ハロウィンの攻防戦
十月も最終週。街は、オレンジと黒の二色に染まり、カボチャとオバケがそこかしこで微笑んでいる。そう、ハロウィンだ。
もちろん、私の城である感染対策室は、そんな浮かれた世間の空気とは一切無縁。いつも通り、消毒液の匂いと静寂だけが支配する、聖域のはずだった。
――その、ドアが開かれるまでは。
「トリック・オア・トリート! お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ!」
ガラッ! と、もはや様式美となった乱暴なドアの開け方と共に現れたのは、魔女だった。
黒いとんがり帽子をかぶり、紫とオレンジのボーダーのタイツを履き、手にはオモチャの箒。その、気合いの入りすぎた魔女は、満面の笑みで、高らかにそう宣言した。
言うまでもなく、その正体は、小日向ひまりだ。
「……あなた、その格好で院内を歩いてきたの?」
私は、目の前のあまりに非現実的な光景に、思わずパソコンの手を止めた。
「ハロウィンっすよ、当たり前じゃないすか! あ、これ、先日の学会で室長が興味持ってた、新しいグローブのサンプルです! 各病棟に配り歩いてきました!」
ひまりは、箒の先に引っ掛けていた紙袋からサンプルの箱を取り出して、私のデスクに置いた。その紙袋の中には、他にも、カボチャの形をしたプラスチックの置物や、クモの巣を模した飾り付けなどが、ぎっしりと詰まっていた。
「おかげで、普段はつれない外科の先生も爆笑しながら話聞いてくれましたし、小児病棟では、子供たちに囲まれてヒロイン扱いでしたよ! 『魔女さーん!』って、大人気!」
そう言って、彼女は箒にまたがり、空を飛ぶポーズをしてみせる。実に、楽しそうだ。
だが、私の懸念は、そこではなかった。
「で? その、ゴミ袋みたいな紙袋の中身は、一体、何なのかしら」
「ゴミ袋じゃないです! ハロウィン用の、デコレーショングッズです!」
ひまりはそう言うと、待ってましたとばかりに、紙袋の中身をデスクの上にぶちまけた。オレンジ色のガーランド、黒猫のステッカー、そして、大小様々な、ニヤニヤと笑うカボチャの置物たち。
「さあ、室長! この、殺風景な我らの城を、ハロウィン仕様に魔改造しちゃいましょう!」
「お断りよ」
私は、即答した。
「ここは、仕事場よ。あなたの、お遊びに付き合う場所じゃないの。それに、その手の飾り物は、埃が溜まりやすくて不衛生。感染管理の観点から、許可できない」
「えー! ケチ! いいじゃないすか、ハロウィンくらい! もう、この部屋、半分はあたしの部屋みたいなもんなんすから!」
「あなたの部屋にした覚えはないわ」
「まあまあ、そう言わずに! ほら、見てくださいよ、室長! こんな、スペシャルなアイテムも、用意してきたんすから!」
ひまりが、得意げに袋の奥から取り出したものを見て、私は息を呑んだ。
それは、オレンジ色の、小さなマントを羽織ったイルカのマスコットだった。
私のデスクの隅で、いつも私を見守ってくれている、あのフロン太と全く同じもの。
ただし、ハロウィン仕様の、特別バージョンだ。
「……なっ」
「じゃーん! ハロウィンバージョンの、フロン太君マスコット! それだけじゃないですよ!」
彼女は、さらに、次々とお宝を繰り出してきた。
魔女の帽子をかぶった、チームの若手イケメン選手のブロマイド。吸血鬼に扮した、ベテラン選手のクリアファイル。そして、カボチャのパンツを履いた、チームマスコットたちの、アクリルスタンド。
その、あまりに魅力的すぎるフロンターレグッズの数々に、私の鉄壁だったはずの「理性」の壁に、大きな亀裂が入った。
「ど、どうして、あなたが、そんなものを……」
「へへーん。この前の、等々力での聖戦の後、すっかり、あたしもフロンターレの魅力に取り憑かれちゃいまして。で、オフィシャルショップ覗いたら、こんな最高にイカしたグッズが、売ってたんすよ! これはもう、真澄さんと一緒にこの部屋で祝祭を執り行うしかないって!」
まずい。心が、揺らいでいる。
特に、あの吸血鬼マントを翻す、家長選手のブロマイド。あれは、喉から手が出るほど欲しい。
だが、しかし、ここでプライベートな欲望に屈してしまえば、感染管理室長としての私の権威が失墜してしまう。
「……まあ、確かに」
私は、必死で、ポーカーフェイスを保ちながら、この状況を打開するための苦しい言い訳を脳内で検索し始めた。
「季節感を取り入れた、快適な職場環境の整備は、職員のメンタルヘルスを維持し、結果的に医療の質を向上させる、というデータもなくはないわね」
「でしょ!? そうなんですよ!」
「それに、これらの色彩豊かな飾り付けは、患者さんの、特に、小児のQOL(生活の質)向上に寄与する可能性も否定はできない。一種の環境療法、と、言えなくもないわ」
「カンキョーリョーホー! なんか、すごそう!」
「……まあ、期間限定、ということなら。衛生管理を徹底することを条件に、今回だけ特別に許可してあげなくもないわ」
我ながら、見事なこじつけだ。
私の苦しすぎる言い訳に、ひまりはニヤニヤと全てお見通しだ、という顔で笑っている。
「さっすが真澄さん! 話が分かる! じゃあ、早速始めますか!」
それからは、お祭り騒ぎだった。
「真澄さん! この、フロン太君は、やっぱデスクの一番見えるとこっすよね!」
「当たり前でしょ。でも、角度が悪いわ。もっと、45度、左に」
「この、家長選手のブロマイドは、どこに貼ります? モニターの横とかどうです? 仕事中も常に目が合う、みたいな」
「……やめなさい。集中できないわ。それは、キャビネットの内側にこっそりと貼るのよ」
「えー、もったいない! あ、この、黒猫のステッカー、窓に貼ったら可愛くないすか?」
「待ちなさい。その角度だと、外から見た時に猫の首が不自然に曲がって見えるわ。もっと、水平に」
あーでもない、こーでもないと、言い合いながら、私たちはまるで文化祭の準備をする女子高生のように、夢中で飾り付けを進めていった。
そして、一時間後。
殺風景だった私の城は、オレンジと黒、そして、フロンターレのチームカラーである水色が入り混じった、世にも奇妙な、しかし、どこか楽しい空間へと、生まれ変わっていた。
「か、完成ーっ!」
ひまりが、歓声を上げる。
「どうです、真澄さん! 最高に、イケてる部屋になったじゃないすか!」
「……まあ、悪くないわね」
私は自分のデスクの周りを、ぐるりと見渡した。
パソコンの横には、ハロウィンマントのフロン太君。壁には、クモの巣と、選手の写真。窓には、黒猫。
不衛生だ、と、頭の片隅で冷静な自分が警鐘を鳴らしている。
でも、それ以上に、この、ごちゃごちゃとした楽しい空間が、私の心を浮き立たせていた。
その、和やかな空気を切り裂いたのは、控えめな、しかし、力強さを感じさせるノックの音だった。
コン、コン。
そこに立っていたのは、この病院のラスボス。看護部長、その人だった。
「……三上さん。少し、よろしいかしら」
部長の鋭い視線が、部屋の中をゆっくりと検分していく。カボチャ、黒猫、フロン太君、そして、吸血鬼の家長選手。
その視線が動くたびに、部屋の温度が一度ずつ下がっていくのが分かった。
「これは、一体、どういうことです?」
「あ、あの、これは、その……環境療法の一環、と、言いますか……」
「職場を私物化しないようにと、以前から言っていますよね? 速やかに片付けてください。あと、この前のコロナの報告書、明日までに提出をお願いしますよ」
それだけを言うと、部長はピシャリとドアを閉めて去っていった。
後に残されたのは、絶対零度の空気と、しょんぼりとうなだれる魔女が一人。
「……すんません、真澄さん。あたしのせいで……」
「いいのよ。私が、許可したのだから。私の責任よ」
私は、ため息をつきながら、壁に貼ったばかりの家長選手のブロマイドを、そっと剥がした。
「でも、せっかく、こんなに可愛くできたのに……。 この子たち、どこに行けばいいんすかね……」
ひまりが、名残惜しそうにハロウィンマントのフロン太君を撫でている。
その、しょげかえった背中を見ていると、私は思わず口走っていた。
「……うちで、飾っても、いいかな」
「え?」
「私の家なら、誰にも文句は言われないでしょう。この子たちも、箱の中にしまい込まれるより、その方が嬉しいでしょうから」
私のその言葉に、ひまりの顔がぱあっと、輝いた。
「マジすか!? じゃあ、あたしも手伝いに行きます! 室長の家でハロウィンパーティーやりましょ!」
「……パーティーはしないわ。それに、あなたを家に上げるつもりもない」
「えー! なんでですか! いいじゃないすか、親友でしょ、うちら! それに、飲みに行った日に上げてくれたじゃないすか!」
「あれは緊急避難で仕方なくよ。親友と、家に上げるかどうかは別の問題」
「ケチ! じゃあ、あたしがまたフロンターレの試合のチケットもらって来ても、今度は田中にあげます」
「ちょっ! ……まあ、考えなくもないわ」
「よっしゃ! 交渉、成立っすね!」
やれやれ。
私のプライベートな城まで、この嵐に侵食される日が来てしまうとは思いもよらなかった。
私は、そんな少しだけ面倒で、でも、どこか楽しみな未来を予感しながら、ハロウィン仕様のフロン太君を、そっと自分のカバンにしまい込んだ。




