第10話「洗濯の知恵」と疑似味噌の完成
アルデバラン伯爵領に、本格的な冬の冷気が舞い降りていました。
街の真ん中を流れる清らかな川の岸辺には、朝方になると薄い氷が張り、街路樹の葉はすっかり落ちて、灰色の枝先が寒空に向かって細く伸びています。家々の煙突からは、朝早くから一日中絶えることなく白い薪の煙が立ち上り、道を行く人々は羊毛の厚い外套に深く身を包み、白い息を吐きながら足早に通り過ぎていきました。
そんな凍てつく冬の朝、水路沿いの静かな路地にある小料理屋「こいと」の裏庭で、小糸はたらいの前にしゃがみ込んでいました。
井戸から汲み上げたばかりの水は、指先がちぎれそうなほど冷たく澄んでいます。
「よいしょ、冷たいねぇ……。でも、ここでお湯を使いすぎると、お料理の仕込みに響いちゃうからね」
小糸は息を吹きかけてかじかむ手を温めながら、店で使う木綿の布巾や、お客様にお渡しする手拭き布を一枚一枚、丁寧に水で洗っていました。
先日、若き木工職人のルカとパン屋の娘クロエの恋が見事に実を結び、店の中は連日、二人の初々しい笑顔と常連客たちの温かい祝福の声で満ち溢れていました。店が賑わうのは本当にありがたいことですが、その分、客席や厨房で使われる布の数も格段に増えていたのです。
しかし、この冬の寒さの中で、小糸は一つの大きな悩みに直面していました。
冷たい井戸水では、料理の油分や調味料の微かな汚れが綺麗に落ちきらず、洗って乾かした布が、どうしてもバリバリと硬く強張ってしまうのです。おまけに、冬の鈍い日差しと乾きにくい空気のせいで、布の芯に湿気が残り、微かな生乾きの匂いがついてしまうこともありました。
「食事の前に手や口を拭く布が、ゴワゴワして冷たかったり、変な匂いがしたりしては、せっかくの美味しいお料理も台無しになってしまうわね……」
小糸はしわの刻まれた自分の手をじっと見つめました。
日本にいた頃は、当たり前のように温水が出る洗濯機があり、柔軟剤や部屋干し用の洗剤がありました。しかし、この世界にはそんな便利な道具は一つもありません。手に入るのは、冷たい水と、木を燃やした灰、そして少しの粗悪な油石鹸くらいのものでした。
ふと、亡き夫、健三の厳しい声が、冬の冷たい空気の中に蘇りました。
『いいか小糸。お客さんが店に入って、一番最初に肌に触れるものは何だか分かるか? 箸でもなけりゃ、料理でもねえ。「おしぼり」だ。席について、温かくて柔らかい、いい匂いのおしぼりで手を拭いた瞬間、客は「ああ、今日はここに来てよかった」って肩の荷を下ろすんだ。おしぼりを雑に扱う店は、料理も絶対に雑になる。布一枚に、命を懸けろ』
「そうね、お父さん。料理人にとって、おしぼりは『おもてなしの玄関』だものね。寒さのせいにして、手を抜いちゃいけないわ」
小糸は立ち上がり、台所へ向かいました。
不便だからと諦めるのは、小糸の性分ではありません。ないなら、今あるものと長年の経験を組み合わせて、最高の知恵を絞り出せばいいのです。
小糸はまず、竈の灰受けから、純度の高い白っぽい灰を丁寧に取り出しました。これを目の細かい布で漉し、沸かした熱湯に入れてかき混ぜ、上澄みの透明な「灰汁」を作ります。灰汁に含まれるアルカリ成分は、頑固な皮脂や料理の油汚れを分解する天然の洗浄液です。
しかし、ただ灰汁で洗うだけでは、繊維がアルカリ性に傾き、乾いた時にカチカチに硬くなってしまいます。
「汚れを落としたら、今度は繊維を柔らかく整えてあげなくちゃね」
小糸は棚から、市場の八百屋の娘リリアから手に入れていた、酸味の非常に強い小粒の柑橘類の果汁を取り出しました。
「弱酸性の果汁を最後のすすぎ水にほんの少し混ぜれば、アルカリが中和されて、繊維がふんわりと立ち上がるはず。それに、爽やかな香りも残るわ」
小糸は大きなたらいにぬるま湯を張り、特製の灰汁を入れて布を浸しました。
力を込めてゴシゴシと擦るのではなく、繊維を傷めないよう、手のひらで優しく押し洗いしていきます。油汚れがスーッと溶け出し、水が微かに濁っていきます。
二度、綺麗な水ですすいだ後、最後の仕上げです。
小糸は別の桶に張った澄んだ水に、柑橘の果汁をほんの数滴垂らし、その中で布を泳がせるようにして優しく潜らせました。
両手でしっかりと、けれど繊維を絞り切ってしまわない絶妙な力加減で水気を切った布を、小糸は冬の乾いた風が吹き抜ける日当たりの良い裏庭の物干し竿へと広げました。
パン、パンと空気をはらませるように叩いてシワを伸ばし、布と布の間隔を指三本分ずつ均等に空けて干していきます。こうすることで、冬の弱い風でも布の間を効率よく通り抜け、日光の熱を均一に受けることができるのです。
冬の青空の下に、真っ白な布が旗のようにはためき始めました。
その時でした。
『ピロン』
耳の奥で、氷が溶けて滴るような、澄み切った鈴の音が鳴り響きました。
小糸の目の前の空間に、淡い光を帯びた半透明の文字が浮かび上がります。
『スキル「おばあちゃんの知恵」がレベルアップしました』
『「洗濯の知恵レベル1」が解放されました』
「あら……。今度は、洗濯の知恵ですか」
小糸が呟いた瞬間、まるで温かい毛布にふわりと包み込まれたかのような心地よい温もりが、指先から手首、そして肩へと広がっていきました。
冬の水仕事で赤くかじかみ、強張っていた指の関節が、じんわりと内側から温まり、滑らかに動くようになります。全身の血行が劇的に良くなり、冷たい外気に晒されていた頬に、ぽっと自然な赤みが差しました。
同時に、小糸の頭の中に、布という素材の性質、繊維の絡まりを解く手の動き、水の温度と汚れの落ちる速度の相関関係といった知識が、極めて鮮明な感覚として染み渡っていきました。
自分の身体がまた一つ、若々しい弾力を取り戻し、作業の疲れを全く感じさせない軽やかさに満ちていくのを、小糸は確信しました。
「ふふっ、本当にありがたいスキルね。これなら、どんなに寒い冬でも、へっちゃらでお仕事ができますよ」
小糸は満足そうに微笑み、裏庭を後にして厨房へと戻りました。
しかし、小糸の今日の挑戦は、洗濯だけではありませんでした。
むしろ、ここからが本番でした。
小糸がこのアルデバラン伯爵領に来て以来、ずっと心の中で温め続け、密かに試行錯誤を繰り返してきた「最大の目標」――それは、「味噌」を作ることでした。
出汁は、リリアから教えてもらった「鉄の実」や乾燥キノコ、干しアミを使って、本物の和風出汁に負けない極上の琥珀色の出汁が引けるようになりました。
しかし、冬の厳しい寒さが訪れるたびに、小糸の胸を締め付けるのは、故郷の温かい「味噌汁」の記憶でした。
雪が降る寒い夜、湯気を立てる味噌汁をすすった瞬間の、あの身体の芯から解きほぐされるような至福の温もり。仕事で疲れ果てて帰ってきた健三に、大根や油揚げの入った熱々の味噌汁を出すと、健三は決まって「ふぅーっ」と深く息を吐き、「生き返るなぁ」と呟いていたものでした。
(あんなに美味しくて、身体を温めてくれるものを、この街の人たちにも食べさせてあげたい。凍えるような風の中を歩いて店に来てくれるカイルさんやザックさん、ルカさんたちに、本当の心の底からの温もりを届けてあげたい)
その一心で、小糸は数ヶ月前から、店の片隅にある冷暗所で、ある実験を続けていたのです。
問題は、味噌の主原料となる「大豆」と「麹」でした。
大豆に関しては、以前、寄せ豆腐風を作った際にリリアから分けてもらった、現地の「大豆によく似た丸い豆」がありました。煮ると甘みがあり、油分とタンパク質を豊富に含んだ上質な豆です。
しかし、最大にして最も高い壁は「麹」でした。
大豆を発酵させ、あの独特の芳醇な旨味と甘みを生み出す麹菌など、この異世界の市場のどこを探しても売っていません。
途方に暮れていたある夜、小糸は健三が昔、店の奥で手前味噌を仕込んでいたときの光景を思い出しました。
『いいか小糸。発酵ってのはな、目に見えない小さな命との対話なんだ。麹菌がいないなら、米や麦、あるいは枯れ草に宿っている天然の力を借りるんだよ。人間ができるのは、そいつらが一番気持ちよく働ける寝床と、適度な温度、そして塩分を用意してやることだけだ。焦っちゃ駄目だ。発酵は、時間が育てる芸術なんだからな』
健三の言葉を頼りに、小糸は知恵を絞りました。
この世界にも、エールやワインを造るための「酵母」は存在します。さらに、パン屋のクロエが使っている「自然発酵の種」や、農家が麦を保管する際に使う特定の乾燥した香草の茎には、穀物を分解して甘みを引き出す天然の菌が棲みついていることを、小糸は「生活の知恵」と「料理の知恵」を総動員して見抜いていました。
小糸は、蒸した麦にその香草を巻き、適度な湿度と温度を保った木箱の中でじっくりと寝かせました。幾度となくカビを生やして失敗し、涙を呑んで廃棄したことか知れません。
しかし、温度管理を徹底し、清潔な布で包み、祈るように見守り続けた結果、ある日、麦の表面に、まるで粉雪のような美しい白い菌糸がびっしりと覆い尽くしたのです。栗のような甘く香ばしい香りが漂ったその瞬間、小糸は思わず台所で一人、歓喜の声を上げました。天然の「麦麹」が完成したのです。
そして三ヶ月前。
小糸は、柔らかく煮上げた大量の豆をすり鉢で丁寧に潰し、丹精込めて育てた麦麹と、細かく砕いた上質な岩塩を、均一になるまで根気強く混ぜ合わせました。
「美味しくなってね。みんなを温めてあげてね」
手のひらでギュッと握って空気を抜き、団子状にしたものを、熱湯で消毒した陶器の大壺の底へ、空気が入らないように力強く投げ入れ、敷き詰めていきました。
表面を平らに均し、雑菌が入らないように塩を薄く振り、重石を乗せて、冷暗所の奥深くで静かに眠らせておいたのです。
「さあ……どうなっているかしら」
小糸は胸の鼓動を抑えながら、冷暗所の重い木の扉を開けました。
棚の奥に鎮座する、大きな茶色の陶器の壺。
小糸は手を清め、息を潜めながら、壺を覆っていた麻布の紐を解き、木の蓋をそっと持ち上げました。
ふわっ……。
その瞬間、冷暗所の薄暗い空間に、何とも言えず芳醇で、深く、どこか懐かしい香りが広がりました。
大豆が長い時間をかけて熟成し、アミノ酸へと変わった濃厚な旨味の香り。麦麹が醸し出す、まろやかで優しい甘い香り。
重石をどけると、そこには、表面が美しい赤褐色――深い琥珀色に輝く、しっとりとしたペースト状の塊が姿を現しました。
カビ一つ生えることなく、完璧な発酵を遂げた、異世界の素材だけで作り上げた「特製・手前味噌」でした。
小糸は震える指先で、表面の味噌をほんの少しだけすくい取り、舌の上に乗せました。
「……!」
言葉が出ませんでした。
舌の上でとろりと溶けた瞬間、まず力強い塩気が広がり、そのすぐ後から、怒涛のように押し寄せてくる圧倒的な大豆の旨味とコク。そして喉を通る時に残る、麦麹のほんのりとした優しい甘み。
日本の信州味噌や赤味噌とも少し違う、麦の風味が豊かな、素朴で力強い、けれど涙が出るほど優しい味わいでした。
『……上出来だ、小糸。これなら、俺の味噌汁にも負けてねえよ』
湯呑みの健三が、少し悔しそうに、けれど誇らしげに笑ったような気がしました。
小糸の目から、ツーと一筋の温かい涙がこぼれ落ち、頬を伝いました。
「できた……。お父さん、本当にお味噌ができたわ……!」
小糸は袖で涙を拭うと、すぐに厨房へ戻り、腕まくりをしました。
今日の夕方の営業に向けて、最高の味噌汁――いや、具だくさんの「豚汁風」を作るためです。
小糸は、出汁鍋に火をかけました。「鉄の実」と乾燥キノコ、干しアミから引いた極上の黄金出汁。
そこへ、八百屋のリリアから仕入れた、冬に甘みを増す白い根菜(大根やカブに似たもの)をいちょう切りにして投入します。さらに、肉屋のガロンが「一番脂が乗っているところだ!」と届けてくれた、最高品質の豚バラ肉に似た肉を一口大に切り、鍋で軽く炒めて旨味を閉じ込めてから、出汁の中へと合わせました。
コトコト、コトコト……。
根菜が柔らかくなり、肉の脂が出汁に溶け出して、スープの表面にキラキラとした黄金の輪が浮かび上がります。アクを丁寧に取り除き、火を止める寸前。
小糸は、すり鉢で丁寧に溶いた琥珀色の味噌を、お玉を使って静かに出汁の中へと溶き入れました。
ジュワッという微かな音と共に、鍋の中から立ち上った湯気が、厨房全体を爆発的な芳醇な香りで包み込みました。
味噌は沸騰させてしまうと香りが飛んでしまいます。「煮花」と呼ばれる、鍋の淵がグラッと揺れる瞬間に火を止めるのが、健三から叩き込まれた絶対の鉄則でした。
「よし……完璧ね。あとは、お客様を待つだけ」
夕暮れが訪れ、アルデバラン伯爵領の水路沿いに、冷たい夜風が吹き荒れ始めました。
街灯の明かりが水面に揺れる中、「こいと」の藍色の暖簾がバタバタと音を立てています。
ガラガラッ!
戸が勢いよく開き、冷たい外気と共に、縮こまった影が二つ飛び込んできました。
「ひえぇぇ……! 寒い、死ぬほど寒いぞ!」
「おかみさん、こんばんは! 頼む、何か温かいものを……凍えて指が動かねえ!」
入ってきたのは、顔を真っ青にして鼻の頭を真っ赤にした、常連のカイルとザックでした。
二人は王都からの帰り道、吹きさらしの街道を馬車で移動してきたため、全身が芯まで冷え切っていました。外套を脱ぐ手も震え、足踏みをしながらカウンターの席へと滑り込みます。
「いらっしゃい、カイルさん、ザックさん。遠くから、本当に寒かったでしょう。さあ、まずはこれで温まってくださいな」
小糸はにっこりと微笑むと、木製の盆に乗せた二つの白い筒状の布を、二人の目の前にスッと差し出しました。
「ん……? なんだ、おかみさん、これ。布か?」
ザックがおそるおそる手にとった瞬間、彼の目が見開かれました。
「アツッ……いや、温かい! なんだこの柔らかさは!?」
それは、小糸が先ほど「洗濯の知恵」と熱湯の蒸気を使って仕上げた、特製の「熱々のおしぼり」でした。
雪のように純白で、触れた瞬間、まるで上質な毛布のようにふんわりと空気を抱き込んでいます。そして布が温まるにつれて、微かに染み込ませてあった柑橘の爽やかで清々しい香りが、ふわりと二人の鼻腔をくすぐりました。
「うわあああ……!」
カイルは思わず両手でおしぼりを包み込み、そのまま顔全体を覆うようにして深々と押し当てました。
「あったかい……! 生き返る……! なんだこれ、すっごく柔らかいぞ! いつもの布と全然違う! それに、すっごくいい匂いだ……!」
ザックも、ごつごつとした大きな手でおしぼりを握りしめ、顔を撫で下ろしながら、長いため息を吐き出しました。
「ふぅぅぅぅ……。手先の感覚が戻ってきたぜ。ただの布切れのはずなのに、どうしてこんなに温かくて、気持ちがいいんだ……。街道の冷たい風に痛めつけられた肌が、優しく包まれるようだ」
二人がおしぼりの温もりに心底とろけているところへ、カラカラと戸が開き、今度は若いルカとクロエが仲良く肩を寄せ合って入ってきました。続いて、仕事を終えた肉屋のガロンも、巨体を揺らして入ってきます。
「おかみさん、こんばんは! 今日も寒いね!」
「おう、おかみさん! 身体がカチコチだぜ!」
「はいはい、いらっしゃい。ルカさんもクロエさんも、ガロンさんも、まずはお手手を温めてね」
小糸が全員に熱々のおしぼりを配ると、店内のあちこちから「うわぁ、気持ちいい!」「ふかふかだ!」「柑橘のいい香りがする!」と、感嘆の声が上がりました。
凍えて強張っていた客たちの表情が、おしぼり一つでみるみるうちに柔らかく解きほぐされていきます。
「おかみさん、この布、一体どうやって洗ったんだい? うちのパン屋で使ってる布巾なんて、冬になるとゴワゴワで紙みたいになっちゃうのに」
クロエが不思議そうにおしぼりを見つめながら尋ねました。
小糸は嬉しそうに目を細め、カウンター越しに語りかけました。
「ふふっ、これはね、ちょっとした『洗濯の知恵』なんですよ。木を燃やした灰から取った灰汁で汚れを優しく落とした後、最後に少しだけ酸っぱい果汁を混ぜたお水ですすぐんです。アルカリと酸がお互いの角を取り合って、繊維がふんわりと立ち上がるの。それから、冬の風がよく通るように、少し間を空けて干してあげるのよ」
「へえぇぇ……! 灰汁と果汁!? そんな身近なもので、こんなに柔らかくなるなんて……! 私、明日からお店の布でも絶対にやってみます!」
クロエが目を輝かせて頷き、ルカも誇らしそうに微笑んでいました。
客たちの身体が温まり、店内に穏やかな空気が満ちたところで、小糸は厨房の中央の鍋へ向かいました。
「さあ、皆さんの手とお顔が温まったところで……今夜は、身体の芯の芯まで温まる、特別なお料理を用意しましたよ」
小糸が大きな鉄鍋の重い蓋を持ち上げた瞬間。
ぶわっ……! と、濃密な湯気と共に、これまでの「こいと」では嗅いだことのない、強烈で芳醇な香りが店いっぱいに広がりました。
「……っ!? な、なんだこの匂いは!?」
カウンターにいた全員が、一斉に鼻をひくつかせ、厨房へと視線を釘付けにしました。
「肉の匂い……いや、木の実か? なんだか、ものすごく深い、腹の底を直接揺さぶられるような香りだぞ!」
ガロンが身を乗り出します。
小糸は、深みのある素焼きの椀に、熱々の汁をたっぷりと注ぎ分けました。
澄んだ琥珀色の出汁とは違う、少し濁りのある深い赤褐色のスープ。その中には、出汁と味噌をたっぷりと吸い込んで飴色になった根菜と、ツヤツヤと輝く柔らかな豚肉がゴロゴロと入っています。仕上げに、細かく刻んだ緑の香草を散らして。
「お待たせしました。私の故郷の味……『お味噌汁』の具だくさん仕立てです。熱いうちに、フウフウと息を吹きかけながら召し上がってくださいね」
一人一つの椀が、カウンターにトン、トンと置かれました。
客たちは、見たこともない赤褐色のスープから立ち上る湯気を浴びながら、息を呑んで椀を見つめました。
「いただきます……!」
カイルが木のスプーンを取り、震える手でスープをすくい、口へと運びました。
一口、含んだ瞬間。
カイルの動きが、ピタリと止まりました。
目が見開かれ、スプーンを持った手が空中で静止します。
「おい、カイル、どうしたんだよ?」
ザックが心配そうに声をかけましたが、カイルは答えません。ただ、喉をゴクリと鳴らしてスープを飲み干すと、そのまま両手で椀を持ち上げ、直接口をつけて、夢中でゴクゴクと汁をすすり始めたのです。
「カ、カイルさん!?」
ルカが驚く中、カイルは椀をカウンターに置き、ハァーッと熱い息を吐き出しました。
その瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいました。
「な……なんだこれ……! なんだこれぇぇぇっ!?」
カイルが叫びました。
「美味い……! 美味すぎる! 口に入れた瞬間、ガツンとくる塩気と旨味があるのに、後から信じられないくらい優しくて甘いコクが広がって……喉を通った後、胃袋の底にポッと火が灯ったみたいに、熱が体中に広がっていくぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、ザックも、ガロンも、ルカもクロエも、我先にと椀に口をつけました。
「うわああああっ! 肉の脂と、根菜の甘みが、この不思議なスープと完全に一体になってる!」
ガロンが自分の頬を両手で押さえながら絶叫しました。
「俺の卸した肉が、こんなに美味いスープになるなんて信じられねえ! なんだこの深いコクは! ガルムとも違う、チーズとも違う……もっと大地に根ざしたような、圧倒的な旨味だ!」
「ハフッ、アツッ……! でも、飲むのを止められないよ!」
ルカが汗を滲ませながらスプーンを動かします。
「噛むと大根からジュワッとスープが溢れてくる! 身体が……身体中がポカポカして、指先まで血が巡っていくのが分かるよ!」
「本当に……なんて優しい味なのかしら……」
クロエは両手で椀を包み込み、目を細めてスープを味わっていました。
「なんだか、お母さんに抱きしめられているみたいな……すごく安心する味です。おかみさん、これ、本当に魔法を使っていないんですか?」
「ええ、魔法なんて一つも使っていませんよ」
小糸は、満面の笑みを浮かべて答えました。
「これはね、畑のお肉と呼ばれる『豆』と、麦の粒に棲んでいる小さな『菌』の力を借りて、何ヶ月もじっくりと寝かせて作った調味料……『お味噌』というものなんです。素材が時間をかけてゆっくりと熟成していくことで、こんなに深い旨味と、身体を温める力を持ってくれるんですよ」
「豆と麦が……こんな奇跡の味になるのか……」
ザックが、最後の一滴まで綺麗に飲み干した椀を見つめ、深いため息をつきました。
「おかみさん。俺は今まで、色んな街で色んな美味いものを食ってきたつもりだったが……こんなに心が震えるような美味い汁物は、生まれて初めてだ。この一杯のためなら、吹雪の中を何日歩いてでも、この店に来る価値があるぜ」
店の中は、熱い感動と称賛の声で溢れかえりました。
全員が椀を空にし、額にうっすらと汗をかきながら、満面の笑顔で酒を注文し、小糸の出す次のおばんざいに箸を伸ばしました。
ふんわりと温かいおしぼりで迎えられ、熱々で深いコクの味噌汁で胃袋を満たされた客たちの心には、もはや冬の寒さや仕事のストレスなど、微塵も残っていませんでした。
「おかみさん、このお味噌汁、毎日出してくれよ! これがないと冬を越せそうにない!」
「俺もだ! 毎日通うぜ!」
「ふふっ、ありがとうございます。壺にたっぷり仕込んでありますから、冬の間はずっと楽しんでいただけますよ」
夜が更けても、「こいと」の温かい明かりと楽しげな笑い声は、静かな水路沿いの路地にいつまでも響き渡っていました。
深夜。
最後のお客様を笑顔で見送り、藍色の暖簾を店内にしまい込んだ小糸は、静まり返った店内に一人立っていました。
「洗濯の知恵」で最適化された身体は、長時間の営業の後でも驚くほど軽やかで、足腰の痛みはまったくありませんでした。
小糸は手際よく厨房を片付け、洗い桶に溜まった器をピカピカに磨き上げました。
そして、カウンターの隅に置かれた健三の形見の湯呑みに、温かいほうじ茶に似た香草茶を静かに注ぎました。
「お父さん。今日ね、ついにお味噌汁を出せましたよ」
小糸は湯呑みに向かって、語りかけるように微笑みました。
「みんなね、目をまん丸くして、美味しい、生き返るって、泣きそうな顔で喜んでくれたわ。お父さんが言っていた通り、おしぼりとお味噌汁は、やっぱり人を一番幸せにする『最高のおもてなし』だったわね」
湯呑みから立ち上る白い湯気を見つめながら、小糸はそっと胸に手を当てました。
聖女召喚の巻き添えという数奇な運命で辿り着いた、この見知らぬ異世界。
しかし、七十年生きて培ってきた「おばあちゃんの知恵」と、健三と共に歩んだ料理人としての誇りは、言葉も文化も違うこの世界の人々の心を、確かに温め、繋ぎ止めていました。
「料理の知恵」
「生活の知恵」
「掃除の知恵」
そして今日目覚めた「洗濯の知恵」。
少しずつ増えていく力と共に、小糸の身体は日を追うごとに活力に満ち、この街での暮らしはかけがえのない喜びに満ちていました。
「さあ、明日は何のお野菜をお味噌汁に入れようかしらね。リリアちゃんのところへ、朝一番で行ってみようかねぇ」
小糸は軽やかな足取りでランプの火を吹き消しました。
窓の外には、満天の星空の下、静かに眠るアルデバラン伯爵領の美しい街並みが広がっていました。
七十歳の老女が灯した「こいと」の小さな温もりは、厳しい冬の寒さを溶かし、明日もまた、たくさんの人々の笑顔を優しく迎え入れようとしていました。




