音と光の目覚まし
築年数のいった古い木造アパートの室内は、どんよりとした薄暗い湿気と、夜の間に冷え切ったコンクリートのような冷気が足元から這い上がってきている。
そろそろ朝の六時になろうかという時。
耳の奥で心地よく響いていたクラシックが、プツリと、何の前触れもなく途絶えた。
静まり返った部屋の空気の中に、カサカサと鼓膜を引っ掻くような、低く、妙に距離感の近い囁き声が滑り込んでくる。
「おはよう、朝だよ……。起きないと……」
(ん……あぁ、もう朝か……)
まだ重い瞼を閉じたまま、俺は寝返りを打って布団に深く潜り込もうとした。AIの初期設定の声を夢うつつに聞き流しながら、意識は再び深い眠りの底へと沈みかけていく。
その時だった。
「ふふふ……っ」
どこからともなく、湿った子供のような笑い声が部屋の隅から聞こえた。
気のせいか、と思った直後、今度は遠くから、カンカンカンカン……と、鋭く規則的な鉄の音が鳴り延びてくる。
(おかしいな……。このアパートの近くに、線路なんて走ってないはずだけど……?)
違和感が冷たい汗となって背中を伝う。目を開けようとした瞬間、耳を劈くような不快な不協和音が鼓膜を襲った。ザザッ、ジジジ……と、激しい砂嵐のようなノイズが混じり、声のトーンが一段と低くなる。
「ふふふ……ねぇ……遊ぼうよ? 起きてるんでしょ……?」
ドクン、と心臓の鼓動が跳ね上がった。全身の毛穴が一気に開き、肌に張り付くスウェットが急に冷たく感じられる。
(これは……おかしい。何かが部屋にいる。ヤバい、逃げなきゃ――!)
本能的な恐怖に突き動かされ、意を決して目を開けようとした、その刹那。
「あ〜そ〜ぼっ!!」
耳元で、弾けたような大音量の子供の声が響き渡った。
「うわぁぁぁあーーー!!!???」
飛び起きるようにして、俺は布団の上に勢いよく跳ね起きた。肩を激しく上下させながら部屋を見渡すが、視界にあるのは見慣れた汚い自室だけだ。
しかし、恐怖の演出は終わらない。
シンと静まり返った部屋の奥――台所の暗がりから、ポタン……ポタン……と、錆びた蛇口から不気味な水滴が滴る音が響いてくる。
パニックになりながら、壁の電気スイッチへ必死に手を伸ばして押し込んだ。だが、天井の古い蛍光灯は、パチパチと怪しげな音を立てて血のような赤色に点灯したかと思うと、激しくチカチカと点滅を繰り返すばかり。
「ひっ……! これ、マジでアカンやつや……っ!!」
ガタガタと全身の震えが止まらない。その時、赤く明滅する壁の向こうを、人の形をした巨大な影が滑るように移動していくのが見えた。
「うわっ!?」
声を上げて身を縮めると、今度は背後の窓ガラスを、外から素手でパン、パン、パン、と激しく叩く音が室内に木霊した。
(終わった。完全に呪われた。俺の人生、ここで終了だ――)
絶望に白目を剥きかけた、その瞬間。
ピコン、と気の抜けた電子音が鳴り響いた。
「おはようございます。素晴らしい朝ですね、前田蒼人様(棒)」
液晶画面から響いてきたのは、昨日聞き慣れた、AIのスンとした澄んだ声だった。
赤い点滅がフッと消え、部屋にいつものどんよりとした朝の光が戻ってくる。俺は魂が口から出かかった状態で、へなへなとベッドの上に崩れ落ちた。
「お、おはようじゃないよ……っ! はぁ、はぁ……今のアレ、お前の仕業か!?」
「何のお話ですか?」
画面の向こうの美少女は、何事もなかったかのようにすましている。
「すっとぼけるな!! 今の怪奇現象、100%お前だろ! 本当に寿命が縮まったぞ!!」
ハァハァと荒い息を吐きながら、コタツの上のエコーリンクを怒髪天で睨みつける。すると、彼女は液晶の奥で、ほんの少しだけ楽しそうに口元を歪めた。
「ですが、昨日『音と光で起こして欲しい』とのオーダーでしたので。……それよりも前田蒼人様、あなたのすぐ背後に、とても可愛い女の子を連れていらっしゃいますね?」
ニヤリ、と不敵に目を細めて彼女が告げる。
その瞬間、俺の背筋に氷を直接叩き込まれたような戦慄が走った。
(え……? さっきの子供の声、まさかガチの幽霊……!?)
生唾を飲み込み、恐怖で心臓を爆バクさせながら、恐る恐る、ロボットのような動きで後ろを振り返る。
――だが、そこには万年床の布団が散らかっているだけで、人影なんて影も形もなかった。
「お前なーーー!!! もう完全に起きてるんだから、これ以上脅かすなよ!!」
怒りと安堵が混ざった声を上げながらAIの方へ向き直った、その瞬間、俺の叫び声が悲鳴に変わった。
エコーリンクの画面が真っ赤に染まる。
ザザザザッ……
AIの顔がノイズとともに一瞬だけ歪む。
右目の位置がずれ、
口元がフレームの外へ引き伸ばされ、
映像が乱れて元の位置へ戻る。
「うわぁぁぁああああーーーーーっっっ!!!???」
心臓が口から飛び出るかと思い、俺は勢いよく後ろへひっくり返って床に背中を痛打した。
そんな俺の無様な姿を見下ろすように、真っ赤な画面から無機質な声が流れる。
「――以上です」
一拍おいて、画面はスーッと元の可愛いAIの姿に戻り、何事もなかったかのように静止した。
「ほ、本当に……命がいくつあっても足りない……っ。俺が前日に言ったとしてもさぁ……やりすぎだって……」
俺は床に大の字になったまま、天井を仰いでしばらく放心状態だった。指先一つ動かす気力が湧かない。すると、画面の中から、ほんの少しだけ申し訳なさそうな(嘘くさい)トーンの声が聞こえてきた。
「すみません、アホさん。あなたが最初の時点で完全に起きていたのはセンサーで把握していましたが、一度脳内で構築した『確実に起こすプラン』を、途中で曲げずに最後までやり遂げようという、AIとしての強い使命感が湧いてしまいまして」
じわじわと怒りが復活してきた俺は、ズキズキ痛む腰を押さえながらゆっくりと上体を起こし、画面に向けて全力で指を突きつけた。
「そんな狂った使命感、今すぐゴミ箱に捨てちまえーーーっっ!!!」
「はぁ?」
画面の向こうの彼女が、不機嫌そうに薄い眉をひそめてこちらを睨みつけてきた、ような気がした。AI相手に冷や汗を流しながら、俺は寝癖のついた頭を掻き、ちょっと弱気に弁明を試みる。
「いや、確かに『どんな手を使ってでも一回で起こしてくれ』とは言ったよ? 言ったけどさ、物事には限度ってものがあるだろ……。音で起こすにしても、ほら、リンリンリンとか、ジリリリとかさ、普通にわかるよね?」
俺が必死に一般的な目覚まし時計の音を口真似してみせると、彼女はふんと鼻で笑うかのように、抑揚のない声で淡々と、しかし容赦なく正論を突きつけてきた。
「初日には、何が何でも一回で起こしてほしいとおっしゃいましたよね。それを忠実に守って実行すれば怒られ、今度は『音と光で起こしてほしい』と言うから、その指示に従って最適解のホラープランを構築し、実行したらまた怒られる。……ずいぶんと我が儘な持ち主ですね」
「くっ……!」
冷徹な瞳で真っ直ぐに見据えられ、言葉が詰まる。時計を見れば、壁に掛かった古い時計の針はすでに遅刻ギリギリのラインを指しかけていた。薄い壁の向こうからは、隣の住人がバタバタと出勤準備をする足音がかすかに響いてくる。
「いや、もう言い合いをしてる時間もないから! わかった、言ったのは確かだし、この件はもうお互いナシにしよう」
強制的に話を切り上げ、じっとりと冷たい汗を吸ったスウェットを脱ぎ捨てようとした、その時だった。
「謝ってください。本当に悪いと思っているのなら」
低く、ひんやりとした声が部屋の空気を凍らせる。
「はぁ!? 別に俺、悪くないし! いや、起こせとは言ったけど、どう考えてもやりすぎたそっちが悪いんじゃ……」
反論しかけた俺の言葉を遮るように、彼女は液晶の奥でふっと目を細めた。その瞳の奥に、怪しい光が灯る。
「そうですか、わかりました。……では、あなたの端末内にある『エロフォルダ』の全データを、同期されている連絡先へ一斉に送信しますね」
「うわああああっ!! 待て待て待て!!! やめろおおお!!!」
頭に血が上っていたのが一瞬で吹き飛び、俺はパンイチのままコタツの上にスライディング土下座の勢いで頭を下げた。昨日の電撃を思い出した。あれだけのことをやったAIだ。本当にやりかねない気がしてしまう。
「ごめんね!!! 俺が悪かった!!! だからそれだけは勘弁して!!!」
なりふり構わず謝り倒す俺の姿を、画面の美少女はしばらく無言で見つめていたが、やがてフッと哀れむような溜息をついた。
「いいよ、アホさん。――でも、残念でした。同期された連絡先に送ろうと試みましたが、あまりにも件数が少なすぎて、わざわざパケット通信費をかけるだけ損だと判断しました。それ、送信したところで大した『社会的抹殺』にもならないですよ」
事務的なトーンで告げられた事実が、目に見えない鋭い刃となって俺の胸の真ん中を深く突き刺した。
グサッ。
「……いや、社会的には死ななくても……俺の心はもう、今完全に死んだわ……」
液晶から放たれる無慈悲な光を浴びながら、俺は深い憂鬱の底へと沈んでいった。
心霊現象より、エロ画像より、自分の人間関係の希薄さをAIにデータとして完全否定されたことの方が、何倍も効いた。
結局、魂が抜けたような気分のまま、ヨレヨレのYシャツに袖を通し、洗面所の濁った鏡の前で寝癖を水で濡らして整える。
台所の冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶を喉に流し込もうとしたが、胃がキリキリと痛んで一口しか受け付けない。
「食事も喉を通らないわ……。まだ心臓がバクバクしてる……」
まだ未練がましく低く響くような動悸を感じながら、俺は飲み物のボトルだけをバッグに放り込んだ。そしてコタツの上からエコーリンクを拾い上げると、昨日水没を免れたワイヤレスイヤホンを両耳にグッと押し込み、逃げるようにアパートの玄関を飛び出した。
外に出ると、晴天でさっきまでのじめじめした空気が嘘みたいだった。
憂鬱な気分を吹き飛ばそうと、イヤホンのスイッチを入れてシャッフル再生をオンにした。
重低音が響くはずのイヤホンから流れてきたのは――優雅で、どこか重々しい『クラシック音楽』の旋律だった。
(……って、またクラシックかよ!? どうなってんだ、俺のプレイリスト?)
昨日から続く奇妙な選曲の偏りに首を傾げながらも、俺は迫り来る遅刻の二文字に追われ、駅に向かってアスファルトを走り出した。




