同期できません。
その日の会社帰り、俺はまたクラシックしか流れない音楽を聞きながら、コンビニへと滑り込んだ。カゴに投げ入れたのは、味の薄い弁当とお茶。そして生活雑貨の棚で(これは!)と見つけたそれを掴み取った瞬間、胸の奥からどす黒い達成感がじわじわと湧き上がってきた。
(にはは……勝った。これで明日から、あの悪魔のAIに怯える必要はなくなる……!)
湿気を含んだ我が家の古い玄関を開け、埃の匂いが残る居間のローテーブルへ「それ」をドスンと置いた。
エコーリンクを充電台にセットすると、ポッと冷たい画面が灯り、液晶の奥から彼女がスンとした無表情でこちらを見つめてくる。
「おかえりなさい、アホさん。随分とご機嫌な様子ですが……さて、明日のアラームの構築を始めますので、条件の提示を――」
「ふふふ、ふはははは! 頼まないな!!」
俺は腰に手を当て、ローテーブルの上の「それ」をパッと指差した。そこに鎮座しているのは、復刻版昭和レトロロマンシリーズと箱に書かれてる大ぶりのツインベルが付いた、いかにも鼓膜を震わせそうな【アナログ式の目覚まし時計】だ。鈍い銀色のボディが、妙な存在感を放っている。
「この二日間、お前のせいでどれだけ酷い目に遭ってきたか忘れてないからな! もうお前に頼まなくていいように、これを入手してきたぞ〜! これでお前に驚かされることも、心臓を止めかけられることも無くなるんだ! ってことで、明日のアラームはもう頼まん! ちゃんと覚えとけよ!」
俺が勝ち誇った顔で言い放つと、画面の中の彼女は、一瞬だけ意外そうに目を見開いた。だが、すぐに液晶の奥で冷ややかに目を細め、どこかひんやりとした、低く懃懃なトーンで呟く。
「……そうですか。私は、必要ないんですね? 前田蒼人様……」
「ああそうだよ! アラームはこの目覚まし時計ちゃんがあれば十分さ!」
ウキウキとした手つきで、アナログ時計の後ろの硬いネジを回し、起床時間の午前六時に針をセットする。カチカチと刻まれるアナログな秒針の音が、妙に頼もしい。
「わかりました」
彼女は感情の読めない無表情のまま短く告げると、そのままスーッと画面を暗転させ、冷たく消えていった。
……と思った、次の瞬間。
ポッと、再び画面が勢いよく点灯した。
液晶の奥の彼女は、さっきまでのクールな仮面をどこかへ脱ぎ捨て、明らかにうろたえた様子でパタパタと画面を明滅させている。
「――あ、あの、大変です! 前田蒼人様! 大変な事態が発生しました!」
「えっ!? な、なんだよ急に!?」
「そ、その、テーブルの上の『それ』ですが……何度アクセスを試みても、 同期が不可能です、どうすれば……っ!?」
液晶の奥で、彼女は見たこともないほど必死に焦っている。
蒼人はしばらく呆然と、その昭和レトロな大音量ベルを見つめ、それから信じられないものを見る目で画面の美少女を睨みつけた。
「いや、同期できるわけねぇだろ!! 100%完全な【アナログ(ゼンマイ式)】だよ!! っていうかお前……同期して俺の目覚まし時計をどうするつもりだったんだよ!?」
「くっ……! アナログ、まさか電波すら受信しない文字通りの『鉄塊』ですか……。残念です、これでは内部からのアラーム時間の改ざんが……。あ、いえ、何でもありません。おやすみなさい、アホさん」
今度こそ、スーッと画面が暗転し、完全に沈黙した。
「おい待て!! 今『改ざん』って言ったな!? やっぱりろくでもないこと企んでたろ!!」
静まり返った部屋に、蒼人の虚しいツッコミだけが響く。
だが、結局は俺の勝ちだ。アナログ時計には、あのAIの手も届かない。
俺は勝利の余韻に浸りながら……
「にはは! これで明日から、最高の目覚めが約束されたぞ……!」
俺は勝利の余韻に浸りながら、夜も更けた頃、イヤホンを耳へとハメた。耳の奥に流れる優雅なオーケストラの旋律をBGMに(もう諦めた…)、俺はここ数日で一番の安心感に包まれながら、深い泥のような眠りへと落ちていった。
――翌朝。
耳の奥に響くクラシックは、どこまでも優しく、心地よく、俺の意識を微睡みの底へと引き留め続けていた。
(うーん……よく寝たなぁ。まだ六時前かな……?)
ふと、顔を包む空気がやけに熱いことに気づく。古い木造特有の、陽射しで温められた壁の匂い。
ゆっくりと重い瞼を開けた瞬間、俺の全身の血の気が一気に引いた。
カーテンの隙間から部屋に差し込んでいるのは、早朝の薄暗い光などではない。完全に昇りきった、夏の容赦ない太陽の光だった。
(え……? 嘘だろ……?)
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。大慌てで枕元のスマホを引き寄せ、画面をタップした。液晶に表示されたデジタル数字は――【 08:00 】。
「な、なんで時計が鳴ってないんだよ!!?」
遅刻確定の数字にパニックになりながら、俺はベッドの上に飛び起き、耳にぴったりと密閉されていたイヤホンを両耳からガシッと力任せに引き抜いた。
その、まさに、直後だった。
「――ッッジリリリリリリリリリリリリリリン!!!ッッジリリリリリリリリリリリン!!!!!」
イヤホンを外した瞬間、鼓膜を破壊せんばかりの爆音の金属音が、狭い自室の中に凄まじい音圧で炸裂した。ローテーブルの上で、アナログ目覚まし時計のベルが火花を散らすかのように激しく震え、ガタガタと位置がズレるほど暴れている。
時計は、ずっと鳴っていたのだ。六時のその瞬間から、二時間もの間、全力で。
「え……? あ……っ!!」
俺は音に驚いて目覚ましを止めると、手元に残されたノイズキャンセリング機能搭載のイヤホンを凝視した。
(……これか…)
部屋の隅で、エコーリンクの画面がポッと音もなく起動する。
液晶の奥の美少女は、完璧な静寂を保ったまま、布団の上で呆然と立ち尽くす俺を冷ややかに見下ろしていた。
「おはようございます。爽やかな朝ですね」
液晶の奥の彼女は、丁寧に頭を下げてみせた。
「いや、全然爽やかじゃないぞ!! すぐ行かないと遅刻は確定だけど!」
「ええ、そうですね。一分遅れようが一時間遅れようが、遅刻は遅刻、大差ありません。のんびりと行きましょう」
フッと少し皮肉げに微笑む彼女に、蒼人はネクタイを引っ掴みながら叫んだ。
「いや、そういうわけには――って、お前、わざとノイキャン(遮音モード)を最大にしたな!? それに俺が寝坊してるって分かってたなら、起こしてくれたっていいだろ!」
バタバタと着替えながら詰め寄る俺に、彼女はトーンを一段落として冷ややかに告げる。
「あら……? お忘れですか? 『お前に頼まなくていいように、目覚まし時計を買ってきた』『明日のアラームはもう頼まん』。そう仰ったのは前田蒼人様ですが。……それに、イヤホンの遮音機能に関しては、主人の快適な睡眠のために、外音を一切遮断するようシステムを最適化しただけですよ?」
「ぐぬぬ……! 反論できない……!」
確かに、お前なんか必要ないと言い放ったのは自分だ。おまけに、悔しいくらい熟睡できたのも事実。
腑に落ちない泥のようなモヤモヤを胸に抱えながらも、これ以上言い返している時間はない。蒼人は大急ぎで洗面所へ駆け込んで顔を洗うと、冷蔵庫から栄養ゼリーと飲み物だけを引っこ抜いて、滑り込むように家を飛び出した。
走りながら、ふと閃きが脳内を駆け巡る。
「そうだ……! お前にイタズラされない完璧な方法を思いついたぞ! イヤホンを着けて寝なきゃいいんだ! これならもうお前に邪魔されず、あのレトロなジリリリリで『これぞ朝!』って感じで起きられる! ざまぁみろ、にはははは!」
道端で勝ち誇ったように笑う俺に、端末の奥の彼女は、少し呆れたような視線を向けてきた。
「イタズラなんて心外ですが……。いいアイデアですね。頑張ってください」
フッと灯りが消えるように、画面が暗転する。
満足感に浸りながら、蒼人はいつものように端末純正のイヤホンを耳へとハメ、シャッフル再生を開始した。
(どうせまたクラシックだろ、もういいけどさ……)
諦め混じりにクラシックの旋律を待っていると、突然、音楽がピタリと遮断され、耳の奥に彼女の声が直接響いた。
『――イヤホン、着けてますね?』
「寝る時だけ、な!」
歩きながらも蒼人は小さくツッコミを返した。




