新しい地図 Side真澄
一月ももう下旬。寒さがいっそう厳しくなり、感染対策室の窓の外では、裸になったケヤキの枝が鉛色の空に黒い線を引いている。
院内で流行したインフルエンザも落ち着き、ようやく日常の穏やかな時間が戻ってきた頃だった。
その日の午後、デスクで報告書を作成していた時、私のスマホが軽快な音を立てて震えた。
画面に表示されたのは、ひまりからのLINEのメッセージ。
そこには、短い、しかし彼女の人生にとって大きな一歩となるであろう言葉が綴られていた。
『真澄さん! 今日、会社に退職届、出してきました! 無事、受理されました! 四月から、あたし、ネイリストになるための第一歩、踏み出します!』
メッセージの後には、Vサインをする彼女の自撮り写真と、キラキラしたたくさんの絵文字が添えられていた。
私はその希望に満ちた画面を、しばらくじっと見つめていた。
(……そう。ついに、決めたのね)
胸の奥から、温かい何かが込み上げてくる。
嬉しい。心からそう思った。
あの太陽みたいな若者が、自分の夢に向かって力強く歩き出す。その姿を、一番近くで見守ることができたのは、私にとって望外の喜びだった。
だが、それと同時に、小さなさざ波のような焦燥感が、私の心の静かな水面を揺らし始めた。
ひまりは新しい地図を手に入れた。
では、私は?
このままでいいのだろうか。
この、安全で慣れ親しんだ部屋の中で、これまでと同じように日々を重ねていくだけで。
そんな自問自答に沈みかけていた、その時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音と共に、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、自慢のロングヘアをお団子に結い、白い実習着を着た南條美加子だった。
「お久しぶり、真澄。元気?」
「美加子。珍しいじゃない、実習の引率なんて」
「教員が足りなくて駆り出されたの。でも基礎看護実習は良いわよ。みんな初々しくて可愛いわ」
「だめよ。あまり学生を泣かしちゃ」
「失礼ね。こう見えても『仏の南條』って呼ばれてるのよ」
美加子は肩をすくませると、慣れた様子で部屋の奥の本棚へと向かっていった。
「ちょっと、感染症のことで調べておきたいことがあるの。いくつか文献借りるわよ」
そして、ふとこちらを振り返り、悪戯っぽく笑った。
「てっきり、あの元気なひまりちゃんでも来たのかと思って、驚くかと思ったんだけど。意外と冷静なのね」
「……足音が違うからすぐに分かるわよ」
「足音?」
「ええ。彼女の足音は、もっとこう、騒々しくて、浮き足立っているから」
私がこともなげにそう言うと、美加子は目を丸くして、そして楽しそうに吹き出した。
「……妬けるわね、ほんと」
「なっ……! 違うわよ! ただの客観的な事実を述べただけで……!」
「フフフ……冗談よ。そんなムキにならないでよ」
顔が熱くなるのが分かった。美加子のこういう鋭いところには、いつも敵わない。
彼女は本棚をしばらく漁っていたが、やがて一冊の古びた書籍を手に取って戻ってきた。
「見てよ、真澄。懐かしいものを見つけたわ」
彼女が開いたのは、もう十年近く前の、この病院の年報だった。
パラパラとページをめくっていくと、若い頃の自分たちの写真もあって、少しだけ気恥ずかしい。
そして、あるページで、美加子の指が止まった。
そこには、柔和な笑みを浮かべた初老の男性の白黒写真が掲載されていた。
『感染対策室長・桑原智行』
「……桑原先生」
私の口から、懐かしい名前がこぼれた。
桑原先生。私より二十歳以上も年上の医師で、この病院に感染管理という概念を根付かせた偉大な先駆者。
そして、何の実績もなかったただの手術室看護師だった私を後継者に指名し、この仕事のイロハを一から叩き込んでくれた恩師。
先生との日々は、戦いの連続だった。
まだ院内に感染管理の重要性がほとんど理解されていなかった時代。私たちの仕事は常に逆風の中にあった。
「そんな細かいことまでやってられるか!」
「ただでさえ忙しいのに、仕事を増やさないで!」
医師やベテラン看護師から、そう怒鳴られることも一度や二度ではなかった。
その度に桑原先生は、ただの一度も怯まなかった。
彼は膨大な国内外のデータを示しながら、粘り強く、そして論理的に説得を続けた。その背中は、いつも大きく頼もしかった。
だが、私に対しては、まるで別人だった。
「三上君! このアウトブレイクの報告書は、なんだ! データに疫学的な裏付けがない! ただの感想文だ!」
「感染症が発生してないから良いだと? 君の眼は節穴か! この病棟の手指衛生順守率は院内でも最低だ。汚物処理室の清潔と不潔の区分もできていない。このままだと、いずれ大きなアウトブレイクを起こすぞ。アウトカムより、もっとプロセスを評価しろ!」
彼の雷のような叱責が、毎日のようにこの部屋に響き渡った。
悔しくて、情けなくて、何度もトイレで一人、泣いた。
こんな仕事、辞めてやる。手術室に戻してくれ。そう思ったことは、数え切れない。
でも、辞めなかった。辞められなかった。
叱責の後、彼がいつもぽつりと呟くのだ。
「三上君。君は、物事を論理的に考える力がある。そして何より、胆力がある。目の前にある事象の、さらに奥にある本質を、君ならきっと見抜ける」
そして、誰よりも遅くまで一人、文献を読み漁っている彼の背中を見てしまったから。
私も、彼のようになりたい。その背中に追いつきたい。
その一心だけで、私は必死に食らいついていった。
「桑原先生も、もう亡くなられて五年以上経つのね」
美加子が、しんみりとした声で呟いた。
「……ええ。あっという間ね」
先生に末期の癌が見つかったのは、私が認定看護師の資格を取得して、すぐのことだった。
彼は最後まで現場に立ち続けた。抗がん剤の副作用でやせ細り、歩くのも辛いはずなのに、彼は決して弱音を吐かなかった。
そして、ついに最後の出勤となった日。
彼は、私をこの部屋に呼び出した。
もう立つこともままならない彼は、この室長の椅子に深く腰掛けていた。
「……三上君。あとは頼んだぞ」
「はい」
「本当は感染対策室の院内での地位を、もっと上げておきたかったんだけどな」
彼はそう言って、自嘲気味に笑った。
「こういう言葉を知っているか? 金を残して死ぬのは三流。事業を残して死ぬのは二流。……人を残して死ぬことこそ一流。だから、俺はきっと一流として死ねる。お前という、最高の後継者を残せたからな」
彼はそう言って、最後の力を振り絞るように立ち上がると、私の肩を力強く叩いた。
そして一度も振り返ることなく、この部屋を、病院を、去っていった。
あれが、私が彼を見た最後の姿だった。
「……私は、先生の期待に応えられてきたのかしらね」
「応えられてるに決まってるじゃない。あなたがいなかったら、この病院の感染対策は今頃めちゃくちゃよ」
美加子が力強く言ってくれた。
「でもね」と私は続けた。
「私、このままでいいのかしらね」
気づけば、そんな弱音が口をついて出ていた。
「小日向さんが新しい道を見つけて歩き出そうとしている。それを見たら、なんだか考えてしまって。私はこの部屋の中で、桑原先生から受け継いだものを守り続けていくだけなのかな、って」
それは今まで誰にも見せたことのない、私の裸の心だった。
美加子はしばらく何かを考えるように黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「……ねえ、真澄。大学で教えてみる気、ない?」
「え?」
「今、全国の大学で看護学部が次々と新設されているの。でも、教員が圧倒的に足りていない。特に、あなたのように臨床経験が長くて、認定看護師の資格まで持っている専門性の高い人材は、喉から手が出るほど欲しいのよ。知り合いの教授も、ずっと探していてね」
「大学の講師……。私が?」
「そうよ。あなたが、これまでこの病院で培ってきた知識と経験。桑原先生から受け継いだ、その大切なバトン。それを、今度は次の世代の看護師たちに伝えていく。……悪くない話だと思わない?」
思いもよらない提案だった。
この城を出て、新しい世界へ?
教壇に立つ自分。学生たちに講義をする自分。
そんなこと、一度も考えたことがなかった。
人を残す。
桑原先生が最後に私に託した言葉。でも……。
「……無理よ。私には、人に教えるなんて……」
「あら、そうかしら? 毎週毎週、あの元気なひまりちゃんを手懐けているあなたなら、学生の扱いなんて朝飯前だと思うけど」
美加子はそう言って、悪戯っぽく笑った。
「まあ、すぐに答えを出す必要はないわ。でも、もしその気があるなら、いつでも連絡して」
彼女はそう言い残して、借りていく文献を数冊抱えると、颯爽と部屋を出ていった。
一人になった静かな部屋で、私はただ呆然と椅子に座っていた。
大学の講師。
新しい地図。
美加子が投げかけた、そのあまりに眩しい言葉が、私の静かだった心の中に、大きな波紋を広げていた。
この部屋の扉を開けて、外に出る日が、私にもいつか来るのだろうか。
私はただ、年報に載っている桑原先生の、あの柔和な白黒写真を見つめることしかできなかった。




