残業中のカップラーメン
十月の冷たい雨が、感染対策室の窓をしきりに叩いていた。
蛍光灯の白い光が、デスクの上に散らかった資料の山を、無機質に照らし出す。
私の心は、この外の空模様と同じように、どんよりと重く冷え切っていた。
院内で、新型コロナウイルスのクラスターが発生した。
私は、感染管理の責任者として、これ以上の拡大を防ぐための対策案を練り上げた。
発症患者の10日間個室隔離、病棟のゾーニング、面会制限の強化、そして、入院患者の受け入れの一時停止。
それが、私が導き出した、最善かつ、唯一の解のはずだった。
だが、その案は、経営陣が出席する対策会議で、あっさりと、そして、無慈悲に却下された。
理由は単純明快。「コロナはもう大した病気じゃない」「病床稼働率が下がる」。
職種や立場が違うだけで、こうも見える景色が違うのか。
その剥き出しの現実を、私はただ黙って受け入れるしかなかった。
『代替案を、可及的速やかに、再提出するように』
その、冷たい言葉だけが、私の耳に棘のように突き刺さっている。
再提出、と言われても、もう打つ手は限られている。
私は、苛立ちと無力感の入り混じった、どす黒い感情を抱えながら、パソコンのモニターと睨めっこをしていた。
そんな、最悪のタイミングで、週に一度の嵐は、やってきた。
「ますみしつちょー! なんか、すごい雨ですねー! あ、これ、差し入れです!」
能天気な声と共に、小日向ひまりが、びしょ濡れのトレンチコートを脱ぎながら部屋に入ってきた。
その手には、いつものように、コンビニのアイスコーヒーが二つ。
「……そこに、置いといて」
私は、モニターから視線を外さずに、吐き捨てるように言った。自分でも、驚くほど、冷たく、乾いた声だった。
ひまりは、一瞬、戸惑ったように動きを止めたが、すぐに、いつもの調子を取り戻して、パイプ椅子に腰を下ろした。
「うわ、なんか室長、今日めっちゃピリついてません? この部屋、マイナスイオンじゃなくて、殺伐イオンが充満してますよ」
「……当たり前でしょ。こっちは、遊んでいるわけじゃないのよ」
「分かってますって。クラスターのこと、聞きました。大変っすよね」
「大変、で済む話じゃないわ。あなたには、関係ないでしょうけど」
「……」
その、あまりに突き放した私の言葉に、ひまりは、黙り込んだ。
いつもなら、ここで「まあまあ」とか「そんなこと言わずに」とか、茶化すような言葉が返ってくるはずなのに。今日は、何も返ってこない。
静寂が、私の棘のある言葉を、より一層際立たせる。
「あなたも、暇なのね。毎週、毎週、こんなところに、何の成果もないのに、よく通ってくるわ。そんな時間があるなら、もっと、自分の営業成績でも気にしたらどうなの」
分かっている。これは、ただの八つ当たりだ。
会議で突きつけられた理不尽を、何の罪もないこの若者にぶつけているだけ。最低の行為だ。
でも、一度、口から出てしまった毒は、もう止まらなかった。
「あなたの、その、能天気な顔を見ていると、腹が立つのよ。こっちの気も知らないで。……もう、帰りなさい。今日は、あなたの相手をしている時間はないの」
ひまりは、何も言わなかった。
ただ、静かに立ち上がり、小さな、か細い声で呟いた。
「……お邪魔、しました」
そして、静かにドアを開けて出ていった。
パタン、というドアの閉まる音が、やけに大きく部屋に響いた。
一人になった部屋に、重い沈黙がのしかかる。
私は、自分が吐き出した言葉の、あまりの酷さに、ようやく気づいた。
(……言い過ぎた)
後悔の念が、どっと押し寄せてくる。
でも、謝ることも、追いかけることも、できなかった。
私の、ちっぽけなプライドが、それを、許さなかった。
彼女は、もう二度と、この部屋には来てくれないかもしれない。
あの、太陽みたいな笑顔も、能天気なマシンガントークも、もう聞くことはできないのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が、ずきり、と痛んだ。
(……何を、感傷に浸っているの)
私はかぶりを振ると、無理やり思考を仕事に戻した。
今はそんなことを考えている場合ではない。代替案を、作らなければ。
私は、それから何時間も、パソコンに向かい続けた。
だが、良い案など浮かぶはずもなかった。時間だけが、無情に過ぎていく。
窓の外は、とっくに夜の闇に沈んでいた。
***
もう、何時だろうか。
集中力も切れ、疲労と空腹で、頭がもう回らない。
私が、ぐったりと机に突っ伏した、その時だった。
コン、コン。
控えめな、ノックの音。
まさか、と思い、顔を上げる。
ドアがゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、コンビニのビニール袋を手に提げた、ひまりだった。
「……小日向、さん……?」
「……お腹、すいてるでしょ」
彼女は、それだけを言うと、部屋に入ってきた。
そして、無言でビニール袋の中から、二つのカップラーメンと、割り箸、それから、ペットボトルのお茶を取り出し、デスクの上に並べた。
ケトルでお湯を沸かし、それぞれのカップラーメンに注いでいく。
彼女は無言で、私に一つのカップラーメンを差し出した。
醤油味の、ごく普通のカップラーメン。
「……ありがとう」
私は、それだけを言うのが精一杯だった。
私たちは、向かい合って、ただ黙々とラーメンをすすった。
ズズッという、麺をすする音だけが、静かな部屋に響く。
温かいスープが、冷え切ってささくれた心に、じんわりと染み渡っていく。
(ああ、美味しい)
こんなに、カップラーメンが美味しいと感じたのは、いつ以来だろうか。
食べ終わった後、ひまりがゴミを一つの袋にまとめている。
その背中に向かって、私は、ようやく声をかけた。
「……昼間は、ごめんなさい」
彼女の動きが、ぴたりと止まった。
「本当に、ひどいことを言ったわ。あなたに、当たるべきことじゃなかった。最低だった」
「……」
「あれからずっと、怖かった。あなたが、もう、ここに来てくれなくなったらって、考えたら」
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
「あなたの、あの太陽みたいな声が聞こえなくなったらって、そう思ったら……。 すごく、悲しくて、怖くなった。この部屋が、また、ただの孤独なだけの場所に戻ってしまうのが」
私は、気づけば、すべてを吐露していた。
「あなたは、どう思ってるか分からないけど、私にとっては……年の離れた、大切な親友みたいなものだから……」
ひまりが、ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔は、泣きながら笑っていた。
ぐしゃぐしゃの、でも、今まで見た中で一番美しい顔だった。
「……ズルいっすよ。そんな風に言われたら、許すしかないじゃないですか」
ひまりは、鼻をすすりながら言った。
「あたしも、室長に嫌われたかと思って、めっちゃへこんでました。もう、ここに来れないかもって思ったら、なんか、心にぽっかり穴が空いちゃったみたいで……」
私はじっと、ひまりの話を聞いた。
「でも、真澄さんの気持ち、知れてよかった。うちら、ズッ友っすね」
そう言って、彼女はいつもの太陽みたいな笑顔を見せた。
その笑顔に救われた。
「あ、でも、このまま許しちゃうのは何か癪だなあ……そうだ! 真澄さん、スタバの新作フラペチーノご馳走してくださいよ。そしたら、チャラにしてあげます」
「ええ。分かったわ」
「よっしゃ! そうと決まったら、真澄さん。仕事、戻りましょ。あたし、ここにいますから」
私は頷くと、再びパソコンに向き直った。
不思議と、さっきまでの苛立ちや、無力感は消えていた。
頭が、クリアになっていく。
そうだ、まだ、やれることはある。
隔離期間は10日から5日に短縮。ただし、その後のマスク着用と健康観察は10日まで継続を義務付ける。
これなら、病床稼働率の低下を最小限に留めつつ、リスク管理ができるかもしれない。
私は、新しいワードファイルを開き、キーボードを叩き始めた。
後ろのパイプ椅子で、ひまりが静かに私を見守っている。
一人じゃない。
そう思うだけで、私はこの難局を乗り越えられる。
そう、確信することができた。




