第8話 肉屋ガロンの悩みと保存食
秋風が少しずつ冷たさを増し、アルデバラン伯爵領にも冬の足音がかすかに聞こえ始めた頃。
小料理屋「こいと」は、今日も夕暮れと共に温かい灯りをともし、仕事帰りの商人や職人たちを優しく迎え入れていました。
「掃除の知恵」で磨き上げられた居心地の良い空間と、「生活の知恵」によって生み出された一杯の白湯が見事に喧嘩を収めたあの一件以来、街の人々の間で「こいと」はただの食事処を超えた、一種の駆け込み寺のような存在になりつつありました。
「いらっしゃいませ。今日も一日、お疲れ様でしたね」
小糸が柔らかな声で迎えると、暖簾をくぐって入ってきたのは、いつもの常連客たちだけではありませんでした。
「おう、おかみさん。邪魔するぜ」
分厚い体を縮めるようにして入ってきたのは、仕入れ先である中央市場の肉屋の親方、ガロンでした。
彼はいつも威勢が良く、最高級の「ホーンラビット」や、脂の乗った異世界の豚肉を小糸に卸してくれている頼もしい男です。しかし、今日のガロンはいつもの豪快な笑顔がなく、太い眉間に深いしわを刻み、大きなため息をつきながらカウンターの端にドスンと腰を下ろしました。
「あら、ガロンさん。お店の方はいかがですか? なんだか、随分とお疲れのようですね」
小糸が温かいお茶を差し出しながら尋ねると、ガロンは両手でぽってりとした素焼きの湯呑みを包み込むように持ち、再び深く息を吐き出しました。
「ああ……。実はな、おかみさん。ちょっと頭の痛い問題が起きててよ」
ガロンの話によれば、今年の秋は例年に比べて気温の変動が激しく、仕入れた肉の鮮度が落ちるのが異常に早いのだそうです。
「普段なら、この時期は涼しいから、塩を振って冷暗所に置いておけば数日は持つんだが……。今年は昼間だけ変に生暖かくなる日が多くてな。せっかく上質な肉を仕入れても、すぐに表面が傷んで、売り物にならなくなっちまう。このままじゃ、大赤字だ。冬になれば雪が降って天然の冷蔵庫ができるんだが、それまで持ちこたえられるかどうか……」
この異世界には、当然ながら電気で動く冷蔵庫などありません。氷室と呼ばれる、冬の氷を保存しておく地下室を持つのは一部の大貴族だけで、普通の商人たちは塩を大量にすり込んでガチガチの塩漬けにするか、風通しの良い日陰に吊るすくらいしか、肉を保存する方法を持っていませんでした。
「なるほど……。それは、商売をされる方にとっては死活問題ですね」
小糸は腕を組み、静かに考え込みました。
ガロンが卸してくれる肉は、どれも彼が自らの目で厳選した本当に美味しいものばかりです。その命が、食べられることなく腐って捨てられていくのは、料理人である小糸にとっても非常に悲しいことでした。
ふと、小糸の脳裏に亡き夫、健三の言葉が蘇ります。
『いいか小糸。食材ってのはな、腐る寸前が一番旨味が出るんだ。だが、そのままじゃ食えねえ。だから人間は、塩や煙や油を使って、その一番美味い瞬間を「閉じ込める」知恵を絞ってきたんだ。保存食ってのは、ただ長持ちさせるためのもんじゃない。食材への最高の敬意なんだよ』
「ガロンさん。もしよろしければ、私が少しだけ、お肉の保存の工夫をしてみましょうか?」
小糸がそう提案すると、ガロンは驚いたように顔を上げました。
「おかみさんが? いや、料理の腕がすごいのは知ってるが、相手は生の肉だぜ? 塩を山ほど擦り込んでガチガチの塩漬けにするくらいしか、俺たちには思いつかねえんだ」
「ええ、塩漬けも立派な保存方法です。でも、それだけじゃお肉が硬くなって、塩抜きの手間もかかりますし、旨味も逃げてしまいますよね。私が提案するのは、もっと美味しく、そして長くお肉を楽しめる『おばあちゃんの知恵』ですよ」
小糸がにっこりと微笑むと、ガロンの顔に少しだけ希望の光が差しました。
「本当か!? もしそんな方法があるなら、ぜひ教えてくれ! 頼む、おかみさん!」
「ふふっ、わかりました。じゃあ、明日の朝一番で、お店の方に伺いますね。少し準備が必要ですから」
翌朝。
朝露がまだ残る冷たい空気の中、小糸は市場のガロンの肉屋へと足を運びました。
「生活の知恵」と「掃除の知恵」のレベルが上がった小糸の足取りは、七十歳とは思えないほど軽く、石畳の道を滑るように歩いていきます。
店の奥の作業場には、立派な角を持ったホーンラビットの肉や、豚に似た大きな肉の塊が、解体された状態で並べられています。しかし、ガロンの言う通り、いくつかの肉はすでに表面が微かに変色し始めていました。
「おはようございます、ガロンさん。さあ、始めましょうか」
小糸は腕まくりをし、持参した大きな木箱を作業台の上に開けました。
「おかみさん、その箱に入っているのは……?」
「昨日、リリアちゃんの八百屋で揃えてきたんですよ。それと、私の手作りの調味料です」
小糸が取り出したのは、大量の「香草」の束、細かく砕いた岩塩、そして小魚を発酵させた「ガルム」、さらに、柑橘系の果実の皮を干したもの、そして一番搾りの上質な植物性の油でした。
小糸の脳内には、気温や湿度の変化に負けない、様々な種類の保存食の知識が完璧な理論として組み上がっていました。
「まず、表面が少しだけ傷み始めているお肉ですが、これは思い切って『干し肉』にしてしまいましょう」
小糸は手持ちの小包丁を手に取ると、肉の傷んだ部分だけを薄く削ぎ落とし、残りのきれいな赤身を、繊維に沿って一定の薄さにスライスし始めました。
トントン、スッ、スッ……。
その手つきは驚くほど滑らかで、一切の迷いがありません。「料理の知恵」によって最適化された身体の動きは、長年肉を切り分けてきたガロンでさえ、目を見張るほど鮮やかでした。
「すげえ手際だ……。でも、ただ干すだけじゃ、すぐにカビが生えちまうぞ?」
「ええ。だから、干す前に下味をつけるんです」
小糸は大きめの木桶に、スライスした肉を入れ、そこに細かく砕いた岩塩とガルム、そして殺菌効果の高い香草と柑橘の皮をたっぷりと揉み込みました。
「塩分は少し強めにします。そして、ガルムの持つ酵素がお肉のタンパク質を分解して、干した時にカチカチに硬くなりすぎるのを防いでくれるんです。柑橘の酸味と香草は、雑菌の繁殖を抑える立派なお薬になります」
小糸はしっかりと味を馴染ませた肉を、作業場の風通しの良い場所に渡した麻紐に、一枚一枚丁寧に吊るしていきました。
「あとは、このまま日陰で風に当てて乾燥させるだけです。時々裏返して、水分が完全に抜けるまで待ちます。これで、常温でも数ヶ月は持つ、立派な保存食の完成ですよ。噛めば噛むほど旨味が出る、最高のお酒のおつまみになりますからね」
ガロンは、吊るされた肉から漂う爽やかな香草とガルムの深い香りに、思わず生唾を飲み込みました。
「なるほど……。塩だけじゃない、他のものの力を借りて長持ちさせるのか。さすがだぜ、おかみさん」
「まだまだ、これからですよ。次は、まだ新鮮な塊のお肉です」
小糸は、脂の乗った美しい豚肉の塊を手に取りました。
「これは、先日のように気温が上がっても絶対に腐らない『油漬け(コンフィ)』にします」
「油に……漬ける? 脂っこい肉を、さらに油に入れるのか!?」
ガロンが目を丸くして驚きます。
「ええ。お肉が腐るのは、空気に触れて雑菌が繁殖するからです。だから、空気に触れないように、油で完全に蓋をしてしまうんです」
小糸は、深めの鉄鍋に豚肉の塊を入れ、それが完全に隠れるまで、上質な植物性の油をたっぷりと注ぎました。そこへ、殺菌効果と風味付けのための香草と、少しの岩塩を加えます。
「そして、ここからが一番大事なポイントです。ガロンさん、絶対に、油を沸騰させてはいけませんよ」
小糸は魔石コンロの火を極限まで弱くし、油の温度が微かにフツフツと波打つ程度の、低温を保ちました。
「熱い油で唐揚げのように揚げてしまうと、お肉の水分が抜けてパサパサになってしまいます。お風呂のお湯くらいの温度で、じっくり、じっくりと火を通していくんです」
一時間後。
低温でじっくりと加熱された豚肉は、油の中で信じられないほど柔らかく、そしてほんのりと美しい桜色に仕上がっていました。
「これで火から下ろして、壺に移して油ごと冷まします。油が固まれば、それが天然の真空パックになります。冷暗所に置いておけば、数週間は全く傷みませんし、食べる時は少し温め直すだけで、お箸で切れるくらいホロホロの極上の煮込み肉になりますよ」
ガロンは、鍋の中で美しく仕上がったコンフィを見つめ、声も出せないほど感動していました。
「すげえ……。塩漬けにするか、諦めて捨てるしかなかった肉が、おかみさんの手にかかると、前よりもずっと美味そうなご馳走に生まれ変わっちまった……」
ガロンの目には、うっすらと涙さえ浮かんでいました。
「魔法なんて使っていませんよ。これはただの『おばあちゃんの知恵』。食材が持っている性質と、お塩や油の力を、少しだけ手助けしてあげただけです」
小糸はエプロンで手を拭きながら、優しく微笑みました。
数日後。
ガロンの肉屋の店頭には、これまでの生の肉に加えて、小糸直伝の「香草の干し肉」と、「豚肉のコンフィ(油漬け)」が並べられました。
試食として干し肉を一口食べた客たちは、その噛みしめるほどに溢れ出す複雑な旨味と、香草の爽やかな香りに驚嘆し、あっという間に飛ぶように売れていきました。コンフィもまた、少し温めるだけで高級レストランのような味わいが家庭で楽しめるということで、少し値が張るにもかかわらず、裕福な商人や貴族の使いの者たちによってあっという間に完売してしまいました。
その日の夜。
「こいと」の藍色の暖簾を勢いよくくぐってきたガロンの顔は、数日前の沈み込んだ表情とは打って変わり、満面の笑みに輝いていました。
「おかみさん! 本当に、本当にありがとう! おかげで赤字どころか、これまでにないくらいの大儲けだ!」
ガロンは琥珀色に輝くカウンターにドスンと極上のホーンラビットの背肉と、最高級の豚バラ肉の塊を置きました。
「これは、俺からのほんのお礼だ! これから先も、『こいと』には俺の店で一番いい肉を、一番安く卸させてもらうぜ! おかみさんは、俺たち商人にとっての命の恩人だ!」
ガロンが深々と頭を下げると、奥の席に座っていた常連のカイルやザックたちからも「よかったな、ガロン!」「おかみさんの知恵は本物だぜ!」と、温かい拍手と歓声が沸き起こりました。
「ありがとうございます、ガロンさん。このお肉、大切に使わせていただきますね。……さあ、今日はガロンさんのお祝いに、とびきり美味しいものを作りましょうか」
小糸は受け取った極上の肉を見つめ、嬉しそうに目を細めました。
その日、小糸が常連客たちに振る舞ったのは、ガロンから受け取った新鮮な肉を使った、小糸特製の「角煮風」と、軽く炙った「干し肉と青葉のサラダ」でした。
美味しい肉と、それに合う温かいお酒。そして、困難を乗り越えた仲間を祝福する、温かい笑い声。
「こいと」の店内は、これまでにないほどの幸せな熱気に包まれていました。
深夜、片付けを終えた小糸は、厨房の隅に置かれた健三の湯呑みに向かって語りかけました。
「お父さん。私、今回はお肉の保存の知恵で、ガロンさんを助けることができました。ただ料理を作るだけじゃなくて、こうして街の皆さんの生活の役に立てることが、今は何より嬉しいんです。お父さんが言っていた『保存食は食材への敬意』って言葉、ちゃんとこの世界の人にも伝わりましたよ」
形見の湯呑みにお茶を注ぐ小糸の体は、「生活の知恵」のレベルがまた少し上がったことで、さらに軽やかに、活気に満ち溢れていました。
異世界の食材と向き合い、人々の悩みに寄り添う。
七十歳の老女が持つ長年の知恵は、アルデバラン伯爵領という新しい土壌で、確かな花を咲かせ、大きな実を結び始めていました。




