インフルより恐ろしい笑顔
一月も半ばを過ぎ、正月気分の雰囲気がようやく落ち着いてきた頃。
私の城である感染対策室は、落ち着いた街とは程遠い、嵐のような騒ぎに包まれていた。
冬の使者──そう、インフルエンザウイルスがついに本格的な活動を開始したのだ。
『呼吸器病棟です! 入院患者3名、インフルエンザA型陽性でした!』
『整形外科で、患者2名、陽性です!』
『小児病棟の職員3名がインフルエンザで欠勤です!』
PHSに次々と飛び込んでくる、絶望的な報告。
ひとつの病棟が落ち着いたら、また他の病棟で発生し、まるでモグラ叩きのように、あちこちの病棟でインフルエンザの火の手が上がっている。
私はその火を消し止めるため、院内を上え下へと走り回っていた。
隔離の指示、抗ウイルス薬の予防投与の検討……やるべきことは山のようにある。
なんとか院内の大規模なアウトブレイクは食い止めたものの、私のデスクの上には報告書と手付かずのサーベイランスデータの書類の山が、まるで雪崩のように積み上がっていた。
私はその白い山脈を前に、うんざりと大きなため息をついた。
(……もう一人、欲しい)
感染管理認定看護師が、この病院にもう一人いてくれたなら。
この膨大な業務を分担し、共に戦ってくれる仲間がいてくれたなら。
そう願って、もう何年になるだろうか。
師長会で何度も後進の育成を訴え、リンクナース会で希望者を何度も募ってきた。だが、誰も手を挙げようとはしない。
「三上さんみたいに優秀じゃないと務まらないでしょ」
「あんな大変そうな仕事、私には敷居が高いです」
そう言って、みんな敬遠するのだ。
どうして誰も、このやりがいのある仕事の魅力に気づいてくれないのだろうか。
私が一人、孤独な戦場で頭を抱えていたその時だった。
「ますみしつちょー! 冬将軍、到来って感じですねー! あ、これ、差し入れです!」
週に一度の嵐、小日向ひまりが、いつものように元気いっぱいやってきて、コンビニの中華まんを手渡した。
その能天気な声に、私は救われるような、そして少しだけ苛立つような、複雑な気持ちになった。
「……見ての通り、こっちはそれどころじゃないのよ」
「分かってますって。インフルの件、大変っすね。お疲れ様です」
ひまりはそう言うとパイプ椅子に腰を下ろし、中華まんをかじりながら、私の疲れ果てた顔をじっと見つめた。
「……なんか真澄さん、今日、マジで目の下のクマやばくないすか? コンシーラーでも隠しきれてないですよ」
「……うるさいわね」
私は彼女のデリカシーのない指摘に、思わず本音をこぼしてしまった。
「……人手が足りないのよ」
「え?」
「この仕事は、私一人ではもう限界なの。でも、誰もやりたがらない」
するとひまりは、少しだけ考えるそぶりを見せた後、恐ろしく的を射た一言を放ったのだ。
「……それって、真澄さんが原因なんじゃないすか?」
「……なんですって?」
私の眉間に深い皺が刻まれる。
だが、ひまりは怯まなかった。
「だって真澄さんって、何でもかんでも完璧にこなしちゃうじゃないすか。データ分析も、マニュアル作成も、現場への指示も、全部一人で百点満点。周りの人はそれを見て、『うわ、あんなスーパーマンじゃないと務まらないんだ』って勝手に敷居を高くしちゃってるんですよ」
「……」
「それに、仕事してる時の真澄さんの顔! マジで怖いんすもん。 獲物を狙う鷹か、狼かってくらい、険しい顔してる。だからみんな、『感染管理って、めっちゃ大変な仕事なんだ』って印象、持っちゃってるんですよ」
ぐうの音も出ない。
彼女の言う通りかもしれない。
私は、この仕事の「大変さ」ばかりを周囲に見せつけていたのではないか。
その魅力や楽しさを、伝える努力を怠っていたのではないか。
「……じゃあ、どうすればいいのよ」
私が弱々しく尋ねると、ひまりは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「 楽しそうに仕事するんです! そしたら、『あれ? 意外と楽しそうかも? あたしにもできるかも?』って思う人が出てくるかもしれないじゃないすか!」
「楽しそうに……」
「そう! まずは笑顔っすよ、笑顔! マスクしてても目は笑えるでしょ! 口角を、きゅっと、上げて!」
「……こう?」
「うわ、めっちゃ引きつってる! でもまあ、練習あるのみっすね! それから声! いつもの地を這うような低い声じゃなくて、ワントーン上げて明るく、大きな声で!」
「……こんにちは」
「それじゃ葬式ですよ! 『こんにちはーっ!』って感じで!」
ひまりはさらに熱弁をふるう。
「で、何か指摘する時も、『これ、ダメじゃない!』じゃなくて、『こうしたらもっと素敵になると思いませんこと?』みたいな、茶目っ気と優しさを交えて!」
「……そんなお嬢様みたいな喋り方、できるわけないでしょう」
「あと、最後の仕上げに、わざとちょっと抜けたところを見せるんすよ! 『あら、やだ! PHS、どこに置いたかしら? うふふ』みたいな! そしたらギャップ萌えで、みんなイチコロっすよ!」
(……うふふ、だと……?)
あまりの荒唐無稽なアドバイスに、私の頭は完全にフリーズした。
そんなキャラ設定、私には絶対に無理だ。
だが、その時、私のPHSが無情にも鳴り響いた。
整形外科からのインフルエンザ発生報告だった。
「……行くしかない、か」
「チャンスじゃないすか、真澄さん! 早速、実践あるのみっすよ! 行ってらっしゃいませ、ご主人様!」
「……誰がご主人様よ」
私は、メイド喫茶の店員のようなひまりに見送られ、重い足取りで戦場へと向かった。
***
整形外科のナースステーション。
緊張した面持ちの看護師たちが、私を待ち構えている。その空気は、まるで抜き打ちテストを受ける生徒のようだ。
よし、やるのよ、三上真澄。
ひまり式コミュニケーション術を。
まずは、笑顔。マスクの下で、必死に口角を引き上げる。
三日月型になるはずの目が、なぜかカッと見開かれてしまう。目がひくひくと痙攣しているのが、自分でも分かる。
若い看護師の一人が、「ひっ」と小さな悲鳴を上げたのが聞こえた。
次に、声。ワントーン上げて……いや、ここはインパクト重視で、二トーン上げてみよう。
「こ、こんにちはーっ! 皆様、ごきげんよう! か、感染対策室の三上ですわよーっ!」
ーーーーーーーーーー。
ナースステーションが凍りついた。
電子カルテを打っていた指は止まり、誰もが何事かと、ぽかんとした顔で私を見つめている。ベテランの師長ですら、手に持っていたボールペンを、カラン、と床に落とした。
やばい。すでに心が折れそうだ。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
私は患者の電子カルテを覗き込んだ。
「あら、まあ! こちらの田中様、インフルエンザにかかってしまわれたのね! それはお辛いことですこと……」
私はカルテから顔を上げ、担当の看護師に、練習してきた最高の笑顔を向ける。担当看護師はビクッと身体を震わせて、後退りした。
「でも、わたくしに良い考えがありますわ。こうしたら、もっと素敵になるのではありませんこと? お部屋を、換気の良い個室に移してさしあげるの。いかがかしら?」
私の謎のお嬢様口調と張り付いた笑顔の、地獄の様なコンビネーション。
担当の看護師は、完全に怯えきった目で私を見つめ、か細い声で、「……は、はい。検討いたします」と答えるのがやっとだった。
もう後には引けない。
最後の仕上げだ。ギャップ萌え。抜けたところを見せるのよ。
私はわざとらしく、自分のスクラブのポケットをパンパンと優雅な手つきで叩いてみせた。
「あら、やだ! わたくし、大事なPHSを、どこに置いてきてしまったのかしら? 困りましたわ。うふふふふ……」
乾いた甲高い笑い声が、静まり返ったナースステーションに虚しく響き渡った。
看護師たちは、もはや恐怖を通り越して、憐れみのような生暖かい視線を私に向けている。
何人かはそっと目を逸らした。見ちゃいけないものを見てしまったという顔だ。
その時、私のスクラブの胸ポケットで、PHSが高らかに鳴り響いた。
全員の視線が、私の胸ポケットに突き刺さる。
「あらやだ。胸ポケットに入れてたのを忘れてたわ。もう、私ったら」
「…………」
「…………」
私は無言でPHSの電源を切る。
もう無理だった。
限界だった。
私は顔を真っ赤にしながら、いつもの地を這うような低い声で叫んだ。
「……いいから、さっさとこの患者を個室に隔離しなさい! 飛沫感染予防策を徹底! 換気も忘れないで! 全ての患者の健康観察を徹底すること! ボケっとしてないで今すぐ動く!」
私の豹変ぶりに、看護師たちはびくりと肩を震わせた。だが、その顔には、どこか安堵の色が浮かんでいた。
彼らは水を得た魚のように、「は、はいっ!」と一斉に動き出した。
その、あまりにスムーズな連携。
そうだ。これでいいのだ。
私には、私のやり方しかないのだ。
恥ずかしさのあまり、一刻も早くこの場から消え去りたい。
私は足早にナースステーションを後にした。
背後で、ひまりの腹を抱えて笑い転げる幻聴が聞こえたような気がした。




