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バレンタイン事変

 二月十四日。

 その日は製菓業界の陰謀によって、世の男女がチョコレートという名の茶色い物体を介して、悲喜こもごものドラマを繰り広げる、年に一度の厄介な日だった。

 もちろん、私の城である感染対策室は、そんな浮ついたイベントとは無縁である。……無縁、のはずだった。


「しつちょー! ハッピー・バレンタイン! 愛の使者、ひまりが幸せを届けに来ましたよー!」


 ドアをけたたましい音と共に開け放ち、そんな意味不明な口上を述べながら現れたのは、週に一度の嵐、小日向ひまりだった。

 今日の彼女は、なぜか両腕に巨大な紙袋を二つも抱えている。

 中には色とりどりの、可愛らしいラッピングが施された大量のチョコレートがぎっしりと詰まっていた。


「……あなた、それは一体、何?」

「義理チョコっすよ、義理チョコ! 日頃お世話になってる方々に、感謝の気持ちを届けにきたんです! これも大事な営業活動の一環なんで!」


 そう言って、彼女はまるでサンタクロースがプレゼントを配るように、紙袋からチョコレートを取り出し始めた。


「それで? 私にはないのかしら」


 私が少しだけ意地悪くそう言うと、ひまりは待ってましたとばかりに、にやりと笑った。

 彼女は紙袋の奥から、一つだけひときわ大きなハート型の箱を取り出した。真っ赤なリボンまでかかっている。


「もちろん、用意してますよ。……真澄さんにはこれ。本命、なんで」


 そう言って彼女は、少しだけ頬を赤らめ、上目遣いで私にその箱を差し出してきた。

 その、あまりにあからさまでベタな演出。


「……はいはい。ご苦労様」


 私はその茶番を軽くあしらうと、箱を受け取った。


「じゃ、あたし、これから愛を配り歩いてくるんで! また後で!」


 ひまりはそう言い残して、嵐のように部屋を出ていった。


 一人になった部屋で、私は手の中の仰々しいハートの箱を眺めた。

 やれやれ。あの若者は、本当に悪戯好きだ。

 私は苦笑しながら箱を開けた。中には、宝石のようにキラキラした高級そうなチョコレートが並んでいる。

 一つ口に放り込むと、濃厚なカカオの香りが口いっぱいに広がった。美味しい。


 チョコレートを食べながら、ふと箱のフタに小さなメッセージカードが付いているのに気づいた。


(……まあ、いつもの悪ふざけでしょう)


 そう思いながら、私はその可愛らしいハート型のカードを開いた。

 そこに書かれていた言葉に、私の思考は完全にフリーズした。


『初めて会った時から、ずっと好きでした。

 クールで、知的で、でも、たまにすごく可愛いところ。

あなたの全部が、大好きです。

これからも変わらないあなたでいてください。

 愛を込めて。 ひまりより』


 …………は?


 愛を込めて?

 好き、でした?

 ……本気、だったというのか。

 さっきの、あの態度。あの上目遣い。あの赤い頬。

 あれは、すべて演技ではなかった、と?


 私の脳内で、警報が鳴り響く。

 これまでの彼女の言動が、走馬灯のように蘇ってきた。


『真澄さんのこと、ますます好きになっちゃいました!』

『いっそのこと、うちら付き合っちゃいます?』


 あれらは、すべて冗談ではなかったというのか。

 すべて、私への恋心から発せられた言葉だった、と?


(……嘘でしょう?)


 心臓が早鐘を打っている。顔が熱い。

 まさか、この歳になって、二十歳も年下の女の子に告白されるなんて。

 しかも、相手はあの小日向ひまり。

 騒々しくて、能天気で、でも太陽みたいに明るくて。

 たまに、ドキッとさせられるくらい、まっすぐな瞳をしていて……。


(……いや、待て、私)


 何を考えている。

 彼女と付き合う? 私が?

 ありえない。絶対にありえない。

 私たちは女同士だ。それに、年の差もありすぎる。

 何より、私はもう恋だの愛だの、そういう面倒な感情はこりごりなのだ。


 だが、心の片隅で。

 ほんの少しだけ。

 彼女と、もし付き合ったら。

 それはそれで案外、楽しいかもしれない、なんて。

 そんな悪魔の囁きが聞こえたような気がした。


(……ダメだ、流されるな、三上真澄!)


 私はかぶりを振ると、必死で冷静さを取り戻そうとした。

 そうだ、断らなければ。

 彼女を傷つけないように、でもはっきりと、この気持ちには応えられない、と。


 そう決意を固めた、その時だった。


「ただいまーっ! 愛、配り終わりましたー!」


 ひまりが、空になった紙袋を揺らしながら、部屋に戻ってきた。


 まずい。

 どうしよう。今、言うべきか。

 いや、待て。まずは落ち着いて、状況を分析するのよ。


 ひまりはパイプ椅子を持ってくると、私のデスクのすぐ真横に座った。距離が近い。


「ふー、暑い! 院内、暖房効きすぎじゃないすか? 歩き回ったら、汗かいちゃいました」


 そう言うと彼女は、自分のブラウスの一番上のボタンを外し、胸元をぱたぱたと手であおぎ始めた。

 甘い香水の匂いが、ふわりと私の鼻腔をくすぐる。


(……私を誘っているつもりなの!?)


 あまりの距離の近さに、私は思わずキャスター付きの椅子をじりじりと遠ざけた。


「え、何で離れるんですかー? 真澄さん、冷たいじゃないすかー」


 ひまりはそう言うと、今度は自分から椅子をこちらに近づけてくる。

 そして、あたかも自然な動作のように、私の肩にこてんと、しなだれかかってきた。

 髪のシャンプーの香りが、直接、脳を刺激する。

 もう、ダメだ。

 すべてが、私へのアピールに見えてしまう。

 息が苦しい。

 何とかして、この甘い空気を断ち切らなければ。


「……そ、そういえば小日向さん。最近、恋愛の方はどうなの? 彼氏でも作ったらどうかしら」


 そうだ。牽制球を投げるのよ。

 他の男性の話をして、私はあなたに恋愛対象としての興味はないことを匂わせる高度な作戦だ。

 だが、ひまりの答えは、私の淡い期待を打ち砕いた。


「んー、今はいいかなあって。それより、四月からの学校のこと、優先したいんで。でも……」


 彼女は体を起こすと、潤んだ上目遣いで私を見つめてきた。


「……近くで応援してくれる人が、一人いてくれたら、頑張れるんだけどなあ……なんて」


(……はい、確定)


 それは、もはや告白そのものではないか。

 私は観念した。

 そうだ、彼女はもうすぐ学生になるのだ。

 こんな中途半端な関係を続けて、彼女の大切な学業に影響があってはならない。

 今、ここで、はっきりとケリをつけなければ。

 それは、年長者としての私の最後の誠意だ。

 私は覚悟を決めた。


「……小日向さん」

「はい、なんですか?」

「……あなたの気持ちは、とても嬉しい。嬉しいのだけど」

「……?」

「ごめんなさい。私には、その気持ちには応えられないわ。あなたとは、付き合えない」


 私は深々と、頭を下げた。

 これで終わる。

 彼女は傷つくだろう。でも、これが誠意というものだ。

 しかし。

 予想していた悲しみの声は、聞こえてこなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、ぽかんとした間の抜けた声だった。


「……は? 付き合う?」


 ひまりは、きょとんとした顔で私を見ている。


「何、言ってるんすか、真澄さん。寝ぼけてるんですか?」

「寝ぼけてなど、いないわ! あなたの、その気持ちに、真摯に、向き合って……!」

「いや、だから、何の気持ちの話です?」


 話が全く噛み合わない。

 私は、ついに痺れを切らして、最後の切り札を切った。


「……この、メッセージカードのことよ!」


 私が例のカードをビシッと突きつけると、ひまりはそのカードを覗き込んだ。


 そして、次の瞬間。

 彼女の顔がみるみるうちに、青ざめていく。


「……あ!」


 小さな悲鳴。

 そして彼女は、私の食べかけのチョコレート箱をひったくり、恐る恐るフタを開ける。

 そして、絶叫した。


「やっちまったーーーーっ!!」


 ひまりは頭を抱えて、その場に崩れ落ちた。


「……どういう、こと?」

「……真澄さんに渡しちゃったのは、あたしの推しのRENくんに送るはずだった、ガチのファンレター付きの本命チョコです……!」


 ……は?


 今、なんて?


「間違えたんです! 渡す相手を! あああ、どうしよう! RENくんに、あたしのこの純粋な愛が届かないなんて! 代わりに届くのは、『いつもお世話になってます』なんて、超ビジネスライクなメッセージカード付きのチョコ……最悪だ……!」


 ひまりは本気で落ち込んでいる。

 私はその場で、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 私のこの数十分間の激しい心の葛藤は、すべてこの若者のうっかりミスのせいだったというのか。

 やがて事態を完全に飲み込んだ私は、全身の力が抜けていくのを感じた。

 私はふらふらと自分の椅子に座り込んだ。

 疲れた。ひどく、疲れた。


 すると、ようやく立ち直ったらしいひまりが、にやにやと人の悪い笑顔で、こちらを覗き込んできた。


「……てことは、ですよ? 真澄さんは、あたしに本気で告白されたって、勘違いしてたわけですね?」

「……」

「真澄さん、ドキドキしちゃいました? けっこうまんざらでもなかったりして。ちょっとは、あたしとの未来、考えちゃった的な?」

「……そんなことは、断じてないわ」

「えー、ホントっすかあ? 顔、真っ赤ですよ?」

「……うるさいわね!」


 私の四十年の人生で、最も恥ずかしい数十分間。

 その記念すべきバレンタインデーは、こうして幕を閉じた。

 やれやれ。

 もう二度と、彼女からチョコレートなど、もらうものか。

 私は心に固く、誓うのだった。


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