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室長の読書

 秋晴れの、穏やかな土曜日の午後。

 私は、自宅からほど近い複合商業施設『ラ チッタデッラ』の、オープンカフェにいた。

 石畳の広場に面したテラス席。心地よい風が街路樹の葉を揺らし、木漏れ日がテーブルの上に置かれたカフェラテの表面できらきらと踊っている。

 この街に住んで、もう長い。この場所も見慣れた景色の一つだ。

 休日に、こうして一人で静かに過ごす時間は、私にとって貴重なリフレッシュの時間だった。

 ……リフレッシュ、できている、はずだった。


『――ダメです、先生。俺、それ以上は……っ!』

『いいだろう、別に。誰かいる訳じゃない』

『でも、ここは当直用のシャワー室ですよ。誰か来たら……!』

『だから、いいんじゃないか』


(……だ、ダメだ、もう、心臓が持たない……っ!)


 私の顔は、きっと、今、このカフェラテと同じくらい熱くなっているに違いない。

 私が読んでいたのは、今、うちの病院の、特に若い看護師の間で爆発的に流行している、一冊の小説だった。


『メスとアネモネ』。


 天才外科医・橘と、彼に振り回される健気な男性看護師・高階の、禁断の恋を描いた、いわゆるBL小説というやつだ。


 断じて言っておくが、私にそういう趣味はない。全く、ない。

 ただ、あまりにもみんなが「橘先生がツンデレ!」「高階くん、健気すぎ!」「ふたりの関係が尊い!」「次の展開が気になる」と、休憩室で熱く語り合っているものだから、つい興味本位で手を出してしまっただけなのだ。

 まさか、こんな、ページをめくる指が震えるほどの破壊力を持っているとは思いもしなかった。

 私は、誰にも見られていないことを確認し、本のカバーをさらに深く顔を隠すように持ち上げた。

 ふたりの関係が、シャワー室で今まさに一線を越えようとする場面。その次のページを固唾を飲んでめくろうとした、その時だった。


「あれー? 真澄さんじゃないすか! こんなとこで会うなんて、奇遇っすね!」


 頭上から降ってきたのは、この世で今一番聞きたくなかった、あの、能天気な声だった。

 見上げると、そこには大きなショッピングバッグを両手に提げた小日向ひまりが、太陽みたいな笑顔で立っていた。


「……あなた、なんでここに?」

「買い物っすよ!  秋物の新作、ゲットしに来ました! 真澄さんはカフェで読書っすか」

「え、ええ。まあ……」


 まずい。よりにもよって、この最強の天敵に、この最悪の状況を見られてしまった。

 私は、とっさに読んでいた本を、パタン、と閉じてテーブルの上に伏せた。


「小説っすか? へえ、珍しい。室長って、いつも小難しい医学書ばっか読んでるイメージなんで」


 ひまりは、私の向かいの席に、どかりと腰を下ろした。そして、興味津々な目で、私が隠した本をじっと見つめている。


「で、何読んでるんすか? ミステリー? それとも、まさかの恋愛小説とか?」

「……ただの医療小説よ」


 我ながら、嘘ではないが限りなく黒に近いグレーな言い訳だ。


「へえ、医療小説。どんなやつです? タイトル、教えてくださいよ。あたしも、興味あるんで」

「……あなたには、必要ないでしょう」

「えー、なんでですか! 失礼な! あたしだって、医療業界の端くれなんすよ!」


 ひまりは、むくれた顔でテーブルに乗り出し、本を奪い取ろうとしてくる。

 私は、必死でそれを死守した。

 入職以来築き上げてきた、私の「クールで知的」というパブリックイメージ。それをこんな色恋沙汰の、それも特殊なジャンルの小説で崩壊させられるわけにはいかない。


「な、何なんですか、もう! そんなに隠されると、余計に気になるじゃないすか!」

「あなたには、関係ないでしょう!」

「関係なくないですよ! 親友の読んでる本くらい、知る権利あります!」

「そんな権利は存在しないわ!」


 白昼のオープンカフェで、一冊の文庫本を巡る醜い奪い合い。

 周りの客が、何事かとこちらを、ちらちらと見ているのが分かる。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。

 と、そこに神の福音が聞こえた。


『札幌で、今話題のジェラート専門店、ジェラテリア・シラカバのポップアップストアが本日限定でオープンです! この機会に是非どうぞ!』


 ポップアップストアのスタッフがビラを配りながら声高に叫んでいた。


「え!? ジェラテリア・シラカバって今バズってるお店じゃないすか! あたし、超気になってたんすよね!」


 見事に彼女の興味が逸れた。何という神の思召し!


「そうなの? なら、せっかくだから行ってみない? 好きなジェラートをご馳走するわよ」

「マジで!?  やったー! 行く、行く!」


 ひまりが席を立ったその隙に、私は問題の文庫本を、素早く自分のバッグへと封印した。これで一安心だ。


 結局、私はひまりにダブルのジェラートを奢らされる羽目になった。だが、これで私の尊厳を保てるなら安いものだ。

 ピスタチオと、カシス。彼女は、それを、幸せそうに頬張っている。

 ジェラートを手に、私たちはカフェを出て、チネチッタ通りをぶらぶらと歩いていた。


「いやー、ごちそうさまでした! やっぱ、真澄さんと買い物来ると、いいことあるなー」


 ひまりが、ご機嫌な様子で、私の腕に自分の腕を絡めてくる。


「……別に、私と来たわけじゃないでしょう」


 私が、そう言い返したその時だった。


「お客様ー!」


 背後から、ジェラテリア・シラカバの店員さんらしき、若い女性の声がした。

 振り返ると、彼女は一冊の文庫本を手に、こちらへ走ってくる。


「カウンターに、本、お忘れでしたよ!」


 え、いや、違う。私の本は、確かにバッグの中にある。

 私は、自分のバッグに手を入れた。そして、絶望した。


 ……ない。


 さっき封印したはずの、あの禁断の書物が、ない。

 どうやら、ジェラートの代金を支払う際に、うっかり滑り落としてしまっていたらしい。


「あ、ありがとうございます!」


 ひまりが、にこやかに店員さんから本を受け取ろうとする。


「待って!」


 私は、叫んだ。

 そして、彼女の手から本をひったくるように奪い取った。

 その、瞬間だった。

 焦ったせいで、私の指が滑った。

 本は、私の手から無情にもこぼれ落ち、石畳の上に叩きつけられた。

 そして、パラリ、と、音を立てて、書店のカバーが外れてしまった。


『メスとアネモネ』


 その、あまりにも意味深で、そして、致命的なタイトルが、秋の穏やかな日差しの中に晒される。

 そこに、爽やかな秋風が吹き、パラパラと小説のページをめくり、橘と高階が裸で絡み合う挿絵のページで止まった。

 ひまりの動きが止まった。

 私の時間が止まった。

 世界のすべての音が消えた。

 神はいなかった。

 長い長い、沈黙の後、ひまりはゆっくりと顔を上げた。

 その顔は、最初はきょとんとしていたが、やがてすべてを理解し、そして見たこともないほどの、悪魔的な満面の笑みに変わっていった。


「……真澄さん、ひょっとして……お腐りになられました……?」


 次の瞬間、彼女は腹を抱えて、その場に蹲った。


「ぷっ……くくく……! あははははは! む、無理! 無理です、真澄さん! 医療小説って、これのことだったんすか!?」

「……」

「これ! 院内で今、一番流行ってる、あのBLじゃないすか! あたしも、友達に借りて読みましたよ! 天才外科医が、健気な看護師くんを、シャワー室で迫るやつ!」

「……もう、やめて」


 私のか細い声は、彼女の爆笑の渦にかき消されていく。


「いやー、マジかー! あの、クールで知的な三上真澄さんが、休日に一人でBL読んで、顔、真っ赤にしてたとか! 今世紀、最大の事件じゃないすか!」


 私は、もう何も言えなかった。ただ、燃えるように熱い顔を、両手で覆うことしかできない。

 入職してからずっと守り抜いてきた、すべてが終わった。


「いやー、でも、なんか、ますます真澄さんのこと好きになっちゃいました!」


 ひとしきり笑い終えたひまりは、涙を拭いながら小説を拾い上げて立ち上がった。

 そして、私の腕を親しげに組んでくる。


「さ、行きましょ、真澄さん! この後、あたしに真澄さんがキュンとしたシーン、詳しく教えてくださいよ!」

「……ないわよ、別に」

「えー、ホントっすかぁ?! 一か所くらいありません? 橘先生の、あの、不器用な優しさとか!」

「……知りません」


 ラ チッタデッラの、異国情緒あふれる街並みの中を、私はただ、ひまりに引きずられるように歩いていく。

 周りの、楽しそうな恋人たちや、家族連れの視線が、私の焼けただれた心に突き刺さる。


(もう、いっそこのまま石畳の一部に……)


 そんなくだらないことを考えていた、その時だった。

 ひまりが、私の耳元でこっそりと囁いた。


「大丈夫ですよ、真澄さん。あたし、分かってますから」

「……え?」

「真澄さんが、こういうのに興味ないことくらい、知ってますって。ただ、院内で流行ってるから、どんなもんか偵察してただけでしょ?  真澄さんらしいじゃないすか」


 そう言って、彼女は悪戯っぽくウィンクしてみせた。

 ……やられた。私は全身から力が抜けていくのを感じた。


「……そうよ。その通り」


 私は、気づけば笑っていた。


「まったく、あなたには敵わないわね」

「でしょー! じゃあ、教えてくださいよ! 専門家の視点から見た、『メスとアネモネ』の感想を!」

「専門家……?」

「そう!  感染管理の専門家として、このシャワー室のシーンは、衛生的にアリなのか、ナシなのか! 厳しくジャッジしてください!」

「……そういう話!?」


 あまりに突拍子もない、斜め上の質問に、私は思わず吹き出してしまった。

 腹の底から、笑った。こんな風に笑ったのは、いつ以来だろうか。

 秋晴れの空の下、二人の笑い声が高く、高く響き渡り、私の少しだけ波乱に満ちた休日は、穏やかに終わりを告げようとしていた。

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