

 物心ついた頃から見慣れた、自分の家。

 縁側に立つ宗一郎が、こちらを見ていた。

「行ってきます!」

 もう一度声を上げ、澪は坂道を駆け下りた。


 神門家の本邸は、星見ヶ丘の町を見下ろす山の中腹にある。

 駅や学校へ向かうには、長い石段と坂道を下りなければならない。

 幼い頃から毎日通ってきた道だ。

 けれど遅刻しそうな朝だけは、普段よりずっと長く感じられる。

「まずい……本当にまずいかも」

 澪は鞄を抱え、坂道を駆け下りた。

 運動部の朝練へ向かう生徒を追い越し、犬の散歩をしている老人へ頭を下げ、細い路地へ曲がる。

「おはよう、澪ちゃん。今日も早いねえ」

「おはようございます!」

 八百屋の店先で準備をしていた女性へ、走りながら声を返す。

 本人としては、決して早くはない。

 それでも足取りは軽く、息もほとんど乱れていなかった。

 山道で暮らし、毎朝稽古を続けてきた澪にとって、この程度の距離は走ったうちに入らない。

 住宅街へ入ると、同じ制服を着た生徒たちの姿が増えてきた。

 友人と笑いながら歩く者。

 イヤホンを着けている者。

 眠そうに自転車を押している者。

 町はすっかり、いつもの朝の表情に変わっていた。

 澪も走る速度を少し落とす。

 空を見上げると、雲の少ない青空が広がっていた。

 昨夜の夢とは、まるで違う空。

 あの空には、星が多すぎた。

 夜空を埋め尽くすほどの星々が、巨大な門の周囲で渦を巻いていた。

 門は、神社の鳥居にも、西洋の城門にも見えた。

 石のようでありながら、その輪郭には淡い光が流れていた。

 向こう側に広がっていたのは、見知らぬ都市。

 高い塔。

 青白く輝く街路。

 そして、空を横切った巨大な影。

 翼があったように思う。

 夢の中の澪は、それを見上げていた。

 恐ろしいはずなのに、なぜか逃げたいとは思わなかった。

 むしろ、ずっと昔に見た景色へ帰ってきたような、奇妙な懐かしさを覚えていた。

 そして。

『ミオ』

 自分を呼ぶ声。

「……ミオ?」

 澪は無意識に声へ出していた。

 澪ではなく、ミオ。

 ほんの少し違う呼び方。

 それなのに、自分のことだと分かった。

 声の主は、必死にこちらを探していた。

 長い間、ずっと待ち続けていた。

 なぜか、そう感じた。

「誰だったんだろう……」

「誰が?」

 突然、耳元で声がした。

「ひゃっ!」

 同時に、背後から両肩へ腕が回される。

 澪は反射的に腰を落としかけた。

 相手の腕を取り、前方へ投げるための動き。

 しかし聞き覚えのある笑い声に気づき、寸前で身体を止める。

「ミオー! おっはよー!」

 背中へ勢いよく抱きついてきたのは、小柄な少女だった。

 茶色のセミロングヘアが、澪の肩越しに揺れる。

 朝倉陽菜。

 澪と同じ星見ヶ丘学園の二年生であり、同じクラスの親友だ。

「陽菜、危ないよ」

「えー? いつもちゃんと受け止めてくれるじゃん」

「今日は投げそうになった」

「怖っ!」

 陽菜は慌てて澪から離れた。

「親友を朝から投げ飛ばそうとしないでよ!」

「後ろから急に抱きつくからでしょ」

「愛情表現です」

「もう少し安全な方法にして」

 澪は乱れた髪を手で整える。

 陽菜は悪びれる様子もなく、その隣へ並んだ。

「それより、また難しい顔してたでしょ」

「してないよ」

「してた」

「してないってば」

「眉間にしわを寄せて、空を見ながら独り言。完全に悩める美少女だったよ」

「美少女は余計」

「そこは否定しなくていいのに」

 陽菜が楽しそうに笑う。

 澪は小さく息を吐いた。

「ちょっと、夢のことを考えてただけ」

「夢?」

「昨日、変な夢を見たの」

「恋の夢?」

「違う」

「即答だね」

「大きな門が出てきた」

「門?」

「すごく大きいの。学校の校舎より大きいくらい」

「ふむふむ」

 陽菜は顎へ手を当て、わざとらしく真剣な顔を作った。

「その門の前に、運命の王子様が立っていたと」

「立ってない」

「じゃあ、白馬だけ?」

「何もいないよ」

「夢としての華やかさが足りないなあ」

「だから恋の夢じゃないって言ってるでしょ」

 澪が笑うと、陽菜もつられて笑った。

 友人と話しているうちに、夢の不気味さが少しずつ遠のいていく。

 どれだけ鮮明でも、所詮は夢だ。

 最近読んだ神話や伝承の本が混ざって、あんな景色になったのかもしれない。

「それで?」

 陽菜が尋ねる。

「門を開けたの?」

「ううん。近づいただけ」

「もったいない。せっかくなら開ければよかったのに」

「夢の中でも、勝手に開けるのは危ない気がして」

「夢でも慎重だねえ、ミオは」

「陽菜が不用心すぎるの」

「私は絶対開けるよ。知らない世界につながってるかもしれないじゃん」

「それで怪物が出てきたら?」

「閉める」

「間に合わないと思う」

「じゃあミオが倒して」

「どうして私が」

「だって強いし」

 陽菜が当然のように言った。

 澪はわずかに視線を逸らす。

「強くないよ」

「またまた」

「家で剣術を習ってるだけ」

「その『だけ』が怪しいんだよね。普通の家は、毎朝木刀を振らないから」

「普通じゃないのは分かってるけど、うちでは普通なの」

「それを世間では普通じゃないって言うんだよ」

 陽菜は澪の顔をのぞき込む。

「ねえ、今度見せてよ。ミオが剣を振ってるところ」

「嫌」

「即答二回目!」

「見ても面白くないよ。同じ動きを繰り返してるだけだし」

「絶対格好いいと思うけどなあ」

 陽菜が不満そうに頬を膨らませる。

 澪は困ったように笑った。

 剣術を隠しているわけではない。

 陽菜も、澪が家で古い流派の剣術を習っていることは知っている。

 けれど澪にとって剣を振ることは、誰かへ見せるものではなかった。

 父から教わり、今は祖父と続けている。

 朝起きて顔を洗うことと同じ、生活の一部だった。

「それにしても、今日は珍しく遅かったね」

 陽菜が言った。

「いつもなら、私がこの角に来る前に追いついてるのに」

「朝ご飯をゆっくり食べすぎた」

「本当は寝坊?」

「寝坊はしてないよ。ちゃんと稽古もしたし」

「朝から稽古して、朝ご飯も食べて、それでこの時間に間に合うのすごくない?」

「間に合うかどうかは、まだ分からないけど」

 二人はそろって時計を見る。

 始業時刻までは、あと十五分。

 学校の正門までは、普通に歩けば十分ほどだ。

 陽菜の顔色が変わった。

「まずい。昨日の宿題、教室で見直す予定だった!」

「終わってないの?」

「終わってるよ。たぶん」

「たぶんって言った」

「さっきの仕返し?」

「違います」

「ミオ、走ろう!」

「廊下では走っちゃ駄目だよ」

「まだ道路!」

 陽菜が澪の手を取って駆け出す。

 澪は引かれるまま走り始めた。

 春の風が、二人の制服と髪を揺らす。

 住宅街を抜けると、緩やかな上り坂の先に星見ヶ丘学園の校舎が見えてきた。

 白を基調とした五階建ての本校舎。

 その周囲には、武道館や体育館、部室棟が並んでいる。

 創立から約百年が経つ学園だが、何度も改修されているため、外観は比較的新しい。

 正門へ続く道には、同じ制服姿の生徒たちが列を作っていた。

「間に合ったー!」

 校門の手前で陽菜が両手を上げる。

「まだ教室まで行かないと」

「ここまで来れば勝ったも同然だよ」

「何に勝ったの?」

「時間?」

「疑問形なんだ」

 二人は笑い合いながら正門へ向かった。

 門の横では、生活指導の教師が生徒たちへ挨拶をしている。

「おはようございます」

 澪が頭を下げる。

「おはよう、神門、朝倉。今日はぎりぎりだな」

「セーフです!」

 陽菜が元気よく答えた。

「教室に着くまではセーフじゃないぞ」

「先生、細かい!」

「規則だからな」

 陽菜の抗議を聞きながら、澪は正門をくぐった。

 その瞬間だった。

 胸元が、かすかに熱を帯びた。

「……え?」

 澪は足を止める。

 シャツの上から御守りへ手を当てた。

 温かい。

 体温ではない。

 陽だまりへ置かれていた石のような、はっきりとした熱だった。

「どうしたの、ミオ?」

 数歩先へ進んでいた陽菜が振り返る。

「ううん……」

 澪は御守りを服の上から握る。

 熱はすぐに引いていった。

 走ったせいで身体が温まり、それを御守りの熱だと思っただけだろうか。

「何でもない」

「本当?」

「うん。行こう。小テストに間に合わなくなる」

「そうだった!」

 陽菜が慌てて昇降口へ走り出す。

 澪も後を追おうとして、ふと足を止めた。

 何かに呼ばれたような気がした。

 声ではない。

 けれど、確かに。

 澪は校舎の向こうへ目を向ける。

 建物に囲まれた中庭に、大きな楠が立っていた。

 星見ヶ丘学園のシンボルとして、創立以前からこの丘に生えていると伝えられている古木だ。

 校舎の屋根より高く伸びた枝が、朝の光を浴びている。

 風は吹いていなかった。

 正門脇の旗も、植え込みの葉も動いていない。

 それなのに。

 楠の枝だけが、ゆっくりと揺れていた。

 ざわり。

 ざわり。

 まるで、長い眠りから目を覚まそうとしているかのように。

 澪は言葉もなく、楠を見つめた。

『ミオ』

 声が聞こえた。

 昨夜の夢と同じ声。

 幼い子どものようでありながら、風の音にも似た声だった。

 胸元の御守りが、再び熱を帯びる。

「……誰?」

 澪は問いかけた。

 返事はない。

 楠の枝も、すでに動きを止めていた。

「ミオー! 本当に置いてくよー!」

 昇降口から陽菜が叫んでいる。

「あ、ごめん!」

 澪は御守りを握ったまま、校舎へ向かって走り出した。

 空は青く晴れ渡っている。

 生徒たちの声が聞こえる。

 始業を知らせる予鈴まで、あとわずか。

 見慣れた校舎。

 見慣れた友人。

 いつもと変わらない、星見ヶ丘学園の朝。

 それなのに。

 胸の奥に残った小さなざわめきだけが、どうしても消えてくれなかった。

 澪が校舎へ入った直後。

 誰もいなくなった中庭で、古い楠の葉が一枚だけ枝を離れた。

 風のない空を、何かに導かれるように舞いながら。

 その葉は、土へ落ちる寸前に淡い光を帯びた。

 円環。

 門。

 そして、その中央を貫く一本の剣。

 御守りに刻まれた紋章と同じ形を一瞬だけ描き、光は静かに消えていった。


いつもと同じ朝は、いつもと同じまま終わるはずだった。

 祖父と交わす言葉も、慌ただしい朝食も、友人と歩く通学路も、澪にとっては何度も繰り返してきた日常の一部である。

 けれど、変わらないものの中にこそ、変化の兆しは紛れ込む。

 夢の中にそびえる門。

 自分を「ミオ」と呼ぶ、知らない声。

 わずかに熱を帯びた御守り。

 そして、風もないのに揺れた古い楠。

 それらが何を意味するのか、今の澪はまだ知らない。

 この朝を境に、彼女の日常は少しずつ、けれど確かに、これまでとは違う形へ動き始めている。

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