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学会会場の隅っこで

 全国から感染制御に関わる医療関係者が一堂に会する、年に一度の大きな学会、日本環境感染学会学術集会。その会場の熱気は、普段、私が慣れ親しんでいる病院のそれとは全く異質のものだった。

 そして、いままさに、そんな華やかな舞台に私は立とうとしていた。


 演者控のパイプ椅子に座り、私は自分の発表原稿を何度も読み返していた。

 テーマは『急性期病院における多剤耐性菌のアウトブレイク事例とその対策』。

 データも考察も、完璧に準備した。発表だって何度もリハーサルした。

 なのに、原稿を握る手は、じっとりと汗で湿り、心臓は早鐘を打っている。


「続きまして、演題番号18番、川崎北部病院、三上真澄先生、ご登壇ください」


 ついに、私の名前が呼ばれた。

 腹を括り、私はステージへと向かう。数え切れないほどの視線が、槍のように私に突き刺さる。

 マイクの前に立ち、深呼吸すると、ゆっくりと会場全体を見回す。学会発表時、心を落ち着かせるための、私のいつものルーチンだ。

 奥からゆっくりと視線を手前に移動させた、その瞬間だった。

 最前列。教授や、その道の権威が座るべき、その特等席に、ありえない人物が、ちょこんと座っていた。

 見慣れた紺色のスーツ。膝上20センチのタイトスカート。そして、指にはピンクのネイル。

 小日向ひまりだった。

 彼女は、私と目が合うと、にこっと、効果音がつきそうなほどの笑顔で、小さく、しかし、はっきりと、手を振ってみせた。


 (なっ……!?)


 なぜ? どうして、あなたが、ここに?

 私の頭の中は、その二つの疑問詞で、完全に埋め尽くされた。思考回路が、ショートする。


 『それでは、三上先生、よろしくお願いします』


 座長のアナウンスで、我に返る。


「あ……。川崎北部病院の三上です。えー、まず初めに……はじめに……」


 (なんだっけ)


 練習してきたはずの、発表の導入部分の言葉が、きれいさっぱり地平線の彼方へと消え去っていた。


 ***


 発表後、逃げるように降壇した私は、ホールの隅で項垂れていた。私の、輝かしい学会発表は、こうして無残な形で幕を閉じた。


「室長! お疲れ様でした! いやー、今日の発表、めっちゃパッションが伝わってきましたよ! 何言ってるか分かんなかったすけど!」


 無神経な声と共に、惨劇の原因が駆け寄ってきた。


「……あなた、どうしてここにいるの?」


 私は怨念を込めた声で、彼女を問い詰めた。


「え? だから、応援に! うちの会社、あっちで企業展示のブース、出してるんす。休憩中にプログラム見たら、真澄さんの名前があったんで、これは行くしかないって!」


 なるほど。そういうことか。私のささやかな晴れ舞台は、彼女のささやかな善意によって、見事に爆破されてしまったわけだ。


「あ、ヤバ! そろそろ休憩、終わっちゃう! じゃあ、真澄さん、良かったら後でうちのブース来てくださいね!」


 ひまりは、そう言い残して、嵐のように去っていった。


 (……誰が行くものですか)


 一人残された私は、自己嫌悪の海に沈んでいた。その、どん底の私に、背後から、懐かしい声がかかった。


「三上君、久しぶりだね。素晴らしい発表だったよ」


 振り返ると、そこに立っていたのは、白髪の、人の良さそうな笑みを浮かべた男性だった。


「……高橋先生!」


 高橋幸一郎先生。私が感染管理認定看護師の資格を取る際、研修所で指導していただいた恩師だ。感染制御の界隈では、知らぬ者はいない、高名な医師である。


「いやはや、君の発表は、いつもながらデータが緻密で、説得力がある。感心したよ」

「い、いえ、そんな……。 お恥ずかしい限りです」


 しどろもどろだった発表を「素晴らしい」と評価され、私は、さらに穴に入りたくなった。


「先生こそ、今日はどうしてここに?  以前の病院は、定年退職されたと伺いましたが」

「ああ。今は、医療機器メーカーの顧問をしていてね。今日は、そのメーカーのブースに顔を出しに来たんだ。よかったら、君も少し見ていかないか?  面白い製品があるんだよ」


 恩師からの誘いを、断れるはずもなかった。

 私は、先生に連れられて、企業展示のエリアへと向かった。様々なメーカーが、華やかなブースを構えている。

 そして、案内されたブースの、そのすぐ隣。見覚えのあるロゴのブースから、ひときわ威勢のいい声が聞こえてきた。


「先生、先生! ちょっと、見ていきませんかー? 今なら、素敵なノベルティグッズも、つけちゃいますよ!」


 ひまりだった。

 客の腕を掴まんばかりの、バグった距離感。完全に、キャバ嬢が客引きするノリだった。


 (まずい……!)


 高橋先生に、彼女との、あの、ゆるすぎる関係を知られるわけにはいかない。

 私は、先生の背後に隠れ、気配を消した。頼む、気づかないでくれ。

 だが、私の淡い願いは無残にも打ち砕かれた。


「あーーーーっ!!  そこの!  クールビューティな認定看護師の先生!」


 終わった。完全に、捕捉された。

 ひまりが、満面の笑みで、こちらに駆け寄ってくる。

 私は、とっさに、ビジネス用の鉄壁の表情を浮かべた。


「これは、小日向さん。ご無沙汰しております。いつも、お世話になっております」

「え、何すか、そのよそよそしい感じ! いつもの、『うるさいわね』は、どうしたんですか!?」

「……そのような清拭ワイプは、寡聞にして存じ上げません。よろしければ、サンプルをいただけますか?」

「何言っちゃってんすか!? サンプルなんか、一度ももらってくれたことないくせに!」


 私は、目線だけで『頼むから、空気を読んでくれ』と、必死に訴える。


「おや、お知り合いですか?」


 そこへ、高橋先生が、穏やかな笑みで割って入った。


「(まずい! 彼女から遠ざけないと)いえ、単なる営業の方です。あの、高橋先生。先生の会社の製品を紹介していただけると……」

「おお、君は、たしか……」


 私の必死の行動むなしく、高橋先生が、ひまりを見て目を細めた。


「モリノコーポレーションの、元気な子だね。私の、前の病院にもよく来ていただろう」

「えっ!?  先生、あたしのこと、覚えててくれたんすか!?  やだー、光栄!」

「え、えぇっ!?」


 私の理解が、追い付かない。


「三上君と知り合いだったとはね。私は彼女の研修所時代に講師をしていて、それ以来の付き合いなんだよ」

「そうだったんすね! あたしも真澄さんには、毎週、公私にわたって、お世話になってまして!」

「こ、公私の『私』の部分は、一切ありません!」


 私は、慌てて否定する。


「またまた、真澄さんったら!」


 ひまりはそう言って、自分の肩を私の肩にぶつける。


「それにしても先生、相変わらずダンディっすね! 今日は、どちらのブースに、遊びに来られたんですか?」

「ちょっと、小日向さん! 高橋先生に対して、その口の利き方は何なの!」


 思わず、いつもの口調で、彼女をたしなめてしまう。まずい、と思ったがもう遅い。

 だが、高橋先生は気にした様子もなく、にこにこと笑っている。


「ははは。いや、いいんだよ、三上君」

「え?」

「こう見えて彼女は、私がいた病院の、全ての病棟の看護師長の名前と顔を、完璧に覚えていたんだよ。それだけじゃない。それぞれの師長さんの、趣味や好きな食べ物まで把握していた。だから、誰もが彼女の顔を見ると、つい、話し込んでしまうんだ」


 先生は、感心したように、ひまりを見つめた。


「彼女の営業成績が、どうなのかは知らない。だが、彼女が、多くの医療者から好かれていることだけは確かだ。君、なかなか大したものだよ」


 初めて聞く、恩師からの、ひまりへの、高い評価。

 私は、ただ、呆然と、二人を交互に見つめることしかできなかった。

 いつも、私の城で、雑談ばかりしている、あのギャル営業が。私が、全く知らなかった場所で、こんな風に認められていたなんて。


「えへへ、それほどでもー!」


 ひまりは、照れくさそうに、頭を掻いている。


(営業なら、営業成績の評価も気にしなさいよ)


 私は、心の中で、そうツッコミを入れた。


「じゃあ、先生!  せっかくなんで、うちのブースも見てってくださいよ!  新しいニトリルグローブ、マジですごいんすから!」

「ほう。それは、興味深いな。だが、今日はあいにく、あちらの会社の者として来ているんでね」


 高橋先生が、自分の会社のブースを指差す。


「でも、三上君。君は専門家として、見てきてあげなさい。若い人が、こうして頑張っているんだ。ちゃんと評価してあげるのも、君の役目だろう?」


 そう言って、先生は私の背中を、ポンと押した。

 私は観念して、ひまりのブースへと足を踏み入れた。


「さあさあ、真澄室長! 我が社の、この、画期的な新商品! じーっくり、見ていってくださいよ!」


 そう言って、ひまりは私の腕にしがみついてくる。


「……分かったから、そんなにくっつかないでちょうだい」

「えー、あたしと真澄室長の仲じゃないですかー」

 

 そう言って、ひまりは私にしなだれかかる。

 周囲の好奇の視線が痛い。


「あなたが、酔いつぶれて帰れなくなったのを、家で介抱してあげただけでしょ。人聞きの悪いことを言わないで」

「アハハ、まぁまぁ。はい、これ来場記念のノベルティです」


 そう言って、ひまりは社名入りのボールペンとトートバッグを押し付けてきた。


「あと、これがさっき言ったニトリルグローブです。取り出しやすくて、フィット感も抜群っすよ」


 私の言葉を待たずに、ひまりは専用の収納ケースに入ったニトリルグローブを差し出した。

 私は高橋先生の手前、仕方なく一枚取り出す。

 なるほど、専用ケースの底にバネが仕込まれていて、グローブの残量に合わせて底が上がってくる仕組みか。確かに取りやすい。

 私はグローブを着用してみる。フィット感、肌触り、厚さ、どれをとっても申し分ない。


「……へえ。いいわね、これ」


 思わず、本音がこぼれた。


「でしょー! 今、ウチの会社の一押しなんです。まあ、もし気が向いたら……」

「サンプルを持ってきてちょうだい」


 私はひまりの言葉を遮るように言った。


「え、今なんて言いました!?」

「サンプルを頂戴。各病棟にS,M,Lサイズを一つずつ。その専用ケースも合わせて。反応が良かったら、見積もりを出してもらうわ」

「え、えぇっ!?  ホントにいいんすか?  高橋先生の手前、無理してません?」


 ひまりは目をぱちくりさせながら言った。


「高橋先生は関係ないわ。良い物は、良いと評価する。それとも、売る気がないの?」

「まさか! あざっす! これ、山田さんも開発に関わってたんで、絶対喜びますよ!」

「そういえば、山田さんは元気なの?」

「最近、ちょっとお疲れ気味っすかね。なんか、彼女の仕事の関係で、一時的にお金を建て替えなきゃいけないらしくて」

「……それ、大丈夫なの?」

「大丈夫なんじゃないすか?  なんだかんだ嬉しそうなんで。あ、お客さん来たんで、またあとで!」


 ひまりは、そう言うと、ブースに入ってくる女性二人組に声をかける。


「いらっしゃいませー! その清拭ワイプ、気になっちゃう感じですかぁ?」


 (ショップの店員か)


 私は心の中でツッコミを入れ、苦笑いしながらひまりを見る。

 商品の説明をしているその姿は、確かに、高橋先生が言う通り、どこか人を惹きつける不思議な魅力に満ちていた。

 学会会場の、その隅っこで。私の、自己嫌悪に満ちた一日は、結局、いつもの騒がしい攻防戦によって幕を閉じた。

 やれやれ。どうやら、この嵐の本当の実力を、私はまだ全く分かっていなかったらしい。


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