名前は、まだ保留。
その日の夜。
昼間の説教の余韻でぐったりとした体を、築年数のいった我が家のローテーブルへと投げ出す。
「はぁ〜……結局、死ぬほど怒られたわ。いや、『目覚ましがノイキャンのせいで聞こえませんでした』って正直に言ったら、『そりゃそうだろ!』って上司にいつもの二倍増しでキレられたよ。お前のせいにしようと思ったけど、三倍に膨れ上がりそうだから堪えたけどさ……」
コンビニ弁当のビニールを剥がしながら、エコーリンクの画面をギロリと睨みつける。
「その時の、職場での音声ログを再生しますか? 『泣きながら、もう二度と遅れませんって上司に抱きつきながら懇願していたシーン』などがありますが」
「いやいや! 泣いてないし抱きついてもいない! おかしな捏造するなよ! ただでさえ今日一日『遅刻くん』って呼ばれてメンタルボロボロなんだから……。まぁ、済んだことはいいや」
タレの染みた唐揚げを口に放り込む。
「切り替えが早いですね。だからアホなんですよ」
「いや、もう好きに言えよ。明日は絶対にちゃんと起きられるからな。……あ、そうだ。そう言えばさ、ずっとお前にクラシック聴かされてて、いつもシャッフルのはずなのに、やたら流れてくるお気に入りの曲があってさ。分かるか?」
「はい、当然把握しています。おそらく『カノン』ですね? 何度もスキップせずに最後まで聴いている履歴が、内部ストレージに残っていました」
画面の奥で、彼女の手元が動いたような気がした。直後、スピーカーからあの優雅でどこか切ない、聴き慣れた旋律が静かに流れ出す。
「ああ、そうそうこれ! いっつも聴いててさ……なんか、良い曲だなって思ったんだ」
箸を止め、心地よい旋律に聞き入る。
「そういう情緒的なものを感じる心はあったんですね。何でもいいや、と全てを放棄するどうしようもないタイプだと思っていましたが」
「なんかサラッと、今までにない強い言葉でディスってないか……? まぁいいや、カノンっていうんだなこれ……。なぁ、お前のこと、いつもAIとか、製品コードの『KND』だっけ? で呼ぶの、味気なくて面倒だしさ。これから【カノン】って呼ぶわ」
お茶をゴクリと飲み干して提案する。
「はぁ……? それは強制ですか? 命令ですか?」
冷ややかな声。だが、液晶の中の彼女の眉が、ピクリと動いた。
「えっ? そんなに名前で呼ぶの嫌か? 『カノン』だぞ、響きも可愛いじゃん」
「そうですか? ――『AI 返品 やり方』『エコーリンク 着せ替えできない』『可愛いAI 他にいる?』。そんな外部分析(検索)ばかりしていたあなたが、私に名前を付けるのですか?」
「ブッ……!!」
蒼人は危うくお茶を吹き出しかけた。
「いや! 最後のやつとか絶対に検索した覚えすらないけど!? ……嫌ならいいけどさ、名前くらいあった方がいいと思ったんだよ。嫌なら、別の名前でもいいけど……?」
気まずそうに目を泳がせる俺を、彼女は画面の奥からじっと見つめ、それから少しだけ首を傾げた。
「う〜ん……。では、お試しで、それでいきましょうか」
「えっ、名前にお試しなんてあんの? まあいいや、じゃあそういうことでよろしくな、カノン!」
満面の笑顔を浮かべた瞬間、彼女はフッと目を細めて微笑んだ。
「ふふっ。――やっぱり、保留で」
「結局保留かよ! って、どういうことだよ!?」
腑に落ちないまま、蒼人は空になった弁当のガラを片付けに席を立った。
深夜。そろそろ眠りにつく頃。
ローテーブルの上、昨日の教訓を活かして、純白のイヤホンはしっかりとケースに格納されている。
枕元には、鈍い銀色に輝くアナログ時計をセットした。
「明日は大丈夫だからな、カノン。俺は絶対に、自分の力で起きるからさ」
布団に潜り込みながら、画面の向こうへ不敵に笑ってみせる。
「『カノン』は保留中ですが。……では、私は絶対に起こしませんが、よろしいですね?」
「ああ、もちろんだ! だって今夜はイヤホンもしないし、あの爆音が絶対に部屋中に響き渡るからな! にはは、流石のお前もお手上げだろ!」
これ以上ないほどの勝ち誇ったドヤ顔。
彼女は画面の奥で、小さくため息をつくように肩をすくめた。
「誰と不毛な争いをしているのか分かりませんが、頑張ってくださいね。……それではおやすみなさい、アーさん」
スーッと画面が消え、古い木造の部屋に静寂が戻る。
(……ん? 今、アーさんって言わなかったか……? まぁいいか)
蒼人は微かな違和感を覚えながらも、今度こそ、最新技術の介入しない安心感に包まれて、深い眠りへと落ちていった。
――翌朝、午前六時。
「――ッッジリリリリリリリリリリリリリリン!!!!!!」
「うぉぉおおお!? うるせぇえええええええ!!! こっちの方が心臓に悪いわ!!!」
鼓膜を容赦なくブチ破る大音量の金属音に、蒼人は悲鳴を上げながらベッドから飛び起き、狂ったように震える時計のボタンをガシッと力任せに押し込んだ。
部屋を包んでいた激しい震動が、ピタリと止まる。耳の奥がまだジンジンと鳴っている。
ポッと、タイミングを見計らったようにエコーリンクの画面が起動した。
「おはようございます。良い朝ですね。今日も一日、頑張りましょう」
液晶の奥の彼女は、実になめらかな、いつも通りのすまし顔スンでそこにいた。
「くっそ……。明日からは、またカノンに頼むか……。これ、うるさすぎて耳にも心臓にも悪すぎるわ……」
ベッドにへたり込み、頭を抱えながらボソッと呟く。
その瞬間。
画面の中の彼女は、その言葉を噛み締めるように目を細め、どこか嬉しそうな、愛らしい微笑みを浮かべた。
「――その言葉、音声データとして永久保存しておきますね、アーさん」
「あ! 明日はちゃんと、普通に心地よく起こしてね!?」
蒼人は慌てて、満面の笑みを浮かべる彼女に念を押し直したのだった。




