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新しい地図 Sideひまり

 一月下旬の、よく晴れた朝。

 あたしはいつもより少しだけ早く家を出た。通勤ラッシュのぎゅうぎゅう詰めの電車。その中で、あたしはコートのポケットに入れた一枚の封筒を、ぎゅっと握りしめていた。


『退職願』


 その、たった三文字が、やけに、重い。

 これを、今日、出す。そう決めてから、昨夜は、一睡もできなかった。

 ベッドの中で、何度も、寝返りを打っては、天井を見つめた。

 本当に、いいんだろうか。後悔しないだろうか。そんな、不安と、期待が、ぐるぐると、胸の中で、渦巻いていた。


 あたしの人生の、大きな大きな分岐点。

 そのきっかけは、去年の年末に遡る。


 会社の忘年会があったあの日。

 あたしは一次会が始まる前の空き時間に、ふらりと、あの専門学校を訪れていた。

 別に入学するなんて、大それたことを考えていたわけじゃない。

 ただ、もう一度あのキラキラした空気を吸ってみたかった。

 自分とは、違う世界を、歩んでいる、同世代の子たちの、熱を、感じてみたかった。

 ロビーでパンフレットを眺めていると、不意に声をかけられた。


「あれ? もしかして、この前、おばあちゃんと……」


 振り返ると、そこにいたのはあの時の孫娘さん、美咲さんだった。


 あたしたちは近くのカフェで、お茶をすることになった。

 彼女は、学校での、課題や、コンテストの話を、目を輝かせながら、話してくれた。

「昨日の課題、徹夜でマジ死ぬかと思ったけど、先生に褒められて、全部、吹っ飛んだ」とか、「来月のコンテストのテーマ、どうしようかな」とか。

 その、一つひとつの言葉が、眩しかった。大変だけど、毎日が本当に楽しい、と、彼女の全身から伝わってきた。


「ひまりさんもネイル、好きなんでしょ? だったら、絶対にこっちの世界に来た方がいいよ」

「正直迷ってるんす。今の仕事も楽しくなってきたところで……」

「そうなんだ……でも、後悔しない?  私は、このままじゃ絶対後悔すると思って、こっちの世界に飛び込んだ。正直、不安もあるけど、今はこっちを選んで良かったって思ってる」


 彼女のその力強い言葉が、あたしの心の奥底でずっと燻っていた小さな火種に、ぽん、と火をつけた。

 その日の夜、二次会を抜け出して、偶然会った真澄さんとバーで話した。

『真澄さん。あたし、ネイリスト目指そうと思います』

 あの時、あたしの覚悟はもう決まっていたのだと思う。


 ***


 会社に着くと、あたしは深呼吸を一つして、課長のデスクへと向かった。


「課長。今、少しだけお時間、よろしいでしょうか」

「ん? どうした、小日向。改まって」


 あたしは胸のポケットから退職願の封筒を取り出し、課長のデスクの上にそっと置いた。

 課長は一瞬、きょとんとした顔をした。冗談だと思ったらしい。


「おいおい、小日向。年末ジャンボでも当たったのか? それとも、寿退社か?」


 でも、あたしが黙ってまっすぐに彼を見つめ続けていると、課長もこれが本気だということを悟ったようだった。

 彼は腕を組み、椅子に深くもたれかかった。そして、いつもの冗談めかした口調ではなく、真剣な声で話し始めた。


「……理由を聞いてもいいか」

「ネイリストになりたいんです。もう一度、本気で目指してみようと思いました」

「そうか……」


 課長はそう言うと、少しだけ遠い目をした。


「お前、最近営業成績いいよな。取引先からの評判も上々だぞ」

「……あざます」

「だから、正直辞められるのは痛い。四月からは新人の教育係も任せようと思っていたくらいだ」

「えっ、あたしが、ですか!?」


 思いもよらない言葉だった。この、あたしが教育係?


「ああ。だから辞めてほしくないというのが本音だ。それにな……」


 と、課長は続けた。


「“好き”を仕事にするのは、大変だぞ」


 彼の声には、どこか自嘲するような響きがあった。


「俺も若い頃、バンドマンになりたかったんだ。音楽が好きで好きで、たまらなかった。で、一応、プロとして何年かやったんだが……。結局、鳴かず飛ばずでな」

「……そうだったんすか」

「“好き”だけじゃ食っていけない。それが現実だ。客の無理な要求にも応えなきゃいけない。作りたくもない売れ線の曲も作らなきゃいけない。そうこうしているうちに、あれだけ好きだった音楽がどんどん嫌いになっていった。……今はもう、ギターも押し入れの奥だよ」


 課長はそう言って、寂しそうに笑った。


「だから俺は思うんだ。“好き”は趣味のままでとっておくのが、一番幸せなんじゃないか、ってな」


 彼の言葉は、重く、あたしの胸にのしかかってきた。

 そうだ、あたしだって分かってる。

 ネイリストになっても、きっと楽しいことばかりじゃない。

 お客さんからクレームを言われるかもしれない。

 自分のやりたいデザインと、お店の方針が合わないかもしれない。

 そして、いつか、あれだけ好きだったネイルが、嫌いになってしまう日が来るかもしれない。

 怖い。正直、すごく怖い。


 でも、あたしの頭の中に、あの人のクールな、でも温かい声が響いた。


「あたし、ある人から言われたんです」


 あたしは顔を上げて、まっすぐに課長を見つめた。


「どっちの道を選んだとしても、その選んだ道を正しい選択にするために、死ぬ気で努力することが大切なんだ、って。だから、あたしはあたしのこの選択を、絶対に正しいものにしてみせます。“好き”を嫌いになんてなりません。もっと、もっと好きになってみせます」


 それは、あたしの精一杯の決意表明だった。

 課長はしばらくの間、黙ってあたしの顔を見つめていた。

 そして、やがて、ふっと息を漏らした。


「……理想論、だな」


 彼はそう呟いた。

 でもその顔は、どこか吹っ切れたように穏やかだった。


「……でも、まあ。俺も若い頃に、そう言ってくれる人に出会っていたら、何か違う人生があったのかもな」


 彼は椅子から立ち上がると、退職願を手に取った。


「……分かった。上手くいかなかったら、いつでも戻ってこい。お前の席くらい、空けといてやるから」

「……課長……!」

「分かったら、さっさと仕事に戻れ」

「……はいっ!」


 あたしは深々と頭を下げた。

 涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えた。


 ***


 営業車に戻り、あたしはしばらくの間、ぼーっとしていた。

 まだ、実感が湧かない。

 本当に、あたし、会社、辞めるんだ。

 新しい地図を手に入れたんだ。


 そうだ。

 一番に報告しなきゃいけない人がいる。

 あたしはスマホを取り出し、カメラを起動した。

 そしてVサインをして、精一杯の笑顔で自撮りをした。

 その写真を、真澄さんにLINEで送る。


『真澄さん! 今日、会社に退職届、出してきました! 無事、受理されました! 四月から、あたし、ネイリストになるための第一歩、踏み出します!』


 送信ボタンを押す。

 よし。

 これで、もう後戻りはできない。


 あたしは決意を新たにして、車のエンジンをかけた。

 さあ、行こう。

 あたしの、新しい未来へ。


 そう思ってアクセルをぐっと踏み込んだ、その瞬間だった。


 ガコンッ!!!


 車体が大きく傾いた。

 嫌な金属音。

 何事かと外を見ると、左の後輪が見事に道路の側溝にはまっていた。


「……うそでしょ」


 あたしの、輝かしい門出の日は。

 どうやら、JAFを呼ぶところから始まりそうだ。

 まあ、いっか。

 あたしの人生なんて、きっと、こんなもんだ。

 スムーズに、格好良くなんて、進めやしない。

 あたしはハンドルに突っ伏しながら、なぜか込み上げてくる笑いを、もう抑えることができなかった。

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