第9話 若手職人ルカの恋煩い
秋も深まり、アルデバラン伯爵領を吹き抜ける風が、冬の冷たさを帯び始めた頃。
小料理屋「こいと」の店内は、今日も仕事帰りの商人や職人たちの温かい熱気で満ちていました。
小糸が特製の出汁で煮込んだ料理の匂いが広がる中、お客様の楽しげな話し声が響きますが、カウンターの奥の席だけ、どんよりとした重い空気が漂っていました。
「はあ……」
大きなため息をついたのは、常連客である若手木工職人のルカです。
彼はいつもなら、小糸の料理を美味しそうに平らげ、親方に怒られた愚痴や、新しい木工細工のアイデアを生き生きと語ってくれる元気な青年です。しかし、ここ数日のルカは、料理にもほとんど手をつかず、虚ろな目で自分のジョッキを見つめては、深い溜息を繰り返していました。
「ルカさん、どうしたの? せっかくの『根菜と鶏肉の炊き込みご飯』が、冷めてしまいますよ」
小糸が心配そうに声をかけると、ルカはビクッと肩を揺らし、慌てて箸を持ちました。
「あ、ごめん、おかみさん。……いただきます」
しかし、一口食べただけで箸が止まり、また「はあ……」と溜息をつきます。
隣に座っていた商人のカイルが、見かねてルカの背中をバシッと叩きました。
「痛っ! なにするんだよ、カイルさん!」
「なにするんだよじゃないぜ。ここ数日、お前、ずっとそんな調子じゃないか。親方にまた大目玉でも食らったのか? それとも、ノコギリで指でも怪我したか?」
ザックも横から身を乗り出しました。
「おう、もし工房でいじめられてるなら、俺が冒険者の剣で脅かしてきてやろうか?」
「違うよ! 親方は相変わらず厳しいけど、理不尽に怒られたりしてないし、怪我もしてないよ」
ルカは慌てて否定し、顔を赤くしてうつむいてしまいました。
「じゃあ、なんだってんだ。若いくせに、そんなシワシワの顔をして」
カイルが呆れたように言うと、ルカはモゴモゴと口ごもりながら、消え入るような声で呟きました。
「……あのさ。その……好きな子が、できたんだ」
その瞬間、カウンターにいた客たちが一斉にルカに注目しました。
「おおっ! なんだなんだ、色恋沙汰か!」
「ルカ坊に春が来たぞ!」
途端に店の中は冷やかしの言葉と笑い声に包まれ、ルカはさらに顔を真っ赤にして頭を抱えました。
「はいはい、みんな、あんまりからかわないの。ルカさんが萎縮しちゃうでしょ」
小糸が優しくたしなめると、客たちはクスクスと笑いながらも、静かにルカの話に耳を傾け始めました。
「それで、ルカさん。そのお相手は、どんな方なの?」
小糸が温かいお茶を差し出しながら尋ねると、ルカは少し恥ずかしそうに顔を上げました。
「あのね……僕の工房の向かいにある、パン屋の娘さんなんだ。名前はクロエっていうんだ。髪がふわふわで、いつも朝早くから小麦粉で顔を真っ白にしながら、一生懸命パンを焼いてるんだ。その姿が、すごく可愛くて……」
ルカの目は、クロエのことを語る時だけ、キラキラと輝いていました。
「毎朝、親方のお使いでそのパン屋に行くから、挨拶くらいはするんだけど……でも、それ以上は何も話せなくて。いつも、パンを買うだけで逃げるように帰ってきちゃうんだ。僕みたいな下っ端の職人が、声なんかかけたら迷惑かもしれないし……」
ルカは再び自信をなくしたように、深いため息をつきました。
職人としての腕はメキメキと上達しているルカですが、対人関係、特に女性に対しては非常に不器用で、奥手な性格だったのです。
「なんだ、そんなことか。なら、明日パンを買いに行った時に、『今度の休みに、一緒に広場の市場でも見に行かないか?』って、ドカンと誘っちまえよ!」
カイルが豪快に笑いながらアドバイスをしますが、ルカは力なく首を振りました。
「そんなの、絶対無理だよ! 緊張して言葉が出てこないし、もし断られたら、もう二度とパン屋に行けなくなっちゃうよ……」
「お前なぁ、商売も恋も、自分から動かなきゃ何も始まらねえぞ!」
「分かってるけど……どうしたらいいのか、全然分からないんだよ……」
ルカが頭を抱え込んでしまったのを見て、小糸はふと、厨房の隅に置かれた健三の湯呑みを見つめました。
生前、健三もまた、信じられないほど不器用で、口下手な男でした。
小糸が健三と出会ったのは、彼女がまだ二十歳そこそこの頃。当時、健三は板前として厳しい修行を終えたばかりで、小糸は彼が働く料理屋で仲居として働いていました。
『おい……これ、食え』
ある日の仕事終わり。賄いの時間でもないのに、健三が突然、小糸の前に無言で小さな小鉢をドンと置きました。中に入っていたのは、見事に美しい黄金色に輝く、分厚いだし巻き卵でした。
驚く小糸をよそに、健三は顔を真っ赤にして、逃げるように厨房の奥へと消えていきました。
後で先輩の仲居から聞いた話では、健三はそのだし巻き卵を作るために、何日も前から自分の給料で上質な卵を買い込み、夜遅くまでこっそりと練習を繰り返していたそうです。
「……ルカさん。私の昔話を、少し聞いてくれるかしら」
小糸が静かな声で話し始めると、店内のざわめきがスッと引きました。
「私の亡くなった夫はね、ルカさん以上に不器用で、口下手な人だったのよ。私に初めて気持ちを伝えてくれた時も、甘い言葉なんて一つもなかったわ。ただ、彼が作れる一番美味しい料理を、無言で私の前にドンッて置いただけだったの」
小糸は懐かしそうに目を細め、クスクスと笑いました。
「言葉はなかったけれど……でもね、そのお料理を食べた時、彼の気持ちは痛いほど伝わってきたわ。彼がどれだけ真剣に料理と向き合っていて、どれだけ私のことを考えてそれを作ってくれたかが、味を通してまっすぐに心に響いてきたの」
ルカは、目を丸くして小糸の話に聞き入っていました。
「ルカさん。あなたは、言葉で気持ちを伝えるのが苦手なのかもしれないわね。だったら、無理に言葉で飾ろうとしなくていいのよ」
小糸はカウンター越しに、ルカのゴツゴツとした職人の手を見つめました。
「あなたは、立派な木工職人でしょう? ならば、言葉の代わりに、あなたのその手で作り出した『もの』で、彼女に気持ちを伝えてみたらどうかしら。完璧な言葉より、あなたが心を込めて作った椅子を一つ、贈ってみなさいな」
「椅子を……僕が作った椅子を、クロエちゃんに?」
ルカが驚いたように尋ねます。
「ええ。クロエさんは、毎日朝早くから立ち仕事で、さぞかし足が疲れるでしょう。パンの仕込みの合間に、ちょっと腰掛けて休めるような、そんな小さな椅子を作ってあげるの。彼女のことを思い浮かべて、どんな形なら座りやすいか、どんな木の温もりが彼女に似合うか……一生懸命考えて、削り出すのよ」
小糸の言葉に、ルカの表情がハッと変わりました。
「……そうだ。僕、この前親方に、『お前の削る木は、温かみがある』って褒められたんだ。言葉ではうまく言えないけど……僕の削った木なら、僕の気持ちを乗せられるかもしれない」
ルカの目に、いつもの生き生きとした職人の光が戻ってきました。
「おかみさん、ありがとう! 僕、やってみるよ。クロエちゃんのために、世界で一番座り心地のいい椅子を作ってみる!」
「ええ、その意気よ。頑張ってね」
ルカは残っていた炊き込みご飯を勢いよくかき込むと、多めの代金を置いて、弾かれたように店を飛び出していきました。
それから数日間、ルカは店に顔を見せませんでした。
カイルやザックたちは、「あいつ、夜通し椅子を作ってるんだろうな」「フラれて落ち込んでなきゃいいけどな」と、口々にルカの恋の行方を心配していました。
小糸もまた、心配な気持ちを抱えながら、毎日美味しい料理を作り続けていました。
そして一週間後の夜。
「おかみさん! みんな!」
バンッ!と勢いよく暖簾をくぐって入ってきたのは、目をキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべたルカでした。
その隣には、ふわふわの髪を少し照れくさそうに揺らす、可愛らしい若い娘が恥ずかしそうに立っていました。
「ルカさん! それに、そちらの可愛らしいお嬢さんは……」
小糸が目を丸くすると、ルカは胸を張って言いました。
「紹介するよ! パン屋のクロエちゃんだ。今日、僕の作った椅子を渡しに行ったら……すごく喜んでくれて。それで、僕の行きつけのお店に、一緒にご飯を食べに行こうって誘ったんだ!」
店の中は一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声と拍手に包まれました。
「うおおお! やったなルカ坊!」
「すげえぞ! あの不器用なルカが、こんな可愛い子を連れてくるなんて!」
カイルやザックたち常連客が、我が事のように大喜びで自分のジョッキを打ち鳴らしました。
クロエは顔を真っ赤にしてルカの袖を掴みながら、小糸に向かってぺこりと頭を下げました。
「あの……初めまして、クロエです。ルカさんから、ここのおかみさんのご飯が一番美味しいって聞いて、ずっと来てみたかったんです」
「いらっしゃい、クロエさん。よく来てくれましたね。ルカさんからは、いつもクロエさんのパンが美味しいって話を聞いていましたよ」
小糸が柔らかな笑顔で迎えると、クロエはさらに顔を赤くしてルカを見上げました。ルカも照れくさそうに頭を掻いています。
「さあ、二人とも。今日は特別なお祝いだからね。一番いい席に座ってちょうだい」
小糸は二人をカウンターの特等席に案内し、早速料理の準備に取り掛かりました。
「……ねえ、クロエさん。ルカさんの椅子、どうだった?」
小糸が、出汁の効いた熱々の「茶碗蒸し風」の小鉢を二人の前に出しながら、そっと尋ねました。
クロエは、茶碗蒸しの温かさに目を細めながら、嬉しそうに頷きました。
「はい。すごく、すごく嬉しかったです。ルカさんがくれた椅子、本当に座り心地が良くて……。座面のカーブが、まるで私を優しく包み込んでくれるみたいなんです。あんなに私のことを考えて作ってくれたんだって思ったら、なんだか胸がいっぱいになっちゃって……」
クロエの目には、うっすらと喜びの涙が浮かんでいました。
「それに、僕、椅子を渡す時に、ちゃんと言えたんだよ」
ルカが、誇らしげに言いました。
「『クロエちゃんが疲れた時、いつでもこの椅子に座って休んでほしい。そして、これからは僕が、君の心を休められる場所になりたい』って」
「まあっ! ルカさん、そんなキザな台詞、どこで覚えたの!」
小糸がわざとらしく驚いて見せると、カイルたちも「おいおい、熱いねえ!」「こっちまで顔が赤くなるぜ!」と冷やかしました。店の中は、温かく幸せな笑い声でいっぱいになりました。
小糸は厨房の奥に戻り、再び健三の湯呑みに視線を向けました。
「お父さん。ルカさん、不器用なりに、ちゃんと自分の気持ちを形にして伝えられましたよ。お父さんのだし巻き卵と、同じですね」
小糸の目にも、温かいものが込み上げてきました。
その日の夜。
「こいと」の店内では、ルカとクロエの初々しいカップルを中心に、これまでにないほど幸せな宴が夜遅くまで続きました。
美味しい料理と、人の温かい気持ち。そして、不器用な職人の恋を後押しした、ささやかな「おばあちゃんの知恵」。
アルデバラン伯爵領の静かな水路沿いに佇む小さな店は、こうしてまた一つ、街の人々の大切な想いを結びつける、かけがえのない場所へと育っていくのでした。




